SAPPY『Swimming Night』 〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

  ポップですね。この曲はとびきりポップなナンバーですが、他にはけっこうマニアックなアプローチの曲も多数あって、単純な明るさ全開のみのバンドとは一味違う奥の深さを持った人たちですね。エレクトロやUKインディーまで幅広いバックグラウンドを持っているからこそ、単純なポップソングとは違った何かを打ち出せるのでしょう。まあそんなめんどくさいことなんて全部忘れてボーカルさっぴの爽やかな歌声を楽しむだけで嬉しくなっちゃいます。朝に聴けばその日1日がステキになりそうな気分になります。
(レビュアー:大島栄二)
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 関西のバンド。こういうポップな曲を衒いもなく歌えるのって、東京よりも関西なんじゃないかなあと漠然と思う。東京のバンドでセンスある人たちはどうしても斜に構えてオシャレになっていったりする傾向が強いし。

 で、僕はこの曲の中の歌詞で「Twitterでごまかして」という一節があって、それにハッとした。完全に今の時代の歌なんだなあと。昔「ポケベルが鳴らなくて」という曲がヒットしたことがあるけれど、今の人にはピンとこないだろう。文通とか電報とか(古すぎる?)言われてもまったくダメだろう。じゃあSNS全盛の今だからといっても、「mixiでごまかして」ではダメなのだ。語呂の問題もあるだろうが、facebookでもLINEでもなくて、Twitterだからその「ごまかして」という表現があって、わかる人にはわかるみたいな、なんかそういう感じ。だから今度はこの曲が仮に今の時代にヒットしたとして、10年後にTwitterがどうなっているのかなんてまったくわからないし、Googleのメガネ型の端末なんて浸透した日にはスマホさえ無くなってるかもしれないし、その時に「Twitterとか言ってるよこの曲、古いね」と言われるのかもしれない。

 だからといって今から曲を書く人がこういう今の時代のアイテムを歌詞の中に入れてはいけないのかというとそうではなくて、やっぱり果敢に入れていかないと今を表現することは出来ないだろう。古くなることは覚悟の上でどしどし書いて、それで古くなったらその時点での最新アイテムを取り入れた歌を作れば良いわけで、いつまでも過去の栄光にしがみつくことなく前進すればいいんだと思う。

 このSAPPYというバンド、MASH A&Rというオーディションのファイナルに残ったとのこと。頑張って欲しいですね。これですぐにスターになれるというわけではないかもしれないけれど、なれるかもしれないわけで、今ある可能性に全力投球する姿というのは美しいものです。

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切り取って額縁に入れる

 僕の中でのおじいちゃんは、神社で僕の手を握りしめて立っている姿だ。七五三の日の白黒の姿。なぜかというと、僕とおじいちゃんだけで写っている写真はそれだけしかないのだから。

 写真というものは不思議なもので、撮影するとその瞬間に実物とは違う何かが生まれる。そのシーンは撮られなければ普通に過ぎて忘れられていくのに、撮られることで残るようになる。しかもその瞬間の他のどの角度からの姿でもなく、その角度からの姿だけが。

 僕の子供の頃の写真は当然アナログで、フィルムをプリントするのも高価だっただろう。だから枚数も少なく、分厚いアルバムに大切に収められている。僕の子供時代とは、すなわちその写真たちだ。たくさんの写真たちが、40年前の僕の何かを切り取って、そこに存在させている。

 デジタル写真が全盛となった今、写真は毎日撮られるが、そのほとんどをプリントせずにハードディスクに置いている。撮られた写真はその一瞬を記録するが、それはデータの海の中に沈んだようで、再び人の眼にふれられる機会があるのだろうか。

 群衆の中を歩いていても1人1人の顔を見てはいないように、群衆もまた僕の顔など見てはいない。僕は存在はしても、存在していないのに等しく、誰の記憶にも残らない。無数に取ってしまう写真もまた、誰からも見られなければ存在していないに等しいのだ。

 同じことはあらゆることで起こっている。音楽もそうだ。今や殆どの音楽がYouTubeにアップされる。だがそれはハードディスクに沈められた写真たちのようで、よほどの偶然でもなければ見ることはない。偶然とは、引越しの時にたまたま出てくる書類の間に挟まっている1枚の写真のようなもの。

そういう無数のアーカイブ的写真や音楽の中からひとつを引き摺り出して、アルバムに貼っていくような作業が、musipl.comでの僕の仕事だと思っている。仕事といってもまだ稼ぎにはつながっていないけれども。それでも70余りの楽曲映像が既にそこにある。決められた形のフレームにひとつひとつ収めてある。YouTubeという倉庫のようなスペースにある大切な記録を、musiplというアルバムに貼っているようなものだ。

 今は個人的なフェイバリット楽曲のアルバムに過ぎない。だが、やがて多くの人たちにとってのアルバムになっていって欲しい。そう願っている。

山本太郎を叩く理由は妬みなんだろうなあ

 山本太郎氏がいつも叩かれている。

 これ、彼が反原発についてある意味過激(真っ当だと思うけど)な発言をしているからなんだと思ってたけど、最近そうではないと思うようになった。

 そもそも参議院の1人でしかないのだから、国会での影響力は極めて小さい。もう放っとけばいいレベル。先日たまたま京都市役所前で彼が演説してたところに遭遇したが、群衆ともいえない数しか人は立ち止まっていなかった。街の人もそんなに応援してないみたい。

 天皇陛下に手紙渡した件でも、不敬不敬と言われているが、不敬を口にする人たちの日頃はそんなに天皇陛下を敬ってるのか?それは単なる口実だろう。山本太郎を叩くために天皇陛下をネタに利用するのも同程度に不敬だろうと僕は思う。

 で、本題。山本太郎を叩く理由は、実は妬みなんだろうなあと思う。

 たいして売れてなかった俳優が反原発を言い出すものだから注目されて、挙句の果てには国会議員にまでなると。もともとアホなんだろうに議員先生とは、羨ましいなら妬ましいやら。まあそんな感じだろう、深層心理は。叩かなきゃ世論がすべて山本太郎の言説になびいてコリャ大変というならまだしも、たいした影響ないんだから、今のところ。どう考えても議会の流れを作るような力はない。2年ほど前の橋下徹が言い出しているんならまだしも、俳優上がりの一参議院議員に過ぎない彼に何が出来ようか。影響力はほとんど無いに等しいわけで、それを叩く理由が「脅威」であるはずがない。だとしたら、やはり妬み。叩いてる人は叩き方が激しいほど彼を羨ましく思っていて、妬んで、悔しくて、だから叩く。叩いて「あんなヤツは最低だ」と思うことで自分の方が上と納得し、溜飲を下げる。たまたま時流に乗っちゃって国会議員になってるけど、人間としては自分の方が上。だって叩かれるようなことしてないし、不敬なこともしてないし、アイツは本当に最低だねって、そんな感じでしょう。

 でも、安倍晋三や麻生太郎には妬んだりしない。だって本当のサラブレッドですもの。国会議員になるなんて生まれ持って当然のこと、総理大臣になるのだって当然予想される人生。その血統には最初から白旗上げる一般市民。だけど山本太郎は別(断っておきますがこの段落、僕の意見じゃなくて、叩いている人の心情描写ですからね、念のため)。あいつなんてドラマの主役を張れない俳優でしかないのに議員なんて許せない、キー!

 こういう心理と行動って、結局学校のイジメと同じだと思う。弱い者がさらに弱い者を叩く。クラスに大金持ちの子供がいたらいじめない。だけど普通の家庭の普通の子がちょっと成績良かったりして目立つといじめる。山本太郎はクラスの普通の子だったのに目立っちゃったりしたもんで、いじめられる。叩かれる。

 楽観的にポジティブに考えれば、これはイジメ問題解決のヒントにもなると思う。いくら叩かれても、ヘッチャラな風に暮らしていればいいのだ。そうしたら叩いてる側は爽快感が得られないから叩きはさらにエスカレートするけど、それでも無視していればいいのだ。一種のガマン較べ。叩いてる人たちは正論で論争を挑んで山本太郎に自らの非を認めさせたいのではなく、叩きに負けてへこたれる姿を見たいわけで、目立っちゃった山本太郎もバカだったよなあと言って「社会正義が目立ち野郎に鉄槌を喰らわせた」ことで溜飲を下げたいだけだから、無視して自分の活動をしてればいい。

 しかし悲観的にネガティブに考えれば、いくら精神的に強くても人間の精神にはキャパというものがあって、叩き方がエスカレートすれば当然どこかで折れる。折れるまで叩くことが許されるなら、山本太郎という人間はどこかで潰れるだろうし、社会は人間をつぶすことを容認しているということの証明にもなってしまう。学校のイジメ問題も、教師などの大人たちがその「つぶれるまでいじめる」ことに対して抑止力を発動しないから問題が大きくなるのである。しかし市井の普通の大人たちに「つぶれるまで叩く」ことを容認する哲学があるのだから、学校の教師にそれを求めるのは難しいし、イジメ問題は永久に無くならないだろうなと頭を抱えずにはいられない。

 山本太郎が国会議員になれたということは、ちょっとした希望でもあると僕は思うのだ。それは、世襲でもない人だって、学がなくたって民意を集約出来れば国会議員になれるという、そういう希望。本来当たり前のことだけど。民主主義とはそもそもそういうものだったはずで、それがどこかで間違ったのか、今や世襲議員ばかり。そうでなければ東大を出て官僚になり、それが議員に転向するというパターン。それだと否定出来ないのかもしれなくて、それ以外は簡単に否定出来るのかもしれなくて。だけどそんなことをやっていたら、この国から民主主義なんてものは消え去る以外になくて、だから、山本太郎の主義主張に関わらず、そういう議会の中のハグレ者が出来るだけ頑張っていけるような、それを優しい眼で見守っていけるような、そんな社会になって欲しいと切に願う。そりゃあダメなこともあるだろう。失敗することもあるだろう。だが自分は間違いを犯さないのかというと、そんなことはまったく無いわけで、いっぱいヘマをする。だからもしもまかり間違って僕などが国会議員になったとしたら(ならないけど)、すぐにヘマをして追求されてバッシングされて、凹んで辞職になるだろう。

 そんなことを考えると、国会議員になるなんてことは、民主主義の仕組み以前にこの妬み社会ではハードルが高すぎるよなあという気がする。だから、もう人を妬んで叩いたりするのはやめようよって、僕はそう思います。最後だけ文体が変わるようになっちゃって変だなと言われるかもしれないけれど、ここは「思う「なんて畏まった言い方より「思います」って謙りたい気分です。そうしないと、僕もなんか叩かれたりしちゃいそうだから。

WordPress/ログイン出来ず!

 ちょっとビビりました。このブログの管理画面にログイン出来なかったのです。

 それまでは普通にログイン状態になっていたのに、突然ログアウトした状態になってしまってて、ログインしようとすると「お使いのブラウザはクッキーをブロックしているか、無効になっている可能性があります」と表示され、何度も失敗。それで他のブラウザ(普通はFireFoxを使用。今回はSafariとchrome)で試してみるといずれも失敗。どれもクッキーは有効に設定してあるのに。

 それで「WordPress ログイン クッキー」でググってみたら、解決方法がいくつか解説。要するにプラグインとテーマが邪魔しているかもとのこと。FTP(DreamWeaverですけど)でいじってみたら、見事に解決。いやあホッとした。ログイン出来なかったらブログの新規投稿も出来ないんだもの。

 でもちょっと楽しかった。その作業は昔のMac、OS8.5くらいの頃にシステムフォルダをいろいろいじってたのに似ていて、ああ、昔はコンピュータって手作りな感じだったよなあと懐かしんだり。今ではシステムいじるなんてよほどの達人じゃなければ無理なんじゃないかな。そもそもそういうシステムをいじりましょうなんてことを細かく書いてあるMac雑誌もほとんど無くなったし。

 そういうわけで、ログイン出来ました。お騒がせしました。ん?だれも騒いでなかったね、多分。

秘密保全法の愚かさ

 秘密保全法が国会で通るとかまだ通っていないとか。まだだとしてもそのうち通るだろう。あの自民党を選挙で大勝させたのだから。意図するもしないも、国民の総意である。アホらしいけど。

 なぜ秘密保全法なんてものが持ち上がったのか。それは情報伝達のスピードが格段に速くなったということが背景にあるのだろう。尖閣での中国漁船体当たりビデオの流出はその引き金になったわけだが、国家を国家として維持していくには、情報伝達というものは非常に大きなカギになる。その昔は狼煙を上げて情報を伝えた。やがてモールス信号となり、衛星通信となり、インターネットだ。15年くらい前のインターネットがまだ一部の人たちにしか使えない頃とは違い、今やスマホで一瞬にして情報は伝わっていく。

 情報を制するものが常に有利な立場に立っていく。今に始まったことではない。情報が遅れれば敵に一歩先を行かれる。国家と民衆が敵対した場合、国家より民衆が先を行ったとき、国家は崩壊の危機にさらされるのである。だから情報をどう制するかが国家運営のキモになる。それは当然だ。だからといってこの秘密保全法を出してくるというのは、今の情報というものをよくわかっていないなという気がする。何故か。そんなことで情報は止まらないからだ。

 禁止すれば止まるのか。止まらない。罰則を設ければ止まるのか。止まらない。止まらないのだ。

 音楽の世界でも違法ダウンロードを規制する法律を作り、それでCDの売上減少に歯止めがかかると期待した向きもあったが、CDの売上減少は止まらないのだ。違法ダウンロードは減ったとしても、YouTube上に次々と公開される動画に音楽。削除要請をどれだけかけても次から次にアップされる。イタチごっこだ。

 情報を入手した人を次々と罰するのだと。ではやってみたまえ。次々と逮捕し起訴していったとき、拘置所や刑務所の収容員数を超えやしないか?その時はどうするのだ。本当に国民が危機意識を持って情報を公開しようとしていったときにはどうなる。エジプトでシリアで、情報は止まらなかった。規制をかけている中国でだって情報は止まらない。必死に止めようとしているが、結局止まらない。

 核の抑止力というのもあった。核爆弾を持っていれば攻撃されないと。しかしそれも盾と矛の関係、すなわち矛盾だ。1つのボタンで敵国の主要都市を10回ずつ破壊出来るような兵器を持ってもまだ安心出来ない。それが人間だ。そのうちに持っていることそのものが人類の危機そのものとなった。愚かもいいところ。

 そう、情報は止まらない。止めようとする策と、その策をかいくぐる様々な手段。兵器の開発と何ら変わらない。軍隊を持ちたいと思っている政権のやりそうなことだが、あまりにもお粗末だし、情報のことを何も理解していないと思われても仕方ない。もしも同様の対応を民間企業がやったならばたちまち炎上だろう。そんな対応を指示したネット対応アドバイザーはたちまちクビのはず。なのに国家ではそれがまかり通る。いや、通ると思っている人たちばかりだというのが滑稽だ。

 福島第一原発の放射能汚染水を完全にコントロール出来ていると豪語する政権なのだから、情報もこれで完全にコントロール出来ると豪語するのかもしれない。だが、結局情報も汚染水と同じことになる。ひとつ漏れて、ふたつ漏れて、次々と漏れて手が付けられなくなる。本当はもっと根本的な対応を真面目に丁寧にやらなきゃいけないのに。それをせずに手抜きで粗野なことで誤摩化す。どうしようもない話だ。

 そんなに国民のことを考えた秘密のコントロールがしたいのならば、警察や官僚による匿名のリークをまず禁止及び厳罰化すべきなのじゃないか。そういうことが出来ない(しない)で、秘密もクソも、そして国民のことを大切にした国家運営などは夢のまた夢なのではないだろうか。

妊婦にカフェインを

 原子力規制委員会は許容出来る放射能の基準を、現行の年間1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへ引き上げるそうだ。そういう指針を出すそうだ。健康に問題ないからだと。

 僕に子供が出来て初めて知ったことが沢山ある。妊婦にはいろいろな制限があるというのもそのひとつ。コーヒー、紅茶。カフェインはダメ。だから我が家の飲料はデカフェの紅茶になった。それまで中毒的にコーヒー好きだった奥さんがピタリとやめた。

 産まれて1年半、さすがにたまにコーヒーは飲むようになったけれど、授乳中なので風邪薬は一切口にしない。

 じゃあどのくらい危険なのか。妊娠中にカフェインを摂取した母親の子供に明らかな健康被害が見られるのか? おそらくそうではないだろう。健康は単一の要因で決まるのではない。様々な事柄が複雑に絡み合って、結果としての肉体が出来上がる。その上に精神も載ってくる。カフェインのみが特定の結果を生んだなど、マウス実験ならともかく、人間に有為的な反応として結論付けられるものではない。じゃあ飲むなって一体なんなんだ。すべての妊婦にカフェインを奨励すればいいじゃないか。

 そもそも、すべての妊婦がカフェインを絶っているわけではないだろう。でも、見るからにカフェイン症状の子供など識別できない。まあカフェイン症状ってなんだよというそもそも論もあるが。ということは、妊婦はカフェインを絶つべきというのはなんなのか?普通の脈絡から言えば当然そうなる。だったら、健康に直ちに害はないとして、妊婦にカフェインを控えろと言うのはやめればいい。どこかの学会がそう指針を出せばいいじゃないか。

 仮にそうなったとして、妊婦は安易にカフェインを摂取するだろうか? おそらく、しない。不可解な危険要因には近づかないのが母親の本能だ。

 1ミリシーベルトも、20ミリシーベルトも、なんら臨床的に結論など出ていない。

 日本という国の健康への姿勢は本来極めて慎重であったはずで、だから、各国で認証され普通に医者が使っている薬でも絶対に認めず、国内での臨床実験を重ねていた。その未認証薬以外には頼れる医療がないという末期の患者に対しても認めることはなく。

 なのに、たいした臨床的根拠もなく20ミリシーベルトは容認しようとする。理由は、国際的に認められているからだと。いやいや、海外の方が懐疑的ですよ。ま、それはともかく、お上がOKというから大丈夫と、諸手を挙げて20ミリシーベルトを受け入れる母親などはいないと思う。いたとすれば、子供の健康より大切な何かがある人だ。

 母親に限ったことではない。この新基準を喜ぶ人は、この国の子供たちよりも、自分自身にとって刹那的な目先の利害を優先する人だ。

 原子力規制委員会と、それを動かそうとしている人たちが見ている未来とは一体どのようなものなのだろうか?

はやくはやくっていわないで

 これは絵本。本屋さんで眺めて、とてもいいので買ってきた。1年以上前、息子がまだ生まれる前のことだ。

 子供に絵本を読み聞かせるのってとてもワクワクするものだ。と思っていた。自分が良いなと思うものを読んであげよう。そう思っていくつか買った。しかしそのセレクトは子供の成長をまったく考えていないものだった。初めて読んであげたとき、まったく興味を示さない。ちょっと凹んだ。奥さんが何かの付録についてきた絵本を読んであげたらすごく眼を輝かせて興味津々。驚いた。何が違うのだ?興味津々の絵本には「わんわん」「にゃんにゃん」などの文字と一緒に動物のイラストが。そう、最初は単語なのだ。

 息子が6ヶ月を過ぎた頃だろうか、義母(おばあちゃん)が定期的に絵本を送ってくるコースを申し込んでくれた。絵本配送サービス会社が年齢に合った絵本を毎月2冊送ってくるのだ。それを見てるとたしかに幼児向けの絵本は単純だ。その単純さが幼児にはいいようだ。単純な内容の絵本を何度も読めと命令してくる。読まないと泣く、読むと笑う。そりゃあ読むさ。

 そんな息子も1歳4ヶ月。もう20冊近い絵本の持ち主だ。幼児向けの絵本には0歳から2歳までという表示があることが多い。だから基本的にその20冊は同じようなレベルの本のはず。それを毎日ひたすら繰り返す。そのうちに好きなページも出来てくるらしく、そのページだけを延々と読まされたりする。次のページにはなかなか行かせてくれない。同じ本を繰り返すのもアレだが、同じページを延々と読まされるのも結構アレだ。

 そんな息子が最近本棚の本を全部床に撒き散らすという仕事をしている最中に、この「はやくはやくっていわないで」を発見した。そして読めと。読んであげるとなかなかに興味津々。なるほど、成長するものだなと嬉しかった。まだ言葉を喋ることまでは出来ないのだけれど。

 内容はというと、小さな船が「はやくはやく」と言われたり「なんで出来ないの」と言われることに対する辛い気持ちを語るものだ。他人と較べられると心がブルブルし、心がブルブルすると気持ちが冷たくなるし小さくなるという。読み聞かせながら「そうだな」と親の自分が思ったりする。

 最近会った人の話を聞くと、僕とはまったく違う生き方をしていた。羨ましい面もある。だが、彼らがその生き方を得るために手放したものが何かあるわけで、自分の生き方とは、そうやって別の何かを手放すことでしか得られない。彼らが僕の生き方を羨ましいと思うのかどうなのか。哀れだなと思うのかどうなのか。もちろん僕も他の人に対してそういう感情を持つことだってある。では、自分の子供が彼なりの生き方を選択しようとする時に、それが僕自身の生き方と違う場合(というかほとんどそうなるだろう)に、僕は羨ましいとか哀れだとか思うのだろうか。他人に対して思うことは、息子に対しても思うに違いない。羨ましいとか哀れというのは、結局は何かと比較してどうだという評価に他ならない。

 僕はこの絵本の小さな船に1歳4ヶ月の息子の姿を重ねてしまう。船を他の何かと較べているのはなんなのだろうか。社会のような漠然としたものだろうか。そんな漠然としたものなんかではない。一番身近な、お父さんなんじゃないだろうか。よかれと思い、期待をかける。父親はよかれと思いながら、それが息子にとって本当に良い選択かというとそうではない。たまたま一致することもあるだろうが、ほとんどの場合、それは食い違う。

 それでも、ちょっと難しい絵本を静かに見聞きしている息子を見て、この子は成長したとか思ってしまう。それは良いことなのか、それとも悪いことなのか。どんな成長やどんな生き方の選択をしても無条件に受入れるということは、無関心とはまた違うのか。

 この絵本のあるページで「できることとできないこと/できないこととできること」という言葉があった。なるほどと思った。同じことでも順番が違うだけでネガティブにもポジティブにもなる。ポジティブがネガティブよりも上とか正解とか、それも単なる価値観ではある。が、順序を変えることがなにかの道を生むことだってあるというのはひとつの希望のように感じられたのだ。

 そんなことを、絵本を読みながら考えさせられた。息子はどんなことを感じながら読んでいるんだろうか?

DOROTHY『居酒屋讃歌』 〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 居酒屋の楽しさと音楽の楽しさが見事にリンクしたこの一曲。カッコつけたバンドが難しいこと言ってるのをよそに、僕らのお気軽で哀しい日常をDOROTHYが見事に華麗に描ききった人間心理!とてもステキです。ビデオも秀逸。彼らのアルバムには他にもスットコドッコイな曲が並びに並んでいて、おっさんの私はユニコーンの名盤「服部」を思い出しました。どれも紹介したいのですが、PVはどうやらこの1曲のみ。YouTubeでは今のところ見聴き出来ません。気になる人はCD買ったりしてみてもいいんじゃないですかね。
(レビュアー:大島栄二)
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 音楽を聴く時っていろいろな感情を刺激してもらいたいっていうことがほとんどだと思う。泣けるCDなんて企画は後を絶たないし、後を絶たないということは売れてる=需要があるということ。同様に笑いたいという感情だって刺激して欲しいわけで、ギャグマンガも売れてるし、お笑い番組はたくさんテレビでオンエアされている。でも、笑える音楽って実はそんなに存在していない。笑える音楽といっても玉川カルテットのように楽器を使ったお笑いというものではダメだし、あのねのねの赤とんぼの唄(例えが古!)みたいなネタソングでもダメ。ネタでいいなら漫才やコントを観た方が断然笑えるわけで、笑いを刺激する音楽というのは、実は爆笑を誘うというものではないんじゃないかと思うのだ。

 ついでですから、ユニコーンも観ておきますか。名盤「服部」収録の代表曲、「大迷惑」。

 今になってみるとビデオとしては単純だし、カメラワークも全然イケてない。機材の進歩がこの20数年でこうも作品を陳腐化させるのかと少々唖然とするが、しかし音楽に込められているエスプリというかユニークさはまったく色褪せていない。そのことにもまた驚いたりする。

 当時ロックバンドがどんどん出てきて、各社が懸命に売り出している頃にユニコーンもデビューした。デビューアルバムは本当に普通で、他のバンドとの競争から頭ひとつ抜け出すなんて無理だろうなあと僕は思った。そんな時代に名盤「服部」が登場。ジャケットはおじいさんの顔アップ。それだけでもかなり目立っていたわけだが、収録されている曲がまたユニーク。彼らがどのような気持ちでそれを作ったのかまでは推し量れないが、普通ではダメだと懸命だっただろうというのは想像に難くない。しかしそれで単に変化球を狙っただけではきっと誰も評価しないはずで、彼らが持っていた視点のユニークさ、社会の歪みに対する斜めからの切り込み具合が、当時の若者にウケたのだろうと思う。

 と語ってみたところで、ユニコーンと今のDOROTHYを同格として評価していいのかというと多分ダメなのだろう。だからあくまで別のものとして考えた方がいいのはもちろんだが、今回の『居酒屋讃歌』が収録された『OCEANT’S ELEVEN』というアルバムは全曲この調子ですっ飛ばしていて実に気持ちいい。ユニコーンとは別モノだが、逆にユニコーンは持っていない何かもきっとあるようにさえ感じる。なにより、聴いていて楽しくなるし、ああ、これは笑いを刺激してくれる極めて貴重な音楽だなあということが絶対に、いやかなりの確率で実感出来るだろう。個人的には「ナイスガイ」「南国ロック」が秀逸だと思う。

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SHISHAMO『がたんごとん』 〜musipl.comレビュー+α〜

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 ノスタルジックな風景とメロディ。最近ちょっと注目され始めているSHISHAMOです。女の子3人バンドというとチャットモンチーをどうしても思い出してしまうのだけれども、そしてこのSHISHAMOもその系列として語られるんだろうけれども、僕にはまったく違ったバンドのように思えて仕方ありません。歌われている詞がとても情景的で、文学的で、音楽的な刺よりも言葉的な刺が突き刺さってくる。少し前に公開されていた「僕に彼女ができたんだ」という曲はちょっとキャッチーでインパクトがあって、声が艶っぽくて、演奏もなかなか堂々としてて、じゃあそっちを紹介しろよって話なんだけれども、狙った感が少しあるんですね。魅力あるからいいけど。この曲のように何気ないバラードでスーッと心に入り込んでくるようなバンドってそうそういないと思うので、こっちです。
(レビュアー:大島栄二)
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 で、musiplのレビューでいってた「僕に彼女ができたんだ」はこれ。

 このボーカルの子はとても可愛いと思う。美形ではない。欠点はあるし、それに対するコンプレックスがあっても不思議はない。でも、この子は笑顔がとてもステキだ。どんな人も完璧なんてことは無くて、だから誰だって何かしらコンプレックスは抱えるもの。問題はそれを自分のダメなところとして重きを置くのか、それともそれ以外の良いところにスポットを当てて生きていくのかということだろう。その結果が暗い人生と明るい人生の決定的な分かれ目になる。僕はそう思っている。世の中を見渡すと影を背負って生きている人のなんと多いことよ。そういうのをあざ笑うかのように彼女は笑う。笑顔を見せる。心底からの笑顔であって、昨日今日からの付け焼き刃ではとてもこんな笑顔を作ることは出来ないだろうと思う。そういう笑顔を見るのは心地良いものだ。とてもステキなボーカリストだし、パワーを与えることが出来る人なんじゃないかなという気がする。

 この曲は男子目線の内容で、それを女の子が堂々と笑って歌う。ここがとても面白い。彼女が出来た男子は小さなことで悩み苦しむ。恋ってそういうものかもしれないけれど、それを女子は笑って歌う。男は勝てないなと思う。

 この曲のギターの音がまたイイ。基本的に歪み系のエフェクトを入れた状態で、その歪みの音と交互に、カッティングで金属的な音を鳴らしている。あっさりとさらさらと弾いている。なかなかの音だ。こういう音をきっちりと出すのは、プレイヤーのチョイスも然ることながら、エンジニアとプロデューサーのセンスなんじゃないかなと思う。ただ単に鳴ってる音のバランスをまとめるだけではこうはならない。そういう意味で、やはり才能が集まって作られているプロジェクトだと思うし、そうさせるのは、一緒に参加したいと思わせる彼女たちの魅力なのだろう。

 だったら最初からこっちの曲をレビューしろよと、結局そういう話なのだが、それでもまあ「がたんごとん」の方が僕は好きだったのである。悪いか!

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陛下と山本のこと

 こういうタイトルにすると並列に並べるなって怒られそうだな。でもまあ片方が敬称で片方が呼び捨てだから良しとしよう。

 さて、最初に断っておくが、別に山本太郎を支持しているわけではない。そのことをまず理解してもらえればと思う。まあ理解されなくともいいけど。

 今回のことはTwitterのTLで知った。山本太郎への一斉のバッシング。なにがあったんだと思ったが、仕事の真っ最中だったことと、帰宅して日本シリーズに熱中したり息子を風呂に入れたりと大変だったし、このブログをWordPressを使ったものに引越し作業しなきゃいけなかったりで、とても調べる暇はなかった。報ステでも長嶋さんと三浦さんは取り上げられてたけれど山本は取り上げられてなかったし。まあ僕の中での関心度はその程度のものだった。

 どうやら園遊会で山本太郎が天皇陛下に手紙を渡したらしい。原発事故にまつわるあれやこれやについて陛下に知ってもらいたいと。手紙の内容など確認する術もないので憶測報道を参照するしかないが、まあ山本太郎が渡すのだからおおよそそういう内容で間違いないのだろう。その行為について「不敬だ」「天皇陛下を政治利用するなんて許せない」という反応がTLにずらりと。僕のTLにはバリバリの右翼の人からバリバリの左翼の人までまんべんなくいるので、日頃の出来事については両方の視点と意見が並んでいてとても参考になるのだが、この件については右の人も左の人も、体制側の人も反体制側の人もそろって「けしからん」と言っていた。これがちょっと怖いなという気がしたのである。

 何度も繰り返すが、山本太郎を賞賛する気も擁護する気も無い。そうではなく、今回のことへのかなりの人の反応が一様過ぎて、怖いし、警鐘を鳴らす必要があると、そういう気持ちである。僕のブログ(しかも引越ししてろくにRSS登録もされていないだろうブログ)ごときで警鐘などチャンチャラおかしいのは承知の上で。

 まず、山本太郎の行為はどうしてNGなのだろうか。「陛下に直訴など畏れ多い」なのか。それは本当に真っ当なのか。じゃあその理由で山本太郎を批判している人は、水戸黄門で黄門さまに直訴するシーンなどを見て「平民が直訴などけしからん」と憤るのか。ドラマの中で直訴した平民がその場で斬り殺されることが正義だと考えているのか。もちろんルールというものはある。だがそのルールが正しく機能していないと感じている人も多く、山本太郎などはそういう思いで政治活動をし、そういう感性と活動に共感する人が票を投じて今に至っている。ルールに則れば、彼の政治行動などは国会の中で抹殺ですよ。だから奇策を用いたいという気持ちはわかる。それが水戸黄門の中の平民の直訴と通じる何かがあるように思う。

 次に「陛下を政治利用しようとしている」からNGなのか。確かに国会議員が天皇陛下に直訴するなんてナンセンスだと思う。彼が国会で孤立無援状態で、その奇策として天皇陛下に手紙を渡すことによって虎の威を借る狐ならぬ、陛下の威を借る山本を演じようということなのだとしたらまったくナンセンスだ。僕はそうではないだろうという気がしている。というかそこまで彼が考えているとも思えず、単純な思い付きでとった行動だろう。陛下を政治利用したくとも政治的な権限はないし、何も出来ないのだ。だから、彼を「陛下を政治利用しようとしている」と非難することも同程度にナンセンスなことだと思う。

 陛下は山本太郎のことを知っているのだろうか。おそらく知っている。陛下はかなり情報に明るい。山本太郎がどのような活動をしているのかについてもそれなりに知っていると考える方が妥当だし、それ以上に陛下自身が地震と津波、原発事故のことに対して思いを馳せているのは想像に難くない。それでも陛下が自ら動いたり指図することはもちろん、意見を言うことさえ簡単ではない。先日水俣病患者の人たちと事件以来初めて会ってお言葉をかけられた。おそらくずっと憂慮されていただろう。福島のことを案じているのは山本太郎だけではなく、だから、「知ってもらいたくて手紙を渡した」ということがどれほどナンセンスなことなのかと、僕は思う。

 では、山本太郎に対して「陛下を政治利用しようとしている」と非難することは正しいのだろうか。

 基本的な感想として、山本太郎は反原発の急先鋒として活動している以上、多くの敵を作ってしまっている。そしてその敵は何かあれば山本太郎を失脚させたいと考えている。その場合に用いる手法のひとつとして、人格破壊というものがある。小沢一郎に対してもその攻撃は行なわれた。献金問題(検察が不起訴とし、裁判でも無罪が確定している事案)や、愛人騒動、離婚問題など、政治家の本質とは関係ない事柄や無実の罪を騒ぐことで「あの人は悪い人」というレッテルを国民に定着させるという攻撃手法だ。バリエーションは違えども、今回の騒動も同様の攻撃だと僕は感じている。

 何度も繰り返すが、山本太郎のことを支持しているわけではない。そして、彼を憎く思う人がいて、その人たちがあらん限りの攻撃をしようとしていることも理解している。攻撃すべしということではなく、攻撃をしたいと思う人はするものだということへの理解として。だから、攻撃があることも織り込み済みで国民は見るべきだと思うし、山本太郎自身も攻撃されることを覚悟しながら活動しているはずだ。

 で、問題なのは結局何かというと、多くの普通の国民が、産經新聞あたりの論説に乗せられているのか、一斉に山本太郎批判に加担しているのが怖いなということである。その批判の殆どが「天皇陛下を政治利用している」「不敬である」「常識の欠片もないバカ」などというもの。

 よく考えてみよう。彼が天皇陛下に手紙を渡したところで彼の政治的な目的は1mmも前進しない。彼の気持ちの中で「天皇陛下に手紙渡したぞ〜」という達成感があるだけだ。天皇陛下が水戸黄門のように国会や東電に乗り出して「この印籠が眼に入らぬか〜」と言うのか。言うのなら政治的に利用といえるだろう。だがそんなことは99.99%以上有り得ない。だとしたら「政治利用している」と非難することは大いなる的外れと言わざるを得ない。

 だが一方で「陛下を政治利用している」と糾弾することによって、山本太郎を快く思わない人たちの政治的目的はかなり前進するのだ。山本太郎を人格破壊することが出来る。それで支持率を落とせればいいのだから。このことの方が「天皇陛下の政治利用」なのではないかと僕は思っている。だから安易に「陛下に対して不敬だ」などと言うのは、平民の僕ごときでも慎まなければならないと思うのだ。

 戦前の天皇の権威というのはものすごかった。それに比べると今の天皇は制度上も政治的な権限など持っていないわけだが、それでも今回の例でわかるように国民は陛下をものすごく敬っている。その感情を利用することこそ、陛下の利用そのものだと僕は思うのだ。

 戦前に軍部が天皇陛下の威光のもと戦争を押し進めた。それに対して国民も政治家も逆らえなかった。それは陛下への不忠に当たるからだ。歴史を見ても形式的とはいえ天皇というのは権威そのもの、正しさの理由そのものである。隆盛を極めた平清盛も天皇を利用することで勢力を拡大したし、幕末の薩長も錦の御旗を掲げることで徳川勢を威圧した。いってみれば今回の山本太郎の行動もそれに近い奇策だったのかもしれない。そのことは批判されて然るべきだし愚かな行為だったといえるが、同様に山本太郎を批判している人たちも天皇陛下を利用しているだけなのではないか。そのことに気付かずに山本批判の舌鋒を鋭くさせることは、結局山本太郎と同じことをやっているのだと自覚すべきである。山本太郎もよく考えずに手紙を渡すという行為に及んだ。彼の心の中には天皇陛下は特別なものであるという価値判断が無自覚の中に存在していたに違いない。そのことを非難する多くの人たちの心の中にも、天皇陛下は特別なものであるという価値判断が無自覚の中に存在している。そしてそのことを理由に山本太郎を批判することは、自分も同じことをやっているのであって、そのことに気がつかなければ、結局戦前の軍部が天皇陛下の威光を盾に戦争を(というより自己の権限伸張を)押し進めていったことへ多くの国民が無意識に加担していったことを批判出来ないどころか、そのうちに同じ過ちを自分たちも犯してしまうだろう。

 無意識に天皇を敬うことは別に悪いことではない。だが、天皇を敬う側の装いで権威を利用する人が確実にいる。そのことに気がつかなければ、その人たちの天皇陛下の権威利用に加担することになってしまう。そしてやがて大日本帝国万歳なんてことを平気で口にしてしまうようになるのである。そんなことを、今回の一件で強く感じたし、不安な気分にさせられた。