3年経って

 実際はもう3年と2ヶ月近く経ったわけだが、まあとりあえず3年ということで。

 今もTwitterのTLには放射能の危険性を訴えるアカウントはたくさんあるが、3年前の今頃と較べると遥かに少ない。減っている。これについてちょっと考えてみた。

 【可能性1】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによって一切影響が無いと判断したので、もう怖がっていない。

 【可能性2】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによってやっぱり影響はあると感じているので、避けるための努力はしているのだが、その努力をしているということを公言するといろいろ社会的に問題が出てくると感じているので、言及は避けている。

 【可能性3】さほど調べたりしていないし、調べるヒマも能力も無いので調べる気がなく、まあ専門家の人が安心だと言っているから、自分も安心して、特に避ける努力もせずに暮らしている。

 【可能性4】3年前の事故当時は危険だと思っていたが、もう3年経ったし、放射能のパワーも無くなってきてるんじゃないの?

 他にも可能性はあろうが、まあこんな感じのことを想定してみた。可能性1の人は、いいと思います。その判断が結果的に正しいか間違っているのかは、それは誰にも判らないんじゃないかと。新興宗教に知人がはまった場合、「お前の信じてるのは間違ってるよ」と周囲は諭すけど、信じている本人はそんな周囲の声がサタンだと思うだろうし、まあそれは仕方ない。あ、ここで言う新興宗教の信者というのは、危険性があると思っている人のことでもあるし、危険性は無いと思っている人のことでもあって、立場が違えば相手をヤバい状況の人と思うという意味で、どちらの立場も信者であり、サタンである可能性があるということ。その判断によって得るものと失うものがあるというのは、放射能の件に限ったことではなく、自分の能力内できっちりと情報収集して判断したのなら、それはそれでいいと思う。

 可能性2の人。僕はこれが一番多いんじゃないかって思っている。このところ会う人とそういう話をすることも多く、誰もが不安を抱えているけれども、じゃあ自分の努力で社会全体を変えられるのかというとそういうわけでもなく、出来ることはせいぜい自分自身の防御をやるということくらい。それは黙ってやっていればいいのであって、その防御にしても100%はムリだろうから、出来る範囲で。他のことや他人への警鐘をするような余裕はありません的な、それが普通だと思う。

 可能性3の人。専門家を信じるのはそれはそれで自由だし、信じればいいと思うし、じゃあ専門家でない人と専門家のどちらを信じるのかといわれれば、まあ専門家の方かなあとは思う。ただ、専門家の中にも様々な意見があって、その中の誰を信じるのかということが結構重要なんだろう。顔つきとか肩書きとか、物腰の柔らかさとか、そういったものを含めて、信じる相手を探すということに尽きる。まあこれも一種の宗教に近いものであり、信じていない人からはなんだかなあと思うけれども、信じている人にとってその専門家は神でもあるし、まあ、信じるものは救われるってこと(?)なのかな??

 可能性4の人。これはもう、間違ってます。放射能の半減期は(全部じゃないけど)3年なんてものではない。だから3年経ったからといって安心出来る理由はまったくない。安心するとすれば、3年前の事故直後も安全だったということでしかなく、果たしてそうだったのか?そして現時点でどうなのか?当時も今も基本は変わらず、ずっと安心か、ずっと心配かのどちらかであるべきだろう。

 まあなんでこんなことを今さら書くのかって話なんだが、この4つの可能性の他にもうひとつ大きな理由(可能性)があるんじゃないかって最近は思っているのだ。それは

 【可能性5】時事的なネタについて流行としてしか認識していない。
 である。この3年間Twitterでもfacebookでも各種ブログでも、いろいろな話題が起こっては消えていく。昨日までTPPって言ってたじゃないかと思ったら、参加が決まったらもう何も言わなくなって次のネタに。要するに、日々の話題として言ってるだけで、中身としてはそんなに考えてもいない。芸能ゴシップ好きが昨日まである芸能人の不倫に躍起になってたのに、今日は別の芸能人のスキャンダルに夢中というような感じで、時事ネタ好きが提供される話題にその都度食いついているだけということ。実はそれが一番多いんじゃないかなあと思う。

 まあ、そんな感じでたいして気にもしない人が数年後数十年後にそのことで健康被害を受けたとしても、それが理由だとは想い至らないだろうし、逆に気にして気にして避けて避けてという人が、その避ける過程で受けるストレスによって健康を害したとしてもけっしてそのストレスを理由だとは想い至らないだろうし。だからまあ、それぞれが信ずるところに従って生きていくしか無いんだろうなあと、そんな風に思う。

 もちろん、気にしない人たちの行動によって社会が回っていくことで、気にしている人たちが避けたいのに避けられない状況が生まれてしまうということはちょっと困ったことではあるが、同時に気にする人たちの行動によって社会が回っていかなくなることを問題にしている人たちもいるわけで、その両者が歩み寄れるフェイズというものはもうなかなか実現しないことだろうと、そんな風にも思う。

ゴールデンウィーク

 GWも終了した。既に5月7日に突入している。

 今年のGWはというと、あまりゴールデンではなかった。前半は僕と息子が風邪を引き、ほぼ寝て家に。後半の4連休は最初の2日が仕事。5日と6日が連休。だから実質的にいつもの週末と変わらない2連休だった。まあ正規の会社勤めとはちょっと違うのでカレンダー通りの連休にする必要もないし、渋滞や満席や割引なしの移動や行楽地に行く必要もない。だからGWといっても特に期待などしていないのだけれども、それでも結婚してからはカレンダーもちょっとは意識しながらの暮らし。Twitterなどでも多くの人がGWを醸し出すつぶやきをしてて、だからちょっと羨ましくなったりもする。

 でも、行楽地のお店や、普通の飲食店、交通機関などに勤務する人にカレンダー通りのGWなんて存在するのだろうか。いや、無いね。そういう人が働かないと多くの人がGWなどといって浮かれることも出来やしない。一度イースターの時にヨーロッパに行ったことがあるのだが、向こうは休みは完全に休み。チェーン系のカフェはやっていたものの、レストランもショッピングモールも軒並み休んでた。宗教上関係ないのか、中華料理店がかろうじてやっていてなんとかメシが食えたが、日本ではそんなことは考えられない。多くの人が休みを満喫するために働く人が大勢いるのだ。

 一方で、今回のようにとびとびの日程だったGWでも、11連休を取っているという人が実に沢山いて驚いた。ヒマなのか、それが普通なのか、浮世離れの稼業の僕にはもうよくわからない。11連休って、一応月をまたいでいるものの、1ヶ月のうち1/3は休んでいるわけで、それでよく業務が持つよなと心配でならない。休める人自身は勤務先の業績が傾くことへの心配などないのだろうか。それもよくわからない。そういう会社と取引をしている人は急な対応を求めなきゃいけない時にどうするのだろうか。休日受付対応の要員は配されているのだろうか。それもよくわからない。

 フリーの人なら理解してくれるだろうが、大手企業の人と仕事をすると、彼らに取っての週末はとても大切で、出入り業者の週末は歯牙にもかけないということが多い。金曜の夕方に素材が入ってきて、「月曜日に見せてください」って、そりゃあ土日にやれってことでしょうと。しかもその土日には自分は一切応対しないということだから、作業途中に疑問質問が起こっても勝手に悩めってことだし、それで月曜日に見せたものが自分の意図とズレていた場合に普通に怒るし。

 GWも祝日も年末年始も、一応「こうだからね」と世間的に決められるから休むことも出来るわけであって、そういう意味では大手の人が「そこは絶対に休み」として休むことは何の問題も無い。だが下請けには土日にするしかないスケジュールで仕事を回してもOKということになるなら、結局社会全体の決めごとも反故になってしまうわけで、それによる身分制度というか、格差というか、そういうのって広がっちゃうと思う。

 とかなんとか書いていて、尻切れとんぼな感じで終わります。要するに、GWってくそくらえって話です。明日も普通に仕事します。風邪は完全に治ったみたいだし。

なぜ物販で声を出すのか

 昨晩のブログに対してTwitterで「素敵なブログでした」とコメントをいただく。それで今一度読んでみた。うん、一気に書きなぐったにしてはしっかりした内容だったなと自画自賛。

 それで一点、伝わってるかどうか疑問だった点について補足したい。それは「少なくともライブが終わった後に物販を頑張るのであれば、せめて手の空いているメンバーは物販席に行って声を出した方がいいと思うよ」ということ。

 これは別に精神論で言っているのではない。ライブ後に物販でCDがどのくらい売れるのかというと、まあ千差万別であるがそうそう何十枚も売れるわけではない。昨晩の彼らのCD(実際はCD-Rだったが)は200〜300円程度のものでしかなかったので、仮に10枚売れたところで2000〜3000円にしかならない。利益を考えたら、メンバー総出でシャカリキに販売することに効率があるとはとても考えられない。だから誰か1人、外れくじを引いたメンバーが物販席に座って、声も出さずにもし万一「買いたい」という人が現れた時に対応する程度のことでもいいのかもしれない。瞬間的なビジネスを考えた場合。おそらく彼らもそういう判断をしていたのだろう。そして彼らに限らず、そういう対応のバンドは多い。というかほとんどである。

 だが、そうではないのだ。ライブに来て、自分たちのことを知らない人が沢山いて、ステージ上では「せめて僕らの名前だけでも覚えて帰ってください」とよく話しているが、じゃあどうやって名前を覚えさせるのかということだ。ステージ上で3回くらい自己紹介した程度で覚えてもらえるのか。いや、それは難しいだろう。だからどこかで名前を連呼する機会を設けなければ、お客さんの記憶にバンド名が届かないのである。

 これは選挙と基本的に同じこと。選挙期間中になると選挙カーが街を走るが、彼らのスピーカーから聞こえてくるのは候補者の名前がほとんど。政策を語れよと思うが、やはり彼らは投票所で名前を書いてもらってナンボなのだ。だからとにかく名前を連呼する。選挙期間中はソレを公然とやることが許されている。だから、やるのだ。

 バンドも、自分たちの名前を会場で連呼する機会が欲しいはず。だって「名前だけでも覚えて帰って」欲しいのだから。ではどこでその機会を得るのか。それが物販である。「○○のCD売ってまーす」と堂々と叫べばいい。叫ぶことで、CDは買わなくとも、名前は覚えられる。全員じゃなくとも、覚えてもらえる確率は格段に高まる。だから、物販は大事なのだ。経済的な理由ではなく、宣伝的な理由として。無名なバンドにとっての貴重なチャンスなのだ。

 1回のライブで一体何人の人が会場内にいるのか。その全員に覚えてもらうかもらえないかということは、数的に大きなことではない。せいぜい20人〜100人といったところだろう。しかし、その20人に対してアピール出来ないバンドは、仮に20000人にアピール出来る機会が得られたとしても、その時だけアピール出来たりはしないのだ。逆にいうと20人へのアピールを積み重ねてきた者だけが20000人へのアピールチャンスを与えられるのだし、そのチャンスをしっかりとモノにしていく。だから、売れてない頃から何の反応もないギャラリーに向かってバンド名を連呼していく必要があるのだ。

 千里の道も一歩から。ローマは一日にして成らず、である。その1歩を疎かにしていては、他人に勝つことなどまず無理だと思った方がいいのである。

縁

 いいバンドだったのだ。それは、まず断っておきたい。

 だが、リリースに関する資料も渡さず、挨拶をしただけで帰ってきた。なぜか?縁を感じないからだ。

 3月にデモを送っていただいて、試聴して、感想を書いてメールのやり取りをして資料をメール便で送る。だがなんの返事も無く、5月に京都でライブをするのでというメールが届く。うーん、どう考えればいいんだろうと。それでも資料を読んで検討した結果のメールは遂に届かず。仕方ないので「資料は読んだのでしょうか?それ次第ではライブに行っても無意味になる可能性もあるので」とメールを送ったところ、すぐに電話がかかってきた。「資料、届いてないんです」と。なるほどそうだったのか。ヤマトの配達確認をするととっくに投函済みになっている。まあそれもマンションの別の郵便受けに投函された可能性も排除出来ない。だから「じゃあライブに行って、資料は直接渡します」と返事。で、さっき行ってきた。

 いいバンドだった。それはライブを見てもよくわかる。で、MCで「7月に全国流通が決定しました。8月と9月にレコ発でまた関西にやってきます」と。んんんんん?他で出すこと決まってんじゃん?資料を読んで検討とかじゃないじゃん。何を言ってるんだこのバンドは。

 だからといってブチ切れて挨拶もせずに会場を後にするほど子どもでもないので、やり取りをしていたメンバーに声はかけようと。で、そのメンバーが物販に立つ。物販はバンドにとって重要なことだ。僕との話のためにそれを疎かにさせるわけにはいかない。なので声をかけて「向こうで待ってるから」ということで待つことに。そうすると、ドリンクカウンターの辺りに他のメンバーが多数やって来て飲み始めている。んんんんん?彼らは物販の手伝いをやらないのだろうか?飲んでいる。やり取りをしていたメンバー以外がほぼ全員ドリンクカウンター付近でうろついたり飲んだり。そういうのって、どうなんだ?レーベルの人来るよってことは話出来てないのか?出来てたら、担当のやりくりくらいするんじゃないか?機材の片付けなどで手が離せないのならいいけど、飲んでるよ。うーん、まあいいだろう。とりあえず待ってみよう。

 でも次のバンドが始まって、しばらくたってそれでも来ないので、物販のところを見に行くと、誰もいない。うーん、どうしようかなあ。そこで数分立ち尽くしていると、件のメンバーがやってきた。裏階段の静かなところに行って、とりあえず名刺を渡す。で、7月のリリースの話をして「だったら、うちでリリースという検討をするということじゃないよね」と確認すると「その話は7月の次ということで」と。うーん、どうなんだろうこれ。そこにボーカルが通りかかって、紹介されたけどあまりピンと来ていないような反応。それを見て、これはダメだなと感じた。バンド内での意思疎通は、少なくともレーベルの人が観に来るという件についてはまったくなされていないと判断した。なので、資料も渡さずに「今回は縁が無かったということで」と言って、帰って来た。

 バンドにとってCDリリースというのはとても大切なことだ。そのリリースをきっかけにして自分たちをどう売り込んでいくのかを計画し、実践していかなければいけない。1枚目で理想的な結果など期待してはいけない。1枚目で到達出来ること、それを背景に2枚目で出来ること、3枚目で狙えるもの。そういうことが積上げ的に実践出来るかどうかが鍵なのだ。それはレーベル側としても、ビジネスの観点から彼らが何枚目なのかということ、その後売れなくとも何年続けていけるのかということなどがとても重要で、そういう意味でも「今度出す次のところから一緒に」ということでは、可能性がガタ落ちしてしまうわけで、そういう意味でも、ちゃんとやろうとするのなら今回のは見送った方がいいなと思ったのである。

 バンドとしてやっている音楽は良いので、7月のリリースで十分な成果を出してもらいたいし、その成果を持って7月リリースの延長として積上げていって大きくなっていって欲しい。だが、それは今やるところでの積上げであって、その後に別の流れとして参入することによって可能性がどう広がるのかということとは全く別の話。彼らの音楽を見限ったということではなく、今回は縁が無かったということ。ただそれだけのこと。

 まあ、少なくともライブが終わった後に物販を頑張るのであれば、せめて手の空いているメンバーは物販席に行って声を出した方がいいと思うよ。売れて物販用のスタッフを雇える状態になっているのであればともかく、自分たちだけでやらなきゃいけない間は、ライブでの演奏が終わって機材搬出をして物販をやってアンケートの回収をやって、ライブハウスに挨拶をして。そこまでが仕事だ。演奏をやって楽しくてすぐに飲んで美味しくてスッキリ爽快というのは、仕事ではなくて趣味。行動が趣味の間は仕事にしていくことは出来ないし、仕事にしていけなければ、大きな結果を出すことも出来ない。

 今日のバンドがこの文章を読むのか。読んで「自分たちのことだ」と気付くのか。気付いたとして「そうか、参考にしよう」と思うのか、それとも「なんだこの人、見当外れのことを言ってるぜ」と思うのか。それはまったくわからないし、どうでもいい。もちろん今日のバンド以外のバンドマンが読むこともあるだろうし、読んだ結果「参考にしよう」と思うも「見当外れだ」と思うも、それも自由。

 僕としては、今日のバンドと一緒に仕事をすることはおそらくもう無いだろうが、けれども袖擦れ合うも他生の縁だと思って、こんなことを書いてみた。彼らが目にするも縁、気付かずに読まれないとしても、それもまた縁なのだろう。

夏へ

 気温が上がってきた。今朝ほどまでは外出する時にパーカーなどを羽織って、羽織るどころかジッパーを上まであげてることが基本だった。でも、もうその必要はなさそうだ。というより、羽織ることが無理という感じでもある。今朝着てきたパーカーをどうしようかと思案中である。

 自分は大人だから自由に意思で着替えることが出来る。だが息子1歳10ヶ月はそうもいかない。このところ毎日僕の自転車の前かごに入れられて、バーを握って保育園に連れて行かれる。シートベルトをカチンと留められたらもう身動きもかなり限定的になる。暑いという言葉も知らないので、着せられた服をとにかく着ているしかないし、寒くともくしゃみをして意思表示をするくらいしか出来ない。

 だから、こちらが気を遣う。寒くないかとか、暑くないかとか。自転車が信号待ちの度に彼の手を触る。凍えてないか温度の確認である。でも、おそらく明日からはそういう心配はなさそうだ。むしろ厚着過ぎやしないかと、そういう心配をすることになるだろう。

 息子と過ごすというのは、そういう僕の中のセンサーが敏感になるということでもある。1人で自転車を漕ぐのであればまったく気にしない段差も、息子を前に乗せていればとにかく気になる。少しでも衝撃を少なくしたいと、車道と歩道の境目を注視する。何気なく過ぎていた街の風景も見えてくるようになる。最近はツバメの巣をやたらと目にする。まだツバメの巣に気付いていない息子に、あそこに赤ちゃんツバメがいるよと教えてあげたいのだ。

 そんなこんなで、季節が変わっていく。オフィスはもうけっこう暑い。冷房を使わなきゃいけなくなるまで、もう少し持ち堪えたいと思ってはいるのだけれども。

ハンガーストライキ

 今月保育園に入園した息子は、先週初日に登園した翌日に熱を出し3日お休み。結局初週は月曜と金曜に行っただけで、その両日とも一切泣かず、砂場で遊ぶのに熱中していたらしい。母親が向かえに行っても「もう来たのか、遊びの途中なのに」といった風情で仕方なく帰途についたそうだ。

 ところが今週、2週目に入ると雰囲気が一変。まず到着すると同時に泣く。お向かえに行くとずっと泣いていたらしい。2週目から始まった給食も一切口を付けずに先生たちを困らせていた。向かえに行った母親がなんとか食べさせて帰宅。それが2日続いた。

 3日目、水曜日。同じようにハンガーストライキ続行で、母親に食べさせてもらい、帰宅途中に僕のオフィスに寄り道。そこで屋根ネコに出会って楽しそうにしていたものの、帰宅すると大泣き。お風呂にも入れず。

 4日目、木曜日。この日は朝自転車に乗っている時点で泣く。シートベルトから腕を抜けて脱出を試みる。危険なので自転車を停めて抱きかかえる。大泣きの子どもを抱く自転車のお父さん。なんとしても乗らないので20分ほどその状態で立ち往生。とはいっても、行くにしても帰るにしても自転車に乗らないことにはどうしようもないので、むりやり後ろの座席(本来は前座席に乗せるもの)に座らせ、シートベルトをキツめに締め、保育園まで慎重に向かう。道中ずっと泣き続け。可哀想になるが、いつまでも行かないというわけにもいかない。心を鬼にして保育園に到着。

 母親が風邪で寝ていたのでお迎えも僕が。午前の仕事もあまり手につかず、着いてみるとやはり泣いている。ご飯も食べていない。大食漢なのだからお腹が空いてツライだろうに食わないと。僕がなんとか食べさせ、帰宅。帰宅だとわかっているのか、帰路は泣くこともなく。

 だが、なんとなく表情は前日までとはちょっと違っていた。笑顔もいつものものが見えていた。早めの夕飯を食べ、風呂にも入らず8時前には寝てしまった。

 今日、金曜日。外は小雨。ほとんど止みかけ。でも僕はカッパを着て、自転車の前シートには雨よけのカバーを装着。座らされた息子は雨よけカバーを閉めることには激しく抵抗するものの、多少の雨が降り込んでも泣かず、約3.5kmの道のりを静かに進んでいく。保育園の建物が見えたら泣き始め。いや、建物を見て気がついたのではないはず。そうじゃなきゃ前日の途中での脱出劇は説明出来ない。保育園に行くことはわかっていて、我慢をして、我慢をして、でも建物が見えて他の子が泣いているのが聴こえて、我慢しきれなくなったのだろう。

 切ない。

 先ほど向かえに行った母親からメールが。「給食も食べて落ち着いてすごしたそう」と。そのくらいなんてことはないことでもあるのだけれど、とてもホッとした。ハンガーストライキで抵抗の意思を示して、示して、示して、示して。泣いて泣いて、それでも何かを理解して克服して乗り越えたのだろう。小さな、まだきちんと自分の考えを言葉で伝えることも出来ない息子が、状況を克服しようと葛藤したのだろう。

 だからといって3週目の来週がすんなりいくとなど思ってはいけない。予定通りなら来週はフルタイム、夕方までお迎えはないのだ。初めて保育園で昼寝をすることになる。それが出来るのか。出来なくてまた泣くのか。それはなんともわからないが、どうあっても落胆もせずに受入れてあげたい。そして今日は出来るだけ早く帰って褒めてあげたい。そして楽しげに週末を一緒に過ごしてあげたい。

プレゼンテーション

 小保方さんの会見を経て、議論沸騰。議論なのかなんなのかもよくわからないけれども。

 まあ僕は科学者ではないので細かいことはよくわからないけれども、今回の件は本当によくわからない。小保方さんの論文がクズで偽物だったとして、その前提で進めるとして、だったらなぜ最初の段階でネイチャー誌は取り上げたのか。そして理研の中でチェックもされていただろうに、なぜそれを通り抜けて提出されることになったのか。さらには結果としてダメ論文であったことがわかったとして、それをネイチャーが「あれはまがい物だから改めて却下しますよ」と発表すればいいのではないのか?なぜ提出者が自ら取り下げるという手続きを要求されるのか?その辺がよくわからないのだ。

 また、女性ということを利用してあそこまで云々という意見をよく目にするのだが、女性ということを利用すれば有利に立ち回れるような世界なのか科学業界は?そしてそれがいけないのであれば、利用した(あくまで前提として)女性の側も断罪されていいが、だとしたら女性であることを理由に不公平な処遇をした男性の側が必ずあるはずで、それは断罪されないのか?

 科学者や元科学者という人たちに多い意見として「もう小保方さんは科学の世界では研究者としてはダメの烙印を押されたも同然だから」というのがあるが、だったらその人たちがスクラムを組んで研究世界から排除すればいいだけのことではないのか?で、力を込めて排除する理由というのは特にあるのか?科学の世界全体がダメ烙印を押したのなら、スクラムなど組まずとも自然と排除されるのではないのか?

 どうもこの会見を経て、またまた小保方バッシングが高まっているように感じる。佐村河内氏の時もそうだが、そんなに力を込めてバッシングするエネルギーをかける必要がイマイチ判らない。個人的に科学の素人として感じるのは、そこには少なからず嫉妬心があるように感じる。

 科学的な発見に対する嫉妬という意味合いも若干ありつつ、基本的にはプレゼンテーション能力への嫉妬なのだろうという気がする。そこには若い女性という科学界ではレアなキャラクターもあるわけで、だからある程度おじさん研究者には乗り越えられないハンデもあるが、それを差し引いても、科学界の人たちはプレゼンテーション能力の点で今ひとつということなのではないだろうか。あのiPS細胞の山中教授はiPS細胞という名前をつける時に「i」というのを小文字で入れることで注目度を集めやすいと考えたそうだ。そういうこともプレゼンテーション能力のひとつだと思う。そして研究費を集めるためにマラソン大会に出たりもしていたそうだ。ランニングが趣味だということもあるだろうが、その趣味を生かして注目を集めようと必死なのだ。いや、だからあの研究を成し遂げたなんていうつもりは無いが、同じ研究成果の事柄があった時に、それがその研究者ひとりで完結するわけもなく、同僚研究者やスポンサーなどの協力をどう得られるのかが重要になってくるわけで、その上ではプレゼンテーション能力というのはとても重要だと思う。これは科学に限ったことではなくて、僕のやっている音楽の世界などもそうで、まあ音楽だと70%以上はプレゼンテーション能力が鍵だとさえ思うけれども。で、もしかすると多くの真っ当な研究がプレゼンテーション能力の欠如によって陽の目を見ることもなく埋もれているんじゃないかとさえ思う。あくまでなんの根拠もない妄想なのだが。

 だから今回の小保方vs理研の一幕も、1日の理研の会見と9日の小保方会見という第1ラウンドでは小保方氏の圧勝という気がする。理研の高名で実績もある(だろう)科学者たちが雁首を揃えてこの始末だから、これが今後法廷闘争に移っていった場合にはかなり大変なことになるんじゃないかという気がする。理研が不利という意味で。

 個人的には小保方氏の件はなにも法廷で争われる内容では無いと思うし、科学界が小保方氏にダメ烙印を押して業界全体で閉め出しをすればいいだけのこと。もちろんそれが、「実は小保方氏の研究は本当に優れていて、閉め出すことで損をしてしまう」という可能性のリスクを持っていたとしても、それでも閉め出したいのならそうすればいい。で、ある人の意見で「もし日本の法廷が小保方氏の言い分を認めることになったら日本科学界の終焉だ」というのがあったが、それはどのような問題について法廷闘争が行なわれるという前提なのだろうか。論文に不正があるのかないのかという点を法律でどう論じればいいのだ?そして法廷が論文に不正があったと認定したとして、その場合にどのような刑を与えるのが妥当というのだろうか。それはさすがに無理な話で、争われるとすれば、今後理研が解雇などの処分をした場合に、それが妥当なのかどうかという身分保全的な内容になるしかなく、論文に不正があったからということで懲戒処分ということが認められるとすれば、普通の商社やメーカーなどの企業でも、勤務内容に問題があったから解雇することが可能ということになってくるだろうし、だからそれはなかなか認められにくい法廷闘争になっていくだろうと、素人考えとしては思う。

 話が逸れてきたのでこの辺にしたいが、要するに、科学の世界の人はもっともっとプレゼンテーション能力をつけた方がいいんじゃないかと思った。研究が真っ当であればあるほど、その力は必要になってくると思うし、それが無くて「真っ当に正直に研究を続けてきたけれども、成果をあげられなくてアカデミックなポジションに就くことが出来ずに去っていった」などといくら言っても、愚痴にしかならないし、とてももったいないと思ったのである。

保育園入園式

 息子が保育園に入園しました。で、今日が入園式。

 これで初めて親のいない時間と空間を過ごすようになるわけで、心配は心配だけれども、やがて否が応でもそうなるし、そうならなきゃいけないので、まあここをどう乗り切るのか、親としても子としても。

 午前10時からの入園式が30分ほどで終了したあと、各クラスに別れて説明会。担任の先生の紹介などあり、今後の(親の)注意事項などなど。その間子供は退屈なので、一区画に柵を作ってその中におもちゃなど置いて先生も何人か入ってケアしてくれてという感じになった。みんな我が子をそこに入れ、僕ら夫婦も息子をそこに入れる。で、最初はみんな静かにしているものの、まあ泣く泣く。すぐにお母さんを求め、求められるお母さんは我が子を連れ出し、柵の中からは1人減り2人減り。うちの子は大丈夫か、泣いてやしないかと覗き込む(説明は基本的に奥さんがメモしてくれてる)と、前々平気。おもちゃに熱心だ。

 結局説明が終わるまでそこに残っていたのはウチの息子ただ一人。喜ぶべきなのか?もうちょっと「おかーしゃん、おとーしゃん」と泣いてくれてもいいのではないか?なんだか複雑な気持ちにもなりつつ、まあこの調子なら保育園生活もまず大丈夫だろうと妙な安堵はした。

 本当は電車で行って式に臨み、昼前に終わって奥さんたちと別れて出社しようと思っていたが、雨もあり急遽車で。だからうちに送り届けなきゃいけないし、昼メシも食わなきゃいけないし、なので帰宅してから出社しても時間的に半端だし無駄も多く、自宅の洋間(という名の物置部屋)の片隅でパソコンを開き、出来る仕事をこなし中。

いくつかの出来事について

 袴田事件の再審開始決定は驚くニュースだった。4人が殺された殺人事件の犯人として逮捕され死刑が確定していた袴田巌さんが無実であると再審を請求し、認められて一旦釈放された。逮捕から実に48年の年月が経過していると。無実が確定すれば(その可能性が極めて高い)、もう人生そのものを奪われたといってもいいだろう。何故こんなことが起きるのか?組織としての無駄なプライドが真実を直視する目を奪っているのだろう。そんなことで奪われるには、人の一生というのはあまりにも貴重である。このニュースについて「では真犯人は誰だ?殺人事件の責任は誰が取る」というツイートが結構な割合で散見されたが、そういう人たちは現実に起きた殺人事件の責任を誰かが取るということが最重要なのだろうか? もちろん犯人はその責を負うべきである。だが、「誰かが責任を取ればいい」ということになってしまうと、逆にいえば袴田さんが罪をかぶせられて死刑執行されていれば安堵出来るということにもなってしまう。誰かが責任をというのは、諸刃の剣だ。責任というものが役所でのハンコのように形骸化したものになると、その歪みは必ずどこかに現れる。かといってハンコが無意味ということではないのだけれども、ハンコを押せばもう一件落着というような、判断力の死にはなんとも違和感を覚える。

 その袴田さんの釈放で、昨晩の報道ステーションが密着取材をやっていた。そこで弁護士が袴田さんに「今日は何が食べたい?ステーキ?焼肉がいいかな?なんでも好きなものが食べられるのが自由ってものなんだよ」ってやたら話しかけていた。その状況は、釈放された袴田さんが車移動中に気分が悪くなってどこかの駐車場で休んでいる最中。普通の状態の78歳でもステーキに焼肉が食いたいということはあまりないだろう。老人の胃袋というのはそういうものだ。ましてや車酔いして休んでいる人に「ステーキ?焼肉?」というのはあんまりだと思った。弁護士は何を求めて自由を勝ち取った気分なんだろうか。そしてテレビのカメラがまわっているところでその自由とやらを袴田さんに強調しているのが、なにか自分たちの司法活動の成果をアピールしているようにも見えた。袴田さんを支配していたのが刑務所から弁護団に移っただけのような気がした。いや、それでも再審が決定して釈放されたのは喜ばしいことなのではあるけれども。自由って、ステーキを食えることではなく、ステーキが食いたくなるまで放っといてもらうことじゃないかっていう気がした。

 食べたいものが食べたい時に食べられることが自由というのなら、自由じゃない人はまだまだ世の中にはたくさんいる。先日のベビーシッター事件。悼ましい事件だが、その後母親への「不注意では」という反応があまりに多くてそちらの方が凹んだ。注意すればいいよ。そりゃあ親は注意をするよ。でも人間である以上出来る範囲は限られているし、その人の置かれている状況によって出来る範囲は様々だ。フランス革命前夜にマリーアントワネットが「民衆は食べるパンが無いのならケーキを食べればいいのに」と言ったそうだが、今回の「不注意」だという発言は、程度の差こそあれ根っこはそれと一緒なのではないかと思う。注意はしてるよ。親だもの。育てる為に必死だったろう。なぜ周囲はそれをサポート出来なかったのか。制度はある。サポートする制度はある。だがそれが周知徹底されていないからこういうことは起きる。保育所が圧倒的に不足している現状で、「もっと安心して任せられる知人に預けるべき」などと言っている人は、じゃあ自分は近所の子供を月に1度でも預かったりしているのか?きっとしていないだろう。それでよくそういうことを言うよと思う。子供を失った母親はもう十分に喪失しているのだ。辛い思いをしているのだ。なんで他人がそれ以上に鞭打つ必要があろうか。鞭打つなら、子供を育てている人たちが見知らぬベビーシッターをネットで探さないで済むような社会を実現出来ていない政治や行政を鞭打つべきだろう。

 みんなの党の渡辺喜美氏が8億円の借金で攻撃されている。何故今渡辺喜美が攻撃されることになったのか。それはよくわからないのだが、単純に現象面として彼を攻撃するのはちょっと違うと思っている。政治家は大なり小なり綱渡りもしているだろう。だからそういうネタはあらゆるところに存在している。小沢一郎もかなりバッシングをされたが、結局疑惑はすべて立証されない事実無根のネタだったのである。だが、攻撃しようと思うと事実無根のものにでも攻撃は加えられる。ある政治家を攻撃したい人は攻撃対象の政治力が衰えさえすればいいのだ。今渡辺喜美に加えられているのはそういう類いだと感じている。もちろん8億の借金については本人が事実だと認めているので、小沢一郎の件と同列で扱うのはおかしなことだけれども。みんなの党のことは好きじゃないが、だからといってこういう形の攻撃はもっと好きじゃない。というよりあってはならないと思う。民主政治の敵だとさえ思う。

 なんかいろいろ書いた。結構取り留めのない日記になったと思うけど、まあ時にはそういうこともあります。

 

記念日

 3月23日は我が家の結婚記念日だ。もう6年。長かったような短かったような。

 京都の神社で式を挙げたので、前日に東京から京都に入り、それぞれの家族で半日を過ごした。夜、奥さんとホテルのロビーで翌日の挨拶の打ち合わせをしてた。そこに遅く京都入りした兄が通りかかったのもつい昨日のようだ。

 翌日早朝、京都御所を散歩していたら、同じく散歩をしていた姪と甥と遭遇した。この姪甥と京都御所を散歩するなんてことは一生に一度のことかもなと感慨も深かったものの、今や僕が京都に住み、昨年の今頃も京都御所を散歩などした。来週も福岡の母と姪甥が遊びにやって来る。不思議な話だ。それに息子はこの京都生まれ京都育ちである。やはり不思議な話だ。

 可もなく不可もなく過ごしてきた。今ちょっと仕事的に苦境ではあって、経済的にもあまり満足な状態ではないし、奥さんにも苦労をかけていると思うが、だからこそ、奥さんの存在や心遣いがありがたいし身に沁みる。もうちょっとCDが売れればと思うが、この波はいかんともし難い部分でもある。し難いなどと言ってる場合ではないので、自分なりに改善も挑戦もしているが、まあそれを支えてくれているのも彼女だ。そして息子の笑顔だ。

 6年前には想いもしなかった暮らしをしている。物質的にも精神的にも。それが人生の面白いところだ。そういうことを普段は考えたりしないけれど、こういう記念日にはちょっと考えてみてもいいんじゃないか。結婚した時の気持ちを思い返し、新鮮な気持ちで新たな1年を迎えられるのであれば、記念日というのは意味のあるものだと思う。

 さあ、今日は結婚式を挙げた神社にでも行ってみるかな。