通常営業

 お盆休みを福岡で過ごし、土曜に京都に戻ってきて本日より通常営業。

 では帰省先でのんびりしたのかというと、本当のところはよく判らない。限られた期間の中でこなすべきこともそれなりにあって、墓参りや家族での食事会。それなのに友人の手伝いで仕事を一日入れてしまって(そのことに後悔はないけれど)、まあ、睡眠時間が足りていたかどうかという基準で考えれば、まったく足りていないと思う。

 それでも息子がおばあちゃんにきっちり懐いてくれて、笑顔を振りまいて、家族の距離はちょっとだけ縮まったような気もする。そういう意味では、休暇というよりは特別営業という気もする。仕事をするのも大切なことだが、それ以上に家族が密になることは長い人生にとってとても大切なことだ。

 夫婦そろって月曜から仕事だし、息子も保育園へ。だから日曜に京都に戻るよりは1日本当の休日を入れた方がいいということで土曜に帰京。帰京というと東京のようだね。でも、帰るのは京都。

 そして今日から通常営業。皆さんよろしくお願いします。

 皆さんって誰のことだろう?? まあいいさ。よろしくお願いします。

OKな教育、NGな教育

 数日前にやっていたBS海外ドキュメンタリーで、子供に加熱したものを食べさせないという母子の話があった。肉や魚はもっての他で、野菜だって加熱しない。ベリーを食べたり、バナナを食べたり。乳製品をとらない子供は同年齢の平均よりも背が低く、そういった事態を市だか国だかの健康機関が問題視し、この母親を訴える。この母は勉強も学校に通わせることなく自分で教えている。それは児童虐待だと公共機関は言うのだ。

 親というのは子供に対してどこまでの関与と管理が義務で、同時に権利なのだろうか。判断力が足りていない児童は簡単に親の影響を受ける。DVを行なう親のことを一番必死に庇うのは、DVを受けている子供自身だ。大人でもハイジャックなどの状況に陥ると犯人に共感を覚えるという。ストックホルム症候群というやつだ。犯人の許可がなければ食事やトイレさえ自由に出来ない状況下で、犯人のちょっとした優しさに感謝の情が起こり、それが共感や同情につながるそうだ。だから子供が親にどのような扱いを受けていようと、誰よりも大切なのが親であることは疑いのないことだろう。

 子供に加熱したものを食べさせない親が虐待の気持ちで子供に接しているのかというと、そうでもない。むしろ積極的に育児に取り組んでいる。そのやり方が他人と違うだけのこと。それを「違うから」と訴えて母子を引きはがすというのは如何なものか。乳製品を食べさせないように気をつけているというと僕の常識とは違うので違和感があるけれども、じゃあ放射性物質を含んでいる食物を食べさせないようにしているというとどうだろうか。それを当然という人もいるし、「いや、基準値以内だったら安全なので気にするのはおかしい」という人もいるだろう。どちらが科学的に正しいのかという議論とは別に、親が子供の安全を考えて最大限の思考を重ねた結果、どう判断するのかということについては、結局家庭それぞれに委ねられるべきで、放射性物質を国の基準値以内含んでいる食物を不安視している母子に「食え」と命令するのは如何なものか。その命令は、不安視する母親の気持ちを一切ほぐすことはない。

 終戦の日になるとTwitterでもfacebookでも靖国に参拝したという投稿を沢山見る。大臣が靖国を参拝すると国際問題に発展すること、天皇陛下がある時点以降参拝をしないこと。それを持って普通の国民が参拝することの是非を問うというのは別の話だと思っている。一般に「英霊」という抽象的な総体に対して参拝することと、親族の誰かをお参りすることとは違うからである。親族に戦死した軍人がいる場合、そしてその人が神道に帰依している場合、靖国神社に参拝することはごく自然なことだ。戦死した軍人の親族もなく、自らの軍国主義の表現のひとつとして参拝するのとは意味が違う。

 だが、そこで故人を偲ぶということと、日本軍のやってきたことの正当性を美化していくことは、また分けて考えなければならないと思うのだ。靖国神社にある遊就館に展示してあるもの、展示の仕方については賛否ある。何の迷いもなく正しいと思う人から、軍国主義を賛美する場所と非難する人まで様々だ。で、そこに大人が自分の意思で行くのは本当に自由なことだ。ではそこに子供を連れて行くというのはどうなのだろうか。もっての他と言う人もいるだろうし、何が悪いのかと言う人もいるだろう。そこに教育的効果は確実にあって、遊就館で判断力の足りない子供がどのように考えるようになるのかは考えればわかる。その是非を親はどう考えるのか。真剣に考えた結果、行かせようとする親。行かせるべきでないとする親。実はその2者だけでなく、何も考えずに連れて行っている親、何も考えずに連れて行かない親というのがあって、そのどれも、親であるのなら子供になんらかの影響を与えているということを考えた方がいいように思うのだ(何も考えずにやっている人が今さら考えるとは思い難いのだが)。

 なぜこんなことをいっているのかというと、子供への親の影響というのは重いもので、その重さを(無論僕自身も含め)自覚して教育的な行動を取れているのだろうかということに、疑問を持ってしまうからである。Twitterで旭日旗を振っている幼稚園児の写真を見た。その幼稚園は右寄りで有名なところだそうで、なぜ判断力の弱い時期から旭日旗を振らせるのだろうかと訝しい気持ちになった。そこで旭日旗を振っている子供は思想的にどのように育つのだろうか。もちろんカトリック系の幼稚園に通う子供が全員経験なキリスト教徒になるわけではない。だから旭日旗を振っている子供が全員軍国主義者になるわけでもない。だが、もしも自分の子供が通っている園が旭日旗を振らせる園だとしたら、僕ならまず退園させるだろう。だがむしろそういう園だから通わせたいと思っている親もいるのだろうし、だから園の経営も潰れないのだろう。不思議な話だ。

 今も戦乱下にあるパレスチナガザ地区では、自爆テロが歴史的に続いている。ガザ地区に閉じ込められて自由を奪われているという状況下で考えることと比較的自由と思われる現在の日本で考えることが同じであるはずはないのだが、そこでは自爆テロをすることによって天国に行けるという教育が一部でなされていると聞く。その教えによって子供はそう思い込み、爆弾を抱えて家を出るのだ。おそらく真面目そのものである。そういう思想であればもう迷いはないのだろう。それは正しいのか、間違っているのか。行動もそうだが、そういう教育を施すというのは、正しいのか間違っているのか。

 特定の宗教に於いては輸血を禁じているという。そのため輸血を必要とする外科手術で助かるはずの患者が命を失う。自分の子供が事故に遭っても輸血はさせないという。それは正しいことなのか、間違っているのか。

 それぞれに考えはあるだろう。自分の子供の輸血はOKだが整形手術はNGなのだとすると、その間にOKとNGの境目があるはずで、その親にとっての境目はどこなのか。軍国主義賛美の遊就館に連れて行くという教育はOKで、自爆テロによって天国に行けるという教育はNGなのだとすると、その間にOKとNGの境目があるはずで、その親にとっての境目はどこなのか。肉や魚を食べるのはOKで、非加熱の食品のみを食べるというのはNGなのだとすると、その親にとっての境目はどこなのか。NGの何かをNGにしている理由はなんなのか。OKの何かをOKにしている理由はなんなのか。それを明確に自覚して親は教育をしているのか。僕自身はどうなのか。もしも自身の方針が国などの方針と違っていた場合、自分の方針をどこまで押し通すことが出来るのか。それはとても難しい。だが何の考えもなく流されるようにしていたのでは、親としては失格なのだろう。抗えなくとも、考えを持って子供に接していかなければと、少なくともそう思う。

戦争体験を伝える

 8月15日は終戦記念日。最近は敗戦記念日にしろとかどうだこうだとか、本来の終戦はその日ではないとか、南京虐殺はなかったとかなんとか、いろいろなことが言われているけれどもだ、そんなにこの時期のことを詳しく知っているわけではない身としては、まあ式典などもあることだし、この日が終戦記念日ということで。

 で、終戦から69年とのことで、その日に生まれた人がもう69歳なのだから、そりゃあ体験は風化するよなと普通に思うが、それにしても風化の仕方があんまりじゃないかと思ったりする。戦争の史実がどんどん変わっていくような懸念もあり、変えたいと思う勢力と思惑がなんであるのだろうかという気もするけれど、あれはまあドイツが先の大戦をナチスによって起こされたモノということで精算した結果、今のドイツ国民とナチスは別モノであるというスタンスを確立することが出来て、だからナチスの残党が発見されればたとえ故人であっても墓を暴いて成敗するということまでやることで、「今のドイツ」というものをクリーンなものとして生まれ変わらせたのに対し、日本は戦犯の人たちも戦後立場を回復していき、戦犯が総理大臣になったり、高級軍人も総理大臣になったりして、そして今は戦犯の孫が総理大臣なのであって、つまりはあの大戦と今の日本を切り離すことに完全に失敗しているからなのだろうと思う。そういう人に取っては第二次大戦が悪魔の愚行なのではなく、ノスタルジーを伴った美学そのものだったりする。だから末端の平民が死んだということに対して哀悼するよりも、おじいちゃんがいかに正しい存在であったかを示すことの方が重要なのだ。だから英霊といわれる記号としての戦没軍人の神社に参拝するためのロジックは毎年練りに練るけれども、一般市民たちの被曝者たちへの哀悼の言葉は毎年使い回しで済まそうとする。

 A級戦犯として処刑された唯一の文官に広田弘毅という当時の総理大臣がいて、彼は僕の出身高校のOBでもある。だからOBのことを悪く言わない風潮の中で3年間学び、城山三郎の伝記小説などを読んだりもするので、戦犯であっても悪人ではないというスタンスに対して理解はするが、でもその理解するという心根が、「ナチス許すまじ」のドイツとはまったく違うものなんだろうとは思う。まあそれについては『落日燃ゆ』という小説などを読んでみてください。

 で、終戦の日。戦争体験は風化していくことが嘆かれる昨今。「戦争体験を聞いたり、小説やテレビドラマを見たりして、まるで行った気になって戦争反対を唱える愚行」という言葉をTwitterなどで見たりもするが、そもそも歴史に学ぶというのはそういうことである。行って体験しなければ理解出来ないというのは想像力の足りない愚か者の言い訳に過ぎぬ。ゆとり教育がゆとり世代以外にも広がってしまって、理解力がない自分を肯定するためにそんな愚かなことを公言してしまうのか、それとも戦争反対の風潮を広めたくない勢力が戦争体験伝承をバッシングする意図で敢えて言ってるのかはわからないし、多分両方だろうと思うけれども、はっきり言って、伝承で当時のことを実感出来ないというのは、歴史というものを根本的に知らない愚か者の開き直りである。

 歴史を学ぶ人なら、1000年以上前の戦争からも戦争というものを学ぶことが出来る。無論歴史に残された文献は現場の100%を伝えているわけではない。だがその限られた文献や史料から類推して結びつけて立体的な何かをつかみ取るのが歴史という学問である。第二次世界大戦のことだって、遺骨がまだ完全に拾集出来ていないわけで、その遺骨の人がどのような体験をしたのかなんてわかるわけはなくて、そういう意味では史料は不完全である。それでも生きている軍人も市民もかなりの数で体験を語っている。それを聞いて見て、なにも理解出来ないなどと思うのは愚かそのものだろう。

 ただ、戦争の悲惨さに対する感覚が薄まっているのは事実だろうと思う。「テレビやドラマを見て戦争の悲惨さを語るなどナンセンス」などと言う人たちがいる一方、第二次大戦を描いた映画にアイドルが起用されて、戦争が美しいものであるかのような演出が昨今は増えていると感じている。むしろ、戦争を美化する流れの方が強くなってきていて、その方を危惧した方が真っ当だと思うのだが、僕の同級生などの世代もそういう映画に涙したりしていて、オイオイ若い人ばかりをどうこう言えないよなと正直思う。

 なぜそうなるのか。それは戦争に反対する人たちには統一したシンボルのようなものがないからなのだと思っている。

 宗教を考えてみよう。全部とは言わないが、ほとんどの宗教には尊い教えがあり、教祖とか神などがいる。キリスト教に於けるイエスキリストなどはその典型であるが、仏教にも仏さまがいて、阿弥陀如来とか大日如来とか、まあ様々いらっしゃるが、総称して仏さまは拝むべきシンボルである。そういう絶対的に正しいシンボルがあるから人は帰依し易いし、そのシンボルが説く教えは、人間の本能や社会の法律を超越した最高の戒律であるがゆえに、疑う理由がないのである。その仕組みを維持することを生活の基本にする聖職者は当然その教えを維持することに自らの存在意義があるし収入の根拠があるので、全力で伝えようとするし、帰依させようとする。そのエネルギーが1000年も2000年も「何か」を伝えていくことにつながっていると思う。

 しかしながら反戦というものには何のシンボルもない。何のために反戦なのか、何のために平和なのか。そのことはとても哲学的で、最初は本能で「ケンカは良くないね」的な母の教えだし、「空襲は地獄だったよ」という祖母の教えだ。しかしよくよく考えてみると非常に哲学的な話になってきて、何故反戦であるべきなのかという根拠を正確に規定することはとても難しい。もしも反戦を象徴するキャラクター、それは漫画の主人公でもよくて、そういうものが確立しさえすれば、その反戦という主張はスムーズに広がっていくだろう。それは世界のサッカー選手たちが「キャプテン翼のボールは友達」を心から信じているようなもので、しかしそういうものが反戦には存在しない。反戦を語る「おばあちゃん」はその人にとってのみのおばあちゃんでしかないし、そのおばあちゃんが語る戦争の悲惨話は人によって全部違う。

 だが、平和を願う人の多くに共通する点として、誰かに強制されたくない的な感情論は常にあるので、多くの戦争悲惨話を上手くまとめて日本人の反戦の教典にするなどというのはとても困難なことなのだろうと思う。その試みはおそらく数限りなく繰り返されてきた戦争の後で何度も試みられたもののはずだが、結局何ひとつ成功することなく、平和教や反戦教などが存在しないというのが、このことの困難度合いを証明しているような気がしている。

 まあ本当に難しくて、解決の糸口など何も見えないことではあるけれども。こんな僕ごときがこんな駄文を書くのも、多少なりとも考えているんですよという一種の免罪符に過ぎないのかもしれなくて、もどかしいという気持ちが大きいけれど、それでも考えずに「体験しないで何がわかる」などと開き直るよりは遥かにマシだろう。

 最後に繰り返すけれども、行ったことのない戦争であっても、史料文献から何かをつかみ取るというのが歴史に学ぶということであり、「何がわかる」と言っている人は、戦争で儲けようとしている人か、歴史を知らないバカなので、真に受ける必要もないし、惑わされてはいけない。

「風評被害が収まらないから浄化した汚染水を放出するな」って、何?

 東京電力が福島第一原発の原子炉建屋周辺のサブドレンから汚染された地下水をくみ上げ、浄化して海へ放出する計画を地元漁協に説明したらしい。それに対して「風評被害は収まらない」と反対意見が出たという。

 それはどういうロジックなのだろうか?

 まず、汚染水を放出した場合、それによって健康被害が出るのか出ないのかという問題を考えるべきだろう。もちろんここで「出る」とか「出ない」とかの結論を出そうというものではないし、その知識もない。だからあくまでロジックの問題としての考察。

 健康被害が出る場合、それを怖がるのは風評被害ではない。なぜなら実害の発生だからだ。禁止されている農薬が大量に使われた農作物が出荷されようとした場合、それが報じられて「風評被害だ」は通用しない。なぜならそれは実害につながるからである。

 一方健康被害が出ない場合、それなのに怖がって人々が買わなくなるのは風評被害である。そういうのは「風評被害だ」と当事者が叫び、メディアも人々も一緒になってその風評被害を解消させる努力をしていくべきだろう。

 だがこの「健康被害が出るのか出ないのか」というのは、all or nothingの問題ではないから、ちょっとややこしい。インフルエンザなどのウィルスも、ウイルスの保有者と同じ場所で活動していた人であっても、その人の免疫力や体力などによって発症する人としない人が出る。大多数の人が発症しなければその人に取っては実害ではないし、免疫力が低下してて発症してしまった人にとっては実害になる。発症しなかった人が「熱が出るヤツは弱虫なんだよ、日頃鍛えてないからだバカたれ」と言ったら、やはりその人の認識は誤っていると言わざるを得なくなる。

 話を戻そう。福島原発の「原子炉建屋周辺のサブドレンから汚染された地下水をくみ上げ、浄化して海へ放出する」ことは、そのことによって実害を生む可能性があるのかないのか。そのことについて地元漁協の人たちはどう認識しているのか。

 「浄化されているのだから被害は出ない」と考えているのであれば、「風評被害につながる」という発言になるだろう。また「浄化されているということが信用ならないが、その程度では被害など出ない」と考えていたとしても、やはり「風評被害につながる」という発言でいい。しかし一方「浄化されているはずがないし大量の放射性物質が出ているに違いないので、被害が出るはず」と考えているのであれば、その認識で「風評被害」ということはあり得ない。それは「実害が出るぞ、すぐに放出を止めろ」という発言にならざるを得ない。あくまでロジックとしては。

 だから、東電の汚染水浄化後放出に対して、地元漁協は「実害は出ないレベル」と認識しているはずなのだ。だとしたら、そんな漁協関係者のことを信用は出来ないなあと思う。

 東電が「この汚染水は浄化されたので安全です」ということと、「浄化汚染水の放出は実害ではなく風評被害になる」ということは、基本的に同価値である。風評による被害というのは消費者が被る被害のことではなく、出荷する漁協が被る被害のことである。それは汚染水を放出しなければさまざまな問題が発生する東電自身の問題を回避するために住民の不安を無視してでも放出するという立場と基本的に変わらない。消費者としてはそういう業者側の思惑に唯々諾々と従っていては痛い目に遭うと思った方がいいのではないだろうか。

パパ1歳

 数日前から話題になっている動画がある。初めての子供が1歳の誕生日は、ママも1歳なのだからとパパが祝福するというヤツ。

 これはこれで普通に感動するのだけれども、でもなにか素直になれない。何故だ? カメラ割がしっかりしていて絶対にサプライズじゃないだろということは1つあるけども、そういうのは些末な話だ。

 まず、お父さん。こんなに事前に用意周到な準備ができるんだったら、日頃からちょっとは育児しろよという話。そもそも本当に忙しくて奥さんに家のこと任せっきりのお父さんは、1歳児検診の日取りも場所も絶対に知らない。知ってて仕事休みだったら付き添いするのが道理だろ。

 次に、ママがママ1歳で祝福されるのなら、パパもパパ1歳ということで祝福されるべきなんじゃないのか? そんなことを勝手に思ってて、結局は自分もイクメンとして頑張ってることを誰かに褒めてもらいたいということなのか。そんなことを奥さんに話したらちょっと鼻で笑われた。チクショ!

 でもまあ、保育園の送り迎えをしていることは、苦労なのではなくて楽しみでもある。それまでは家で息子と2人きりでずっといた奥さんが、いくつかの成長のシーンをまず目撃してて、ちょっと羨ましかった。それが今では保育園の行き帰りに僕の漕ぐ自転車のかごの中で、道行くバスに夢中だったり、消防署の前で毎日興奮している様子は僕しか知らない。そういうのを目撃出来ることは、お父さんとしてとても嬉しいことなのだ。年に1度ケーキを与えられて火を吹き消してということとは較べものにならない喜びだ。

 今週は月曜日に保育園で熱を出し、だから火曜日以降僕は1人で自転車を漕いでいる。その自由さときたら想像以上だ。13キロほどをかごに乗せていないので漕ぐのも楽だ。でも、楽しくない。嬉しくない。帰りがけに本屋に寄ったりも出来るんだけれど、寄りたくない。そういう自由とはまた違った何かを、育児によって教えてもらったような気がする。面白いことだ。これだから人生は面白い。

 あ、タイトルの「パパ1歳」というのはビデオのことです。僕自身はもうパパ、じゃない、お父さん2歳1ヶ月半でございます。

手足口病 その後

 息子が手足口病になって4日目。舌の表面に水疱が潰れたような痕があって、みてて切ない。特に薬はないって、医学界は何をやっとるのだと思うけれど、誰に毒づいても仕方がないので、とりあえずは自然治癒に任せて自宅で安静に。って、まったく安静になどしてないんですけど息子。家の中を走り回ってて、それなのに喉が痛いらしく、ゼリーと醤油せんべいミニしか食べないので、少しばかりスリムになってきた。醤油せんべいミニは日頃から大好きで、あまりに好きすぎるからなのか、喉が痛くても「食べゆ〜」と絶叫する。それ食えるならごはんも食べられるだろうに息子よ。でもまあ大好きなヨーグルトも食わない(ゼリーは食う)のだから、やはり痛いことは痛いのだろう。不憫であるぞよ。

 Facebookにこのことを書くと子育て経験のある人からは「お大事に〜」とコメントが。「懐かしい、うちもやった」と遠い過去形のお父さんも。僕のFacebookは基本英語で、「HFMD(Hand, Foot and Mouth Diseaseって、かなりそのまんま)」と書くのだが、みんなわかるんだろうね、面白い。以前キラキラで働いてくれてた韓国人女性はきちんとした日本語で「手足口病は食べられないから見てて辛いですよね」とコメントを寄せてきた。みんなそうなんだなとその時は思ったけれども、よく考えたらなんか元気だし、部屋を走り回ってるし、メシ食えないというより見た目には好き嫌いしてるだけにも見える、せんべい食いまくりなのだから…。

 そんな息子も4日目の夕食から食べ始めた。親が食ってるスパゲティがなんとも美味しそうだったらしい。「スパゲティ!スパゲティ!」と言い出すので与えたらこれが食う食う。そして食後の部屋走り回りも勢いが違う。良かった良かった。

 まだ病院に行って登園許可証をもらえてないので、明日も保育園はお休み。来週は福岡に帰省するのでずいぶん長い夏休みになるな息子よ。でもまあ幼稚園とやらはちゃんと夏休みあるらしいので、そんなに休みすぎってことでもないだろう。

 まあこれで、何かをひとつ乗り越えたって感じだ、子供も親も。まだ登園許可証もらってないから、乗り越えたというのは先走り過ぎなのかもしれないけど。

愛について

 こりゃまた壮大なテーマのタイトルにしてしまって、書く前から肩に力が入ってしまってたり…。

 ついさっきある人がツイートで「我がままを我慢して死ぬか、我がままを解放して死ぬか、どっちが良いか、みたいになったらやっぱり後者かなーとなる」と言っててなるほどと思った。確かにそうで、我がままを我慢してたらそれは結局自分ではなくなってしまうのであって、だから我慢し過ぎて自己崩壊して鬱になったり死んじゃったりする人ってとても多いのがこの日本。謙譲の美徳なんていう言葉もあって、若い時は一種の武士道みたいなものかと思ってたけど、今になって思えば美徳なんて言葉が怪しい。美徳とか名誉とかを誰かが言い始めたら、それはもうそういう言葉で他人を制御しようと企んでいると思った方がいいなと。

 でもまあ本当にみんながみんな我がままの限りを尽くしていたら社会なんて成立しないと思うわけで、じゃあ社会ってなんなのと考えると、結局のところは家族というところに落ち着くような気がする。自分の我がままを許してくれるのが奥さんなんだなんて考えていると、奥さんだって我がままを許してくれるのが旦那なんだと考えているかもしれないわけで、そこがぶつかってしまうと、もはや家庭は崩壊してしまう意外に道は無い。だから、どこかで我がままを抑えて相手のことを考えてみたいな。そんなことが、愛ってものじゃないのかなと、今は思うのである。

 それ以外の、会社とか社会とか、そういうところが「キミキミ、残業してくれたまえ、もちろんサービス残業だよ」なんか言ってくる場合には、無視して帰って、文句言われたらその足で労基署に行けばいいんじゃないかなって思う。そんなのが面倒だから早いうちに独立しているんだけれども。

 ブラックだと言われている会社が「うちには労使関係なんてない。家族なんだから」というのを見て吹いたが、会社なんて家族などではないよ。そんなところで愛だの何だの言い始めたら、「じゃあ僕の我がままをどのくらい受入れてくれるんですか」と聞いてみればいい。ほとんどのところがまず部下の我がままなんて聞いてくれやしない。そのくせ企業の我がままは平気で押し付ける。

 何の話だったかな?愛?そんな大それたこと、息子が昼寝してる間に書き終えられるはずもなかろうて。それにそんな大それたことを、僕ごときが正しく理解出来ているはずもなかろうて。

69回目の夏

 今日は雨が降っているそうだ。そしてあの場所が今日雨なのは71年ぶりということだ。

 8月6日は広島に原爆が投下された日。毎年飽きることなく慰霊の式典が行われる。頑に出席をしてこなかったアメリカ政府関係者も数年前から駐日大使が出席するようになった。実際に原爆や戦争を体験してきた犠牲者が次々と亡くなっていて、記憶が風化しつつあって、それは同時にアメリカ側にも加害者意識が薄れてきたということの現れなのかもしれないと個人的には感じている。

 体験者が語る戦争の悲惨さ。そこにはリアリティが確かにあるのだが、じゃあそれを聞かされてきた自分たちはどうなんだとちょっとだけ思っている。昨今の右傾化。それは戦争体験が風化するのと同時に顕在化してきたようだ。右翼的なことを言うと叱ってくれたじいさんばあさんがいなくなったからなのか、喉元過ぎれば熱さ忘れるのか、じゃあ結局染み込んでないじゃんって気もするが、今は2世代前の語り部よりも、今現実に起こっている戦場からの映像がSNS経由で流れてきて目に飛び込む。それさえも次々と新たな話題に塗り替えられ、脳の表層で定着する前に書き換えられてしまう印象。悲惨な事件は戦争だけではなく次々と起こるのだから。

 ガザでの悲惨な光景を見ると、別に核でなくとも悲惨じゃないかと思わずにいられない。核は抑止につながるとよく言われる。だが、核を使わなければ誰もその行為を抑止することは出来ない。そのことを現在進行形の現実が証明しているように思われる。イスラエルもそのことがわかっているから、核など使わないのだろう。通常兵器で十分。それも結構怖い話だ。

 理研の科学者が自殺した件で、ずっと続いていたSTAP批判はちょっと止んだように思う。さすがに死者に鞭打つのは躊躇われるのだろう。つい先日放送されたNHKの検証(?)番組はSNSではなまぬるい的な評価が多かった。だが今から思うと当事者には十分過ぎる打撃だったのかもしれない。学校でのイジメがイジめられっこの死によってしか顕在化せず、止まらないのにも似たような何かを感じる。そして戦争の規模になれば誰かの死くらいでは止められず、やはり核を使うくらいのところに行き着くしか無いのかという懸念を持たざるを得ない。

 人間の英知ってなんだろう。そもそも英知なんて無いんじゃないのかと最近は思う。民主主義は絶対に正しいと思っていて、でもその主権者である人間に英知がないのであれば、民主主義が絶対に正しいのはいったい何故なんだろうと疑問はさらに深まる。ネタニヤフを首相にしたのは選挙だし、ハマスを政党として力を持たせたのも選挙。ヒトラーに権力を与えたのも選挙なら、安倍晋三が総理大臣である所以も選挙。民主主義は必ずしも英知に支えられてはいないという印象が、最近特に増大しつつある、自分の中で。

 では民主主義でなく君主制にすればいいのかというと、君主が必ず有能で慈愛に満ちた人になるという保証などまったく無くて、じゃあやっぱりどんな選び方、体制であろうと、人間に英知がない限り結局無駄じゃんという結論になる。アホらしすぎる。

 まあそんなことを考え続けても日々の暮らしが楽になるわけでもなく、仕事をしなきゃいかん時間なのです。広島の原爆の日は69回目ということ。69年前が雨なら落とされなかったかもしれないけど、その時はまた別のどこかに落ちていたのだろう。止めるのは、やはり天候ではなくて人間なのだ。今日広島に集って祈りを捧げてる人たち(政治家)は、英知のすべてを結集し、まずはガザの戦いを沈静化させるのに奔走してくれなきゃ、その祈りは嘘ってことになるのではと、思ったりしています。

手足口病

 息子を保育園に送り届けてから職場に行き、仕事を2つ3つ片付けてからさあこれから、先にお弁当食べちゃおうかなあと思っていたところで携帯電話が鳴る。保育園からだ。息子が食欲がなく、熱を測ったら8度5分あるのでお迎えにきて欲しいと。はい、そうします。後片付けをして、自転車に乗る。

 園に着いたら息子元気そうで、でもやはり熱はある様子。園の先生が、手足口病が最近はやっているからと言いながら、息子の足先を見て、あ、あるねえと。僕のような素人では見落としてしまうくらいの水泡がいくつか見えた。

 かかりつけの小児科の診察券を見ると診療時間は12時までと、午後は4時半から。スマホの画面には12時6分の文字。これは一度家に連れ帰って、何か食べさせて昼寝をさせて、起きてからまた何かを食べさせて、小児科だなと頭の中でシュミレーションを組み立てる。

 一連の予定を見事に執り行って昼寝をさせた歴戦のイクメン。パソコンを開いて手足口病をググる。すると、手足口病に効く薬は無い。自然治癒に任せると。だったら小児科に連れて行ってもどうしようもないのではないか。身体が疲れているところをわざわざ外出させるプラスの意味はどこにあるのか。そう考えて、一つの結論に達した。いやいや、絶対に行かねばならない。行くべきだと。なぜなら、保育園に再び通うためには医者の登園許可書が必要なのだ。だからいつかは行かなければならない。だったら、今だろ。後から連れて行って「なんで連れてくるの遅かったの」と問いつめられても困るし。

 そんなこんなで小児科へ自転車で。ググって判ってた通り手足口病の薬は無いと。でも熱が出ているので解熱系かなにかの薬をいただく。たしかに熱があると辛いよなあ。それだけでも小児科に行ってよかった。それに、治るまでどのくらいかかるのかや、治るまでの過ごし方などのアドバイスをもらえた。イクメン度もレベルアップしたよ。

 痛いのか不安なのかそれとも診察が怖かったのか、お会計を待つ間にロビーでワンワン泣く息子。なだめようと「帰りにおせんべい買ってあげるからね」と声をかけるとなんか納得。そこにカウンターにいた看護婦さんが「おせんべいは口の中痛いかもよ、ゼリーとかヨーグルトの方がいいかもよ」と息子に声をかけてくれたのだが、それを聞いた息子、激しく泣き出して「ゼリーイヤ!せんべい、せんべい」と絶叫するものだから、看護婦さんも「そうね、せんべいがいいね、せんべいせんべい」と笑いながら謝ってた。小指の先ほども無い大きさのサラダせんべいをお皿に入れてもらって食べるのが最近大好きな息子。しかしこの2日ほどせんべいが切れていて、おやつの度に「せんべい、食べたい」とだだをこねていた。そのせんべいを買ってもらえると言質を取ったというのに余計なこと言うなよってことだったのかもしれない。「せんべい買うから、せんべい買うから」と何度も確認して泣き止んでもらい、自転車に乗って帰宅した。

 せんべいは買ったものの、残っていたスイカを食べ、おかあさんに甘え、いつもより早い時間にそのまま眠ってしまった。手足口病、早く治るといいなあ。

恐怖の押しつけ

 昨日が土用の丑の日。テレビでは鰻を食う人の姿と、絶滅危惧種と言われ始めたことが交互に報じられていた。錦市場に行けば鰻よりも鱧の方が圧倒的に安く売られていることが判るし、それが判ればなぜ鱧より鰻なのかと、京都大好きな僕は首を傾げずにはいられなくなる。ええ、鰻も好きですけど。名古屋のいば昇のひつまぶしはいつだって食べたいメニューの筆頭格。

 鰻といい、鯨といい、日本人が好んで食す文化が他国から批判される。可哀想だとか、絶滅危惧種だからヤメレとか。鮪は寿司ブームが世界に広まり、景気の良くなった中国の人がこぞって食べまくって、まあ10億人が食い始めたらそりゃあ資源は尽きるよなあと思いつつも、その結果鮪の国際取引がずいぶんと窮屈になっているとか。以前は食べなかったくせに資源が尽きるほど急に食い始めるなよと非難したくもなるが、じゃあラーメンはどうなんだ、日本人はラーメン食うな指令が中国の人から言われたら従えるのかと言われれば、まったくそんな自信はありません。日本のラーメンは中国のラーメンとは違うぞとか言う声も聞こえてきそうだが、それはまた別の話で。

 昨日まで問題なかったことが突然「絶滅」って言われ始めると、なんだか自分の常識を否定されるようなインパクトを受ける。鰻が絶滅って、そんなバカな。スーパーに沢山並んでるじゃないか。コンビニの弁当にも並んでるし、あれ時間が来たら廃棄なんでしょと思っちゃう。絶滅する魚をコンビニ弁当でたくさん廃棄って理解出来ないから、だから絶滅って説自体がデマに違いないと、逆説的な自己中論理を繰り返す。でも空が朱鷺色に染まってたなんて悠長な時代には、まさか朱鷺が絶滅に瀕して佐渡島に保護センターが出来るなんて誰も思ってなかったのだろうし。ハンコを作るために象ハンターは「だってアフリカ大陸デカいんだよ、ちょっと殺したっていなくなるもんか」と主張したはず。

 絶滅と言われると、やはりそれは一種の恐怖であって、絶滅危惧種という宣言は脅しであり、ショック療法なのだろうと思う。それで「今年はもう食わない」って言ってる人もTwitterではたくさん見かけたし。しかし一方で「絶滅しないように鰻には頑張って欲しい」って言いながら鰻食ってる人もいて、鰻はなにを頑張ればいいんだろうと不謹慎にも笑っちゃった。

 鰻の話を書きたいんじゃなかった、そういえば。

 facebookのフレンドでコメントを寄せ合う友人がいて、イスラエルに住んでいる。日本ではガザが攻撃されて1000人以上の死者が出ているとか、子供も多数死んでしまっているとか、もちろんそれは悲劇だし、なんとか平和にならないものかと願っちゃうのだが、そのガザのパレスチナ人たちの途方に暮れるニュースが単純にイスラエルへの非難に向かってしまうのは脊髄反射的なものだろうと思う。ネタニヤフはちょっと悪いと思う。だが政治家というのは数パーセントの自分の価値観と、投票権を持つ人たちのある意味過激な声に支配される生き物で、選挙の無い独裁国家でもなければそうそう自分の勝手も出来るわけではない。イスラエルという地域的な背景も考慮すべきだし、あの場所にイスラエル人が向かった歴史的背景も知っておくべきだろう。で、投票権のある人たちの声がネタニヤフの行動を後押ししているのかというと、イスラエルの市民たちが極悪人という結論に至りそうだが、そうでもないような気がしている。

 件のイスラエル人facebookフレンドはこのところロケット砲警戒サイレンに悩まされているそうだ。昨日も「the time is 2:30 AM and there is an alarm.」とポストしていた。想像してみよう。午前2時半にアラームが鳴ることを。それは自分がセットし間違えた携帯のアラームが鳴るのではなく、隣の家の赤ちゃんが深夜に夜泣きするのでもない。そのアラームはハマスが撃ち込んだロケット弾がこちらに向かって飛んできているということを知らせる警報なのだ。場合によっては自分たちの命にも関わる。たとえこれまでイスラエルの民間人に死者は出ていないとしても、明日誰かが死ぬかもしれず、それが自分になる可能性だって完全には否定出来ないのだ。だとしたら、そういうサイレンが鳴ることで睡眠不足に陥ることは想像に難くない。そして睡眠不足は人間の正常な判断を徐々に失わせていく。

 僕は思うのだ。ロケット弾の警報サイレンは必要以上に鳴らされているのではないかと。そのことで恐怖心を植え付け、ガザ許すまじ、ハマス許すまじ、パレスチナ許すまじというムードが生まれるわけで、戦争遂行を支持する世論が生まれていく。当然、ガザでの爆撃による子供たちの死亡ニュースはイスラエル国内ではそれほど流されていないのだろう。

 日本が中国韓国に対して嫌いですムードを徐々に増しているのも、そういうことはあるように思う。政治も報道も自分たちの都合で世論を変えていくことが得意だ。先日北朝鮮が日本海にミサイルを発射したらしく、その後の官房長官の会見では「これはたいした問題ではない」と言い切っていてすごく笑った。拉致問題解決が至上命題になっている日本政府だからたいした問題ではないと言いたいのだろうが、半年前なら「許されざる暴挙」と言ってたと思うし、そもそも発射する前から衛星写真ではミサイルが発射台に運ばれているなどと報じて危機感を煽り、撃ち込まれたら迎撃すると、迎撃ミサイルを適切な自衛隊基地に配備したりしていた。ワイドショーも朝から「これから発射される予定です、皆さん警報には気をつけて」などとやっていた。それなのに、拉致問題を話しはじめると「北のミサイルの数発など問題ではない」になっていく。国内政治のために、同じ事象に対して危険か安全かの判断を変えるというのはなんら科学的ではないと思うのだが、そういえば放射能についても311の前と後で危険性の評価が180度に近い勢いで変わってしまったし、政治というのはいつも科学の上位にある判断基準なのらしい。

 だから、専門家などという立場の人が「恐怖しなさい」的なことを言ったり、「安心ですよ」と言ったりする時は、一歩退いて自分の頭で考えた方がいいと思う。そうしないと、ある瞬間に「危険ですから」と押し切られて危うい方向に導かれてしまうし、それどころか自ら危うい方向に他人を導いていくようにもなっていく。後から考えて「ああ、バカなことをしてしまった」と後悔したくなければ、そうしていく以外にないと思う。

 さあ、土用の丑の日の翌日。12月25日の売れ残りケーキのような感じで、安い鰻はどこぞに売ってたりしないのかな?