40代

あと1時間程で50歳になる。それは単なる時間の経過と新しい日への移り変わりでしかないのだが、やはり誕生日というのはなにかしら非日常だし、それが10年ごとの節目ともなると感慨も大きい。

さて、僕の40代とは如何なるものだったのだろうか?まあ簡単に言うと、独身から結婚へ、東京都民から京都府民へ、そして父親へという変化の10年だった。人生観が変わる程の変化だったかもしれない。細かなことを言い始めたら終わらなくなるし、そんなことをしてて40代のうちにアップ出来なければマヌケなのでこの辺にしておく。苦しいことも幾つかあったが、総合的に判断して、僕は幸せな10年を送ることができたと思っている。

ありがとう40代。そして家族と友人。50歳に突入し、ますます人生を楽しんでいきたい。

つながり

 Appleが発表会をしたらしく、iPhoneが6になるそうな。で、ちょっと大きなサイズのも出るそうな。さらには時計も出すそうな。

 つまらん。何の興味も無い。

 で、その発表を記念してなのかプロモーションの一環なのか、U2の新アルバムが無料でダウンロード出来るそうな。これ、結構カチンときた。カチンとくるって一体何に?いろいろあるけど、なによりも「U2無料だってよヒャッホ〜!」っていってる人たちに対してだ。

 そんなにみんなU2のこと好きだったのか?無料だからダウンロードする?じゃあ無料じゃなかったら聴こうともしないのか?そりゃそうだろう。みんな無料が好きだもの。これがなによりつまらない。

 無料だから手にするのって、ある意味無料という条件で自分の時間を手放しているようなものだ。これがエスカレートすると捨てられないゴミ屋敷の住人になってしまうのではないだろうか。いやいや、ダウンロードだから曲はクラウドでゴミ屋敷にはならないよと言う人もいるだろう。そうではない。物理的なゴミ屋敷になどならずとも、心の中にゴミ屋敷を作ってしまうという意味なのだ。

 音楽がどんどんと無料になっていく。YouTubeで聴けばそれで終わり。まあいいだろう。来る来ると言われているSpotifyなどストリーミングサービスもいいだろう。だがそれで人は満足するのだろうか。CDを買うよりも物理的にはモノが溜まらない。だがそれは同時に心に貯めていくべき何かも貯めずにいるという状況なのではないかと思っているのだ。

 昔CDをパソコンでコピー出来るようになり、レンタルで借りては焼いたりしていたことがある。得した気分になった。だが、そうやってコピーしたCD-Rはまず聴かない。聴かずに終わる。それは「タダでコピー出来る」ことが嬉しかっただけで、本当に必要ではないデータをコピーしたに過ぎなかった。だからそれ以降僕はCDをレンタルで借りてコピーすることは無くなった。借りて聴いて、良かったら買う。買う程でもない音楽は、僕の人生には不要なのだ。

 最近はレンタルすることも無くなり(レンタル屋にさえ置いてないCDが増えたし、僕の行動範囲にTSUTAYAが無くなったのも大きい)、YouTubeで引っ掛かって聴いたもので、本当に買いたいものを買ったりしている。それにしたってそもそもCDが売ってないことも最近は多いのだが。

 で、無名インディーズの人ならCDが売ってないのもわからないではない。だが、U2だろう。僕がファンならどうだったのだろうか。多分CDが出るまで待っただろう。タダだからダウンロードするというのにはどうしても抵抗がある。というか、そこでダウンロードしたら、きっとファンなのに聴かなくなるだろうと思うのだ。この感覚は大多数では無いと思う。でも、そういうファンこそアーチストは大事にしなければならないのではないかと強く思う。そういう人たちの「買ってでも聴く」という熱意を、U2は奪ったのではないかと僕は思っている。

 アーチストは誰を見て行動すべきなのか。それはお金を持っているスポンサーでも、業界の動きを熟知している業界人でもなく、やはりCDやチケットを購入してくれるリスナーだろう。それを見失うと、ファンは離れていくし、結果として創作物がファンのためになってはいかないだろうと思う。

 もちろん最近のCD離れは深刻なものがあるし、そういう中でもアーチストは生きていかなければならない。だから、CDリリースよりもプロモーションで大量ダウンロードに対してお金を払ってくれるApple社からのオファーに傾く気持ちも解らないではない。つまりはそういうことなのだ。タダだからキャッホーな人が増えていき、毎月定額で聴き放題キャッホーな人が普通になっていくと、アーチストは当然のようにプロモーションでお金をくれる企業に向かざるを得なくなる。そういう意味でも、自分のことを向いていて欲しい音楽ファンは、CDなりダウンロードなりチケットなりに、ちゃんとお金を出していくべきなのだろう。

重力

 人間には羽根が無いから重力からは逃げられぬ。逃げられぬのですよ。

 そう思った瞬間に進化も努力も失われる。で、そんなんアカンと誰かが頑張って抵抗する。結果として飛行機が開発され、ロケットが開発されて、地上に縛られるという状況は脱することが出来たが、そのロケットによって地球の重力から離れてみたとき、実は重力というものにこの身体自体が依存していたということを知る。この滑稽な事実よ。

 孫悟空は觔斗雲に乗って遥か遠くの世界に行ってしまった。はずだったのにまだまだお釈迦様の掌の上だった。お釈迦様ってどんだけ大きな手なんじゃい。そう毒づくのは勝手だが、いくら毒づいたところでそこがお釈迦様の掌の上であることには変わりがなく、そうじゃないと思いたくて思い込んで妄想の中に生きるという選択をしてみるものの、それでもやっぱり掌の上。

 歴史は人が刻んできたもので、事実である以上変えることは不可能。でも、歴史がすべての出来事を詳細に漏らさず書き残すことが不可能であるが故に、何を残し何を書き残さずにいるのかという選択が既に恣意。誰かの恣意で刻まれた歴史は、後世の誰かによってまた恣意的に上書きされる。今僕らが目にしている現実というのはまさにそういう状況なのだろう。後世の誰かが書き換えた歴史はまたその先の子孫の誰かが恣意的に書き換える。事実って一体何だよって話だが、人間が処理出来る情報に限りがある以上、歴史は完璧な事実にはなり得ない。それを僕らはせっせと学んで年号くらいはいくつか覚えてみたりする。

 ビッグデータというものを処理することによって新しい何かを見ようとする試みは、おそらくいつまで経っても限りなく真実に近い嘘を見るだけのことになりそうだ。真実とは、どこにも存在しないのであって、じゃあケンケンガクガクと議論を戦わせても無駄に終わる。そう思って早々に議論から撤退したからといって、真実が見えるようになるわけではなく、結局は自分が見たい理想を真実と思い込んだ妄想の世界に生きることになる。

 さて、幸せとはなんだろうか。そんな問いに答えはあるのだろうか。国が危ないと予測し得る状態になって、じゃあ他国に安住の地を求めて彷徨うことに、本当の意味はあるのだろうか。国という重力から解放された時に、人は初めて国にどれだけ依存していたのかを知ることになるのではないだろうか。

 ただ、安心して日々を過ごしたいだけなのに、そんな単純なことが思いのほか難題で、誰もがやはり地面から1mmも逃げることなど叶わないようにも思えてくる。そして自由に空を飛ぶ鳥たちを、とりたてて幸せだとも思えぬのだ。

愛情リレー

 いやあ、今朝はしんどかった。

 保育園に出かける僕と息子。出かける前にお母さんが食べていたパンを欲しがり「パン食べる」と言ったのであげてみたら一切食べず。で、出かける時に「靴はどっちを履く?」と聞くと「オレンジくつ」と言うのでオレンジの靴を履かせて出発。いつもは前のかごに乗って行くのだが、この2日ほどは帰宅時に後ろのシートに乗るというので乗せていて、今朝も後ろがいいと言うので後ろに座らせた。

 でも自転車を動かし始めたところで「パン食べる〜」とグズグズ言い出す。仕方ないので奥さんに電話してパンを持ってきてもらおうとしてたが、電話に出なかったので諦める。電話してるうちにパンのことは忘れたみたいでなんとなく出発できた。だがしばらく行くとまたパンパンと言い出す。もうそれは無視して自転車を進めていると、今度は「青くつ〜!」と泣き出す。そこで言われても正直困る。なので「オレンジくつって言ったのは○○ちゃんじゃないか〜。お父さんはどっちがいいのか聞いたで。それで○○ちゃんがオレンジくつっていったんだよ。だから今日はオレンジくつ履いてきたんじゃんか〜」と言うものの、まあそんな理屈が通用する状況ではない。そのうちにかごの外にくつを出して身体を歪めたりしてたので、とりあえずオレンジ靴を目の前から無くそうとして、脱がせて僕のカバンに仕舞って再度出発。

 息子泣きながらもしばらく進んで、あと少しというところで「自転車、降りる」と言い出す。そこでシートベルトを外したらもう乗ってくれないだろうなということは判ってたけど、無視するのは良くないと思ったので、停めて抱っこした。足には靴下しか履いてないから地面に降ろして歩かせるわけにもいかず、保育園までバス停1個半ほどの距離を歩くことにした。そうするとなんとなく泣きもおさまり、「また自転車を取りに戻らなきゃいけないけど、それでもこの方が早いしスムーズだし、息子の気も収まるかな」と13.4kgを抱えて黙々と歩く。

 保育園まであとちょっとというところで、今度は息子「自転車乗る〜!自転車〜!」と言い出して泣き叫ぶ。オイオイそれはさすがに無いだろう。無視するのはさすがにアレなのでいろいろと声をかけながら残りの距離を歩く。抱きついてくれている13.4kgと、泣いて叫んで降りようとする13.4kgの重さはまるで違う。やれやれやれやれだ。暑さも一段落した京都の街で僕1人汗を噴き出しながら歩いている。まあ息子は息子で涙とよだれを吹き出しているわけだが。

 先日友人がfacebookで父親が倒れて田舎に戻ることを投稿していた。幸いにして息を吹き返し血圧も安定して手術になって、今では意識も戻ったということで僕も安堵したが、そんな彼に意識が戻った父親は「お前何してんだ?仕事しなきゃダメだろ」と。まあまあそんなこと言うなよという話だが、親としては自分のことより子供のこと。それは親になって初めてわかる。親がボロボロになってでも、子供がちゃんとすることを望む。「ちゃんと」の意味は人によって様々だろうが。

 その友人は最初の投稿で「オヤジ死ぬな。まだ教えてもらわなきゃいけないことが山ほど残ってるんだ」と言っていた。でも意識が戻った父親の言葉に従って故郷を離れ、すぐに仕事に復帰している。

 僕はこう思うのだ。20年前に死んでしまった父親がもしも1ヶ月限定で生き返るのだとしたら、明日から、いや今日から帰郷して1ヶ月は仕事もしない。それほど余裕のある暮らしではないけど、経済的余裕や困窮とは関係のないレベルで帰郷を選択する。もちろんそれはもう叶わないことだが、友人はある意味父親が生き返ったも同然なわけで、だったら少しの間有給を取りまくってでも故郷にいたらどうだと勝手に思うが、まあそれも他人がどうこう言う話ではない。

 自分が今あるのは、大なり小なり親のおかげである。いなけりゃそもそも生まれていない。この恩は返しようがないと思っている。仮に経済的に大成功をして豪奢な暮らしを親に与えることが出来たとして、それで返せる恩なのかというとそれも違うと思う。たいした成功も無く苦しい家計であっても、親に何かを返すより、自分の子供に何かを出来れば、それが結果的に何かを返したと同じことになるのではないだろうか。リレーでバトンを渡すような感じの、連帯感のような何か。

 今朝の顛末を奥さんにメールしたら「お疲れさまです。でも本読んだら、「泣き叫んだりイヤイヤして困らせる子こそ良い子」って書いてあった。主張や表現ができる証拠だそう。小さい頃におさえつけて我慢させると、将来何も考えられない、できない子になっちゃう傾向があるそう。」と返事。うんまあそれも解ってるつもりだし、だから途中で自転車何回も停めるし、抱っこして歩いたりしてみるし。泣いてるけど、騒いでるけど、なんとなく伝わってるんじゃないかなって、そう思う。育児書にもいろいろあるし、どれが正解かなんて判る訳もなくて、だから自分なりに「息子はどう思ってるかな、どう感じてるかな、なんでこんなこと言ってるのかな」と考えながら、愚かながらも精一杯のことをやってみようと。そうやって悩んでひとつひとつ頑張ってみることで、親が自分にしてくれたことをちょっとだけ解ったつもりになるし、それが恩をちょっとずつ返していることになるんじゃないかと。

 そういえば昨日保育園から帰ってくる時、息子はずっと「青くつ、青くつ」とつぶやき続けてたんだった。それに僕は「そうだね、青くつ明日は履こうね」と言い返してたんだった。朝にオレンジくつと言ったことがすべてじゃなかった。来週からは靴を2足持って行こうと決意しましたよ僕。親の荷物はどんどん増えていくよ。

ヒトデを投げる人

 「ある時浜辺に大量のヒトデが打ち上げられた。少女はヒトデを1つずつ海に投げ返し始めた。それを見ていた老人は「そんなことは無駄だ。何の解決にもなりやしない」と言った。しかし少女は言った。「でもこのヒトデを済うことは出来たわ」と。」

 BS世界のドキュメンタリーで放送されていた「The Starfish Throwers」を観た。自分で野菜を育ててホームレスの人たちに食べてもらう活動を始めた少女ケイティと、ホームレスにサンドイッチを配るために夜回りを何十年も続けるおじさんアラン・ローと、インドでホームレスに食事を与え続ける男クリシュナンの物語。

 ケイティは学校でキャベツを育てた経験から野菜作りが好きになり、それを貧しい人に食べてもらいたいという純粋な気持ちからその活動を始める。活動の輪はどんどん広がり、多くの助成金や寄付も集まり、クリントン財団賞(名称はちょっと違うかも)を最年少で受賞する。

 アランローは教師を退職後、サンドイッチを配るために夜回りを始める。強盗に襲われても怯まない。進行性のガンが発覚し手術することになっても、心配するのは「もし自分に万一のことがあったら、誰がサンドイッチを配るのだろう」ということだけ。手術後も退院前に抜け出して夜の街に向かう。

 クリシュナンは街で自分の排泄物を食べているホームレスを見て車を停め、持っていた食事を差し出した。その瞬間に自分の天命を知り、即刻勤務先のホテルに辞表を提出。最初は「インドカースト制度最高位であるバラモン階級の人間がホームレスと触れあうなんて」と家族に反対されたものの活動を続行。今や両親が「あの子の活動は尊い。あの子が貧しい人に食事を食べさせるなら、私たちがあの子に食事を食べさせる」と完全協力体制。

 このドキュメンタリー、詳しくは見てもらえればと思うが、人が何のために生きているのかを考えさせられる。この登場人物たちは食うために生きてはいない。だが、食うことを生きることの最大重要事項と考えている。人は食うために生きるに非ずという言葉の虚しさ。哲学として人生訓としてそれは有効だが、そういうことを言葉で語っている限り、虚しさを覚えるばかり。

 特に興味深かった点をひとつ。クリシュナンはホームレスたちが髪を伸ばし放題にしていることに気付く。これを切ってやろうと。そうすることで人間らしさを取り戻せるのではないかと。そこで理容師たちを雇って路上に切りにいくのだが、ホームレスたちは激しく抵抗する。見知らぬ人がハサミを持って近寄ってくるのが怖いらしい。そこでクリシュナンは6ヶ月間散髪の技術を学びにいくのだ。いつも食事を与えにきてくれるクリシュナンが切るのであれば恐れることも無いだろうと。それは見事に成功。ホームレスたちはおとなしく髪を切ってもらう。サッパリとした顔立ちに新しいきれいなシャツを着れば、そこにはもうホームレスのみすぼらしい姿は無い。散髪後のホームレスとクリシュナンが一緒にコーヒーを飲んでいる姿はとても印象的だ。だがそれ以上に驚いたのは、6ヶ月散髪を学んだクリシュナンが手にしているのは、普通の文房具のハサミである。日本の美容師たちが持っているような専門的なハサミではなく、どこにでもある安っちいハサミ。手段も道具も、目的の前にはさほど重要ではないのかもしれない。とにかく驚いた。

 ケイティのところには嫌がらせメールも多く届くという。補助金が出たことを知ると「子供に補助金を使わせるのは愚か。賢い大人に預けて運用させるべき」と。余計なお世話だ。ケイティはまったく怯まない。その強さはすごいなと思う。ネットでちょっと匿名アカウントに文句言われるくらいで怯えてTwitterもブログもやめてしまう人が多数という時代だが、信念を持った人は子供でも強いのだなと感じた。

 彼らの活動は最初は1人。でもやっているうちに多くの人たちが心を動かされ、参加したいとやってくるという。善意の拡散だ。善意の再生産だ。個人が出来ることなんて限られている。1人で全世界の不幸を取り除くことなんて出来やしない。だがその1人で出来ることをやる以外にスタート地点はなく、その思いが強ければ、善意の和が広がり、やれることも少しずつ大きくなっていく。そんな当たり前のことを見せつけられたようで衝撃的だった。何の努力もせず、何の価値も無いことを「拡散希望」ってツイートするだけで和が広がることなどはない。やれることを強い信念で黙々とやることが、周囲の人を動かしていくのだろう。

 「再びヒトデが打ち上げられた。少女はまたヒトデを1つずつ海に投げ返し始めた。それを見ていた老人は「そんなことは無駄だ。何の解決にもなりやしない」と言った。しかし少女は言った。「でもこのヒトデを済うことは出来たわ」と。翌日老人は浜にやってきた。300人の人を連れて。そして300人がヒトデを海に投げ返し始めた。少女の気持ちは広がっていった。」

高校野球

 僕が出た高校はラグビーが強い高校だ。同級生からは早稲田大学ラグビー部のレギュラーを2人も出している。しかし最近は福岡でラグビーというと東福岡高校だ。全国制覇するようなチームで、もはや母校が太刀打ち出来ないようなモンスターラグビー部といっていい。

 だが、この夏の九州大会で東福岡と対戦し、撃破する。おお、すごいと同級生OBの間で多いに盛上がった。もちろんラグビーの全国大会というのは年末年始の花園だ。だから夏の大会で勝ったところでどうなんだということなのかもしれないが、それでも盛上がったのだ。高校のスポーツとはそういうものだろう。

 で、今日甲子園では決勝戦。三重高校vs大阪桐蔭。三重高校は奥さんの出身校で、普段母校のことなどまったく思い出しもせず、さらにはスポーツにほとんど関心のない奥さんまでがさすがに盛上がりつつある。もしも僕の出身校が甲子園に出場でもしたら、別に決勝戦でなくとも1回戦だって大興奮、決勝に出てればまず甲子園まで行っているはずで、その感覚で考えればもうちょっと盛上がってもいいんじゃないかと思うのだが、まあ日曜の準決勝で勝った後の校歌を口ずさんでいただけで、奥さんとしてはかなり盛上がっているのだろう、多分。

 今、速報では1回の表裏を終わって0対0。こんな暑い夏のデーゲームで、両チームともエースが連投していて、なんで中2日くらい空けられないんだとすごく思う。可哀想だぞその消耗戦。だが応援する学校側の予算なんかの切実な事情もあるんだろうなあ。甲子園をそんなにずっと押さえられないとかも含めて。

 そんなことを書いているうちに三重高校が2点を先制したぞ。頑張れ頑張れ!

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 結局、4対3で破れました。でも強豪桐蔭にヒット数も上回り、かなりの接戦の好ゲーム。にわかのファンだったけど、楽しかった。

最近の話題2つ

 アイスバケツチャレンジというのが流行ってる。でも、アレ僕は好きじゃない。

 チェーンメールっぽいとか、Twitterではいろいろと書いて、で、直接的間接的に「ああいうお祭り騒ぎにしないと関心は集まらないんだよ。目的はALSへの関心を持ってもらうことなんだから、関心集めたら勝ちなんだよボケ」と非難された。うん、そうなんだよ、そうやって「勝ち」とか「ボケ」とか言ってくることと僕の嫌悪感は直結してるんだよ。と言いたい。

 この感覚は311直後の「絆」と基本は同じなのだと思う。どんなことに対してもいろいろな意見があるのは当たり前で、同時にひとつの行動や現象には様々な要因が絡んでいるというのも常識。なのに現象のひとつの側面だけを美談でコーティングして「賛同しないヤツはボケ」という圧力が発生することがままある。それが今回のアイスバケツチャレンジにもあったし、絆騒動もそうだったし、「一億火の玉」という70年程前のスローガンにも似ている。

 ALSの関心が高まることはそれはいいのだ。うん、高まって欲しい。だがそのために手法に違和感を持つ人もその違和感を口に出せない感じの動きになっていて、それが「指名」ということによって「お前、拒否するのか、人道的じゃないボケだな」的な圧力を生み出していることがとても気持ち悪いのである。

 ここに来て「オレは氷水かぶらずに寄付するぞボケ」という芸能人がチラホラ現れて微笑ましいが、まだ足りないと思っている。「オレはALSに関心を持った。だから氷水もかぶらないし、寄付もしないぞ。関心を高めることが目的なんだろうボケ」と言い出す人が出てきて初めて公平な社会になるんじゃないかって、そう思っている。

 幸か不幸か僕には指名が来ないし、来てそう宣言したところでなんの影響もない普通人なので、虚しく空に響くだけだろうが。

 橋本聖子のキス問題。まあええ歳のオバはんが何をトチ狂ってるんだと正直思うし、もしかして海外遠征が多くて西洋人的な感覚を橋本聖子も高橋大輔も持っていたのかもしれない。チューは普通の挨拶だろうがと。

 でもやはりあれはセクハラだろうと思う。そしてそれを業界のトップが下々に行なってもOKという雰囲気を醸し出すことが、波及的にセクハラを助長するということを理解しておかないと、トップとして、そして選良としてはやはり問題なのだろう。

 9月の組閣で橋本聖子の入閣も噂されていた。女性を活用でSHINEの安倍内閣の内閣改造なのだもの。そりゃあ数少ない女性議員でベテランとなってくるとさらに少ないわけで、橋本聖子の入閣も当然検討の範囲内だろう。それに誰が嫉妬したのか、この件はその筋からのリークということらしく、さもありなんと思った。結果的に本当の意味で「SHINE」が「死ね」になってしまった瞬間でもあったと言えよう。男の嫉妬なのか、それとも女の嫉妬なのか。よく判らんが、人の上に立とうとする者、日頃から襟を正しておかなければならないということの好例なのだろう。李下に冠を正さず、瓜田に靴を納れず。まあそんな議員は珍しいくらいなので、その点ではちょっとだけ橋本聖子可哀想だなとも思うが。

 
 もう先月のことになるが、白石一文という直木賞作家の『翼』が文庫で発売された。これは新しい出版社「株式会社鉄筆」からの初出版となる書籍である。

 この鉄筆という会社は僕の高校時代の友人が立ち上げたもので、いってみればインディーズのようなもの。大手出版社を辞めて出版社を立ち上げるというのは、この出版不況といわれているご時世に勇気があるというかドンキホーテ的というか、ともかくチャレンジャーだ。僕自身インディーズレーベルをやっていて、とても共感するし、応援したい。それで京都の書店を回って2冊予約して購入。この「予約」というのが、店員さんに印象を与えるという意味で大きく、ただ発売後に買う以上に効果があると思っているからだ。2冊の予約がどれだけ大きいのかはわからないが、出来る精一杯の応援の気持ちで。

 そしたら結構売れているようで、初版5万部がすぐに無くなり重版重版で現在7万部。定価600円税抜きの本なので、7万部刷って売れれば4200万円が動くことになって、もちろん全部会社の利益になるわけではないが、商売としては結構な成功だといえるだろう。だが、印刷した代金は割とすぐ支払わないといけないだろうし、印税だって1割として420万円だ。設立からこれまでのオフィス代なども既にかかってきていて、書籍の取次から支払われる売上代金が入ってくるのは結構先になるはずで、そういう意味では最終的に黒字になるとしても、当面の資金繰りなどでは苦労しているだろうなとか、余計な心配をしてしまったり。

 最初のこの本ではプロモーションもずいぶん前から練られていて、だから良い感じになっているけれども、次の作品で同じことが起こるかというとそうではないはず。まあこれも余計なお世話だな。とにかく頑張ってください。

 話題2つって書いたのに3つじゃんかと突っ込まれそうだ。

開明的な人

 昨日保育園にお向かえに行くと、息子、目やにが出てますとの指摘。伝染性のなにかという可能性もあるので病院で診てもらってその結果を報告してくださいとのこと。翌日にしたら翌日が休みになっちゃうし、休んだとしても金曜日はふとんを回収する日だから行かなきゃならなくなる。そんな面倒なことはしたくないし、なによりどうせ診せるなら早い方がいい。早速かかりつけの小児科に向かおうとするが、それ以前に保険証が無い。

 で、奥さんに電話。勤務先から帰って来ようとしてるタイミングで、保険証は持っていると。なので直接小児科に持ってきてねと指示。で、僕は帰宅。なぜかというと、京都市の何とかという子供用の保険のなんたらが家にあるからだ。ああ回り道。なんてこったい。こういうとき、保険証がクラウドにあって、それを見せればOK的な感じになるとか、あるいは親の保険証を見せれば子供もOKになるとかすればいいのにと地団駄を踏む。実際は自転車のペダルを踏んでるんだけれども。

 クラウドは便利だ。ついさっきもYahooが容量無制限のクラウドサービスを開始すると。おいおい無制限ってなんだよと思うが、毎月一定のお金を払えばクラウドにデータを放り投げまくってもOKということになれば、それに依存する人は増えるだろうなあという気がする。でも僕はどうしてもそこまでクラウドに頼る気分にはなかなかなれない。

 理由はというと、そういうのをまだあまり信じていないからだ。もちろん僕もクラウドサービスは使っている。メインはDropboxで、その他にBoxというサービスも使っている。これはとても便利だ。でも、両方ともマメにバックアップをとっている。そうしないと、そのサービスが突然落ちたりした時に困るからだ。

 さらには、何らかの理由で交戦状態に陥れば、アメリカのサービスが引き続き使える保証はない。もちろん交戦状態になれば日常の業務がそのまま続けられるのかという問題はあるわけだが、しかしパソコンのデータを完全にどこかに預けてしまうと、今の時代はある種の生殺与奪権を誰かに与えてしまうようなイメージがどうしても拭えない。怯え過ぎなのだろうか。

 また、別の人のシェア記事で、電子書籍と紙の本とでは、読んだ人の理解力に差が出るという報告を読んだ。さもありなん。まあ紙の本で読んだところで二度目に読み返すと新たな発見もしてしまったりするわけで、実際にそこまでの差がでるのかはわからないけれども、僕自身科学的な裏付けなどないながらも、紙の本の方に愛着を持つ。というか、電子書籍は読んだことがほとんど無い。読みたくないからだ。

 でも、そういう心理的ハードルをすべて軽々と取り去って、いとも簡単にクラウドに移行していける人を何人か知っていて、ちょっとだけ羨ましいという気持ちが無いわけではない。そういう人の人生はずいぶん軽くなれるのだろうなとも思う。だが、じゃあすぐにそうなりたいと思っているのかというと、そうではない。そういう人を開明的な人と呼ぶのが相応しいのであれば、僕はまだまだ未開の人と蔑まれたって、別に構わない。

20年

 20年前の昨晩、僕は福岡の自宅で兄と顔を見合わせていた。母は不在。危篤の父が入院していた病院に、泊まりがけで付き添いに行っていた。

 翌日は朝から病院に駆けつける。親戚も幾人か駆けつけてきた。そんな中、父は息を引き取った。涙はすぐには出なかった。息を引き取る直前、もはやまともな言葉にもならない声でいくつかのことを託すように語った。内容は、覚えているけれど、ここで書くようなものではない。

 父がいなくなってからもう20年が経つのかと思うと不思議な気持ちだ。それは本当に昨日のことのようで、自分の中では父の存在は今でも大きい。だがこの20年で兄も結婚し子供が産まれ、僕も結婚し子供が生まれた。当然のように彼らはおじいちゃんのことを知らない。先日の帰省で息子はおばあちゃんにあんなに懐いたというのに、おじいちゃんのことは部屋に写真が飾ってあるだけで、それがおじいちゃんだと認識しているかどうかも僕にはわからない。

 生まれ故郷の福岡という街を離れてもう29年になる。僕にとって一番長く住んだ街は東京だ。だから本当は一番思い出す街は東京であるはずなのに、今でも福岡に行くと「戻ってきた」という気持ちになる。東京に行っても単に「来た」でしかない。故郷の存在感というのはおそらく永遠で、だから父の存在というのはそんな感じの永遠的な何かなのかもしれない。

音楽の行方

 もう本当にCDは無くなる無くなる無くなるって言われ続けてて、それでも「そんなか?」ってずっと思い続けてる。

 それは昔、コンピュータが普及するとオフィスから紙が無くなるよねって言われ続けて、結局プリンタなど導入してしまったら紙はむしろ増えたという事柄からも、やはり紙は無くならないっていうのが僕の実感で、多分事実。会議でパワポのプレゼンしたらもう紙要らんだろと思うけれども、やっぱりそのパワポのプリントアウトを出席者に1人1人配る。だったら部屋暗くすんなよって思うけど、みんなパワポはプロジェクターで大きな画面に表示したい。まあそれはいい。

 紙の書籍が無くなるとか言うけれど、全然無くなる気配はない。あんなに電子化を推奨しているホリエモンの著書だって、紙の方が売上げ断然多いという話。ホリエモンに憧れてる人は全員キンドル持ってるんじゃないのって思うけれども、やはり紙の本を買っているそうだ。

 出版社はいつまでも紙の本の在庫を持ち続けるということが難しい。そういう意味では電子書籍はいつまでも買えるという効能があって、だからその意義も僕は認めているのだが、だからといってすぐに電子書籍に切り替わるのかというとそうではないだろう。まあ20年程経てば状況は少しは変わっているとは思うけれども、年内にどうこうというようなドラスティックさは起こらないだろう。

 で、音楽なのだが、これもまだまだCDは残る。僕は2つの理由をここで述べたい。

 ひとつ目。音楽ビジネスは不特定多数へのアプローチというモデルを失いつつあるということ。以前は1億人に知らせるプロモーションを行なっていた。そして100万枚というゴールに向けて動いていた。いまそれをやろうとすると愚かだろう。一方で最近は「こいつ誰?」と思う程無名なアーチストが連日武道館を満員にさせている。1億人に知らせる必要などはなく、5万人に知らせることが出来れば、1万枚のチケットが売れる時代なのだ。5000人のファンクラブが成立すればバンドが食っていくことは可能だし、それは以前のようなビッグビジネスとして多くの人の協力を得なければ出来ないものではなく、数人のスタッフが有能に稼働すれば実現する世界なのだ。

 だとすれば、CDはファンアイテムとして成立する。それ以外でどうしても聴きたい人は音源だけどこかでダウンロードすればいい。極端なことをいえば、10曲のアルバムのうち8曲はフリーでダウンロード出来る状態にしておいても構わない。2曲だけはCDにのみ収録し、ファンクラブの人にだけ送られる。もちろんそれはファンクラブ会費の中に含まれる形で。

 ふたつ目。アーチストがアーチストとして成立するのは、やはり看板が必要だ。アマチュアと違うスタンスでやっているという証が、CDになっていく。それはある種ビジネスマンが名刺を手放せないのと同じことだろう。facebookでフレンドになればいいだろうと思うが、やはり名刺を渡さなければビジネスは始まらない。だからどんなに電子化が進んでも、名刺という仕組みは当面無くならないだろう。それと同じで、聴かれるか聴かれないかは別にして、どこかで自己紹介をする必要に迫られた時、CDの現物を渡せた方が、その先が明るくなる可能性が高くなる。名刺を渡したところでそこに記載されている電話番号にかけてもらえる確率が低くとも、挨拶を始めるためには名刺が必要で、相手が名刺を出してきた時に「僕持ってないんです」ではビジネスマン失格であるように、アーチストと自称する以上、音源をすぐに渡せないようでは、きっと失格してしまうのだ。

 そんな感じで、やはりまだまだCDは当面無くならないと確信している。問題は、機械だ。CDを鳴らせるプレイヤーがどんどん少なくなってきているのは事実である。薄型のノートパソコンが普及する中、CDドライブを取り外す傾向も強まってきている。そういうのが続いていく中で、物理的にCDを聴けないという人は徐々に増えてきている。そういう人たちへの対応をどうすればいいのかという話でもあるが、それに頭を悩ませるのは、むしろ1億人に向けてプロモーションをするようなものだと考えている。CDの機械が無くなることで奪われるマーケットよりも、自称アーチストが増えていくことでマーケットのパイを奪われていくことの方が、アーチストにとっては目下の大きな悩みなのであるから。