2014年12月14日は、キラキラレコードにとって24周年記念日であった。いやあ、めでたいめでたい。
だが同時に、第47回衆議院議員総選挙でもあって、ここで自民公明が解散前よりも増えるという結果になり、まあ本当に困ったことだなという日でもあった。
何が困ったかというと、その投票率だ。52%前後だったという。66%で2/3。前回が59.32%ということで1/3以上が棄権しているという史上最低だったわけだが、それを遥かに下回る結果。もはや1/2が棄権しているといってもいいのではないだろうか。この傾向は全国の地方選挙ではすでに当たり前の感じになってきていたものの、まさかの衆院選での52%。
自民が勝つとか、民主が勝つとか、まあそれは時の情勢や風も左右してのことだし、自分がどこを応援してて、そうなったから民主主義の勝利だとか、応援しているところが大敗したから民主主義の敗北だとかいうのは、ちょっと当たらないと思っている。今回は自民公明の圧勝ということで、まあそれにはいろいろな要素が絡んでて、必ずしも自民公明を2/3強の人が支持しているということではない。だが、選挙というルールがあり、そこで野党が乱立したまま選挙に突入してしまったら大敗するのは自明のことである。別にルールが事前に隠されているわけではないので、前回の大敗直後からなぜ調整して準備してこなかったのかという、野党側に非があることは間違いない。僕が支持している小沢一郎やその政党も含め、反省と次への対策を切望するところだが、まあそれはさておき、投票率の著しい低下は、これは与党野党ともに共通した、民主主義の消失の危機として肝に銘じて欲しいと思う。独裁して市民権など剥奪してしまおうという勢力は別だが。
かく言う僕は、この選挙の期間、Twitterで「とにかく投票に行こう」と呼びかけてきた。特に若い人に投票に行って欲しいという思いをぶつけてきた。まあ無名のオッサンの呼びかけに何の意味があるのかという気はしないではないが、一応15万人以上の方にフォローしていただいているから多少は影響力もあるかも的なところもあるし、第一影響力があるから言うとか意味があるとかいうことではなくて、どんな無名の人であっても、主張することに何の憚りがあろうか。
そんな中、投票の前日に僕は一連のツイートをした。
「息子を乗せて自転車で移動する際、絶対に信号無視はしないし、止まるたびに「赤信号は渡っちゃダメ」と言い聞かせてる。でもその横をスーッと無視して渡って行く人の多いこと。半分くらいの人や自転車は短い信号を無視して行く。あれが投票に行く人と行かない人の違いとリンクしているように思う。」
「自分1人が渡っても事故にならない。だから無視して行っちゃう。自分1人が投票してもしなくても結果は変わらない。だからサボっちゃう。」
「そういう小さなルール無視や、権利の不行使によって、社会は劣化していく。劣化した社会で苦境に立つのは、ある意味自業自得なのだ。」
「未来ある者ほど、その社会が劣化することの影響を長期間受けることになる。そして劣化を防いだ結果の影響も長期間受けることになる。」
「じゃあどの人にどの党に入れれば劣化するのか、しないのか。その問いが間違っている。多くの人が投票することが、劣化を防ぐのだ。一部の人しか投票しないことで生まれる社会が不公正で歪んだものになることは自明だろう。」
「そしてなにより、投票をサボって平然としてる意識そのものが、その人の精神の劣化である。精神の劣化した人が多くいる社会が劣化しないはずがなかろう。信号無視ばかりの交差点に安心など訪れないのと同じで。」
「「大丈夫だよ、車はちゃんと止まるし」などという理由で信号無視する人も多いらしいが、自分が無視してるのに他人は無視しないと思える感覚は、やはり劣化したとしか言いようがない。」
そうなのだ。どの党が人の暮らしを良くし、どの党が劣悪にするという話ではない。劣化した精神の怠惰によって歪められた社会が、暮らしを劣悪にするのだと思う。国民が懸命に考えて選択した結果が次の4年間だとしたら、その方向性が間違いだったと気づくことも出来るし、気づけば、方向の修正も出来る。しかし、選択の過程に劣化があれば、次の4年間に間違いがあったとしても気づくことは出来ないのだろうし、万一気づいたとしても、4年後に修正することも叶わないだろう。そうして劣化した社会は劣化を極めていくのである。
国民のレベル以上の政治家などは生まれないというのは、そういうことだ。で、今回の選挙は本当に半分くらいしか意志を表明しないということになってしまった。支持政党無しというのはもうずっと国民の中で一番大きな勢力で、5割近くが支持政党を持たずにきた。だが、そんな支持政党無しの人たちも選挙には行ったのである。行ってなんらかの判断を下してきたのである。だが、今回はもう本当に支持政党無しの人が選挙に行ってない。支持政党無しは、決断もしないということになったのだろう。
TwitterなどSNSが盛んになってきた当初、アカウントを作るということはイコールつぶやく、投稿するということだった。それによって他者と関わる、そういうツールだった。だが、最初はつぶやいていた人もどんどんその場からは去って行った。しかし完全に消えたのではなく、発言しなくなった。先日もある人が「こう言ったら誰かを傷つけるんじゃないかとか、仕事関係の人から悪く思われちゃうんじゃないかと考えると、もうつぶやけないですよね」と言っていた。おそらくそういうことなのだろう。顔の見えない誰かを気にして、何も言わなくなる。学校のホームルームでも発言する子供は限られる。会社の会議でも発言する人は限られる。黙っていても誰かが発言して議事は進行するんだものと。自分はその席に参加して、誰かの物言いを聞いて、決まったことに従っていけばいい。それは政治に限定したことではなく日常のほとんどのシーンで見られる光景だ。
だがそれはとても危険なことだと思う。この国は発言しない人が誰かの決めることに依存して生きている。無批判に人生を委任して生きている。そうやって作られる国の決定に、発言しようとする人も巻き込まれていく。喧々諤々して決まった選択なのであれば、認めて従うこともやむを得ないだろう。だが、大多数の見えない誰かの顔無しの顔色を窺い、声を持たない人たちの無知無抵抗によって流れが出来ていくのだとしたら、それを社会の意志として認めて従うということに道理はあるのだろうか。だがそれに抗おうとしても無慈悲に押し寄せる津波のようなパワーとなってしまったら、逃げる以外に方法は無くなるし、逃げることさえ能わずという事態も起こりうるのだろう。
僕はこうもツイートしていた。
「311以降ずっと感じているのは、この国は怠惰な愚鈍にジワジワと殺されて行くということだ。強権を持った誰かではなく、顔の見えない怠惰な愚鈍の群れに、沼に引きずりこまれてしまうという恐怖。」
「集団イジメに抵抗せずに付き従って誰かを攻撃してしまうような。自分1人が声を上げても変わらないよの群れが、結局1人を殺し、集団の誇りも失ってしまうような。」
声のない人たちは自分たちが声を失ったことによって現出する世界で、どんな宴を催すのだろうか。声無き社会で経済はこの2年ですでに失われてしまった。次に失われてしまうのは一体何なのだろうか?