寓意

 以前にもちょっと書いたと思う(違ってたらごめん)が、息子に積極的に絵本の読み聞かせをしている。全部買ってあげる財力もないので、図書館で借りては読み聞かせ。たいして反応のない絵本はそのまま返し、好きだという絵本は、後日買ってあげたりする。全部は無理だけど。

 先日借りてきた「こんとあき」という絵本が代のお気に入りの様子。

 キツネのぬいぐるみと少女のお話なのだが、僕も以前、子供がいない頃にたまたま店頭で読んでステキだなと感動した本だったのだが、2歳半の息子にはちょっと難しいかなと思ってた。だが、今回借りてきた4冊の中で、他のはまったく興味を示さないのに、この絵本にはめっちゃ食い付く。朝も夜も読まされる。いや、読むのはいいのだ。でも1日に10回はちょっと多くないか?38ページあるのだぞ。絵本とはいえ1日380ページ読んでいるのだぞ。飽きないか?そりゃあお父さんの読書がはかどらないはずだ。まあそれは編物なんてやっているせいなのだが。

 息子にとっては「電車」と「おばあちゃん」という2大お気に入りアイテムが登場するので、それも食い付きが良かった点だったのかもしれない。

 僕はこの絵本を何度も読んでるうちに、このこんとあきという登場キャラは、結局は男と女の関係そのものだという気がした。こんはぬいぐるみなのにあきの面倒を見ているつもりで動いている。出来事のすべては女児のあきが「ついていく」「どうしよう」「行ってみたい」という動機から始まっていく。守護者であるこんが当初思っていた通りにしていれば揉め事もおこらなかったものを、あきの希望を叶えてあげようと計画を変更して頑張ってみる。ちょっと困難だと思っていてもだいじょうぶと言って頑張る。頑張った結果うまくいかなくて、結局尻拭いはあきがやってくれる。それでもこんは自分が守護者であるという意識も態度も変わらない。

 男は、バカだなと思う。それでも最初に感じた好意に抗うことができず、自分の実力以上のことだって出来ると思い込み、やってみる。絵本では、失敗する守護者はぬいぐるみである。端から見てると、こんがやろうとしていることなど出来るわけがないのは明らかだ。だが、実際の人間もその程度なのかもしれない。自分がぬいぐるみ程度に何も出来ない存在であるということには気づかずに、出来ると思い込んで直進する。

 女もバカだなと思う。結局尻拭いをしなければいけないのは自分なのに、そんなことは考えもせずに他愛無い希望を口にする。その言葉が男を無茶な行動に突き動かすことくらい判っていそうなのに。

 そんなことは、2歳半の息子は考えてもいないのだろう。いや、考えているのか?感じているのか?その真偽は謎のままだが、少なくともこの絵本のことを彼は大好きな様子。良い本というのは、言葉を完全に理解していなくとも、ちゃんと判るのだなと、とても不思議な気持ちで、毎日読み聞かせをこなしている。それが勝手な思い込みだと知りつつも、その思い込みを真実だと思い込んでしまうのが、男親のバカなところかもしれない。

フランスのデモ

 午前2時になろうとしてる。眠いので要点だけ。フランスのデモに370万人とか、そこに各国政治家も参加したとかで、主に自由を尊ぶ人たちの間で好意的に受け取られている様子。

 だが、僕はそれ、かなり胡散臭いと思っている。

 まず呼びかけがフランスの首相だということ。デモという形で世論を誘導している恐れあり。

 次に、死者が出ると美化されるという感じが鼻につく。あれが言論だったのかは、少しばかり議論されるべきと思う。言論の自由の根底にあるのは、他者への敬意である。自分とは違う価値観を持つ人の発言を担保するということは、他者への敬意無くしてはあり得ないこと。だが件の新聞がそれほどに他者への敬意を持っていたのか。だからアレに発言や表現の権利は無いと言ってるのではない。武力による攻撃を擁護するべきでもない。他者の表現に暴力で抗することが言論の自由でないことは明らかだし、それを擁護する気持ちなど1mmも無い。だが、一方に死者が出たことでその側のすべてを美化してはいけない。とても危険なこと。

 世論を誘導するためには、場合によってはヘイトスピーチしてる人が死ぬ事件を権力側が引き起こす可能性だってある。今回の件を、為政者側は研究しているだろう。政府への不満がはびこり、運営が立ち行かなくなった時。あるいは強行にあることを押し進めたいと思った時。やらせで事件を起こすことはさほど難しいことではない。なんなら事件など起きてなくても、警察発表で「愛国者が殺されました」と事件をアナウンスし、子飼のメディアを通じて「自由のために団結を」と呼びかければ一丁あがり。そういう誘導が絶対に永遠に無いとは誰も言えまい。今後の動きによくよく注意しなければならない。

 それは要するに「絆」の問題と似た感じの胡散臭さ。美名の元に全体がまとめられていく恐怖を感じてしまう。

 つまり、言論の自由を表面的に浅く捉えることで、そういう人が増えることで、結果的には言論の自由は制限を受けてしまう可能性が出てくるという矛盾的な事実を、もっと人は自覚しておかなければならない。

空き家の話

 方向転換をしなければならない時、それを妨げるのは怠惰と強欲です。

 状況は刻一刻と変化しているのに、対応するのは面倒臭くて、だからこのままであってもイイじゃないかと勝手な妄想で世界を見る。というより、その人の目はもはや見えてさえいないのかもしれません。見えないという点では危険ドラッグをやっちゃってる人の状態と同じ。金や既得権というのは、確かにドラッグのように脳を肉体を蝕むものであるようです。

 昨晩NHKで空き家問題について番組をやってて、日本には現在数百万戸の空き家があるという。人口が減り、新築を立て続ければそうなることは誰でもわかる。でも誰もやめられない。デベロッパーは建物を建てるのが存在意義であり、新築をやめることは即自己否定につながるし、関係者の暮らしを支える収入システムが破綻することを意味する。だからやめられない。住宅ローンは金融機関の大きな収入源なので、どんどん貸し出したい。個人は両親が家を遺した田舎などには住みたくないから戻らない。もはや不要なその土地付き戸建を高く売ろうとするが、そもそも田舎なので期待するほどの値はつかず、売るに売れない。いつかは高値を期待して持ち続けるが、更地にすれば固定資産税が高くなるので、空き家のまま放置する。

 全部、エゴですな。

 高速道路をもっと作りたい。新幹線をもっと作りたい。空港をもっと作りたい。原発をもっと作りたいし動かしたい。すべて根っこは一緒です。

 その結果、予算は工事費に充てられて、子育て支援や医療や介護が削減される。新しい電源開発は後回し、というより阻害される。これでは時代の変化についていけません。自明です。

 それでも人は今ある、というより昨日まであったものを今日も維持したいと夢を見る。その結果は停滞であり、後退である。

 ただ単に電力会社や政府をに批判するのは簡単だけど、身近にある空き家の問題を放置していては、原発は無くならないのかもしれない。そんなことを思った土曜日でした。

発火点

 フランスのテロ、ほぼ1日遅れで知った。

 悼ましいことである。どんなに気に入らないことがあっても、暴力で報復するというのは許されることではない。と思う。もちろんどんなことにも例外は在るだろうが、基本的には暴力は許されない。

 今回の出来事はフランスの新聞社が風刺画でイスラム系の誰かの反感を買ったことが原因だという。それで、報復だ。で、報復に対する報復だ。フランスではイスラム系の寺院が報復被害にあっているという。ケバブ料理店も焼き討ちにあっているという。愚かだ。罪を憎んで人を憎まずとまではいわないが、罪を犯した者と薄い共通点を持った無実の人を攻撃することに何の意味がある。怒りを抱く人の怒りは一体何なんだ。

 かつて日本でオウムがサリンを撒いたとき、あれも世界的にはテロとして認識されていた。だがその後はオウムを捜査し逮捕することで収束に向かった。教団の施設への住民たちによる排斥運動があった程度で、焼き討ちなどには至らなかった。それは一応オウムも日本人で、仏教系とはいえ他の仏教団体とは明確に違っていたからなのだと思う。だがもし、あれが他国人が教祖だったりしたらどうだっただろう。その本部が日本国外にあったとしたらどうだっただろう。今の日本であれば、その教祖が韓国人や中国人であったなら、激しい報復運動が起きたかもしれない。それを否定できるような状況ではない。

 あるのは、過度で単純で根拠の無いグループ分けである。イスラム国と呼ばれる組織とイスラム教とは基本的に別モノと考えるべきだ。それはオウムと仏教を混同してはいけないのと同じで、それをひとつに単純化するから意味のない報復を是と考える愚か者が出てくる。犯罪を犯した者はきっちりと裁かれるべきである。だが、裁かれるべき犯人と国籍が一緒だったり、民族が一緒だったり、宗教が一緒だったり、性別が一緒だったり、血液型が一緒だったり、その他なんでもいいけど、そんな共通点が犯人の共犯であると認定する根拠にはなり得ないわけで、そんなカテゴライズで報復の対象にするなどというのは愚か極まりないし、その論理を是とするなら、相手もその論理を是とすることが容易に想像でき、つまり自分が投げるケバブ屋への石は、巡り巡って根拠の無い理由によって自分にも飛んでくると理解すべきである。

 しかし現実にはそんなことが起きている。911の後のアメリカでも同様のことは起きた。それは発端としては明確な事件によって生まれた怒りなのだが、その怒りの背景には日頃から蓄積した負のエネルギーがあって、それが何らかのきっかけで大きなうねりに変わるのだろう。まるで地震エネルギーのようなもので、日々の地殻の動きから貯められたエネルギーがある時に爆発的に放出されることで地震が起きる。

 今回のフランスの事件は、そんな爆発につながるのではないかという危機感を持つには十分の出来事だ。そしてそれは世界的な経済状況と相まって、大きな国家レベルでの騒動の、発火点になる可能性さえあるのではないかと危惧する。

Grandmas love him

 年末年始に帰省をした。独身の頃と結婚して以降の帰省は趣も意味もまったく変化したが、子供が生まれてからはまた帰省というものが別次元になったような気がする。

 福岡に着くと息子は僕の母にすぐに懐く。孫に会うために昨年3度も京都にやってきた母も孫をかわいがる。ほんの数日しかいられないが、2人にとってそれは貴重な時間だ。

 福岡を離れ三重に着くと、息子は奥さんの母にすぐに懐く。義母も孫をかわいがる。こちらは京都にも近く、何度来てくれただろうか。もう数えられないくらいだ。

 おもちゃだったり服だったりを沢山買い与えてくれる。親が買わないようなものをホイホイ買ってくれる。それが甘やかしなのか普通のことなのか、家族といってもいろいろなケースがあるので一概には言えないだろうけれども、息子が喜び母たちが喜ぶのであれば、それはそれでいいんだろうと思う。

 今朝は福岡の母がくれた新しいジャンバーを着て保育園に登園した。見るからに暖かそうだ。そういえば昨年から着てるジャンバーも貰い物だったっけ。うん、まあいいだろう。ふがいない親ですみません。自転車漕いで毎日保育園に送り迎え、そのくらいは精一杯させていただきます。

 でももしも僕が超リッチで何不自由なく高価な衣食住を息子に与えていたなら、母たちは孫に何かを買ってあげるという楽しみを失っていたのではないだろうか。そう考えると、ふがいない親もまあ悪いことばかりではないよなと思う。日頃息子を愛して、1日の大半を笑顔で過ごさせ、その結果表情のベースが笑顔になることで、たまの帰省の際にとびきりの笑顔でおばあちゃんたちを喜ばせられればいい。そーゆーことが、ふがいない親にせいぜい出来ることだと、勝手に納得している。

キャッチボール

雪の京都に帰省先から戻り、翌日の休日には息子と雪遊びをした。最近は家の中でソフトボールを使ったキャッチボールをしている。キャッチボールといっても彼がそれを投げる。投げるといっても大きな振りに比して結局は足元にポイッと落下してあらぬ方向に転がっていくのを、僕が近ければ拾ってあげ、彼が近ければ自分で拾うという、ただそれの繰り返し。2歳半なら上等じゃないだろうか。上等とか下等とか、そもそもそんな言葉も適さない類いの、私的な遊びに過ぎないことだが。

で、雪遊び。最初は雪だるまを作ろうと思ったが、近所の子供に遊び尽くされた後のマンション玄関付近にそこまでの雪は残ってなく、だから雪のキャッチボールだ。キャッチボールといっても彼の投球は相変わらず大きな振りに比して足元にポイッと落下するというものだから、僕が雪玉を作ってあげて、手渡して、彼が遠くに投げるというもの。遠くといってもたいしたことはないのだが。でも見ていると、家の中で投げているよりも遥かに遠くに雪玉は転がっている様子。外というものが彼の限界を広げているのだろうか。蚤をコップの中に入れておくと、最初は能力の有らん限りにジャンプして小さな身体をコップの天井にぶつけまくる。やがて跳ぶ高さを調節するのか、コップに当たらなくなるという。その後コップから出してやっても、蚤はコップが制限していた高さより高くは跳ばなくなってしまっている。それ以上跳ぶと当たるということを学習しているのか。息子が家の中で遠くまでボールを投げなかったのはそういう理由だったのだろうか。それとも数日のあいだに腕力が強くなり、遠くまで投げられるようになったのだろうか。そうだったらもう家の中でキャッチボールは出来なくなるな。いずれにしても、彼が自由にボールを投げられるように、休みの日には公園などに積極的に行こうと思ったりする。

最近僕はいろいろなところにものを書く。それは最近に始まったことではないな。で、やっぱりいろいろなところにものを書く。それは書く場所というものが何かを規定するからだ。そして同時に、書く場所によって届く相手も違ってくる。届く相手が違っていれば書く内容も変化していく。つい昨日、facebookのメッセンジャーであるミュージシャンとやり取りをして、彼は少しばかりファイルのやり取りを必要とするメッセージを要求してきて、メールアドレスを記載していた。なので僕はそのアドレスに対してメールを送ることになるのだが、その返事がメールに対する返信ではなく、facebookのメッセンジャーでやってきた。面白い。なぜメールへの返事がfacebookに返ってくるのか。不思議というより、面白い、興味深い。で、直後に会社の電話が鳴る。彼だ。面白い。連絡をして意志を伝えるためにいくつものツールを同時並行して使う。それぞれに意味があるのだろう。まあ、個人の携帯ではなく会社の電話にかかってきたのは、僕が携帯にはほとんど出ないことを知っているからだとは思うが。

ku:nelという雑誌に江國香織姉妹が往復書簡を連載していた。手紙という伝達ツールはやはり面白く、言葉を発して相手に届くまでに一定の時間がかかる。一方的に伝えるだけならそれでもいいのだが、往復書簡となると数往復するのにかなりの時間が必要だ。姉妹ならメールアドレスも知っていよう。メールなら数往復のやりとりなどあっという間だし、メッセンジャーやLINEを使えば本当にチャット状態で意見交換が出来る。だが、それでも現代に往復書簡でやり取りをするというのが実に興味深い。しかもこれは雑誌の連載だし、私信というものとはやはりちょっと違う趣を持つ。

先日放送された『京都人の密かな愉しみ』という番組が面白かった。その中で洗い屋という家屋や建具を洗う職人のエピソードがあって、古いタンスを洗っている時に若い職人が中から古い手紙を発見する。それをこっそり読んでしまい、その内容が自分の進路決定に大きな影響を与えてしまうことになる。言うまでも無くその手紙を書いた人は未来の若い職人に手紙を書いたわけではなくて、だから本来はその職人が読んではいけないものである。しかし紙に書いて第三者に委ねてしまったら、それがその先でどのような扱いをうけることになるのかはコントロール出来ない。まあそれはネットに書いたバーチャルな文字も同じで、そもそも文字というもの自体がバーチャルなものでしかなく、その一文字一文字に込めた真意も解釈する人の恣意や能力によって必ず歪む。歪むことが嫌なら発しなければいいのだが、それもつまらない。誰しも言葉を発することで社会とつながっていくし、つながることで相対的な自己というものを獲得していく。だから他者の言葉に接する場合、自分の言葉と同じようにその他者の言葉にも敬意を払い、真意を汲み取る努力と配慮をすべきだと思う。たとえそれが100%は不可能なことだとしてもだ。

先日Twitterで「天皇や桑田圭祐や忌野清志郎の言葉を自説の権威付けに利用するのは慎むべき」的なことを書いた。なかなか伝わらないことだよなと思いつつ書いたのだが、案の定「利用したかどうかは、本人の意に沿っているかどうかだ」という感じの反論をいただいた。まあそれはその人の理屈だろうとしか思わないし、だからこちらからの直接的な反論もしないのだが、一体誰が天皇の意を正確に理解できるのだろうか。そして311の時には既に故人だった忌野清志郎が福島の事故後の状況にどういう意志を持てるのだろうか。それに沿っている利用の仕方って一体なんだろうか。うーむ、わからない。わからないからスルーしているだけなのだが。そしてこういうところでこういうことを書いていることをその人はきっと読まないだろう。これはエアリプということになるのだろうか。

まあいい。

どんな言葉もある程度相手を想定して書いていたりする。だが本当に読んでもらいたい相手に届くのかどうかは甚だ疑問のことも多い。本当に読んでもらいたいのなら手紙を書くべきだ。内容証明にでもして確実に読んでもらうようにすべきだろう。何なら会いに行ってもいい。でも、それはしない。つまりこういう場所で誰かに向けて書くという行為は、ある意味message in a bottleのようなものなのかもしれない。それでもきっとあの人は読むだろう。そう思いながら、想いを込めた文をボトルに入れて海に投げる。どこの海に投げ入れるのかが、どの場所に書き記すのかということでもある。琵琶湖に投げてイギリス在住の人に届くわけはなかろう。だが、太平洋に投げ入れたとしても、イギリス在住の人に届く可能性は極めて低い。なのでイギリス沿岸まで船に乗って出かけて、船上から投げ入れたりもする。それでも、イギリスの海辺に住むというその人が砂浜で拾い上げる確率はどのくらい確かなものになるのだろうか。

それでも書くし、投げ入れる。それが届かないのであれば、縁はそこまでのものでしかない。ブログを読む人と読まない人。今回のこのブログを僕はTwitterなどでリンクを貼りはしないのだが、その他のエントリーをリンクした時に前記事をたぐって読んでくれたりするのかもしれないし、そもそもRSSなどで更新をチェックしてくれているかもしれないし、まったくそんなことはしてもいなかったりするのかもしれないし。

というか、僕の書くメッセージは、ブログやTwitterやfacebookだけではない。mixi日記だっていまだに更新しているし、その他に謎ブログもある場所で更新している。musipl.comでのレビューにだって含意はある。それを読むのかどうかも、仮に読んだ場合に意を汲み取るかどうかも、それはもうどうでもいいことだ。

意識のキャッチボールはあらゆるところで行っており、その手段もレベルも複雑だ。facebookに英語で書いていることが読めないとか、Twitterで連投している一連を読まずに断片だけを切り取って恣意的な解釈をして噛み付いてくる人とか、そういうのはもうどうでもいいと思う。そういう人に対して丁寧に対応するほどの時間的余裕は無い。言葉の背景を知るために十分な関係性があったり、知るために多少の努力をしてくれる人とのやり取りをすることにこそ、貴重な時間や労力は割かれるべきだろうと本当に思う。

僕と楽しげにキャッチボールをしている息子がそのことを記憶してくれるとは思わない。なぜなら僕自身が3歳以前の記憶などほとんど持っていないからだ。だからやらないのか。3歳未満の子供と遊ぶことはすべて無駄なのか。そんなことはないだろう。楽しかった記憶のひとつひとつが鮮明に思い出されなくとも、なんらかの蓄積となって彼の人格を作るに違いない。だから、遊ぶし、今朝も雨降る中を電車に乗り、レインコートを着用した息子の手を引き引き歩き、途中で疲れたといえば雨粒で濡れまくりのレインコートごと抱っこして数百メートルの道のりを歩く。15kgほどの息子を抱きかかえて数百メートルを歩くというのは結構な苦行だ。でも、その苦行が楽しい。結局は自分が楽しいことを楽しくやっているだけなのである。

雑感2014

言うまでもないが、2014個の雑感ではない。そんなにあるかよ。

 

今年は育児に懸命だった。まあ言うほど必死感は無いのだが、普通に保育園の送り迎えをし、休日には一緒に遊ぶ。当然平日の日中は仕事に集中する。息抜きに街を出歩くなどする余裕はない。結果、観た映画はわずかに1本、読書量も大幅に減った。

 

TwitterやFacebookでは知人が新作映画を楽しんでいる様子が伝わってくる。元来映画が大好きで、独身の頃は新作が始まると先行オールナイトに出かけた僕だから、それをくだらないことと揶揄するつもりはない。いいなあ、羨ましいなあと思うくらいだ。でも、様々な要因で選択している優先順位の中で、今は映画は結構下位になっている。知人の中でそれが僕より上位にあっても不思議ではないし、単に状況や価値観に違いがあるだけのこと。数年すれば僕もまた映画に行きまくるかもしれない。

 

で、映画に行かない数年の間にも、新作はどんどん作られる。周囲がそれを観て、僕が観ていない。取り残される感があるのかというと、そうでもなかったりする。全てを見聞きするのは元来不可能なことだからだ。

 

キャッチアップすることが大切なのではない。自分の人生の中でその人生をどう豊穣にするのか、その助けにするのかが大切なこと。もし仮に余命1年と宣告されたら、それでも好きな映画をキャッチアップすべきなのか?答えは自明であろう。映画は2年後にもどんどん制作される。5年後も10年後も。余命宣告などされずとも、50歳の僕が50年後の映画を追えることはほぼ不可能だ。

 

世の中にある書籍をすべて読むことは不可能である。その辺の普通の規模の図書館でさえ一生かかっても読み切れない。音楽のプロであるはずの僕自身が現在の音楽シーンを網羅するほどに聴くことは不可能だと感じる。ましてや趣味のあれやこれやをコンプリートすることなど叶わぬ。現在進行形で作られて未来にもずっと続く果てしない産業の果実を追うことは不可能だ。それは果物店に並ぶ果実をすべて食べたいと買い占めることに似ている。買うことにも無理があれば、買ったとしても食い切れぬ。食べ放題の店に行っても、在庫の食材をすべて腹に収めるなどあり得ないことなのだ。

 

そんな2014年、僕の中での最重要事項である息子の成育。これさえもコンプリートで鑑賞することは叶わぬのだ。保育園に行くことで彼の社会は広がる。そこでの出来事はある意味ブラックボックスで、見ることはできない。育っていけば友人との時間も増えるだろうし、恋人とのあれこれは父親になど明かさないもの。既に先日まで帰省していた実家では、幼い頃には毎日僕にじゃれついてきた高校生中学生の姪っ子甥っ子も自分たちの世界を持ち、僕と触れ合うことはほとんどなくなった。それで良いのだと思う。子供達が成人し老いていくのを全て観察することは不可能なことであり、願ってはならないことである。

 

映画も子育ても、そして仕事も、自分の人生をその時々で彩ってくれる要素にすぎない。あるものは趣味として、あるものは義務として。あるものは責任として。何をも取り払い24時間に対峙するなどというのは、人間のひ弱な精神には耐え切れぬ拷問である。だから目先の重大事として存在してくれる何かがそれぞれにあるのだろう。自分には重大な何かも、他人にとってはまるでどうでもいいことでしかない。つまりは、自分にとっての重大な何かも、結局はどうでもいいことに過ぎない。自分がその任を突然離れても、世の中は普通に回って行く。こだわっているのは、自分という存在には有用な価値があるはずだという思い込みにすぎない。

 

そう思えば、全ては余暇であり、仕方なく生きねばならない人生というもののエッセンス程度であることが解る。僕の喜びも悩みも、地球の裏側の人に解るはずもなく、同様に地球の裏側の人の悩みも僕には到底解り得ない。今年の重大ニュースはあれとこれだなどと思い巡らせても、昨年の重大ニュースが何かと問われれば、さて何だったかといくら首を捻っても思い出せない。

人生とはそのようなものだ。運が良くてもせいぜい80回ほどしか桜を愛でることはできないうたかたの些事にしかすぎない。あれやこれやと思い悩むヒマなど無い。そんな中、同時代の同時期に共通のテーマを大切にする限られた仲間と、一瞬でも何かを共有できれば、それで上出来なのではないだろうか。

 

そんなことを、奥さんの実家で布団の中に潜りながら考えてみた。どうでもいいことで、みんなが起きるまでの時間を潰したにすぎない。

 

さあ、あともう少しで2015年がやってくる。どんな無駄な出来事が起きるのだろうか。楽しく時間を潰せれば幸いだ。

俄には信じられぬこと

 先週末、北朝鮮の金正恩を暗殺する内容の映画がサイバーテロに遭って公開断念というニュースが流れてきた。

 とてももっともらしい。これまでの北朝鮮のことを考えれば、いかにもやりそうなと、ツイツイ思ってしまう。だが、本当にそういう認識で良いのだろうか?

 今回の件、基本的にはアメリカからのニュースという感じで入ってきた。ハリウッドで北朝鮮のことを題材にした映画が作られたと。主人公が金正恩(らしき人物)に直接インタビューをしに乗り込むのだが、実はCIAで暗殺を計画していたという、そんなあらすじ(詳しくは各自で)。その映画に腹を立てた北朝鮮がサイバーテロをしかけ、ソニーピクチャーズの社員個人情報をバラまいたとか、公開予定映画館へテロ予告が届いたとか。サイバーテロに使われたソフトのコードが以前も北朝鮮からのサイバーテロで使用されたものと酷似しているとかで、一部劇場が上映を取りやめたという報道がされ、今度はソニーが公開を断念するという報道になり、ついにはオバマも「許さない」という話に。

 で、許さない結果、ソニーが公開断念によって生じた利益の賠償を求めるという話になってて、それって大統領が関与する話なのかとひっくり返りそうになった。

 この話、どうにも俄には信じられない。

 まず、お膳立てがすべてアメリカによって揃えられているということ。映画を作ったのもアメリカ。公開をしようとしたのもアメリカ。サイバーテロを受けたというのもアメリカ。公開を断念したというのもアメリカ。サイバーテロのコードが北朝鮮由来だと言っているのもアメリカ。公開断念をして、永久にお蔵入りなのかと一部で言われてて、ソニー幹部はテレビで「DVD発売などの方法を模索している」と話していて、で、今朝ほどにCrackleで無料公開することになったと。

 どうにも思い起こされてしまうのは911直後のイラク侵攻だ。当時のブッシュ政権はイラクのフセイン大統領(当時)が悪の枢軸であると主張し、イラクはUNMOVICの査察を受け入れ、大量破壊兵器は見つからなかったものの、米英で国連決議を経ずに攻撃を開始した。結局フセインは捕らえられたものの、大量破壊兵器とやらは見つからず終い。

 その後の中東を見ると、イラクフセインという重しが外されたからなのか、さらに制御不能なテロ組織が勢力を伸ばして無法地帯になりつつある。

 アメリカは今回の件を端緒に北朝鮮へのテロ支援国家指定を再度認定しようという動きがあるようだ。まったくの推測妄想の類いだが、今回の件はキューバとの国交回復とリンクしているように思われる。キューバとの国交回復については国内でも様々な議論があり、概ね好意的だという中にも不安を抱く層もある。不安というだけならアレだが、仮想敵国の存在によって軍需産業というものは成立するわけで、そういう意味ではこれまでキューバが仮想敵としての役割を果たしてきた。だがそことの国交が回復したら、新たな仮想敵が必要になるのは必須で、そのためには北朝鮮がアメリカ国内でテロを起こす可能性があるということを暗に想起させるようなきっかけが必要だったのではないだろうか。まあそこまで踏み込んで断言する材料などはまったく無いので、本当に妄想でしかないとご理解いただきたいけれども、ともかく、今回の件についてはすべての情報がアメリカから提供されているということは頭の片隅に留めておいて損はないと思う。北朝鮮はアメリカと共同で真相の究明をと提案したそうだが、それはCIAの手のうちを北朝鮮に晒すということでもあるので、アメリカが受け入れるはずはない。まあそれを承知の上で言ってるんだろうけれども、もし仮にこれがアメリカ側の自作自演だったとすれば、北朝鮮としてはいっしょに解明しようと言いたくもなるところだろう。

 真相はやがてすべての公文書が公開されればわかることでもある。まあここ数日の秘密文書が公開されるまで、僕が生きているという保証は無いし、北朝鮮という国家が存続している保証もない。そして仮に僕も北朝鮮もアメリカもその時に存続していたとしても、僕の興味が持続している可能性は限りなくゼロに近いわけではあるが。

 あ、もちろんのことだけれども、北朝鮮を擁護しようという意図はまったく無い。実際に他国民を拉致していまだに解決していないような国家なので、それをトータルな意味で擁護するようなことをするはずは無い。だが、行ったことを適切に非難していくためには、それ以外のことでも適切に冷静に対応することが必要なのだと思う。これは北朝鮮に限らないこととして。なので、いかにもやりそうな国だからやってるに違いないという根拠無き断定は、結局自分たちのためにもならないんじゃないかと、そう思っただけのことである。

地方と国政

 いやあ、昨日のブログは全然響かなかったようだ。個人宛てに、しかも面識のない匿名の人宛てに書くことなんて普通しないんだが、5000文字超の文章をわざわざ書いたのに「自己完結型の人」とエアリプされてた様子。まあ仕方ない。自己完結型で行くしかないのかもしれん。

 
 それはさておき、今回維新の橋下代表と松井幹事長が現職を辞して国政に出るのかと騒がれたけれども、結局出馬せず。これ、現実論としては彼らにとって正しい選択だったと思っている。

 まず、今回維新はほとんど数を減らしていないにもかかわらず、橋下市長は「惨敗だ」と言っていた。これについて誰かが言っててなるほどと思ったことがある。橋下派は30→20に半減。江田派は10→10で不変。その他10人。そのなかに松木謙公氏以下小沢(生活の党)系の議員が5人。まあ30→20が半減なのはともかく、橋下市長の威信にかげりがあるのは事実なのだろう。野党結集に傾く江田氏系と元々野党結集を目指す小沢系が維新の舵取りで大きな役割を担うようになれば、橋下ー慎太郎による前回の維新とはまったく違った方向に進んでいくことになるはずだ。偽野党だったヨシミも政界を去ったし、野党勢力の結集&立て直しという意味では、今回の選挙は悪くないし、安倍晋三も地味に墓穴を掘り始めたという感はある。

 で、なぜ橋下氏が地方首長を辞さなかったのが正解なのかというと、私見だが、今回の選挙でかつて話題を集めていた地方の首長が軒並み姿を消したということ。前回で既に田中康夫氏が姿を消し、東国原氏は国政にも都知事にも出られず姿を消していた。石原慎太郎も落選し、同じ次世代の党候補だった中田宏氏、山田宏氏も去った。松沢成文氏は前回参院選で当選したのであと5年は生き伸びるが、次世代の党がこんな感じになったのでもはや政治家としての発言権は無いも同然だろう。佐賀県知事だった古川康氏が自民で当選したのが例外的なことで、風頼みの元地方首長が国政で勝てるという流れは、今後も予想される低投票率の中では、もはや過去のものになったのかもしれない。

 そう考えると、橋下市長が今回市長を辞して国政に打って出たとしても、勝てなかった可能性さえある。勝てなかったらただの人になるだけ。海江田万里氏と同じ道を辿ったはずだ。そう考えると、まだ市長で代表というヘンな立場で維新を仕切ることの方がメリットも多かったのだろうな。とはいえ党内勢力で旧維新系が半分になってしまったのでは、国会議員でもない橋下氏が今後も強権で仕切っていくことが出来るとは思えないのだが。

変化のスピード

 まず断っておきたいのは、時代は常に若者のためにあるという僕自身の認識についてだ。3ヶ月ほど前に50歳になった立場としては、もう消え去るべきところにいるのかもしれないという危機感も持っている。危機感というのはちょっと違うかもな。そういう認識を持っていなければ、ついつい「まだまだ若いものには負けん」的な驕りが生まれる。それに対しては強く警戒しておくべきだと、僕の世代はもちろん、これからそういう年齢になっていく世代も、個々が警戒しておくべきだと思う。

 なぜ若者のために時代があるのか。それは社会というものが変化していくからである。1945年の終戦のように1日で世界が180度変わるようなことは希有な例で、ほとんどの変化は数年から数十年という単位で動いていく。現在50歳の人間にとって、20年で変わる変化についていくことが可能なのか、またついていく必要性はあるのかという問題があって、かなりの人の切実な現実を考えると、その必要性はない。というよりも、変化についていく能力がなく、だから如何にして現状を変えずに逃げ切るのかということを考えていくことになる。それが変化への抵抗勢力となっていく。50代60代は脳味噌の柔軟性も失われつつあるし、富や財などの点で蓄積してきたものも多い。だから、変化を嫌う。そこは動物として仕方のないことでもある。だが、僕らは人間だ。人間は考える葦である。動物とは違う尊厳を持って、自分の都合で変化を妨げることを留まらなければならないと思う。

 そして変化というのは、良いことか悪いことかという価値の問題ではなく、否応なく訪れるものなのである。否応なく訪れるのだとしたら、対応しなければ死ぬだけということになってしまう。その時に変化への遅れで死ぬのは若い世代だ。同様に老人世代も死ぬのだが、その理由は生物としての限界によって死ぬわけだ。で、生物というのは次世代に命をつないでいくことで種を残していこうとする。それさえ出来ないのであれば、人間は動物としても最下等なものということになってしまうだろう。

 数十年で変化をすることがあるとすれば、その数十年で対応をしていけばいい。津波のようにあと数十分で到達して沿岸一帯が流されるという話なのであれば、その数十分で対応するしかない。その間に防護壁を建設するなんて悠長なことは言っていられない。すべてを置いて逃げる以外に方法はない。だが、数十年で変化するということであれば、ゆっくりと高台に移転すればいいし、防護壁を作るのも良い。ただし、数十年後にはちゃんと対応出来る青写真を作って取り組まなければならない。

 だが、数十年という単位で動く場合、途中から若い世代もプロジェクトに関わってくるようになる。その時、自分が関わっていない昔に作られた設計図に「それはおかしい」という疑問を持つようになる。そうなるとどうすれば良いのだろうか。これは本当に難しい話だ。若者が自分たちの身来のために「絶対にこっちだ」という主張があり、古い世代の初期の計画に瑕疵があるのであれば、一からやり直す必要があるだろう。大きなコストと時間がまたかかることになるが、どうしても必要なのであればやるしかない。

 だが、初期の制度設計思想の背景にあることを知らずして、目先の感覚で「それはおかしい」と若い世代が言い出すことがある。それはそうだ。変化への対応を始めるころの「対応しよう」という切羽詰まった思いの背景事情を体感してはいないのだから。その切羽詰まった事情を知らずに、制度が切り替わろうとするその時点の背景だけを体感し、「それはおかしい」とだけ言い出すのはやはり思慮深い建設的意見にはなり得ない。それは自分が若い頃に感じていたことなどすっかり忘れて「今どきの若い者は」と口走るオッサンや、自分の逃げ切りのために懸命になって若い世代の苦境や未来を一顧だにしない老人と変わらない愚かさだ。

 僕は音楽レーベルをやっている関係上、若いバンドと話をする機会も多い。僕としてはレーベルの価値というのは蓄積されたノウハウの伝達にあると思う。製造して販売するだけなら誰にだって出来る。また、ある程度インディーズ規模で売れているバンドなら大手プロダクションに所属してそこのマンパワーに乗っかるということも出来る。問題はそこまで行ってないバンドが、そこまで自力で行くにはどうしたらいいのかということで、それを克服するためにはそこに特化したノウハウがあるところのアドバイスが重要になる。

 だが、多くのバンドはそこでつまづく。ノウハウのアドバイスを理解せず、自分たちだけで考えた戦略で突き進んでしまう。いや、玉砕覚悟というのならそれは別にいいのだ。だが、成功するために、ステップアップするために何かをやろうとするのなら、落とし穴にハマらないで済むような道を歩む必要がある。それは要するに、目的地に行くための地図を手に入れるというようなもの。地図があればスーッと行けるのに、地図がないために最初の駅までで迷う。迷っているうちに歳をとってTHE ENDだ。しかし、多くのバンドが地図も持たずに感覚で「こっちだ!」と叫んで走っていってしまう。迷っているだけならいいけれど、落とし穴に落ちたり、地雷を踏んだりする。先人が「そこには地雷が埋まってるから気をつけてね」というのを聞かずに。

 何故こんなことを書いているのかというと、昨日Twitterで若い(と思われるけれども、正確なことはわからない)人から問いかけを受けた。今の選挙制度には問題があると。選挙制度とは、要するに小選挙区制のことだ。自民公明に2/3も投票していないのにこの数字はなんだという、そういう憤りから生まれる疑問であり問いかけなのだと思う。

 僕はこの制度を導入してきた経緯を考えると、それ以前の中選挙区制よりも遥かにいい制度だと思っている。ただ、小選挙区比例代表並立制というのがガンである。これが無ければ弱小政党など生き残ることができず、だから自然と2大政党制になっていくのだが、現実にはこの比例代表のおかげで弱小政党が今も乱立することになってしまっている。

 それ以前の中選挙区制の下では、ひとつの選挙区から4人とか当選することになるので、死に票は少ないとよく言われる。だが、4人当選する中に自民が3人、社会党が1人とか、自民が2人、公明が1人、共産党が1人というような感じになって、結局自民が過半数を超えるのが常態になり、政権交代の可能性が極めて難しいという政治状況だった。そういう中、自民党では誰が総理大臣になるのかが大臣ポストに極めて重要ということで、派閥活動に力を入れることになる。新人議員は右も左もわからない国会でどう活動をしていいのかを先輩にアドバイスされて育っていく。それが派閥だ。しかも選挙などの活動にかかる費用はまるごと派閥持ちになるので、派閥の領袖というのは資金力があるかどうかが重要になって来る。必然的に金権政治に陥り易いという状態だった。

 政治とカネという言葉が喧伝されたのもそういう背景。今のヨシミが金を8億円というようなものとは明らかに違う構図。だが国民には政権交替という可能性が見えないため、幾ら金権腐敗をしても自民党に代わる政党を選ぶことが基本的に出来ない。それを変えるのが、小沢一郎が主導して実現した小選挙区制の導入である。だが、彼がそれを実現する上では、当時の8党派による連立政権だったため、各政党が生き残れなくするような制度では法案が成立しない。だから比例代表制を組み込むことによって成立を図ったというのが経緯だった。

 それ以降18年。政権交替は何度も起こった。だが比例代表があるために弱小政党もいまだに残っている。そしてそれが今の自民大勝を演出する大道具になってしまっている。

 自民というのは基本的に経済利権政党なので、多少のイデオロギーの違いなら飲み込んで結束できる。しかしリベラルといわれる現在の野党は多少のイデオロギーの違いを存在意義にしてしまう傾向があって、だから分裂していく運命にある。そこに自己保身第一の共産党が加わって選挙区が乱立する。さらに自民別働隊という性格の政党が2つ3つ生まれるとさらに混乱していく。選挙区での選択肢が「自民対非自民」という構図になったとき、そこに5人立候補すれば比較1位の政党候補が30%程度の得票率で当選していく。弱小政党は比例頼みなので野党が乱立すればドント方式によってどんどん一種の死に票が生まれ、枠が減っていく。

 野党も候補を調整して統一すればけっして自民が選挙区で当選するような状況ではない。それは地方の首長選を見ていれば明らかだ。だが残念なことにそれは今回実現していない。野党系に集まった票を合計すれば楽勝で自民に勝っている選挙区はたくさんあった。2年前に較べればマシになったけれども、まだまだ調整不足で負けているのだ、野党は。

 つまり、30%程度の得票で2/3の議席を取ったというのは、それ自体が悪いことではなく、ルールなのだからそのルールを活かせない野党の側が甘いのだ。さらに言えば投票率が低くなるということは組織的に動いている固定票の割合が増えるということであり、だから52%の投票率では利権に絡んでいる組織集団が強い政党が勝つことになる。それが自民公明の圧勝であり、共産党の躍進なのだ。民主党も前回よりは増やしている。だが投票率が上がっていればもっと上積み出来ていただろう。それは要するに候補者調整、さらには政党の合流が必須になってくる。それを阻むのは青臭い理想主義であり、自己中心的な驕りであろう。そういうものを持っている間は、リアルな戦いに勝てるわけがない。多少選挙制度が変わったとしても、それは同じことだ。

 有権者の側にも問題は多い。なにより低投票率だ。民意が反映されないという意見にも一理あるが、だとしたら42%の人たちの民意とは何だ? 非自民にもっと勝って欲しいという民意は、選挙制度によって阻まれているのではない。中選挙区では選挙制度が非自民政権を阻む大きなハードルになっていた。だが、小選挙区のドラスティックに動く特性から考えても、まともに戦略的に動きさえすれば自民を破ることも難しいことではない。自滅したのだと考えるのが正しいだろう。

 そういう感じで、僕は民意を政治に反映させるためには小選挙区オンリーにしていくべきだと考えている。18年前の状況ではそう簡単に小選挙区オンリーには出来ない事情があった。それが18年経って改善していくのか。それとも現状に不満を持った人たちが「やっぱ中選挙区か?」という声を上げて振り出しに戻るのか。社会は変化するものの、必ず進歩するのではなく、後退することも当然ある。だから中選挙区制に戻るというのならそれもひとつの変化だろう。だが、20年単位でまた戻るのだとしたら、なんだかなあという思いしか浮かんでこないし、それはバンドマンが考えに考えた結果、歴史的にも論理的にも無駄でしかない戦略でバンド活動をしていこうということに至ってしまうのと同じことだなと思う。

 勿体無い。実に勿体無い。そうして希望とは真逆の状況に自らを追い込んでいってしまう。今回の選挙で安倍政権を選んでしまい、社会が経済的にも治安的にも底なし沼に引き返していってしまったように。