まず断っておきたいのは、時代は常に若者のためにあるという僕自身の認識についてだ。3ヶ月ほど前に50歳になった立場としては、もう消え去るべきところにいるのかもしれないという危機感も持っている。危機感というのはちょっと違うかもな。そういう認識を持っていなければ、ついつい「まだまだ若いものには負けん」的な驕りが生まれる。それに対しては強く警戒しておくべきだと、僕の世代はもちろん、これからそういう年齢になっていく世代も、個々が警戒しておくべきだと思う。
なぜ若者のために時代があるのか。それは社会というものが変化していくからである。1945年の終戦のように1日で世界が180度変わるようなことは希有な例で、ほとんどの変化は数年から数十年という単位で動いていく。現在50歳の人間にとって、20年で変わる変化についていくことが可能なのか、またついていく必要性はあるのかという問題があって、かなりの人の切実な現実を考えると、その必要性はない。というよりも、変化についていく能力がなく、だから如何にして現状を変えずに逃げ切るのかということを考えていくことになる。それが変化への抵抗勢力となっていく。50代60代は脳味噌の柔軟性も失われつつあるし、富や財などの点で蓄積してきたものも多い。だから、変化を嫌う。そこは動物として仕方のないことでもある。だが、僕らは人間だ。人間は考える葦である。動物とは違う尊厳を持って、自分の都合で変化を妨げることを留まらなければならないと思う。
そして変化というのは、良いことか悪いことかという価値の問題ではなく、否応なく訪れるものなのである。否応なく訪れるのだとしたら、対応しなければ死ぬだけということになってしまう。その時に変化への遅れで死ぬのは若い世代だ。同様に老人世代も死ぬのだが、その理由は生物としての限界によって死ぬわけだ。で、生物というのは次世代に命をつないでいくことで種を残していこうとする。それさえ出来ないのであれば、人間は動物としても最下等なものということになってしまうだろう。
数十年で変化をすることがあるとすれば、その数十年で対応をしていけばいい。津波のようにあと数十分で到達して沿岸一帯が流されるという話なのであれば、その数十分で対応するしかない。その間に防護壁を建設するなんて悠長なことは言っていられない。すべてを置いて逃げる以外に方法はない。だが、数十年で変化するということであれば、ゆっくりと高台に移転すればいいし、防護壁を作るのも良い。ただし、数十年後にはちゃんと対応出来る青写真を作って取り組まなければならない。
だが、数十年という単位で動く場合、途中から若い世代もプロジェクトに関わってくるようになる。その時、自分が関わっていない昔に作られた設計図に「それはおかしい」という疑問を持つようになる。そうなるとどうすれば良いのだろうか。これは本当に難しい話だ。若者が自分たちの身来のために「絶対にこっちだ」という主張があり、古い世代の初期の計画に瑕疵があるのであれば、一からやり直す必要があるだろう。大きなコストと時間がまたかかることになるが、どうしても必要なのであればやるしかない。
だが、初期の制度設計思想の背景にあることを知らずして、目先の感覚で「それはおかしい」と若い世代が言い出すことがある。それはそうだ。変化への対応を始めるころの「対応しよう」という切羽詰まった思いの背景事情を体感してはいないのだから。その切羽詰まった事情を知らずに、制度が切り替わろうとするその時点の背景だけを体感し、「それはおかしい」とだけ言い出すのはやはり思慮深い建設的意見にはなり得ない。それは自分が若い頃に感じていたことなどすっかり忘れて「今どきの若い者は」と口走るオッサンや、自分の逃げ切りのために懸命になって若い世代の苦境や未来を一顧だにしない老人と変わらない愚かさだ。
僕は音楽レーベルをやっている関係上、若いバンドと話をする機会も多い。僕としてはレーベルの価値というのは蓄積されたノウハウの伝達にあると思う。製造して販売するだけなら誰にだって出来る。また、ある程度インディーズ規模で売れているバンドなら大手プロダクションに所属してそこのマンパワーに乗っかるということも出来る。問題はそこまで行ってないバンドが、そこまで自力で行くにはどうしたらいいのかということで、それを克服するためにはそこに特化したノウハウがあるところのアドバイスが重要になる。
だが、多くのバンドはそこでつまづく。ノウハウのアドバイスを理解せず、自分たちだけで考えた戦略で突き進んでしまう。いや、玉砕覚悟というのならそれは別にいいのだ。だが、成功するために、ステップアップするために何かをやろうとするのなら、落とし穴にハマらないで済むような道を歩む必要がある。それは要するに、目的地に行くための地図を手に入れるというようなもの。地図があればスーッと行けるのに、地図がないために最初の駅までで迷う。迷っているうちに歳をとってTHE ENDだ。しかし、多くのバンドが地図も持たずに感覚で「こっちだ!」と叫んで走っていってしまう。迷っているだけならいいけれど、落とし穴に落ちたり、地雷を踏んだりする。先人が「そこには地雷が埋まってるから気をつけてね」というのを聞かずに。
何故こんなことを書いているのかというと、昨日Twitterで若い(と思われるけれども、正確なことはわからない)人から問いかけを受けた。今の選挙制度には問題があると。選挙制度とは、要するに小選挙区制のことだ。自民公明に2/3も投票していないのにこの数字はなんだという、そういう憤りから生まれる疑問であり問いかけなのだと思う。
僕はこの制度を導入してきた経緯を考えると、それ以前の中選挙区制よりも遥かにいい制度だと思っている。ただ、小選挙区比例代表並立制というのがガンである。これが無ければ弱小政党など生き残ることができず、だから自然と2大政党制になっていくのだが、現実にはこの比例代表のおかげで弱小政党が今も乱立することになってしまっている。
それ以前の中選挙区制の下では、ひとつの選挙区から4人とか当選することになるので、死に票は少ないとよく言われる。だが、4人当選する中に自民が3人、社会党が1人とか、自民が2人、公明が1人、共産党が1人というような感じになって、結局自民が過半数を超えるのが常態になり、政権交代の可能性が極めて難しいという政治状況だった。そういう中、自民党では誰が総理大臣になるのかが大臣ポストに極めて重要ということで、派閥活動に力を入れることになる。新人議員は右も左もわからない国会でどう活動をしていいのかを先輩にアドバイスされて育っていく。それが派閥だ。しかも選挙などの活動にかかる費用はまるごと派閥持ちになるので、派閥の領袖というのは資金力があるかどうかが重要になって来る。必然的に金権政治に陥り易いという状態だった。
政治とカネという言葉が喧伝されたのもそういう背景。今のヨシミが金を8億円というようなものとは明らかに違う構図。だが国民には政権交替という可能性が見えないため、幾ら金権腐敗をしても自民党に代わる政党を選ぶことが基本的に出来ない。それを変えるのが、小沢一郎が主導して実現した小選挙区制の導入である。だが、彼がそれを実現する上では、当時の8党派による連立政権だったため、各政党が生き残れなくするような制度では法案が成立しない。だから比例代表制を組み込むことによって成立を図ったというのが経緯だった。
それ以降18年。政権交替は何度も起こった。だが比例代表があるために弱小政党もいまだに残っている。そしてそれが今の自民大勝を演出する大道具になってしまっている。
自民というのは基本的に経済利権政党なので、多少のイデオロギーの違いなら飲み込んで結束できる。しかしリベラルといわれる現在の野党は多少のイデオロギーの違いを存在意義にしてしまう傾向があって、だから分裂していく運命にある。そこに自己保身第一の共産党が加わって選挙区が乱立する。さらに自民別働隊という性格の政党が2つ3つ生まれるとさらに混乱していく。選挙区での選択肢が「自民対非自民」という構図になったとき、そこに5人立候補すれば比較1位の政党候補が30%程度の得票率で当選していく。弱小政党は比例頼みなので野党が乱立すればドント方式によってどんどん一種の死に票が生まれ、枠が減っていく。
野党も候補を調整して統一すればけっして自民が選挙区で当選するような状況ではない。それは地方の首長選を見ていれば明らかだ。だが残念なことにそれは今回実現していない。野党系に集まった票を合計すれば楽勝で自民に勝っている選挙区はたくさんあった。2年前に較べればマシになったけれども、まだまだ調整不足で負けているのだ、野党は。
つまり、30%程度の得票で2/3の議席を取ったというのは、それ自体が悪いことではなく、ルールなのだからそのルールを活かせない野党の側が甘いのだ。さらに言えば投票率が低くなるということは組織的に動いている固定票の割合が増えるということであり、だから52%の投票率では利権に絡んでいる組織集団が強い政党が勝つことになる。それが自民公明の圧勝であり、共産党の躍進なのだ。民主党も前回よりは増やしている。だが投票率が上がっていればもっと上積み出来ていただろう。それは要するに候補者調整、さらには政党の合流が必須になってくる。それを阻むのは青臭い理想主義であり、自己中心的な驕りであろう。そういうものを持っている間は、リアルな戦いに勝てるわけがない。多少選挙制度が変わったとしても、それは同じことだ。
有権者の側にも問題は多い。なにより低投票率だ。民意が反映されないという意見にも一理あるが、だとしたら42%の人たちの民意とは何だ? 非自民にもっと勝って欲しいという民意は、選挙制度によって阻まれているのではない。中選挙区では選挙制度が非自民政権を阻む大きなハードルになっていた。だが、小選挙区のドラスティックに動く特性から考えても、まともに戦略的に動きさえすれば自民を破ることも難しいことではない。自滅したのだと考えるのが正しいだろう。
そういう感じで、僕は民意を政治に反映させるためには小選挙区オンリーにしていくべきだと考えている。18年前の状況ではそう簡単に小選挙区オンリーには出来ない事情があった。それが18年経って改善していくのか。それとも現状に不満を持った人たちが「やっぱ中選挙区か?」という声を上げて振り出しに戻るのか。社会は変化するものの、必ず進歩するのではなく、後退することも当然ある。だから中選挙区制に戻るというのならそれもひとつの変化だろう。だが、20年単位でまた戻るのだとしたら、なんだかなあという思いしか浮かんでこないし、それはバンドマンが考えに考えた結果、歴史的にも論理的にも無駄でしかない戦略でバンド活動をしていこうということに至ってしまうのと同じことだなと思う。
勿体無い。実に勿体無い。そうして希望とは真逆の状況に自らを追い込んでいってしまう。今回の選挙で安倍政権を選んでしまい、社会が経済的にも治安的にも底なし沼に引き返していってしまったように。