選択

有機肥料のはずだったものがそれは真っ赤な嘘で、化学肥料だったことが発覚し大騒動。有機にこだわり有機栽培の野菜を買おうとする人がいて、そのために自分の畑を有機にして商売をしている農家がいて、そういうのを全部まとめて騙していたわけだから、こりゃとんでもないことだ。

ここで議論になりやすいこととして、有機に意味があるのかという問題がある。有機でなくともいいぜという人たちがいて、その人たちにとってはどうでもいいことだったりする。例えば、AKBのCDが3種類のジャケットで出て、通販でジャケットAを買ったのに届いたのはジャケットBだったということに似ている。AKBに関心のない人にとっては、中の曲は同じなんだろ、じゃあどうでもいいじゃん、と思うのだが、ファンにそれは通じない。別ジャケットはまったく別モノなのである。意味は、あるのだ。

いや、意味があるのか無いのかではなくて、意味があると思ってる人と思ってない人が何についてもいるわけで、だから意味があるのか無いのか論に持ち込もうとする人というのは、問題の本質をずらすことで何らかの利益を得ようとする人か、さもなければただのバカかなので、相手にする必要はありません。

僕個人としては、有機であることにそれほどこだわりはない。化学肥料でも受け入れる立場。農薬は避けられるものなら避けるべきと思う。遺伝子組み換えはそこまで避けようとは思わず、放射性物質は可能な限り避ける、これは農薬以上に避ける。あとはなんだっけ?まあ言い出せばこだわりポイントにキリはなく、その上で、美味しいものを安く食べられれば、と思う。

僕の個人的な指針と100%一致する人ばかりではない訳で、それは僕の無知か、僕以外の人の無知か、あるいは両方の無知か、人類が知りうる知見の限界かに依るもので、だから誰を責めるつもりもないし、責められる謂れもない。

人はそれぞれが自分の勝手な判断と知識不足な能力ながらも、コレだと信じる基準によって懸命に生きている。そして日々正しいモノを選ぼうとしている。そういうのが、尊い。偽装というのはそういう懸命な選択の根拠を根底から無意味にさせることなので、ダメなのだ。

例えば、マンション杭打ちの件。巨大なマンションが長年の間に傾いたと。渡り廊下がずれているのに住民が気付き発覚したそうな。ではこれ、生活への影響はどうなのかといえば、たいしたことは無かろうと思う。原発事故の後によく言われたのは「放射能で死んだ人はいないよ。それよりも無茶な移住で生活環境を変えたことによるストレスで死ぬ人は多いのだ」ということだった。その説をマンション杭打ちの件で言い出す人が出てくるだろうと思っているのだが、残念ながらまだ現れていないようだ。マンションで発生したわずかな傾斜で、多分人は死なない。だが健康への影響がゼロなはずはなく、ちょっとした不調は必ず起きる。しかし貧乏ゆすりをするとか、脚を組む癖があるとか、そういうことの方が影響は大きいはずで、だから傾きの程度問題ではあるものの、マンション杭打ちの件で死ぬ人は出ないと思われる。多少の地震で倒壊することも考えにくいし、正しく建てられていても、コンクリートや鉄骨の劣化などもあるし、地震規模が大き過ぎればどっちにせよ倒れる。

だから、マンション杭打ちのデータ偽装くらいで怒るなよと言う人がいたら、それは違うよと明確に言っておくべきだろう。世の中にはいろんな人がいて、僕はマンション杭打ちのデータ偽装で倒壊はないと思っているが、倒壊するかもしれないと考える人だっているわけで、どちらが正しいということではなく、どちらもそう思っているということなのだ。化学肥料でも大丈夫という人と有機でなきゃだめという人が同時に存在する。放射性物質は絶対ダメという人と多少は大丈夫という人が同時に存在する。どちらが正しいではなく、どちらも存在するというだけで、その判断は個々人の持ち得る知識が総動員された結果なのであり、サジェスチョンはできても、否定は誰もできない。だから結局は個々人がそれぞれの判断に基づき日々の選択をしていくしかない訳だが、偽装はその判断をすべて無駄にしてしまう。だから、杭打ちデータ偽装はダメだし、肥料成分偽装はダメだし、産地偽装はダメなのである。

秋田の肥料会社は、有機で作ると臭いが出て、工場周辺の住民から苦情が来ると説明していた。そうだろうなと、僕も思う。だからそれをクリアするのは大変で、有機肥料は高くなり、有機農業も高コストになり、有機野菜は高くなるのだ。それを言い訳にして偽装が良いということにはならない。絶対にならない。有機肥料を作るのが困難ならば、化学肥料を作る会社として堂々と商売すれば良いだけのこと。

マンションの件では、いろいろな立場の会社が会見をおこなっているが、ほぼすべては言い訳と責任逃れのように感じる。発注側が、工期やコストについて圧力などかけていないと連日言っている。だが、これこそ最大の偽装なのではと感じている。この期に及んでそういう綺麗事を言ってるようでは、偽装はこれからも起こるだろうし、その綺麗事を受け入れるようでは、この国の国民はチョロいものだと思われて、またコロコロと偽装で騙され続けるのだろう。

どうしてそうなっているのか

 朝のニュースで気になる話をやっていた。ひとつは、「中国人の消費、若者が支える」。もうひとつは「中国人観光客増加〜バス会社の危機」。いや、見たのを思い出しながら書いているので、出されていた見出しとまったく同じかどうかは自信がありません。

 まず気になるのは、バス会社の件。観光バスを何台か所有しているバス会社が、観光旅行にバスをチャーターされたら仕事を受けてバスを出すけれど、1日1回あたり70000円のお金しかもらえず、ドライバーの人件費とガソリン代を引いたら利益なんてほとんど残らない。それでもバスを遊ばせておいてもダメなのでその値段で受けるしかない。法廷で定められた範囲だけでやっていては仕事が取れないので範囲外にも運転することになる。それで、監査に引っ掛かって一定期間の運行停止を命じられたと。その後に中国人観光ツアーの仕組みが説明されて、中国の旅行会社と日本国内でのバス会社などの仲介をする仲介コーディネイター(これもニュースではもっと別の言葉で紹介されていた。覚えることできず)に話を聞き「少しでも安く仕事を受けてくれるバス会社を探すのが仕事。高いバスをチャーターしてたのでは自分が赤字になる」と言っていた。

 この流れから、中国人の日本観光をセッティングする人が悪いような印象のニュースになっていくし、バス会社が苦労しているのは中国人観光客のせいという印象が生みだされていた。でも、そうなのか? 本当に中国人が悪いのか?

 そうじゃないだろう。日本は素晴らしいという観点でものを考えたいのであれば、なぜ日本人がバス会社も利益を出せるような適正な価格でバスをチャーターして旅行をしないのか、ということを考えた方がいい。利益の出る適正な価格の依頼があれば、バス会社もそちらを選ぶ。だが現状としてそのバス会社にもっとも高い金額を提示しているのが中国人観光客ツアーを扱っているコーディネイターだというのが、現実だろう。じゃあ日本人はバスツアーをしないのかというと、そんなことはない。激安を謳い文句にしたツアーはたくさんある。数千円でかに食べ放題バスツアーとかたくさんある。その金額だとかにの代金も出ないんじゃないのかと心配するようなもの。そういうのに慣らされると、人はもう安いツアーにしか興味がなくなっていく。その結果、ニュースで取り上げられたバス会社に最も高い金額を提示するのが中国人観光客ツアーのコーディネイターということになっているのだろう。なぜ日本の旅行企画会社は、それを超える金額でのチャーターを提示しないのか。そこを無視して、外国を批判する材料にするのはなにかおかしい。

 国交省だったか、バス会社の抜打ち監査をする係の人が「監査をする人数が足らない」と言っていた。いや、安全を確保するためには何をすべきなのか。厳しい規制をする、それはいいだろう。だが経済的に困窮すればバス会社も追い込まれる。むしろ、常識で考えた範囲でのバスチャーター最低価格というものを設定する方がいいのではないか。そうすることで、多少のゆとりをもったバス運行をしていけるようになる。そこは自由経済と統制経済の間で難しい問題で、あまりに過剰にやるととり過ぎになっていく。その結果、空の安全を担保するために設定していたはずの飛行機の料金が高くなり過ぎ、LCCの料金でも十分に運行できたはずなのに倍以上の金額のチケットしかないという状況にもなるわけで、どちらがいいのかは難しいところだが、どうも「監査をする人数を増やすべき」ということで役人の焼け太りにしか向かっていないようで歯がゆい。

 「中国人の消費、若者が支える」というニュースは、ああ、日本もバブル時代に通った道だなという気がしないでもない。だからいつかはその消費も冷える時が来るだろうとは思うものの、中国の政策が個人消費を重視した方向で動いているというのは羨ましい限りである。そりゃあ日本の若者だって金額を気にせずに欲しい物を買い、食べたいものを食べたいのだ。だがそれができない。金が回っていないからだ。学生はもちろん、社会人になったところで非正規ではバイトの延長でしかなく、自由に使えるお金はほとんど無い。もちろんそれが政策だけの話ではなくて諸々の社会の在り様とか個人の努力とかそりゃああるけれども、若い人に金を使わないし、非正規をどんどん増やす企業を優遇していくような仕組みを見ていると、まあしばらくは若者は金使えないだろうしその結果国内消費は冷え込むばかりだなというのは、僕みたいな文学部野郎にだってあからさまに判る。

 昨日も会社の近くの薬屋さんに立ち寄ったら、中国語を話すグループがいろいろな薬を買っていた。日本での買い物のルールがわかってないからカゴも持たずに手にいくつもの商品を握りしめている。レジで並んでいて、列が長くなったから店員さんがレジをもう1つ開けて、「お次の方どうぞ」と声をかけるも、中国人のお客さんは言葉がわからずにそちらに行かない。相変わらず並んでいる列に立ちつつ、グループの仲間のリーダー格の人と話をしている。店員さんもちょっと困った表情で「じゃあ、お次の方」といって僕をそのレジに呼ぶ。僕も仕方なくそちらに移って買い物を済ませる。こういうのを批判する人もいるが、じゃあ僕らが初めて海外旅行をした時にどうだったのかということを思い出したら、何故批判などできようかという気分になるよ。ましてや日本語での呼びかけだ。例えばロシアに旅行をしてロシア語で呼びかけられて対応できるか?中国に行って中国語で呼びかけられて対応できるか?僕はできません。それで現地の人に批判されても困るし、だから僕はそういうことで批判する方がマナーがなってないと、思う。
 そしてなにより、今の日本の経済の一端を、外国人観光客の爆買いが支えているということを忘れてはならない。買ってもらってて、批判するなんて言うのがいいマナーなはずはない。そんなの、例えばコンビニに行って何かを買って、外に出た瞬間に「今の客、ダサイよね」とか言うのと同じで、なにがおもてなしだ、という話になる。そんなのが美しい国であるわけがない。

 一般の商店も、日本人の国内消費だけで十分に潤うのならいいのだろうけれどもそうは行かない。バス会社と同じだ。海外の人にもっと日本国内でお金を落としてもらう必要があるし、その人たちが提示する適正金額が日本人一般が考える適正金額よりも低いというのであれば、日本人一般が考える適正金額でモノやサービスを買っていけばいいだけの話で、それをしないのに批判するというのは、やはりどこか性根が腐っているということだろうし、そういう方向に世論を誘導しつつある報道には、強い疑念を抱かざるを得ない。

寄り掛かることの大義

同性婚をパートナーシップなんとかということで証明書を渋谷区と世田谷区が発行し始めたと。そのニュースに対して反発なのであろう、あるツイートで「国が支援するのは子供を産む可能性がある場合であって」というのを見た。その論が正しいのなら、高齢での結婚は支援されるべきではないことになる。まあこの場合の支援というのは金くれるとかではなく制度として認めるということだろうが、高齢での結婚は制度として認められないということでなければ理屈は通らない。もっと厳密に言うと、高齢の女性が結婚するのは制度として認めないということでなければ理屈は通らない。論理的に何才からが出産不能なのかというのは素人には難しい判断だが、65歳以上の女性による結婚は制度として認められないということになるだろう。

しかし高齢者同士の結婚は世の中にザラにある。老人ホームに入ってる、配偶者を亡くした同士が結婚することも少なくない。独身老人向けの婚活パーティーも盛んだ。彼らは子供を作ることを目的にはしていない。当たり前だ。結婚が人生に活力を与えることは多い。いや、結婚を人生の墓場だと言う人もいるけどさ。

国家が子供を作る可能性のあるカップルに対してのみ制度として支援するというロジックは、結婚によって生き甲斐を得ることを否定する。さらには、子供を作ることの持つ様々な意義を否定する。そういう考えを、僕は支持しない。

制度とは、単なる社会の決まりごとであって、絶対の真理ではない。車は左を走るものだというのは、日本では当然の前提だが、真理ではない。車が右側を通行している国はいくらでもある。夫婦別姓についても、それを認めている国もあるのだろう。細かなリサーチはしていないけども。海外にはミドルネームがあることが多く、そこに色々な意味を込めているらしい。だが日本人の僕にはその理屈がよくわからない。いや説明されればわかるのだけど、体感としてスッと受け入れられない。海外のサイトで登録などする際にその欄があって、当然空欄なのだが、空欄を残すのには違和感がある。それは、僕の中の文化によるものなのだろう。

文化と制度というものは別で、そこを混同して考えてしまう人は多い。文化は染み付いているもので、情のもの。制度は理屈によるもので、情のものではない。郷に入っては郷に従えというのは理による対応のことを言っており、海外に暮らしてもなお醤油や味噌の食事を欲してしまうのは情による行為だ。

結婚はなんなんだろうか。思うに、形を取ることで安心する為の何物かなのではないだろうか。結婚式では神に誓う。教会でも仏式でも神前式でも。人前式というのもあるが、それでも参会した人たちの前で誓うのであり、そこになんの拘束力もない。心の中の話であればそれだけで良さそうなものだが、その後に婚姻届を人は出す。ラスベガスではドライブスルー結婚というものがあるが、あれだって神父さんの前でセレモニーをするだけじゃなくちゃんと書類に記入して役所に提出する。それは式とは別の、法的拘束力の下に結婚を置くことによって、幾つかの権利を得る何かなのだ。

財産的な共有の何かもあるが、当事者としては重婚は出来ませんよという保証を得るということも大きいだろう。不倫カップルで「今の妻とは別れるから、お前を1番愛してるから」と言う男を心から信じて愛することが出来るのなら、別に離婚しなくとも毎日自分のとこに来て生活してくれればそれでいいはずだが、不倫男は不倫するくらいだから言動を信頼することなど出来ず、本当に1番なら、態度で示せよとなる。それが、妻との離婚&自分との結婚ということなのだろう。ま、不倫するやつなど最初から信用しなけりゃいいのにと思うけど、好きだの惚れただのいうのは理屈ではないのだろうから仕方ない。

話を元に戻そう。結婚は男女のみと制度で決めていることのメリットがあるとすれば、男女で付き合うということを敢えて選択する必要がないということだ。性同一性障害という、まるで病気のような呼び方をするが、男同士や女同士で恋愛したいということは病気ではないだろう。単にマイノリティかどうかというだけ。じゃあ大量宣伝でハリウッド映画を好きだという人と、ハリウッド映画嫌いでフランス映画が好きだという人と、数的にはハリウッド映画派の方が多いだろうが、その場合にフランス映画好きを、マイノリティとは呼んでも「映画嗜好障害」とは呼ばない。当たり前のことだ。同性同士で愛し合うことで、子供を持つ可能性は少なくなるだろうが、女性同士のカップルが他人の精子の提供を受けて人工授精で出産することはあり得る。男女婚のカップルでは普通に行われている。話逸れそうなのでまた元に戻すが、結婚は男女のみとすることで、同性同士で付き合うことを「常識」として排除することができる。夫婦別姓についても、制度でどちらかに決めることにして、「常識」で普通は男の姓だろとすることで、考えることをやめることが出来る。考えずに済むことのメリットは実は大きい。だが、それでも考えたいのだという人の存在と希望を無視して抑圧する権利が、思考停止を望む人にあるのだろうかというと、やはり疑問を持ってしまうのだ、僕は。

それは要するに、制度というものと文化というものをリンクさせておけば楽だから、楽な側にいる立場の人にとってはその制度に寄りかかりたいし、その制度を揺るがしかねない何かが起こった時に、ついつい反発をしてしまうのだろう。だがそれは単なる思考停止でしかないということを、常日頃から自問自答しておかなければならないのだろうと僕は思う。

例えばある宗教が台頭してこの国で多数派を形成したとする。当然政権を取るだろう。社会制度をその宗教に沿ったものに変えていくだろう。その時、その宗教に帰依しない人はたちまちマイノリティになるが、マイノリティの尊重する文化とは相容れない制度が制定された時、果たしてそれに反対することなくわだかまりもなく受け容れられるのだろうか。言うまでもなく大多数に都合のいい制度が制定された方が社会はうまく回る。だがその効率の陰で文化を否定されて生き難さを味わう人が生まれてくる。そういう人の文化を尊重し、居場所を作ろうとするのか。それとも、そういう人を排除したり、無視していくのか。そういうことが問われているのだろう。共存することと、排除することと、どちらが文明的に高度なのかは、いちいち論ずるまでもないとは思うけれども、どうだろうか。

一期一会

Twitterを始めてもうすぐ6年が経つ。実社会での6年といえばちょうど小学校に入って卒業するまでだ。

その間に知り合った人も多数。何度か交流して、実際にお会いした人も少なくない。今のリアル友人が学生時代や会社員時代でほぼ95%ということを考えると、もはや新たに学校に通うことも、どこかに働きに行くこともない身にとっては、新たな出会いを提供してくれるこのSNSというのはありがたい存在だ。もちろん功罪もあるだろう。ネットの闇はそれなりに深い。匿名性が強い分、人は攻撃性を隠さない。でも、よく考えるとリアルな場でも功罪はある。離脱不能な義務教育の中でもイジメは起きる。人が陰湿になるのは、なにも匿名性が担保されているからではない。

で、仲良くさせていただいた方が、時々いなくなる場合がある。リアルな場でやりとりをして連絡先を別に交換していれば、そちらで交流することも不可能ではないが、SNSだけの交流では、1度いなくなったらもうつながることは難しい。アカウントを残したままアクセスや書き込みをやめてしまう人、アカウントを削除してしまう人、様々だ。宣言して削除する人もいるが、ほとんどの場合、知らないうちにフェイドアウト。だから最近何やってるかなあと思った時にはもうとっくにいなくなってしまっている。

だから、つながってるうちに会っておこうよと言いたいが、SNSだからの距離感というのも確実にあるし、その距離感の心地良さを超えて会うのはバランスの崩壊の危険性を孕んでいたりする。その危険性を押して会ったところで、フェイドアウトしてしまえば、やはりそこで切れるのだ。

SNSでつながっている人は知っているかもしれないが、僕の会社の窓の外には屋根瓦が広がっている。そこに、ネコが現れる。ある時からネコちゃんと呼ぶようになり、以降それは猫ちゃんではなく、猫でもなく、ネコちゃんだ。京都に来てからすぐにやって来るようになったネコちゃんは、SNSでつながっている東京時代のリアル友人とのやりとりとは別のレベルで、僕の心の平安に貢献していたと思う。夏の暑い時期は屋根瓦が熱くなり、だからネコちゃんもやって来ない。どうしてるかな、熱いもんな、日陰で休んでな、そう思っていると、オフィスの冷房を使わなくなる辺りでフラリとまた顔を出す。その繰り返しを何度か。

でも、この秋にネコちゃんはまだ来ない。あと数週間で僕のオフィスは暖房を使い始めるだろう。それまでには来るかなという淡い期待と、いや、彼女はもう来ないだろうという漠たる諦めと。それはSNSでフェイドアウトした人たちに抱く想いに重なる。いや、違うな。ネコちゃんはもう生きていないんじゃないかという想像がある分、SNSのフェイドアウトとは違っている。もちろんSNSの人だって死んでいる人もいるだろうし。事実リアル友人の1人は事故で亡くなって、Facebookのアカウントはまるで墓参りをするかのように故人を偲ぶ場になっているが、Twitterのアカウントは放置されたままで、その彼しか知らない人は、彼がフェイドアウトしただけだと思っていても不思議はない。

人の出会いは本当に一期一会である。この関係は永遠だと思っていても、それは錯覚に過ぎない。人というか、ネコちゃんも含めて、別れは唐突に訪れる。そのことを理解して、交流をしていかなければと思う。今ここでやりとりしていられる喜びを常に感じつつ、ありがたいと思いつつ。

何処かの誰かがフェイドアウトするばかりでなく、自分の方がフェイドアウトする可能性も考慮に入れて。だってあれでしょ。自分がSNSからフェイドアウトするわけないと思ってる人だって、mixiからはフェイドアウトしてるでしょ、そうでしょ。

どんぐりダンス

息子3歳児、保育園の運動会があった。

まだ2歳にもなっていなかった昨年春の運動会では上手におゆうぎできたものの、おそらくその時はまだ神経の細やかさが発達していなかったのだろう。昨年秋の運動会では着いた時から号泣。たくさんの大人がテント下に座って自分たちを見てるという状況にまた号泣。泣っぷりのあまりの見事さに「こいつは大物だ」とお父さんだから思うものの、客席からは「あんなに泣くとは、みっともない」とかいう声も聞こえてきた。おいおい、まだ2歳児なんだよ、泣いたっていいだろ。それに親も客席にいるんだということは、ちょっと考えればわかるだろう大人なんだから。と思うが、僕の仕事はそんな言葉を叱責することではなく、頑張った息子を、出番が終わって戻ってきた時に抱きしめてやることなので、まあそれは放置。

んで、今年春の運動会では、朝、家を出る時に「体操服は着ない!」と断固拒否。なだめすかしても拒否。仕方なく外に出て、バス停のところでなんとか着替えさせるのに成功するも、運動会の間中号泣。これがトラウマになって恒例にならなきゃいいけどと思いつつ、出番が終わってからぎゅっと抱きしめてあげる。恒例のお仕事。

いや、運動会で泣いてもいいのだ。上手に何かをやれなくてもいいのだ。そんなことで親が失望するようでは子供は居場所を失うだろう。泣こうが喚こうが、終わったら抱きしめて、美味しいものでも食べに行く。美味しいものって言っても、今の3歳児にはうどんとメロンパンがあれば至福らしいので、親は楽させてもらっているのだが。

そんな息子の秋の運動会。保育園に到着すると保育士の先生に渡して親は客席で。半年前の記憶が蘇るのだろう、その瞬間に号泣。子供席に連れて行かれるも号泣なので、先生は息子を抱っこして、だからその先生は他のお仕事出来ず。まあ子供を抱っこするのは先生にとっても仕事なのだが、息子がその先生を独占してる分、他のお子様へのケアは減るわけで、大人としてはプチ申し訳ない気分。でもそのおかげで気持ちも落ち着いたのか、泣き止んだ。おお、今年はイケるかと思っていると、入場行進も泣かずに出来て、おお、今年はかなりイケそうだと確信して、いざ、おゆうぎの番に。息子のクラスはどんぐりダンスをすることに。音楽が始まり、先生が前で踊り始めると、息子、それをよく見て、踊る。上手だ。ひとつひとつの振りが大きい。すごいぞ息子。なんといっても、泣いてない。

泣いてないだけでも大進歩なのに、ダンスが上手だ。親バカの贔屓目を考慮してもクラスで1番上手だ!上手に踊ってるうちに楽しくなってきたみたいで、キョトンとしてた顔に笑顔が広がる。嬉しそうだ。ダンスは楽しんで踊るとさらにいきいきしてくる。いいぞいいぞ。わざわざ遠くから見に来たおじいちゃんおばあちゃんにもきっと笑顔が広がってることだろう。こっちはビデオ撮るのに忙しいのでそこまでチェック出来んけども。

上手に踊れたという自覚があるのだろう。幼児だけで踊った後に親も参加して踊るということになり、お母さんが園庭に。音楽が始まりダンスもスタート。すると息子、さっきまでは先生の踊りを集中して見て踊っていたのに、今度は時折お母さん方を見る。その様は「お母さん、ちゃんと踊れとるんか?」とチェックしているかのよう。先生の踊りをあまり見てないのに、ちゃんと踊れてる。踊れているし、自信が出てきたみたいだ。

繰り返すけど、別にダンスが踊れなくてもいいし、号泣し続けてもいい。人間誰しも不得手なことはある。親2人とも運動は苦手だ。だから運動会で活躍できなくたってまったく構わない。それに、もし自分が満場の客の前で踊れとか歌えとか喋れとか言われたら、ちゃんとやれる自信は無い。ちゃんとやれたとしても心臓はバクバクだろう。大人だってそうなのだから、3歳児が不安で泣くくらいは当たり前だろう。と、思う。

だが、そんな中、たまたま息子は機嫌が良くて、たまたま上手に踊れて、それが自信につながって、とても良かったと思う。小さな頃の自信は、成長の上でとても大きい。だからことあるごとに「偉いね」「上手だね」と褒めているのだが、親に言われることと、親の手を離れたところで頑張って得た達成感はまた違った種類の手応えだろうし、そんなのを得る機会はそうそうあるわけじゃない。そういう意味で、今日の運動会、どんぐりダンスは息子にとって貴重な体験だったのではないかと感じた。なにより、泣いていた息子をずっと抱っこして気持ちを落ち着かせてくれた先生に感謝したい。

秋晴れの今日、おばあちゃんと一緒にお出かけの予定。家族みんなに楽しい1日になればと願うばかりだ。

ネコ

 盛夏は過ぎ去り、京都にも長袖が当たり前の季節がやってきた。

 会社の窓から見える屋根瓦にもネコが帰ってくる。暑い盛りには太陽に熱されていた瓦も今はひなたぼっこに最適な場所になったのだろう。ネコが昼寝する姿がチラホラと見受けられる。

 でも、ネコちゃんの姿はまだない。

 2011年にこのオフィスに入居して、その秋頃から今年の春までずっと顔を見せていたそのネコちゃんは、この夏を超えた瓦屋根にまだ来ていない。春頃に来た時に、その姿を遠巻きに見ていた2匹の小さなネコたちが代わる代わる屋根の上で寝ている。彼らは、ネコちゃんの子供なのではないかと思っている。確信は無いのだけれども、ネコちゃんが最初に来たのは2011年の初夏。小さなネコちゃんはその母親と思われるネコの後方から遠巻きに見ていて、盛夏を超えた秋口に、母親の姿はなく、ネコちゃんが少しばかり大きくなって1匹でやってくるようになった。今昼寝をしている2匹のネコは、その時の入れ替わりを思い起こさせる。

 その相似が本当だったら、もうネコちゃんはここにはやってこないのだろうか。そんなことを、初夏に何となく感じていて、そして今、かなり現実味を帯びて感じざるを得なくなっている。

 以前、ネコちゃんについてのブログを書いた。『迷いネコ』というタイトルの記事で、「もしも生まれ変わることがあって、その時ネコになるのだとしたら、僕は誰かに飼われるネコじゃなく、雨露をしのぐのもひと苦労な野良猫になりたい。たとえ野良猫の寿命が飼い猫よりもかなり短いとしても、好きな時に好きなところへ行けるノラになりたい。その方がいいって、今は思う。本当はそんなに遠くに行けないのだとしてもだ。」と書いた。その時に調べたら、ノラネコは飼い猫の1/3しか生きられないということだった。だとすれば、あのネコちゃんが2011年にやってきて今年2015年だから、もうこの世にいない可能性だって十分にある。姿を見せてくれさえすればそうじゃないことは判るのだが、姿を見せない以上、どこかに行ってしまっただけのか、それとも死んでしまったのか、僕には知る由もない。

 ネコちゃんは僕の姿を見ると窓の近くに駆け寄ってきたし、姿を見なくとも窓のすぐそばで昼寝をしていた。今姿を見せている2匹のネコは、屋根の上にはいるけれども、けっして窓際には近寄ってこない。そのうちに慣れることがあるのだろうか。それとも警戒し続けたままなのだろうか。

 もちろん、仮に警戒を解いて窓際に来るようになったとしても、それは単に若いネコというだけで、ネコちゃんではないのだけれども。

組体操

 このところ組体操へのバッシングが大きくなって聞こえてくる。あれね、違和感あるんですわ。

 何故だろう。何故違和感あるんだろう。答えは簡単です。組体操経験者だから。

 通っていた高校は200年を超える伝統校で、運動会では必ず組体操をやる。組体操というとなんかそれにも違和感があります。我が母校ではあれをタンブリングと言っていた。タンブリングの中に、ピラミッドやタワーがあって、当時の福岡でそれをやっていた公立校はウチだけだったんじゃないだろうか、30年以上前の話。で、タワーは4タワー、ピラミッドは7ピラをやってて、7ピラが華です。なんといっても中心で目立つ。全学年を4つのブロックに分け、各ブロックが7ピラを立てる。4つとも成功することはほとんどなくて、たいてい2つくらいしか立たない。あとは失敗して潰れることになる。背が高い僕は黄色ブロックの7ピラの1段目中央。腕が長いものだから普通に垂直にしてたら他と高さが合わなくなるということでちょっと斜めに腕を立てる。そう、結構しんどいんです。それでも僕自身が崩れて全体が崩れるということはなく、たいてい4段目あたりが登っている時に崩れる。そういうものです、ピラミッドというのは。もちろん1段目が崩れることもあるけれども。

 その1段目真ん中を任されているということはちょっとした誇らしいなにかがあって、そこで頑張っているというのが自信になったりもする。ええ、単純なクルクルパーですよ、高校生のプライドなんて。もっと勉強頑張ればいいのに、そっちはすっかり置いといて、7ピラ。高校3年生の夏休みに何やってんだろうと、進学校のはずなのに。みんなで浪人街道驀進します。優秀なヤツらはそれでも現役で東大とか受かっちゃうんだけども。

 そういう高校時代を経てきた自分としては、組体操死ねみたいな、組体操の映像キモイみたいなツイートを見ると、ちょっと哀しくなってきたりします。

 でもね、事故が起こってるんだったらやっぱり考えなきゃなというのも、冷静な大人としては考えるわけです。ここ重要。なにが重要なのか。自分が通過してきたなにかというものにノスタルジックな想いを重ねて美化していく。これが「イマドキの若い者は」的な思考に陥る原点だと思うのであって、それは昔の軍隊を経験してきた人が「軍隊こそ人間を鍛える素晴らしいものである」などと口走るくそじじいに成り下がっている例をいっぱい見ますもの。自分がやって良かったなと思うものすべてが、本当に正解なのかというとそうではないということ。自分の過去を美化することは大人としては強く戒めなければならないということ。それが、重要だと思うわけです。

 んで、事故のあった組体操の学校校長のインタビューを先日見ました。そこは10段ピラミッドをやっているのだと。おいおい、10段は無茶だぞ。僕は率直にそう思います。それは、事故が起きます。別に高校生が命を懸けてやるほどのことじゃないのだから、7段ピラミッドでいいじゃないですか。10段とかやってるところに、物理の教師はいないのですか。そういいたい。ええ、7段も危険と言えば危険だから、5段でいいじゃないですか。勉強をゆとりにしてなぜピラミッドをゆとりにする知恵がないのか。そんな校長の学校に通うのは不幸だなあと思います。

 で、昨年骨折事故があったから、対策としてピラミッドの周囲に立つ補助教員の数を増やしたと。ええ、何の役にも立たないでしょう。7ピラが地上何メートルあるのか知ってますか?それの約1.5倍の高さになるわけで、10段だったら。何メートルになるのか。そんなところから落ちてくる生徒を、人間が支えられるわけはない。そんなの、自動車の衝突事故が起きた場合に、チャイルドシートに支えられていない子供が飛んでいくのを避けられないのと同じです。いくら愛情に溢れた母親が抱っこしていたとしても、赤ちゃんはフロントガラスめがけて飛んでいくしかありません。それは、無理なのです。同様に、10段ピラミッドが崩れる時に生徒を受け止められる教師など、いないと考えるのが妥当でしょう。そう考えずに10段ピラミッドを事故の翌年にまた続けるなど、やはりアホかと言わざるをえません。

 危険な10段ピラミッドの1段目中央を任される生徒は、誇らしい気持ちマックスでしょう。これは俺にしか出来ないと。7段ピラミッドの1段目中央でさえ誇らしかったのですから。高校生なんていうものは、それなりの進学校であっても脳味噌クルクルパーですから。命懸けの何かをできるかとか言われたら、アドレナリン出まくりでしょう。うん。まあ僕なら10段の1番下は止めとくかなあ。でもその場になったらどうかわからないなあ。なので、やはり大人が止めておくべきです。それが出来る大人が、勇気ある大人だと思います。

 僕の卒業後、周囲の高校でもピラミッドやるところは増えたみたいだし、それが「あの伝統校と同じことを俺らも出来るんだ」という競争心でやってるんだとしたら、なんか違うと思うし、そんなことの対象にされるんだったら、母校のそれもさっさとやめちゃえばいいのにと思う。ましてや、「あそこは7ピラだけど、俺たちは8ピラやるぞ」がプライドなら、その8ピラもやがて9ピラやるところに追い越されるわけで、その結果が10ピラになり、やがて11ピラ、12ピラとなっていって、人間の肉体では到達できるはずもない何かを、未熟な精神が妄想の下に達成しようとすることになるのでしょう。

 もう15ピラとかになったら高さ何メートルになるのでしょうか。考えるだけで怖いです。

(追記:書き終えてから、大阪八尾市の10ピラの動画見ました。このピラミッドって、後ろの支えがあるんですね。僕の高校でやってたのとは全然違います。僕の高校のは、前後は無しの1列。なので横から見るとペラっとしたピラミッド。なので7段が限界なのでしょうね。手の長さと太腿の長さに差があるので、上段になるとどうしても足場が傾くから。いやまあだからといってピラミッドが危険じゃないという話ではないけど、ああやって前後にも人が付くようになると、何段でも積み上げ可能になってくるし、1段目の危険性は倍々ゲームで増えていく。しかもあれ、中学校だったし…。中学生にさせちゃいけませんよ。ええ、高校生でも10段はやめた方がいい。)

一歩前へ

 日本人は会議で発言することがとても苦手。たぶん、慣れてないからだと思う。まあこの20年以上会議らしい会議に出たことがないので、ビジネス最前線の会議がどうなのかは知らないのですけど。

 学校時代のホームルームなんかでも、意見を言う人は本当に稀。でも中には意見を言いたがる人がいて、だいたいそういう数人の論争でホームルームの結論は決まってしまう。で、過激な生徒、偏った生徒の意見が通りそうになるとすかさず先生が出てきて方向を修正し、先生にとって望ましい結論に導かれる。そういうのを見ていると、「なんだ、結局先生が決めるんじゃん」ということを普通の生徒は学んでいく。だから、余計に意見を言うことをやめてしまう。だって、ムダなんだもの。

 会社の会議でも、結局はその中で一番えらい人が頭に想い描いている結論に落ち着くことになる。意見を言うということはエラい人に逆らうことでもある。だから誰も意見を言わない。だったら会議なんて必要ないじゃん、エラい人が企画書書いて通達すればいいんじゃないと思うが、そこは建前上民主主義の社会において民主的に会社を運営しているというタテマエもあって、お前もその会議に出てただろ、反対の意見言ったか?言ってないよな。じゃあ賛成したということだもんな。という強制的に賛意を確認させられる場として会議は在る。そこに出席して反対を主張しなかったということは、要するに連座制の中に入れられるということだ。

 たまったものじゃないけども、それが日本の合議制というやつだから仕方ない。

 それは音楽でも似たような感じがあって、売れないバンドマンが集うライブハウスに足を運ぶ仕事をしていると、客席がガラガラのことがよくある。バンドは盛り上げたいから「もっとみんな、前の方に来いよ、スペース空いてるぞ」とステージ上から声をかける。でも、空いてるから行きたくないんだよ。その客の気持ちはよくわかる。もちろん、バンドマンの気持ちもよくわかる。

 で、客の中にも葛藤はちゃんとあって、応援したいから前の方に行きたいんだけれど、ガラガラのあの場所で自分だけがノリノリで踊っている様子を頭の中でシュミレーションすることくらいは簡単なので、瞬時のうちに無意識に行うんだけれど、結果、恥ずかしいのですそれ。だから行かない。行かないけど、行ってあげたい。その葛藤は、ファンの中にもある。

 で、行きたいと思っているけれど誰かが先頭切って行ってくれないと自分が先頭切るのはいや。だってそれは誰も発言しないホームルームで発言するくらいに浮いちゃうことだもの。恥ずかしいことだもの。

 だけど誰かが行くことがあって、そうすると続いてぞろぞろと前に行きはじめる。それで前に行ける人はいいんだけれど、タイミングを逃すというか、ぞろぞろに出遅れた人は結局前に行けず、後ろの方で冷めた感じでライブを見ることになる。

 その時、前派と後ろ派でそれぞれに理論武装することになる。前に行って踊った方が楽しいじゃんと前派は言う。よく言うよ、さっきまで先頭切って前に行くのを躊躇してたくせにさ。で、後ろ派は後ろ派で、こんなに下手なライブでよく踊れるよな恥ずかしいと言う。いや、言わないね、心の中で思うだけ。もちろん、タイミングを逃しさえしなければ前に行ってた人も、出遅れたことを認めたくなくて、下手なライブなどと心に刻む。

 もったいないことです、両方とも。

 そんな5バンド対バンなんかのライブで、ごく稀に客席前方を群衆が踊るようなバンドが現れる。まあそういうバンドは時を置かずに有名になっていって、5バンド対バンなんてやらなくなるんだけれども、まだ業界が気付かないうちにはそういうライブブッキングにしか出られないからしょうがない。んで、客席前方がガラガラのライブをやった直後にそんなバンドが盛上がってしまうと、ガラガラバンドはそういうのに嫉妬するのな。なんだよあれ、みんな身内じゃないかと。でもガラガラバンドはなんで身内さえ呼べないのでしょうか。まあそんな本質論はさておき、ライブハウスにはいろいろなシチュエーションが起きて、そのどこに自分が属するのかでけっこう複雑な心理状況が生まれたりします。僕みたいに一応業界の人は普通椅子がある場所に座って見てるし、仕事上ビデオ撮影をしなきゃいかん時はだいたいスピーカーの真横に陣取ることになるので、客席がガラガラだとか満員だとかいうのはあまり関係ありません。けど、どこにいるのも自由という場合には、やはりそれぞれの立ち位置でみんないろいろなことを考えるみたいです。もっと音楽に集中すればいいのにね。

 最近のデモについていろいろな人がそれぞれの立場から応援したり文句を言ったりしたのも、それに似ているのではないかと、こっそり思っています。デモをやっている自由さを羨ましい人もいるだろうし、自分がやったらもっと上手にできるとかやっかんでいる人もいるだろうし。で、僕はデモの一形態である、デモ行進のことをちょっと考えるのです。京都でも法案採決直前には結構デモが行われていて、そのデモはたいていデモ行進。デモ行進って、歩道から見ている人が「俺も入って歩こう」という感じにはなかなかならない。だって歩道と車道の間に柵があるもの。そういうの、ライブハウスで前の方にもう行ってる人と、タイミングを逃して後ろにいる人との違いのように思うのです。なんかね、スタート地点に集まれなかったが最後、もう見物人の域を出ることは出来ない。もちろん、行けるのですよ。祇園祭の山鉾の引き手とは違って、デモ行進だもの。途中から列に入ることだって多分出来るはず、多分。しかしなかなかそれは出来ない。出ていくということは、やはりなんかそこに心理的な壁があるのです。その壁を作っているのは、自分自身なんだけれども。

 そこいくと、国会前デモって面白いなあと思う。だって最前列のところで叫んでいる人がいて、それを会社帰りなんかでふらりと立ち寄って、当然最前列まで群衆を分け入って到達するのは物理的にかなり難しいから、一番後ろのところで遠巻きに眺めている。それでも、デモに参加したという意識は共有できる。国会前のデモに人が集まったのは、デモ行進とは違うスタイルで、心の壁を作りにくかったというのもあるんじゃないかなあと、今更ながらに思います。

 伝統的なデモ行進がなかなか盛上がらないのを何となく知っている人たちが、国会前デモでは心理状況的な違いが生まれて結構人が集まっていくという現実を知り、結構焦ったというのもきっとあるだろうと思います。なんか、盛上がってるぞ、そんなバカなと。それは、デモの趣旨に賛成の人も反対の人もそうだったでしょう。それで、反対の人は声高にデモの非民主主義的な理由を述べはじめ(バカですね)、賛成の人は、一部はそのデモに駆けつけ、別の人たちはもっと他のやり方があるとか、自分ではやらないくせに難癖を付けはじめる。なんかそういうの面白かったです。不謹慎な言い方ですけど。

 ことの本質として、日本人は意見を表明するのに慣れていない。でも、意見を持っていないのではない。けっしてそうではない。ではどうすれば意見を言えるのか。facebookでコメントをするのと「イイね」を押すのとでは大きく違っていて、コメントは出来ないけど(恥ずかしくて)、イイねなら押せるよという人は沢山いて、そういう弱気な人をどう巻き込んでいくのかということが、これからの(右も左も)活動には要求されるのだと思う。だから、国会前デモのように、遠巻きで眺めるという参加のスタイルをどう提供できるのかも、重要なことだと思います。それは歩くか歩かないのかということだけじゃなくて、沢山いるから遠巻きでOKということでもあって、つまり、やっぱりガラガラのライブハウスでは前の方に行けるのに行かない理由をみんな考えさせられるということと直結するなにかでしょう。そう、最初から客席ぎゅうぎゅうのライブであれば、後ろの方で踊っていることも「だって、前に行ったら潰されるでしょ」ということで正当化できる。というか、その状態になったら、正当化云々の前に、後ろでも十分に楽しいのです。それはきっと「応援してるから前に行くんだ」という悲壮な気持ちで前にいることよりもずっとずっと楽しいことだと思うのです。

 

脅迫について

 昨日朝のツイートがずいぶんとリツイートされ、これまでのツイートの中で3番目に多いリツイート数になった。ありがとうございます。もっと増えそうな勢いだけれども。

 そのツイートとはこういうもの。

 「「デモなんてしてると就職出来ないぞ」という発言と、「デモなんてしてると家族まとめて殺す」という殺人予告とは、根本的に同じ思想であるということを、現代人は認識すべきである。両方とも、自由に対する脅迫である。」

 まあ至極当たり前の話だと思うし、だからたくさんリツイートされているんだとも思うけれど、それでも罵倒するようなリプライもいっぱいくる。そういうのは片っ端からブロックするわけだけれども、まあ罵倒とまでもいかないような反論リプライもいくつかくる。今朝も、こんなのがきた。

 「知りあいがデモの参加を呼びかけてきた。 デモに行くと勝手に顔画像をネットで流されるかもしれないリスク あるから気を付けろよとアドバイスした。 就職前の若者に言ったら脅迫なのか? 身を心配しているアドバイスと脅迫を一緒にするなよ」

 言いたいことはわからんではない。彼も善意で言ったのだろう。だが、その善意が総体として悪に加担しているということに気がついていないというのが、この問題の根深いところだ。

 要するに、まず現状としてある「状態」というものがあり、これを是とするか否とするかを判断しなければならない。「デモに行くと顔画像がネットで流れ、その結果デモに行った就職前の若者が就職できなくなる」という状態。これがあるのかないのかについても様々議論があるだろうが、ここでは反論してきた人の認識に従い「ある」ということで話を進める。

 この「デモに行ったとわかった若者は就職に落とされる」という状態を是とするのか、否とするのかがまず問われる。その時に是とする、あるいは是としないにしても現状を仕方ないものとして追認し、それを変える努力をしない。そういうことを、悪に加担していると、僕は定義するわけだ。

 近しい例として、教室内の無視イジメと比較したい。ある生徒Aが教室のほぼ全員から無視イジメされている。だがそのいじめられている生徒Aとは幼稚園時代からの仲良しの生徒Bが、いじめられている生徒に近寄って「一緒に帰ろう」と話しかけた。するとそれを見ていた別の生徒Cが「あ、BちゃんはAちゃんと話している。もうBちゃんも無視イジメしてやる」と考え、いじめている友人たちにそれを提案する。この場合、生徒Cはイジメを是とし、さらにイジメをエスカレートさせてもいいという立場だと考えられる。

 一方生徒Dは生徒Bに近寄って「Bちゃん、Aちゃんと口をきくと、こんどはBちゃんもいじめられちゃうよ。だから気をつけて(Aちゃんとは話さない方がいいよ)。」と言う。この場合、生徒Dの立場はどういうものだろうか。考えるに、生徒Dは生徒Aへの無視イジメがクラスで現在進行中であることを良くは思っていないまでも、それを改善するための行動はとらず、イジメが生徒Bに及ぶことを案じ、善意で進言している。だが、その時に生徒Aに対する救済は一切おこなわない。これもまた、結果論として悪(イジメ)に加担している立場ということになってしまう。

 これはデモと就活の問題について完全に一致する話ではない。それはきちんと断っておきたい。だが、共通する何かというものはある。エッセンスとしてはかなり近いと思う。

 デモ参加が就活の妨げになるのだとして、そういう認識を持っている人がどう考え、どう行動するのか。身近な人が就活に不利になることのみを案じ、軽挙妄動は慎めと言う。あるいは、デモ参加が就活に不利になるような社会のことを案じ、デモ参加がいかに市民権を得るのかについて、小さなことでいいので行動を起こす。その間には、哲学として埋められない大きな違いがある。

 もし自分の子供が無視イジメが進行しているクラスに在籍していたとして、「いじめられている友達と一緒に帰ることにする」と打ち明けたとき、親としてどのように応えるべきなのか。それが問われているのだと思う。その時に「やめておきなさい。お前もいじめられることになってしまうから」と言うのか、「よし、頑張れ。そういう優しい心は大切だ。たとえそれでお前もいじめられたとしても、気にするな」と言うのか。さて、あなたならどう言うのか。そういうことなのだろう。

 デモに行くと就職に響くから行くなという哲学は、要するに現状の不正義を消極的ながら是認し、放置するというものだ。現状の不正義を是認するということは、やがてはその程度をエスカレートさせるのは必然で、結局は殺人予告さえ是認することになっていく。いや、それだけに止まらないだろう。予告が実行され、殺人が起こったとしても、そこに何らかの理由が付け加えられさえすれば、その行為さえも是認していくことになる。何故なら、哲学の転換が行われない以上、ベクトルは変わらないからである。実際に自分の手で犯罪を犯さないとしても、消極的に不正義を是認する人たちが一定数いることが、実行犯を精神的に支えてしまうことになるのだ。

時間

 忙しいです。忙しいです。なのにちっとも儲からない。

 時間給でやってないので、働いたからといってお金がもらえるわけでも無し。いや、そういうのイヤだから時間給でやってないのですけれども、たまには25日に幾許かの札束をいただきたいものです。ええ、束じゃないといけませんよ(嘘)。

 そんなわけでブログ全然書いてない。安保法案の強行採決からの深夜の本会議とか、言いたいことは山ほどあるのに、書く時間無い。考えをまとめる時間も無い。

 Twitterもあまり読めていない。facebookなんて全然読めてない。みんなから忘れられていくんだろうなあ。まあそれも仕方ありません。

 ま、基本的に息子とじゃれあっているのに時間をかけているので、いいんですけれど。

 そんなこんなで、ただいま19:30。そろそろ帰らなければと思います。もうこの時間はすっかりと暗くなる季節になりました。光陰矢の如しです。もういくつ寝ると祇園祭でしょうか??

 そんなバカなことを書いてないで、ちゃんとしたこと書きなさいといわれそうだけれども、よくよくアクセスログ見たら、誰も見てないや。いや、見てくださっている方はいらっしゃるのですけども。だから、今度万年筆でお手紙を書こうと思っています。

 宛先知らない人が大半ですけれども。それに、ブログ書く時間がないのだから、お手紙を書く時間もきっとないはずなんですけども。