知人にkissakaさんという人がいて、ちょっとした有名人です。ちょっとしたというのは、テレビに出まくりとかベストセラー著書多数というようなホンモノの有名人とはいえないものの、一部界隈ではそこそこ知られている、から。その一部界隈と、その一部界隈にアンチな人から彼女は「ネトウヨ」という見方をされている。ああ、その一部界隈の側の人はネトウヨとは見てないかも。なぜならその界隈に巣食う人たちこそがネトウヨなのだから。
しかし、僕はkissakaさんのことをネトウヨだとは思っていない。まったく思っていない。そのことについてちょっと書いてみたい。というか自分の中でも整理をしたい。
ネトウヨというのは何か。まずはそこから。右翼のネット版というのが一般的な定義だろうが、右翼とネトウヨはそもそも違う。左翼とサヨクも違う。右翼と左翼は、考えた挙げ句に自分なりの思想的理想を見出し、その理想を原理主義的に追求するベクトルを持っている人とその信奉者のこと。考える過程の条件が違うために違う結論に至っただけのことで、共に理想主義者である。ネトウヨは、右翼的な思想の表層のみをつまんで自己愛のために利用していたり、利己的な利益追求の道具にしていたりする人。深い信念などはなく、仮に敗戦して今まで信じていた教科書に墨を塗りなさいと言われればホイホイ塗るし、昨日まで軍国主義の権化のように振る舞っていても今日から民主主義者になれる人。それでいて「権威」が変わらなければ、その権威に怪しいところがあったとしても、怪しさそのものを否定して権威を全肯定できる人。つまり、ネトウヨにとって正義とは普遍的な整合性などではなくただただ権威そのものである。権威がクロと言えば白いものでもクロ。それは思想ではなく従属。主義があるとすれば、権威主義でしかない。
サヨクというのはネトウヨが非ネトウヨな人のことを指して言う蔑称で、主義主張的な定義はできない。より蔑称的な呼称としてパヨクというものがあり、それも明確な思想的カテゴリーには成り得ない。
で、右と左という思想的なそれぞれの理想が極端なものとして出てくると、極右や極左という立場の人になる。どちらも暴力主義を是認する思想で、安倍政権は極右にあたるが、安倍晋三個人は極右ではない。アレは深い思想など無く、そういうことを考える能力も根性も欠如したノンポリだと思われる。要するにアンポンタンであって、だから極右の人が千載一遇として便利に利用しているだけ。安倍晋三が失脚すれば極右の人はまた同程度のアンポンタンを探してくるか、さもなくば自ら表に立たなければならなくなるので、これほど矛盾が次から次に露呈しているのに、アレを守ろうと必死になっているのでしょう。
話を戻すが、kissakaさんはネトウヨではもちろんなくて、右翼でもない。現状のベストな落としどころを探って日々考えつつ、行動や発言をしている人だと思う。基本的なスタンスや価値基準が右にある。その点では僕なども一緒。えええええっとか言わないそこの人。僕のことを左寄りと思ってる人はとても多いと想像するけど、実際は中道で若干右というのが僕の立場。かつての田中派vs福田派の基準で言えば福田派。その僕が福田派の系統の末裔である安倍晋三を根底から否定して、田中派の秘蔵っ子だった小沢一郎をずっと支持しているというのが面白いところ。政治とは必ずしも思想と一致しないのが面白いところ。つまり、政治とは純粋に思想だけで語ることが出来ない、生活と欲に立脚した現実活動そのものだからです。政治を理想論で捉えようとすると様々な矛盾に疲れて挫折することになる。それは人間が理想論で動かない存在だから。闇市でヤミ米を手に入れられないと家族が飢え死ぬのなら、敢えて理想を踏みにじる。そのぎりぎりの行為を否定して諭すのが思想であり、ヤミ米に目をつぶるのが現実。そしてヤミ米を合法化するのが政治の第一歩であり、ヤミ米に頼らずとも社会構成員が安心して暮らしていけるようにするのが政治の目的である。理想論のみで政治を考えてしまうと、多くの人が死に、そしてその理想そのものが形骸化してやがて死ぬ。なぜなら高い理想を生活の敵だと思い込む人が増えてしまうから。
この、政治の第一歩と政治の目的を混同すると政治が解らなくなる。しかし、民主主義におけるほぼ唯一で最大の政治参加機会である選挙の際に、政治の第一歩票と政治の目的票の2つの選択肢を選ぶことなど許されておらず、1人の名前を書かされるとき、人は政治とは何かを考えて絶望する。「ウンコ味のカレーとカレー味のウンコと、さあどっち!」みたいな選択を迫られれば絶望するのは当たり前だ。本当はカレー味のカレーはあるんだと知っているのだから。
そこで、投票に行かないという選択をする人がとても多くなる。でもそれは近い将来餓死することを意味しますよ。ここでは観念的な餓死でしかないけれども、だからこそ現実的には餓死的な未来という意味で。で、世の中にはウンコ味のウンコを食べたいのにその選択肢は無いのかとおっしゃる人も理論的にはあり得るし、現実にも少数ながら存在している。まあそういう人はそういう人として、自ら立候補していただくとか、東京1区によく立候補していた方に投票するとか、維新の会に投票するとかしていただければ結構。で、カレー味のカレーという選択肢は本当に存在していないので、その選択をしたい人は心を千千に乱れさせながら各々の選択をすることになる。で、カレー味のウンコがいいのかウンコ味のカレーがいいのかと問われれば、僕は複雑な想いを抱きつつもウンコ味のカレーを選ぶ派。何故なら、その味は不味かろうともカレーであることは間違いないのだし、料理者が経験を重ねればやがて美味しいカレーを作れるようになる可能性を残しているわけで。一方でカレー味のウンコを選ぶ人もいて、その人は今美味しいものを食べないでどうするという考えなのでしょう。
政治によって社会を変えていくというのはとても大変なことで、一朝一夕に変わることを期待してはいけない。例えば新しい道路を作ろうとしてもその予定地に反対派の家がある場合、それ以外の用地買収をしつつ、路線計画地に建っている建物に増改築の許可を出さないという手法を取る。そうすると地権者の家屋は経年と共に朽ちていくし、地権者も老いる。反対派の家の周囲はフェンスで覆われた空地ばかりとなる。やがてその子供の代になり、子供くらいは親の遺志を尊重して抵抗するものの孫の代になればもう抵抗する理由などボヤケてしまい、遂には用地買収に応じてくれるようになる。そうして計画から半世紀以上経って道路が通ったりする。
政治を変えていくのも簡単なことではない。一気に変えたいというのは民主主義思想ではなく革命主義思想。無論革命でなければ変わらないことだってあるが、それに頼ることは民主主義ではない。民主主義はひとつひとつ石を積み上げ、時に積み上げた石が誰かに蹴飛ばされ、それでもまた一から積み上げ始め、やがて高い石山が出来上がるようなもの。恐ろしく時間がかかると同時に、積み上がる前に世界が終わる可能性だってある。もちろん、自分が生きている間に変化完了などは望むべくもない。それでも民主主義を信じるというのであれば、それを受け入れ、不毛と思われるかもしれないことを愚直に続けるしかない。それだけが、いつかカレー味のカレーを孫世代が食べられる唯一の可能性なのだ。自分はウンコ味のカレーを選ぶということが、だ。
kissakaさんから昨日問われて。そのやり取りの中で「小さな意思の積み重さねの向こうに「アベ政権よりマシ」があるのなら、それは一体何なのか。(一部誤字を修正しています)」という問いかけを受けた。なるほどと思った。おそらく、彼女は現実主義的な人なのだろう。その現実は、自分が生きている間に求め得る結果のことなのではないだろうか。
と、ここまで(布団の中でスマホで)書いてから数日経った。えらく忙しかった。海外からのお客様接待とか、サーバートラブルでサイト全体のお引越しとか、あれやこれや。なので続きを再開するわけだが、文体とか文脈に齟齬があるかもしれないけどまあ気にしないでくれ。
そんで、忙しいながらも「カレー味のうんことうんこ味のカレー」という例えは正しいのだろうか、正しいにしてももっと良い例えはないのだろうかと考え続けていた。民主主義が何を実現して何を担保してくれるのか。その「何か」は支持するに値する価値だと言い切れるのか。心の中では言い切れるのだが、それを他人に説明するにはもっと具体的な話が必要だ。
日本人は時代劇が好きなのだが、そこでは虐げられる民衆を奇跡のような手法で救ってくれるスーパーパワーがよく登場する。水戸黄門しかり、暴れん坊将軍しかり。江戸時代には将軍が世襲された。世襲であっても庶民の苦しみを理解し改善に全力を尽くそうという人は登場してくるわけで、そういう人が治世をしてくれるのであれば生活は楽になるだろう。だがそういう人ばかりではなく、とんでもなく自己中心的で嘘つきで庶民の暮らしになど興味が無い人が将軍になることだってある。そういう時、江戸時代には庶民にはその将軍にNOを突きつける術が無い。民主主義というのは悪政に対してNOを言える権能を市民に担保するものだと思っている。だから選挙が重要であり、投票に行くことが重要なのだ。
このことを、僕はペットの暮らしに例えてみたい。以前何かで読んだことによると、飼い猫と野良猫では寿命が大きく違うらしい。飼い猫が10年以上生きるのに対して、野良猫ではせいぜい3年ほどが平均寿命だそうだ。そりゃそうかもしれない。エアコンのある部屋で雨風を凌げ、毎日きちんとエサを与えてもらえる。野良では夏は暑く冬は寒く、雨天の日には雨に濡れ、獲物がない日には腹を空かせ、縄張り争いなどのケンカで怪我をすれば致命傷になることもある。都会では車に轢かれることだってある。そりゃあ飼い猫の方が長生きになって当然。
しかし、動物は飼い主を選ぶことができない。猫ならふらりと外に出てそのまま逃げて野良になることも出来なくはないが、犬の場合は首輪をはめられるし、外出する際はリードを付けられる。逃亡するのはなかなか難しい。それで世話がずさんな飼い主に飼われた日には悲惨なことになる。積極的に虐待する人だけでなく、経済的な理由で十分な食糧を与えなかったり、適切な医療を受けさせなかったり、面倒だから散歩させなかったり。現実的に酷い飼い主は存在するのだ。
kissakaさんも犬を飼っておられて、本当に家族の一員として愛している様子は伝わってくる。そういう飼い主に出会った犬は幸せなのかもしれないが、そうではない犬もいて、そういう犬に人権は無いのか。犬だから人権は無いんだけど、人間にとっての人権のような、犬権のようなものはあって然るべきだろう。だが犬が犬権を主張して「もうこの飼い主に飼われたくない」なんて言い出したらペットを飼うのも大変なことになるな。幸か不幸か犬権や犬民主主義なんてものは(今のところ)無いし、だから飼い主は今のやり方をずっと続けることが許される。
しかし、人間はそうはいかない。それぞれの理想や主義に基づいて、為政者にNOと言う。民主主義が無い社会では陰でこそこそ言い、それも気に入らない為政者なら強権的にそういう発言を摘発して弾圧する。だが民主主義がある社会では、人は堂々と為政者への不満を口にし、選挙の際には投票で自らの意志を示す。それによって自分の暮らしを改善する努力をすることが出来る。
人間はペットではない。為政者に飼われているわけではない。それを担保するのが民主主義だ。政権担当者たちがダメ人間であればNOを突きつけることができる。NOを突きつけて別の政権担当者を選ぶことができる。それが民主主義社会の良いところだ。
それが担保されないのはなんだろうか。全体主義?独裁政治?専制君主制?呼び方はどうあれ、為政者の交代が死亡または譲位によってしか起こらない社会。それはペットと飼い主の社会である。良い飼い主に当たれば安楽な暮らしが得られるかもしれない。だが当たらなければ生涯地獄。そんな運に人生を預けるのはイヤだ。交代の無い政権は腐る。交代可能性のある政権だって腐るのだから、無ければさらに腐る。だから政権は常に交代の可能性に晒されていたほうがいい。今起こっている公文書改竄も、権力の強さが生み出す不正である。どんな形であれ正義が最後に通ると判っていれば、誰がそんな大それた不正に手を染めるだろうか。
閑話休題。というかそろそろ終わりにしたいのだけれども。なぜならこの文章に明確な結論という結末は無いので。
ま、カレー味のうんことうんこ味のカレーと例えたけれども、そんなに2極にはっきり分けられるものでもないし現実というのは。なので実際にはその料理に明確に「カレーである、臭いけど」という表示も「うんこである、美味いけど」という表示もない。その何なのかよくわからないものを「自分はコレを食べる」と決めなければならない。自分はうんこ味のカレーを選ぶのだと思っていても間違ってカレー味のうんこを食べてしまうこともある。下手すればうんこ味のうんこを食べてしまうこともある。そういう間違いを重ねて、段々とうんこ味のカレーを選べるようになる。選べるようになった頃には寿命が尽きて、子どもたちの世代に任せるしかないようになるのだが、それは仕方のないことだろう。
ただまあ、同じものをカレー味のうんこだと思う人もいれば、うんこ味のカレーだと思う人もいるので、ホントに難しい。どちらが正しいのか。安倍内閣はどちらなのか。僕はアレはうんこ味のうんこだと思っているのだが、それが100%の正解であるわけもないし、実際に与党が獲得している票は3割程度なのにあの議席数はおかしいだろうというのもあるが、それはこれまでみんなの党や維新の会などのエセ野党が仕込まれて跋扈していたからなのだが、今度は真正野党が分断の元凶となっていてホントにクソだなと思うのだが、まあそれもこの国の在り様なのであって、国民以上の政治など在るわけがないということの象徴的事象といえよう。そのことについての解釈も人それぞれで、だから民主主義の人は周囲と話をして自分の考えを主張して、その論理の正しさと正しいらしさとによって周囲にも納得共感する人を増やしていく努力をして、社会を変える小さな努力をしていかなければいけません。
ただし、その時の姿勢で大切なことは、相手に意見を変えてもらう可能性を信じるというのであれば、自分もまた相手との討論の結果自らの意見を変えることもあるという柔軟さを持つこと。それ無しに相手のみ意見を変えさせるというのは傲慢なこと。その姿勢は、過去に自分がうんこ味のカレーを選ぶのだと言いながらも間違ってカレー味のうんこを選んでしまい、その選択の誤りを誤りと認めたくないがために強弁と詭弁を繰り返す愚を犯す原因になってしまう。そういうのが民主主義には1番ダメで、誤った原理主義の中でももっともクズな原理主義的態度につながる。そうなってくると信じているものの主義主張や理想に関わらず、社会の害悪でしかなくなる。そしてそういう人は、右にも左にもとても多いし、それが民主主義が浸透発展しない大きな理由である。
まあそんなことを言いつつ、この駄文でkissakaさんの思想を根底からひっくり返せるとは思ってないし、時折(というか結構頻繁に)見せる攻撃的なツイートはなんとかしていただけないものか、せめて僕がリツイした相手に攻撃的な絡みをするのはやめてもらえないか、とか個人的に思うが、他人から見れば僕の日頃のアレやコレがそんなに、誰かの行動に意見できる程の聖人的なものなのかといえばそんなことはまったくないので、まあその辺は適当に話を聞き流していただければ。
そのうちに京都にも遊びに来てくださいね、チャオ!
(とか書いておきながら、一晩寝かせて最後に読み直しをしてからアップしようと思っていたら、そこから1週間ほど経過してしまった!しかもまだ読み直ししていない!! 週末寝込んで一歩も外に出てなかったりしてたので!!! というわけで、読み直しもしていないのでおかしなところは5ヶ所くらいはあると思うけど、出版するやつとかじゃないので、もうこのままアップしちゃいます。変なところあっても気にしないでくださいね。んで、僕は自分のやってることがうんこ味のカレーを食うことだと思っているけど、他人が見れば「いやいや、君のやってることこそカレー味のうんこを食ってるってことだよ」という指摘を受けるかもしれません。まあ比喩なので、例えなので、考え方の違いで評価も変わるし、明確な定義などありゃしませんので、まあどうでもいいですけどね。チャオ!!!!)