月別アーカイブ: 2015年1月

例え話のウソ

 時間無いので手短に。

 昨日あるブログを読んだ。で、それなりに有名ブロガーのもので、高学歴イコール幸せかどうかというような内容。で、その人は「高学歴の親はこぞって子供を塾に行かせて高学歴にさせようとする。それは高学歴であることがステキだと感じてるからでしょ」というようなことを言っていた。

 これ、違うんじゃないかな。

 その親自身が高学歴で、自分の高学歴という立場を善しとしていて、ステキなことがたくさんあったから、子供を塾に通わせていることが、普遍的に高学歴であることの素晴らしさとイコールではありません。

 もしそれが正しいのだとしたら、新興宗教にはまっている信者の親が自分の子供もその新興宗教の信者にさせようとすることが一般的(事実そういうケースは多い、というかほとんどはそう)だから、その新興宗教の信者であるという生き方は素晴らしいということが普遍的な事実になってしまう。

 だが、それはあくまでその親にとっての真実であって、他人にもそれが当てはまるかというと、必ずしもそうではない。いや、僕は高学歴がステキなことではないと断言して学歴など得ようとするなと言っているのではない。あくまで、高学歴がステキであるケースと、そうでは無いケースがあって、高学歴イコールステキな人生ということではないということを確認したいだけのこと。そのブロガーの人もそういう感じのことは言及していて、だから大筋では僕と意見を異にしているわけではないのだが、その例えの仕方はウソがあるでしょうと、そういう話。

 なんでもそうだけれど、自分がその肩書きや社会的地位や収入や財産といったものを満ち足りた十分なものとして認識するのかどうかは人によって違う。単純に高学歴というけれども、どこまでが高学歴なのかは人によって違う。早稲田で学部に関係なく参加する体育の授業で、政経の学生が自分のことをとにかく卑下していた。灘校卒業だと。そして東大受験に失敗して今早稲田の政経にいると。卑下しまくっていた。東大じゃないなんてオレはダメ人間だと。どうしてそんな認識になるのか。まあ人それぞれだから仕方ないけれども、可哀想な人生観だと思います。

 同じように高収入を得ている人たちが高収入であるが故にそれを捨てることを躊躇して、その生活レベルに固執して汲々としている姿もたくさん見る。それをその人たちが幸せと感じているのか、どうなのか。それも本当に個人個人の考え方であり哲学であって、それは新興宗教に帰依している人たちがそれを信じている自分の人生を幸せだと感じているのかどうかということと、実は大差ないのではないかと思います。

 いや、僕は新興宗教には走らないし、そこそこ高学歴(灘で東大が基準の人からすれば卑下すべきかもです)なのを悪いこととは思っていなくて、だからもしも息子がそこそこの高学歴を手にする能力があるのであれば、それを妨げようとはしないだろう。ただ、それを得るために能力を超える何かにチャレンジして疲弊してしまうのであれば、それをどう回避させるべきかということを考える程度に、まあ高学歴というものを信じてはいませんが。そしてその能力の限界というものを見極めるというのもとても難しく、僕がその時々に考える決断が絶対に正しいなんて自信もないんですけど。

 何が正しくて何がステキなのかということは、本当にひとそれぞれで良いと思うけれども、その例え話に疑問もなく「ウンウン」と頷いて従ってしまう人も多かろうと思って、それはウソですよ、論理の立て方として飛躍がありますよ。筆者の意図的な飛躍なのかそれとも無意識のうちに間違ってしまったのかは判りませんけれどもと、なんか言いたくなったのです。

クラスメイト〜Twitter学園

 インスタグラムを始めてみました。アカウントはこれです。

 http://instagram.com/kirakiraohshima/

 なぜかというと、最近よく「facebookやTwitterはもう若者はやっていない。今はインスタグラムだ!」という記事を見かけるからです。まあ若者でないことは百も承知ですが、だからといって若者の動向をまったく気にしないというのではいけません。少なくとも僕はそう思います。で、やってみることにしました。かなり以前のインスタグラムは単なる写真を加工してくれるクールなツールでしかなかったのが、その特徴を活かしてSNSになっていたとは。まあ驚き。知ってはいましたが、やってみるとなかなか、ああそうなんだという気付きが多かったです。

 で、しばらく投稿をして、幾人かにフォローもしていただいて、それなりにSNSの体を整えてきたかなというところで感じたのは、これはこれでやはり特徴を持ったSNSなんだなということ。

 facebookにはどういうわけか高校時代の友人が集まってきています。大学時代の友人も一応ここがメイン。なぜだろう。それはこのSNSがクラスを中心にしたまとまりを目的にしていたからなのでしょう。学歴や職歴を入力させ、それを元にフレンド候補をレコメンドしてきます。かつての同級生からリクエストがくれば、断ってしまうのもなかなか勇気の要ること。仕方なく(?)承認して、あとは芋蔓式に同級生コミュニティの出来上がり。

 そしてfacebookはそもそもハーバードの学生が自分たちの学歴ブランドを効果的に利用するためのSNSとしてスタートしたものだから、そのDNAを見事に残しているかのように、良いことのみが語られて投稿されるという場になっています。僕もfacebookでは過激なことは言いません。極めて穏当な、当たり障りのないことを投稿しています。それが自分を隠していることになるのかというとそうでもなく、それも自分のイチ側面。当たり障りのない日常も僕の一部分なのです。ウソはついていません。でも、やはり同級生たちの間で積極的に語るような内容と、語るべきでない内容というのはあるのです。

 このfacebookは、結局のところかつてのクラスメイトが今でもクラスメイトであるかのように錯覚した人生を送るには最適のツールになっていると思います。もちろん過去を完全にぶった切るなんてことはできないし、すべきでも無いでしょう。いや中には過去をすべてぶった切って精算した方が健康的にも精神的にも金銭的にもプラスだという人ももちろんいるので、絶対とは言いませんが、過去のつながりをそれなりに大事にしている風を装うには、これはとてもいいものです。大事に装うつもりがなくとも、現実のリアルな所属コミュニティに居場所のなさを感じている場合、青春の一時期を共に過ごした元友人との交流はとても甘美で、心が安らぎます。心が安らぐことが逃避であるとは言いません。50年生きていればその50年の1日1日が自分を作っている要素なので、それは逃避なバーチャルではないのだけれども、じゃあリアルかというと、そのツールがなかったら今交流できている相手なのかという問いにどう答えるのかが、結局は答えなのではないでしょうか。

 インスタグラムが若者に人気で、facebookが不人気というのも、そこにあるのだと思います。

 つまり、若者には過去の人間関係などなく、今通っている場所がクラスであり、そこにいる同世代がクラスメイトなのです。朝家を出て学校に行けばそこにリアルなフレンドがいる。何故わざわざフレンド申請をバーチャルなところでやらにゃあアカンの?facebookは相手との相互フレンド関係を基本にしていて、こちらから申請したのが一定割合で拒否されるとアカウント停止にも追い込まれる。だからどうしてもリアルな知己にしか申請しづらい。で、過去の同級生なら申請し易いし、facebookでしかつながる方法もない相手なので、まあ申請しとこうかなと。その動機は若者にはありません。なぜfacebookをわざわざ使いましょうか。卒業したタイミングで「今後もつながっとこうね」なら解るけれども、その時には他のSNSでつながってしまっているでしょうから、もうその用途のためにでさえfacebookは使われないでしょう。

 Twitterは、不特定多数とつながることができる希有なSNSだと言えますが、その基本はテキストです。文章を書かなければいけません。140文字とはいえ、文章を書くのは億劫だと感じる人は多いはず。でも、インスタグラムなら写真だけアップすれば良い。それが手軽なのでしょう。それは1週間ほど使ってみて感じました。いや、オッサンは文字の方が手軽なのですけれどもね。

 
SNSというのは、クラスなんだと思います。バンドマンに対して「最初のライブに来てくれるのは誰?友達でしょう。昔の同級生が「友達のライブだから仕方ねえな、行ってやるか」ということで来てくれる。じゃあファンを増やすためには友達を増やさなきゃ。でも今さらどこかの学校に通うなんてできないから、まずはSNSでフレンドを増やそうよ、フォロワーを増やそうよ」とよく言います。その考え方に従って言えば、facebookは昔のクラスのバーチャル版でしょう。そしてインスタグラムは今現在のクラスの中から厳選したメンバーのバーチャル版。ただこれは相互フォローを基本にしていないので、面白い写真をアップし続ける能力の有る同級生がスターになれる可能性のある特殊なSNSだといえるでしょう。で、Twitterは、まったく新しいクラスをネット上に誕生させられるツールです。僕がTwitterを大事にするのはそういう理由です。まあ15万人もの方にフォローしていただいているので、そこでツイートできる内容には多少の真剣勝負感があって、それとは対照的な場としてインスタグラムをお気楽な場所として使っていくでしょうけれども。

 Twitterでは、まだ会ったことのない友人が沢山できました。15万人すべてとの交流はなかなか難しいでしょうけれども、本名も知らない友人がいくらかはいて、それだけでも新しい教室に通って毎日なんか喋ってきたメリットはあったでしょう。40人ほどの学級だって、全員と友人になれるわけではありません。だから15万人全員と友人になれるとは思っていません。40人ほどの中で誰と友達になるのかといえば、たまたま席が隣になって毎朝「おはよう」とか挨拶をしたり、授業中にノートに落書きをしているのを目にすることができたり、時々鉛筆や消しゴムを「貸して」と言ったり言われたりした関係の相手でしょう。そんな中から、一生の友達になることもあれば、進級したらそれで終わりのこともある。そんなものでしょう。でも、Twitter学校に通わなければ友達になれなかった人たちと会えて、交流できているのはとてもステキなことです。

 それでも僕がもしくは相手がTwitterを退会したら、そこで関係は切れるのでしょう。それでいいんだとも思います。だからこその緊張関係があって、互いに尊重もしあえるのだと思います。facebookのアレなところは、かつて同級生だったというだけのつながりで今も友人であると錯覚してしまうところです。それは人間関係の中ではお互いをダメにしていくものではないかと思います。

 同級生というのがいけないのではありません。かつて同級生だった人と交流してはいけないというのも間違いです。でも、かつて同級生であったことがイコール友人というのは短絡でしょう。友人になるきっかけは何でも良くて、かつて同じクラスに通ったことがあるというのは友人になるきっかけとしてはものすごく強力な要素です。でもそこから友人関係を維持していくのは、同級生であったという過去の事実なのではなく、その後も続ける交流の努力でしょう。同様に、Twitterで新しく知り合ったというのも友人になるひとつの有効なきっかけで、そこから真の友人になれるかどうかも、結局はそこでどのような努力ができるのかということになってくるでしょう。Twitterで知り合った友人には、会ったこともなければ本名も知らないという相手も沢山いて、会ったことはないけど本名は知っているという相手もいて、既に実際に会って話をしたという相手も何人もいて、やはりTwitter学園は面白いなあと思うわけです。

 facebookもかつて日本人がほとんどやってなくて、今ほど利用に制限がない頃、外国人アカウントに対してたくさんフレンドリクエストをしたことがあって、そういう中からつながりが深まった相手もいます。先日もその中のひとりであるスイス人の家に遊びに行きましたし、紙のバースデーカードが地球の裏側から送られてくることもしばしばです。そういうのも、出会いとしては面白いですね。

 なんかまあ取り留めのない話を、普段とは違う口調で書いてみました。インスタグラム学園ではまだまだ友人も少ないので、まあそれなりに続けてみようかと思います。

基準

 価値は比較によって測られる。

 2歳半の息子は今、色と自動車に夢中だ。街を自転車で移動していると、「赤ブーブー」「青ブーブー」「緑バス」「赤バス」と叫ぶ。色を見分けられる、色を知っているということが嬉しいらしい。

 だが赤い色が赤であってREDでないのはなぜなのか。赤であろうとREDであろうと完璧に表現できないそのバスの色を、色についての言葉を知らなかった頃の息子はきっとその色で見ていただろうに、今は赤という単一の単語で赤らしい色をすべてくくることに成功している。その成功は本当に成功なのか。自分の感性をセグメントすることによって単純でつまらないものにしてしまっているのではないだろうか。

 だが、そのつまらないものにすること以外に、自分と他者を区別することはとても難しい。そもそも自分を認識することさえ、高度に概念を表現する特定の言語に頼るしかない。肉や魚を切り分けるのに包丁という道具を使うように、人は世界を切り分けるのに言語という道具を駆使する。肉と骨と鱗に分けることで、魚は個々のパーツとして存在できるようになる。世界はというと、言語という道具によって個々のパーツを定義付け他と区別することで、世界を構成する要素が存在できるようになる。それなしには、魚が単なる魚であるがごとく、世界は単なる世界という名の混沌でしかない。

 自分が生きるというのは他者との違いを明確に実感することだ。少なくとも僕はそう思う。他者と同じであれば自分が生きる意義を見出し得ない。では他者との違いを明確にするとはどういうことなのか。それは言語によって他者との区別をするということに他ならないのだが、考えが浅く言語表現の複雑さを理解しなければ、幅の広い多くの色を「赤」と単純化してしまうように、違いを明確にすることなど不可能ということになる。言語は諸刃の剣で、軽視しているといつの間にか誰かの決めたカテゴリーの中に自らを放り込んでしまう結果になってしまう。それでも楽しく暮らしていければそれでいいのかもしれないが、それは精神的な奴隷であることを享受するということでもあって、僕はその考え方を受け入れない。

 誰かが決めた何かに頼ることなく、自分のオリジナルさに対して自信を深めたい。だが、それはなかなかに難しいことで、親が50年も生きながらまだ不安で仕方ないのだから、子供に赤という色の幅広さを理解しろなんてとても言えない。だが、そのうちにゆっくりと、誰かの決めた型にはまる必要なんてないのだよということだけは教えてあげたい。

I’m HARUNA, I’m ABE…..

イスラム国の人質事件で何故「私はゴトウケンジ、私はユカワハルナ」という表明をする人が現れないのだろうかと思っていたら、どうやら「I’m Kenji」という表明運動は出てきたらしい。

だご、それってどうなの?何故KENJIだけでHARUNA表明はないのか?

日本の大半の人は、ゴトウケンジ的ではなく、ユカワハルナ的な存在なのに。

後藤健二氏はそこそこ著名なジャーナリストで、儲かってるとかなんとかというどーでもいい話は脇に置いて、やはりその業績は一本筋が通っていて、信念の人という評価がある。まあその価値認定は人によって是非があろうが、多くの人に存在を認められているという点で、これまで中東で人質になった人たちの中では別格である。

一方の湯川氏は、特に経歴もなく、おそらく経験もない。何もない中で衝動によって中東に行った。まあそんなに単純な話ではないと僕は思っている。中東に行くという北大生の手引きをしたということでイスラム法学者は捜索を受け、北大生も行く計画は頓挫した。それを考えると、何故湯川氏はイラクに行くことができたのか?経験もない人間が誰の手引きもなくシリアに行けるのか?そういうことを考えても、誰かの手引きを受けていたというのが妥当な推論だろう。そしてその手引きをしたのは、当局の怒りを買うようなことのない立場だったのだろうと思う。

それはともかく、湯川氏が経験もなくあの場所に行ったことは疑いの余地もない。

さて、ではどちらが一般的な日本国民に近い存在なのだろうか?たいした経験もなく人生の活路を乾坤一擲な想いで中東に求めた人と、独自で地道に経験を重ねて特殊な世界で誰も真似できない立場を築いてきた人と。

多くの論調の中で、あの2人に対し自己責任であるという声が渦巻いている。だが、ちょっと待てよ。この国はあらゆることに自己責任を押し付けようとしている。

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 と、ここまで書いたのが土曜の夜。日曜の朝起きたら、状況は変わっていた。変わっていたので書くべきことも変わるべきなのか、それとももう書くのをやめた方が良いのか。ちょっと考えた。で、日曜の予定をこなすのに懸命で、ブログ書く時間は取れなかった。そして月曜。衝撃映像が画面に映って、まだ幼い息子に見せてしまうのがいやで、日曜朝からテレビをほぼつけていないため、僕のTwitterだけが情報ソースという偏った状況ではあるが、いろいろと情勢については入ってくるし、それに対するいろいろな人の話も入ってくる。で、やはり書き続けようと考えた。多分一昨日書き続けていた場合の結論とは多少違う文章になることは避けられないだろうけれども。

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 I’m Kenji という表明は、やはり変だ。同時に I’m Haruna が言われなければ、「自分は後藤健二であっても湯川遥菜ではない」という印象が残る。そんな風には思っていないと反論があるだろうが、どちらかを選ぶということはどちらかを選ばないということであり、結果には無意識のうちの選択が必ず付随する。強い意思を持ってその道のスペシャリストとなり活躍をしたけれども運悪く捕らえられてしまった人には「自分もそうだ」と心を寄せることができても、国内の事業に失敗し様々な不運に見舞われて国外に活路を見出そうとしたがやはり経験不足が運の尽きで捕らえられてしまった人には「あの人はちょっと」というような気分で「自分はそれとは違う」というのは、なんか違うと思う。

 誰もが主役になりたいが、ほとんどの人はその他大勢でしかない。きらびやかな経歴など持たずに中心からはじかれて、それでも自己を殺して黙々と付き従えば黙々となら生きていけても、少しのはみ出しが命取りになる。それが現代の日本であり、現代の日本人である。湯川遥菜という人は、多少滑稽かもしれないが、そんな日本人の典型なのではないかと思う。そんな姿であると認めたくないのか、多くの人が「I’m Kenji」と言い、「I’m Haruna」とは言わない。それがそもそも滑稽である証拠なのだが。

 また、この一両日で広まっているのは、「I’m not Abe」というもの。私は安倍晋三ではないという表明だ。だが、日本の総理は誰なのか。残念ながら安倍晋三である。いくら国民のひとりひとりが「I’m not Abe」と言っても、国際的にそれは通用しないだろう。そして、国内政治もまた、Abeの思うがままに今は突き進んでいってしまう。

 「I’m Kenji」も「I’m not Abe」も、何かに対する共鳴や支持ではなく、現実逃避なのではないだろうか。所詮Haruna的でしかない自分からの逃避。Abeを選んでしまっている国の一員であるという事実からの逃避。そんな風に、いろいろな現実や展開や偏った世論を見てて思った。「I’m Kenji」や「I’m not Abe」と言っているところで、多分何も変わらない。変わらないのだ、逃げていても。じゃあ「I’m Haruna」「I’m Abe」と言ったところで変わるのかというとそんな保証はどこにもないが、ともかくも逃げずに見るというところからしか、前進は始まらないような気がしてならない。そんな週の始まりである。

オリの中のライオン

 昨日の夕方に突然もたらされたニュースはたちまち日本人の関心を引き、ネットの言論界はほぼそれ一色。壮大な釣りにかかった魚のような状況はニュースの深刻さを物語っているように思え、そんな中でも面白オカシイ話題を提供しているスチャラカな人はオリジナリティがあってすごいなと思うものの、やはり心の奥では穏やかではいられないのではないかと想像してみる。

 で、金は払うな、いや払え。払うと図に乗ってまたやられるぞ日本人が、じゃあどうするんだ見殺しにする気か、と、意見は百花繚乱。

 そんな状況が許されるのは、深刻な事態であってもまだテレビ画面、スマホ画面の向う側に隔てられた、いわば動物園のオリの中のライオンでしかないからだと思います。

 軍隊に所属して歩兵となって、銃を担いで知らないフィールドを前に進む。どこからともなく弾が飛んできて、仲間のひとりが血まみれで倒れる。実際は倒れてから血まみれになるのかもしれないけれども。で、歩兵は物陰(あればの話だが)にさっと身を隠し、弾が飛んできた方向を確認しようとする。だが性能のいいライフルで狙撃されていた場合、飛んできた方向が正確に判るはずもなく、仮に判ったところで身を隠す何かがない場所に出ていけばまた弾は飛んでくる。腕のいい狙撃兵相手なら確実に自分の晋三、いや心臓が撃ち抜かれる。倒れた仲間は血を吐きながら言葉にならない声を挙げる。助けてなのか、お前らだけで逃げろなのか。口に血を溜めた言葉が明瞭でないのは仕方ないが、それを各自が瞬時に解釈しなければならない。ヨーロッパでベトナムで中東で、多くの兵士が倒れている仲間を助けに行こうとして自らもまた銃弾に倒れた。目の前で助けにいった仲間が倒れるのを見てなお、助けに行こうとする愚。だがその愚を犯さずに無事帰還した兵士たちの多くが、後悔に苛まれ精神を病んでいく。

 瞬時の判断を迫られずに72時間という猶予を与えられていること、そしてスクリーンに跪かされているのが苦楽を共にした戦友ではないということ。それが、悠長な言論を許している大きな要因であることを、どのくらいの日本人が理解しているのだろうか。

 そして、このまま勇猛に世界の戦争に加担していった場合、72時間も考えることなく、目の前で友人が家族が倒れて、血を吐いて絶命する姿を助けにいくか見殺しにするのかを瞬時に決断することになるということを、どのくらいの日本人が理解しているのだろうか。

 そんな行くも戻るも地獄である、究極の選択をする岐路が、あと数回の道分かれの後に迫っている。と、理解した方がいい。国外に逃げていったところで、同朋を見捨てたという自責の念は、まともな人なら逃れられないだろうし、そこから逃れて平気な人は、もはや世界のどこに行っても、生きているとはいえないだろうと思います。

 そんな気持ちになりながら、画面の向こうの現実を眺めることしかできない自分。金を支払う財もなければ、仮にあったとしても手渡す術も持っていない。だから無責任でオラ知らねでいられるほどに鉄の心臓ではなくて、ああ、人間はなんて弱い生き物なんだろうと無力を覚える。

 だから、ただ何らかの形で幸せが訪れて欲しいと祈るばかり。自分にも、捕らえられている人にも、捕らえている人にも、そして画面に隔てられた安全地帯が実はその板子一枚下に底なしの海が広がっているということに気づいていない人にも。

 戦争はいけません。不幸の連鎖が70年経っても終わらない、何かです。それを避けることができないとしても、抵抗はしたい。無力なのはわかっているけれど。

社会と希望

 ある人のブログに、絶望の中でどうやって希望を見出すのかということを、成功前夜の絶望しただろう人のエピソードを交えて書いてあった。それは他人のブログだし、削除するかもということだったのでリンクも貼らない。だが、それを読んでまだまだ希望を感じることはできるよなと、すなおに思った。

 一方で、フランスのテロ犯人兄弟の生い立ちについてのツイートも見た。誰かのツイートに過ぎないので一方的に信じるわけにもいかないし、それを拡散するつもりも無いが、そういうこともあるだろうなと、ちょっと思った。悲惨な過去が犯罪を肯定する理由にはならない。起こした事件への当然の報いは警察との銃撃戦の中での射殺だったと思う。それが正しいかどうかもわからなければ、それ以外に結末があったのかもわからない。彼ら兄弟を擁護するつもりはまったくない。だが、そういう犯罪の次回を抑制するために、社会は、そして個々の人間は知恵を絞る必要はあると思う。

 ブログには、絶望の中に閉じ込められた経験のない人などいないだろうという趣旨のことが書いてあった。その中から抜け出すには、まだ会ったことのない親友に必ず会える日がくることを理解することだと書いてあった。そうだと思う。それが窒息するような思いから脱する唯一の方法だと思う。

 小学生の頃、しばらくの間僕は校庭の片隅にあった、藤棚になっていた金属の建造物に登って昼休みを過ごしていたことがあった。誰もいないその場所から、校庭でみんなが遊ぶ姿を眺めていた。子供の絶望などは大人から見ればたいしたこともなくて、なんでそんなことで悩んでいるのかと一笑に付したい程度のことであるが、当人に取っては深刻な絶望である。それは例えば多くのサラリーマンが数千万円のローンを抱えて、それを返すために全人生を捧げたりしていることを「なんでそんなことで悩んでいるのか」と大富豪が一笑に付すことの愚かさと似ている。

 僕のその時の絶望がなんだったのかはここでは触れないが、そんな僕に「降りておいでよ、一緒に遊ぼうよ」と言ってくれた友人はやはり恩人だ。彼とはもはや付き合いなどもないけれども、利害関係のない言葉を投げることの勇気を、僕はその時教わったような気がしている。

 フランスのテロ犯の生い立ちがツイート通りだとして、彼らもきっと絶望の縁に立っていただろう。そんな彼らにも声はかかる。声は唯一の希望の光に見える。その光はとてもまぶしく、だから今の絶望から脱することができるのであればもうどこだっていいとしてついて行く。その気持ちはよくわかる。だが、その声が利害関係によってのものなのかなどはその時にはわからないものだ。そしてしばらく経ったとしても、利害関係があるのかどうかなど判らないことが多い。なぜなら、その声以外に声がかからなければ、やはりその声の先にしか希望は見えてこないのだから。

 そう考えると、苦しんでいる人に対して利害のない声をかける人が、その社会には少なかったのだということが推論される。少なくとも、テロ犯兄弟にはかからなかった。利害ある「義のために死ね」という声の方が先にかかった。それが犯行の有無につながったのだとしたら、僕らは単に死んだ被害者に共感を寄せるのではなく、次に犯行に及ぶかもしれない絶望の人に向けて、利害のない声をかけることが大切なのではないかと、率直に思う。
 
 では誰に?それは隣にいる人である。絶望を感じた経験の無い人などはいない。だとすれば、隣にいる誰かに「困っていることはないか」と声をかけることが、社会に希望を満ちあふれさせるための小さな勇気になるはずだ。それが増えれば、社会に絶望して誰かを傷つけようとする人が、一歩踏みとどまって本当の希望というものを知る契機になる。社会には悪意で希望の声をかけようとする人がいる。本当に多い。そういう人たちの先に回って、自分の隣にいる誰かに「困っていることはないか」と声をかけることが、自分の暮らす社会を安全に保つための、唯一できることなのだ。

 そんなことを言っても、オレだって困ってるんだよ。オレだって助けてもらいたいんだよ。そう思う人も多いだろう。世界的に格差が広がって、明日の暮らしもままならない人はこれからも増える。そんな人が他人を助けるだと言語道断だよと思うかもしれない。でも、いいじゃないか。それでも「何か困ってることはないか」と声をかければいい。そして「オレも困ってるけど心配すんな。見ろよ青い空、白い雲。そのうちなんとかなるだろ〜お〜」とスーダラなことを笑って口にすればいいのだ。それだけで救われる魂は、そこここに浮かんでいると思う。

本当の理由って、その人個人の理由でしょ

 ここ数日、あるプログがやたらと流れてくる。「子育てが大変だと思う本当の理由」とかいうやつ。読んでなるほどと思うし、言ってることはマトモで完全に同意する。デリカシーのない言葉や態度はそこここに在るもの。

 でも、なんか納得しない。なんでだろうか。しばらく考えてみて、ああ、それは僕自身が子育てが大変だと思ってないからだという結論に達する。

 子育ては夫婦共にやるもので、割合がフィフティフィフティに完全になるわけではなく、例えば授乳は男親にはできない。それはもう100%母親に任せるしかないが、それぞれの分担で、うちでは保育園の送り迎えはほぼ100%僕の担当。どうしても行けない時にはお願いする可能性もあるので「ほぼ」とつけてるが、それは息子が風邪などでお休みした回数よりも少ない。で、お休みした時に自宅保育を僕が担当することも多い。いや、それで僕が育児担当割合が多いことを主張したいのではなく、それぞれができることを分担しながら共同でやっているわけで、育児を母親にだけ押し付けている父親ではない、それなりにやってるよと、そういう前提話です。

 で、そのブログ。話はもっともなのだけど、根本的に育児を大変だと思っているという点で相容れないのです。

 活動をする以上労力を伴うのは当たり前で、それを大変だと思うかどうかはまた別次元のこと。大変かどうかは比較論であることが多く、育児のなにかを大変だと感じるどうかも、主観に基づくアレであり、ある人の大変さは、その感覚は決して一般化されないものだ。だから「本当の理由」とか言われても、やはりピンとこない。

 おそらく、昔に比べたら子育てグッズは進化しており、ずいぶん楽になっていると思う。例えば紙オムツだけでも相当にありがたい。テープタイプとパンツタイプがあって、状況に応じて使い分けられるだけでかなり楽。出先でオムツ替えスペースが容易に探せて、これも楽。抱っこひもなんてものがあり、昔は本当に紐だったらしいが、今はリュックを背負うように簡単に出来るし、本当に楽。苦労する局面も多々あるが、育児以外のいろいろな生活に於いても苦労はあるので、育児だけが殊更に苦労する何かだとは思わない。

 育児を苦労だととらえたら、その人は他の生活の何かについても苦労だととらえるのではないか。それは人生そのものを苦労だと感じていく道への入口になる。人それぞれに適性というものがあるので、育児を苦労だと感じる人の存在を否定しないが、その人の「子育てが大変だと感じる理由」というものを「子育てが大変だと感じる本当の理由」ということで一般化し、あたかも誰もがそう感じるのが当然のような世論を形成するのに資するのではないかと、だから違和感を感じるのだろう。

 断っておくけれども、「子育ては楽しいじゃない、大変なんて感じるのは愛情が足りない証拠」みたいなファンタジーな思い込みを押し付けようというのではまったくない。愛情があっても大変と思うことはあっていいと思う。愛情と大変かどうかは別の話だし、もしかするとお金がふんだんにあればもっと楽できる可能性はあって、だとしたら苦労と経済力は比例する要件なのかもしれないし、だったら結局「貧乏は大変」という当たり前の結論に至ってしまって、まあそれはそれでいいんだけれども、なんか釈然としない。

 結婚したら「子供はまだなの」などと平気で聞いてきて、それがいかにデリカシーに欠けているのかという話はもはや一般的な認識だと思っていて、だから「子供は可愛くて全然苦労じゃないって思うのが当然」というのもデリカシーに欠けていると思う。それはつまり、個々の価値感や状況やあらゆる何かが作用して、考え方も感じ方もそれぞれ違うということに立脚しない考えと行動だったりするので、「押し付けんなよお前の価値感を」という反発を感じるのだ。

 つまり、「子育てが大変だと感じる本当の理由」というのは、結局は「(ブログを書いたその筆者が個人的に)子育てが大変だと感じる本当の理由」に過ぎない。それを読んだ人は、「ふーん、この人はそう思っただけなのね」と流せばいいだけの内容に過ぎない。もちろん同意するのもいいし、反発するのもいい。読者全員が全否定するべき内容でもなければ、全員が全肯定すべき内容でもない。

 つまりは、単なる私見に普遍的な絶対理由のようなタイトルつけんなよと、そういうことである。言うまでも無く、僕は子育て大変だとはまったく思っていないし、それも僕個人の考えに過ぎない。でも、もしもどちらかを広めるべきだとすれば、子育ての楽しい側面を広めていった方が、社会としても明るい何かにつながりそうな気はするのである。

寓意

 以前にもちょっと書いたと思う(違ってたらごめん)が、息子に積極的に絵本の読み聞かせをしている。全部買ってあげる財力もないので、図書館で借りては読み聞かせ。たいして反応のない絵本はそのまま返し、好きだという絵本は、後日買ってあげたりする。全部は無理だけど。

 先日借りてきた「こんとあき」という絵本が代のお気に入りの様子。

 キツネのぬいぐるみと少女のお話なのだが、僕も以前、子供がいない頃にたまたま店頭で読んでステキだなと感動した本だったのだが、2歳半の息子にはちょっと難しいかなと思ってた。だが、今回借りてきた4冊の中で、他のはまったく興味を示さないのに、この絵本にはめっちゃ食い付く。朝も夜も読まされる。いや、読むのはいいのだ。でも1日に10回はちょっと多くないか?38ページあるのだぞ。絵本とはいえ1日380ページ読んでいるのだぞ。飽きないか?そりゃあお父さんの読書がはかどらないはずだ。まあそれは編物なんてやっているせいなのだが。

 息子にとっては「電車」と「おばあちゃん」という2大お気に入りアイテムが登場するので、それも食い付きが良かった点だったのかもしれない。

 僕はこの絵本を何度も読んでるうちに、このこんとあきという登場キャラは、結局は男と女の関係そのものだという気がした。こんはぬいぐるみなのにあきの面倒を見ているつもりで動いている。出来事のすべては女児のあきが「ついていく」「どうしよう」「行ってみたい」という動機から始まっていく。守護者であるこんが当初思っていた通りにしていれば揉め事もおこらなかったものを、あきの希望を叶えてあげようと計画を変更して頑張ってみる。ちょっと困難だと思っていてもだいじょうぶと言って頑張る。頑張った結果うまくいかなくて、結局尻拭いはあきがやってくれる。それでもこんは自分が守護者であるという意識も態度も変わらない。

 男は、バカだなと思う。それでも最初に感じた好意に抗うことができず、自分の実力以上のことだって出来ると思い込み、やってみる。絵本では、失敗する守護者はぬいぐるみである。端から見てると、こんがやろうとしていることなど出来るわけがないのは明らかだ。だが、実際の人間もその程度なのかもしれない。自分がぬいぐるみ程度に何も出来ない存在であるということには気づかずに、出来ると思い込んで直進する。

 女もバカだなと思う。結局尻拭いをしなければいけないのは自分なのに、そんなことは考えもせずに他愛無い希望を口にする。その言葉が男を無茶な行動に突き動かすことくらい判っていそうなのに。

 そんなことは、2歳半の息子は考えてもいないのだろう。いや、考えているのか?感じているのか?その真偽は謎のままだが、少なくともこの絵本のことを彼は大好きな様子。良い本というのは、言葉を完全に理解していなくとも、ちゃんと判るのだなと、とても不思議な気持ちで、毎日読み聞かせをこなしている。それが勝手な思い込みだと知りつつも、その思い込みを真実だと思い込んでしまうのが、男親のバカなところかもしれない。

フランスのデモ

 午前2時になろうとしてる。眠いので要点だけ。フランスのデモに370万人とか、そこに各国政治家も参加したとかで、主に自由を尊ぶ人たちの間で好意的に受け取られている様子。

 だが、僕はそれ、かなり胡散臭いと思っている。

 まず呼びかけがフランスの首相だということ。デモという形で世論を誘導している恐れあり。

 次に、死者が出ると美化されるという感じが鼻につく。あれが言論だったのかは、少しばかり議論されるべきと思う。言論の自由の根底にあるのは、他者への敬意である。自分とは違う価値観を持つ人の発言を担保するということは、他者への敬意無くしてはあり得ないこと。だが件の新聞がそれほどに他者への敬意を持っていたのか。だからアレに発言や表現の権利は無いと言ってるのではない。武力による攻撃を擁護するべきでもない。他者の表現に暴力で抗することが言論の自由でないことは明らかだし、それを擁護する気持ちなど1mmも無い。だが、一方に死者が出たことでその側のすべてを美化してはいけない。とても危険なこと。

 世論を誘導するためには、場合によってはヘイトスピーチしてる人が死ぬ事件を権力側が引き起こす可能性だってある。今回の件を、為政者側は研究しているだろう。政府への不満がはびこり、運営が立ち行かなくなった時。あるいは強行にあることを押し進めたいと思った時。やらせで事件を起こすことはさほど難しいことではない。なんなら事件など起きてなくても、警察発表で「愛国者が殺されました」と事件をアナウンスし、子飼のメディアを通じて「自由のために団結を」と呼びかければ一丁あがり。そういう誘導が絶対に永遠に無いとは誰も言えまい。今後の動きによくよく注意しなければならない。

 それは要するに「絆」の問題と似た感じの胡散臭さ。美名の元に全体がまとめられていく恐怖を感じてしまう。

 つまり、言論の自由を表面的に浅く捉えることで、そういう人が増えることで、結果的には言論の自由は制限を受けてしまう可能性が出てくるという矛盾的な事実を、もっと人は自覚しておかなければならない。

空き家の話

 方向転換をしなければならない時、それを妨げるのは怠惰と強欲です。

 状況は刻一刻と変化しているのに、対応するのは面倒臭くて、だからこのままであってもイイじゃないかと勝手な妄想で世界を見る。というより、その人の目はもはや見えてさえいないのかもしれません。見えないという点では危険ドラッグをやっちゃってる人の状態と同じ。金や既得権というのは、確かにドラッグのように脳を肉体を蝕むものであるようです。

 昨晩NHKで空き家問題について番組をやってて、日本には現在数百万戸の空き家があるという。人口が減り、新築を立て続ければそうなることは誰でもわかる。でも誰もやめられない。デベロッパーは建物を建てるのが存在意義であり、新築をやめることは即自己否定につながるし、関係者の暮らしを支える収入システムが破綻することを意味する。だからやめられない。住宅ローンは金融機関の大きな収入源なので、どんどん貸し出したい。個人は両親が家を遺した田舎などには住みたくないから戻らない。もはや不要なその土地付き戸建を高く売ろうとするが、そもそも田舎なので期待するほどの値はつかず、売るに売れない。いつかは高値を期待して持ち続けるが、更地にすれば固定資産税が高くなるので、空き家のまま放置する。

 全部、エゴですな。

 高速道路をもっと作りたい。新幹線をもっと作りたい。空港をもっと作りたい。原発をもっと作りたいし動かしたい。すべて根っこは一緒です。

 その結果、予算は工事費に充てられて、子育て支援や医療や介護が削減される。新しい電源開発は後回し、というより阻害される。これでは時代の変化についていけません。自明です。

 それでも人は今ある、というより昨日まであったものを今日も維持したいと夢を見る。その結果は停滞であり、後退である。

 ただ単に電力会社や政府をに批判するのは簡単だけど、身近にある空き家の問題を放置していては、原発は無くならないのかもしれない。そんなことを思った土曜日でした。