月別アーカイブ: 2014年8月

愛情リレー

 いやあ、今朝はしんどかった。

 保育園に出かける僕と息子。出かける前にお母さんが食べていたパンを欲しがり「パン食べる」と言ったのであげてみたら一切食べず。で、出かける時に「靴はどっちを履く?」と聞くと「オレンジくつ」と言うのでオレンジの靴を履かせて出発。いつもは前のかごに乗って行くのだが、この2日ほどは帰宅時に後ろのシートに乗るというので乗せていて、今朝も後ろがいいと言うので後ろに座らせた。

 でも自転車を動かし始めたところで「パン食べる〜」とグズグズ言い出す。仕方ないので奥さんに電話してパンを持ってきてもらおうとしてたが、電話に出なかったので諦める。電話してるうちにパンのことは忘れたみたいでなんとなく出発できた。だがしばらく行くとまたパンパンと言い出す。もうそれは無視して自転車を進めていると、今度は「青くつ〜!」と泣き出す。そこで言われても正直困る。なので「オレンジくつって言ったのは○○ちゃんじゃないか〜。お父さんはどっちがいいのか聞いたで。それで○○ちゃんがオレンジくつっていったんだよ。だから今日はオレンジくつ履いてきたんじゃんか〜」と言うものの、まあそんな理屈が通用する状況ではない。そのうちにかごの外にくつを出して身体を歪めたりしてたので、とりあえずオレンジ靴を目の前から無くそうとして、脱がせて僕のカバンに仕舞って再度出発。

 息子泣きながらもしばらく進んで、あと少しというところで「自転車、降りる」と言い出す。そこでシートベルトを外したらもう乗ってくれないだろうなということは判ってたけど、無視するのは良くないと思ったので、停めて抱っこした。足には靴下しか履いてないから地面に降ろして歩かせるわけにもいかず、保育園までバス停1個半ほどの距離を歩くことにした。そうするとなんとなく泣きもおさまり、「また自転車を取りに戻らなきゃいけないけど、それでもこの方が早いしスムーズだし、息子の気も収まるかな」と13.4kgを抱えて黙々と歩く。

 保育園まであとちょっとというところで、今度は息子「自転車乗る〜!自転車〜!」と言い出して泣き叫ぶ。オイオイそれはさすがに無いだろう。無視するのはさすがにアレなのでいろいろと声をかけながら残りの距離を歩く。抱きついてくれている13.4kgと、泣いて叫んで降りようとする13.4kgの重さはまるで違う。やれやれやれやれだ。暑さも一段落した京都の街で僕1人汗を噴き出しながら歩いている。まあ息子は息子で涙とよだれを吹き出しているわけだが。

 先日友人がfacebookで父親が倒れて田舎に戻ることを投稿していた。幸いにして息を吹き返し血圧も安定して手術になって、今では意識も戻ったということで僕も安堵したが、そんな彼に意識が戻った父親は「お前何してんだ?仕事しなきゃダメだろ」と。まあまあそんなこと言うなよという話だが、親としては自分のことより子供のこと。それは親になって初めてわかる。親がボロボロになってでも、子供がちゃんとすることを望む。「ちゃんと」の意味は人によって様々だろうが。

 その友人は最初の投稿で「オヤジ死ぬな。まだ教えてもらわなきゃいけないことが山ほど残ってるんだ」と言っていた。でも意識が戻った父親の言葉に従って故郷を離れ、すぐに仕事に復帰している。

 僕はこう思うのだ。20年前に死んでしまった父親がもしも1ヶ月限定で生き返るのだとしたら、明日から、いや今日から帰郷して1ヶ月は仕事もしない。それほど余裕のある暮らしではないけど、経済的余裕や困窮とは関係のないレベルで帰郷を選択する。もちろんそれはもう叶わないことだが、友人はある意味父親が生き返ったも同然なわけで、だったら少しの間有給を取りまくってでも故郷にいたらどうだと勝手に思うが、まあそれも他人がどうこう言う話ではない。

 自分が今あるのは、大なり小なり親のおかげである。いなけりゃそもそも生まれていない。この恩は返しようがないと思っている。仮に経済的に大成功をして豪奢な暮らしを親に与えることが出来たとして、それで返せる恩なのかというとそれも違うと思う。たいした成功も無く苦しい家計であっても、親に何かを返すより、自分の子供に何かを出来れば、それが結果的に何かを返したと同じことになるのではないだろうか。リレーでバトンを渡すような感じの、連帯感のような何か。

 今朝の顛末を奥さんにメールしたら「お疲れさまです。でも本読んだら、「泣き叫んだりイヤイヤして困らせる子こそ良い子」って書いてあった。主張や表現ができる証拠だそう。小さい頃におさえつけて我慢させると、将来何も考えられない、できない子になっちゃう傾向があるそう。」と返事。うんまあそれも解ってるつもりだし、だから途中で自転車何回も停めるし、抱っこして歩いたりしてみるし。泣いてるけど、騒いでるけど、なんとなく伝わってるんじゃないかなって、そう思う。育児書にもいろいろあるし、どれが正解かなんて判る訳もなくて、だから自分なりに「息子はどう思ってるかな、どう感じてるかな、なんでこんなこと言ってるのかな」と考えながら、愚かながらも精一杯のことをやってみようと。そうやって悩んでひとつひとつ頑張ってみることで、親が自分にしてくれたことをちょっとだけ解ったつもりになるし、それが恩をちょっとずつ返していることになるんじゃないかと。

 そういえば昨日保育園から帰ってくる時、息子はずっと「青くつ、青くつ」とつぶやき続けてたんだった。それに僕は「そうだね、青くつ明日は履こうね」と言い返してたんだった。朝にオレンジくつと言ったことがすべてじゃなかった。来週からは靴を2足持って行こうと決意しましたよ僕。親の荷物はどんどん増えていくよ。

ヒトデを投げる人

 「ある時浜辺に大量のヒトデが打ち上げられた。少女はヒトデを1つずつ海に投げ返し始めた。それを見ていた老人は「そんなことは無駄だ。何の解決にもなりやしない」と言った。しかし少女は言った。「でもこのヒトデを済うことは出来たわ」と。」

 BS世界のドキュメンタリーで放送されていた「The Starfish Throwers」を観た。自分で野菜を育ててホームレスの人たちに食べてもらう活動を始めた少女ケイティと、ホームレスにサンドイッチを配るために夜回りを何十年も続けるおじさんアラン・ローと、インドでホームレスに食事を与え続ける男クリシュナンの物語。

 ケイティは学校でキャベツを育てた経験から野菜作りが好きになり、それを貧しい人に食べてもらいたいという純粋な気持ちからその活動を始める。活動の輪はどんどん広がり、多くの助成金や寄付も集まり、クリントン財団賞(名称はちょっと違うかも)を最年少で受賞する。

 アランローは教師を退職後、サンドイッチを配るために夜回りを始める。強盗に襲われても怯まない。進行性のガンが発覚し手術することになっても、心配するのは「もし自分に万一のことがあったら、誰がサンドイッチを配るのだろう」ということだけ。手術後も退院前に抜け出して夜の街に向かう。

 クリシュナンは街で自分の排泄物を食べているホームレスを見て車を停め、持っていた食事を差し出した。その瞬間に自分の天命を知り、即刻勤務先のホテルに辞表を提出。最初は「インドカースト制度最高位であるバラモン階級の人間がホームレスと触れあうなんて」と家族に反対されたものの活動を続行。今や両親が「あの子の活動は尊い。あの子が貧しい人に食事を食べさせるなら、私たちがあの子に食事を食べさせる」と完全協力体制。

 このドキュメンタリー、詳しくは見てもらえればと思うが、人が何のために生きているのかを考えさせられる。この登場人物たちは食うために生きてはいない。だが、食うことを生きることの最大重要事項と考えている。人は食うために生きるに非ずという言葉の虚しさ。哲学として人生訓としてそれは有効だが、そういうことを言葉で語っている限り、虚しさを覚えるばかり。

 特に興味深かった点をひとつ。クリシュナンはホームレスたちが髪を伸ばし放題にしていることに気付く。これを切ってやろうと。そうすることで人間らしさを取り戻せるのではないかと。そこで理容師たちを雇って路上に切りにいくのだが、ホームレスたちは激しく抵抗する。見知らぬ人がハサミを持って近寄ってくるのが怖いらしい。そこでクリシュナンは6ヶ月間散髪の技術を学びにいくのだ。いつも食事を与えにきてくれるクリシュナンが切るのであれば恐れることも無いだろうと。それは見事に成功。ホームレスたちはおとなしく髪を切ってもらう。サッパリとした顔立ちに新しいきれいなシャツを着れば、そこにはもうホームレスのみすぼらしい姿は無い。散髪後のホームレスとクリシュナンが一緒にコーヒーを飲んでいる姿はとても印象的だ。だがそれ以上に驚いたのは、6ヶ月散髪を学んだクリシュナンが手にしているのは、普通の文房具のハサミである。日本の美容師たちが持っているような専門的なハサミではなく、どこにでもある安っちいハサミ。手段も道具も、目的の前にはさほど重要ではないのかもしれない。とにかく驚いた。

 ケイティのところには嫌がらせメールも多く届くという。補助金が出たことを知ると「子供に補助金を使わせるのは愚か。賢い大人に預けて運用させるべき」と。余計なお世話だ。ケイティはまったく怯まない。その強さはすごいなと思う。ネットでちょっと匿名アカウントに文句言われるくらいで怯えてTwitterもブログもやめてしまう人が多数という時代だが、信念を持った人は子供でも強いのだなと感じた。

 彼らの活動は最初は1人。でもやっているうちに多くの人たちが心を動かされ、参加したいとやってくるという。善意の拡散だ。善意の再生産だ。個人が出来ることなんて限られている。1人で全世界の不幸を取り除くことなんて出来やしない。だがその1人で出来ることをやる以外にスタート地点はなく、その思いが強ければ、善意の和が広がり、やれることも少しずつ大きくなっていく。そんな当たり前のことを見せつけられたようで衝撃的だった。何の努力もせず、何の価値も無いことを「拡散希望」ってツイートするだけで和が広がることなどはない。やれることを強い信念で黙々とやることが、周囲の人を動かしていくのだろう。

 「再びヒトデが打ち上げられた。少女はまたヒトデを1つずつ海に投げ返し始めた。それを見ていた老人は「そんなことは無駄だ。何の解決にもなりやしない」と言った。しかし少女は言った。「でもこのヒトデを済うことは出来たわ」と。翌日老人は浜にやってきた。300人の人を連れて。そして300人がヒトデを海に投げ返し始めた。少女の気持ちは広がっていった。」

高校野球

 僕が出た高校はラグビーが強い高校だ。同級生からは早稲田大学ラグビー部のレギュラーを2人も出している。しかし最近は福岡でラグビーというと東福岡高校だ。全国制覇するようなチームで、もはや母校が太刀打ち出来ないようなモンスターラグビー部といっていい。

 だが、この夏の九州大会で東福岡と対戦し、撃破する。おお、すごいと同級生OBの間で多いに盛上がった。もちろんラグビーの全国大会というのは年末年始の花園だ。だから夏の大会で勝ったところでどうなんだということなのかもしれないが、それでも盛上がったのだ。高校のスポーツとはそういうものだろう。

 で、今日甲子園では決勝戦。三重高校vs大阪桐蔭。三重高校は奥さんの出身校で、普段母校のことなどまったく思い出しもせず、さらにはスポーツにほとんど関心のない奥さんまでがさすがに盛上がりつつある。もしも僕の出身校が甲子園に出場でもしたら、別に決勝戦でなくとも1回戦だって大興奮、決勝に出てればまず甲子園まで行っているはずで、その感覚で考えればもうちょっと盛上がってもいいんじゃないかと思うのだが、まあ日曜の準決勝で勝った後の校歌を口ずさんでいただけで、奥さんとしてはかなり盛上がっているのだろう、多分。

 今、速報では1回の表裏を終わって0対0。こんな暑い夏のデーゲームで、両チームともエースが連投していて、なんで中2日くらい空けられないんだとすごく思う。可哀想だぞその消耗戦。だが応援する学校側の予算なんかの切実な事情もあるんだろうなあ。甲子園をそんなにずっと押さえられないとかも含めて。

 そんなことを書いているうちに三重高校が2点を先制したぞ。頑張れ頑張れ!

ミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ

 結局、4対3で破れました。でも強豪桐蔭にヒット数も上回り、かなりの接戦の好ゲーム。にわかのファンだったけど、楽しかった。

最近の話題2つ

 アイスバケツチャレンジというのが流行ってる。でも、アレ僕は好きじゃない。

 チェーンメールっぽいとか、Twitterではいろいろと書いて、で、直接的間接的に「ああいうお祭り騒ぎにしないと関心は集まらないんだよ。目的はALSへの関心を持ってもらうことなんだから、関心集めたら勝ちなんだよボケ」と非難された。うん、そうなんだよ、そうやって「勝ち」とか「ボケ」とか言ってくることと僕の嫌悪感は直結してるんだよ。と言いたい。

 この感覚は311直後の「絆」と基本は同じなのだと思う。どんなことに対してもいろいろな意見があるのは当たり前で、同時にひとつの行動や現象には様々な要因が絡んでいるというのも常識。なのに現象のひとつの側面だけを美談でコーティングして「賛同しないヤツはボケ」という圧力が発生することがままある。それが今回のアイスバケツチャレンジにもあったし、絆騒動もそうだったし、「一億火の玉」という70年程前のスローガンにも似ている。

 ALSの関心が高まることはそれはいいのだ。うん、高まって欲しい。だがそのために手法に違和感を持つ人もその違和感を口に出せない感じの動きになっていて、それが「指名」ということによって「お前、拒否するのか、人道的じゃないボケだな」的な圧力を生み出していることがとても気持ち悪いのである。

 ここに来て「オレは氷水かぶらずに寄付するぞボケ」という芸能人がチラホラ現れて微笑ましいが、まだ足りないと思っている。「オレはALSに関心を持った。だから氷水もかぶらないし、寄付もしないぞ。関心を高めることが目的なんだろうボケ」と言い出す人が出てきて初めて公平な社会になるんじゃないかって、そう思っている。

 幸か不幸か僕には指名が来ないし、来てそう宣言したところでなんの影響もない普通人なので、虚しく空に響くだけだろうが。

 橋本聖子のキス問題。まあええ歳のオバはんが何をトチ狂ってるんだと正直思うし、もしかして海外遠征が多くて西洋人的な感覚を橋本聖子も高橋大輔も持っていたのかもしれない。チューは普通の挨拶だろうがと。

 でもやはりあれはセクハラだろうと思う。そしてそれを業界のトップが下々に行なってもOKという雰囲気を醸し出すことが、波及的にセクハラを助長するということを理解しておかないと、トップとして、そして選良としてはやはり問題なのだろう。

 9月の組閣で橋本聖子の入閣も噂されていた。女性を活用でSHINEの安倍内閣の内閣改造なのだもの。そりゃあ数少ない女性議員でベテランとなってくるとさらに少ないわけで、橋本聖子の入閣も当然検討の範囲内だろう。それに誰が嫉妬したのか、この件はその筋からのリークということらしく、さもありなんと思った。結果的に本当の意味で「SHINE」が「死ね」になってしまった瞬間でもあったと言えよう。男の嫉妬なのか、それとも女の嫉妬なのか。よく判らんが、人の上に立とうとする者、日頃から襟を正しておかなければならないということの好例なのだろう。李下に冠を正さず、瓜田に靴を納れず。まあそんな議員は珍しいくらいなので、その点ではちょっとだけ橋本聖子可哀想だなとも思うが。

 
 もう先月のことになるが、白石一文という直木賞作家の『翼』が文庫で発売された。これは新しい出版社「株式会社鉄筆」からの初出版となる書籍である。

 この鉄筆という会社は僕の高校時代の友人が立ち上げたもので、いってみればインディーズのようなもの。大手出版社を辞めて出版社を立ち上げるというのは、この出版不況といわれているご時世に勇気があるというかドンキホーテ的というか、ともかくチャレンジャーだ。僕自身インディーズレーベルをやっていて、とても共感するし、応援したい。それで京都の書店を回って2冊予約して購入。この「予約」というのが、店員さんに印象を与えるという意味で大きく、ただ発売後に買う以上に効果があると思っているからだ。2冊の予約がどれだけ大きいのかはわからないが、出来る精一杯の応援の気持ちで。

 そしたら結構売れているようで、初版5万部がすぐに無くなり重版重版で現在7万部。定価600円税抜きの本なので、7万部刷って売れれば4200万円が動くことになって、もちろん全部会社の利益になるわけではないが、商売としては結構な成功だといえるだろう。だが、印刷した代金は割とすぐ支払わないといけないだろうし、印税だって1割として420万円だ。設立からこれまでのオフィス代なども既にかかってきていて、書籍の取次から支払われる売上代金が入ってくるのは結構先になるはずで、そういう意味では最終的に黒字になるとしても、当面の資金繰りなどでは苦労しているだろうなとか、余計な心配をしてしまったり。

 最初のこの本ではプロモーションもずいぶん前から練られていて、だから良い感じになっているけれども、次の作品で同じことが起こるかというとそうではないはず。まあこれも余計なお世話だな。とにかく頑張ってください。

 話題2つって書いたのに3つじゃんかと突っ込まれそうだ。

開明的な人

 昨日保育園にお向かえに行くと、息子、目やにが出てますとの指摘。伝染性のなにかという可能性もあるので病院で診てもらってその結果を報告してくださいとのこと。翌日にしたら翌日が休みになっちゃうし、休んだとしても金曜日はふとんを回収する日だから行かなきゃならなくなる。そんな面倒なことはしたくないし、なによりどうせ診せるなら早い方がいい。早速かかりつけの小児科に向かおうとするが、それ以前に保険証が無い。

 で、奥さんに電話。勤務先から帰って来ようとしてるタイミングで、保険証は持っていると。なので直接小児科に持ってきてねと指示。で、僕は帰宅。なぜかというと、京都市の何とかという子供用の保険のなんたらが家にあるからだ。ああ回り道。なんてこったい。こういうとき、保険証がクラウドにあって、それを見せればOK的な感じになるとか、あるいは親の保険証を見せれば子供もOKになるとかすればいいのにと地団駄を踏む。実際は自転車のペダルを踏んでるんだけれども。

 クラウドは便利だ。ついさっきもYahooが容量無制限のクラウドサービスを開始すると。おいおい無制限ってなんだよと思うが、毎月一定のお金を払えばクラウドにデータを放り投げまくってもOKということになれば、それに依存する人は増えるだろうなあという気がする。でも僕はどうしてもそこまでクラウドに頼る気分にはなかなかなれない。

 理由はというと、そういうのをまだあまり信じていないからだ。もちろん僕もクラウドサービスは使っている。メインはDropboxで、その他にBoxというサービスも使っている。これはとても便利だ。でも、両方ともマメにバックアップをとっている。そうしないと、そのサービスが突然落ちたりした時に困るからだ。

 さらには、何らかの理由で交戦状態に陥れば、アメリカのサービスが引き続き使える保証はない。もちろん交戦状態になれば日常の業務がそのまま続けられるのかという問題はあるわけだが、しかしパソコンのデータを完全にどこかに預けてしまうと、今の時代はある種の生殺与奪権を誰かに与えてしまうようなイメージがどうしても拭えない。怯え過ぎなのだろうか。

 また、別の人のシェア記事で、電子書籍と紙の本とでは、読んだ人の理解力に差が出るという報告を読んだ。さもありなん。まあ紙の本で読んだところで二度目に読み返すと新たな発見もしてしまったりするわけで、実際にそこまでの差がでるのかはわからないけれども、僕自身科学的な裏付けなどないながらも、紙の本の方に愛着を持つ。というか、電子書籍は読んだことがほとんど無い。読みたくないからだ。

 でも、そういう心理的ハードルをすべて軽々と取り去って、いとも簡単にクラウドに移行していける人を何人か知っていて、ちょっとだけ羨ましいという気持ちが無いわけではない。そういう人の人生はずいぶん軽くなれるのだろうなとも思う。だが、じゃあすぐにそうなりたいと思っているのかというと、そうではない。そういう人を開明的な人と呼ぶのが相応しいのであれば、僕はまだまだ未開の人と蔑まれたって、別に構わない。

20ĺš´

 20年前の昨晩、僕は福岡の自宅で兄と顔を見合わせていた。母は不在。危篤の父が入院していた病院に、泊まりがけで付き添いに行っていた。

 翌日は朝から病院に駆けつける。親戚も幾人か駆けつけてきた。そんな中、父は息を引き取った。涙はすぐには出なかった。息を引き取る直前、もはやまともな言葉にもならない声でいくつかのことを託すように語った。内容は、覚えているけれど、ここで書くようなものではない。

 父がいなくなってからもう20年が経つのかと思うと不思議な気持ちだ。それは本当に昨日のことのようで、自分の中では父の存在は今でも大きい。だがこの20年で兄も結婚し子供が産まれ、僕も結婚し子供が生まれた。当然のように彼らはおじいちゃんのことを知らない。先日の帰省で息子はおばあちゃんにあんなに懐いたというのに、おじいちゃんのことは部屋に写真が飾ってあるだけで、それがおじいちゃんだと認識しているかどうかも僕にはわからない。

 生まれ故郷の福岡という街を離れてもう29年になる。僕にとって一番長く住んだ街は東京だ。だから本当は一番思い出す街は東京であるはずなのに、今でも福岡に行くと「戻ってきた」という気持ちになる。東京に行っても単に「来た」でしかない。故郷の存在感というのはおそらく永遠で、だから父の存在というのはそんな感じの永遠的な何かなのかもしれない。

音楽の行方

 もう本当にCDは無くなる無くなる無くなるって言われ続けてて、それでも「そんなか?」ってずっと思い続けてる。

 それは昔、コンピュータが普及するとオフィスから紙が無くなるよねって言われ続けて、結局プリンタなど導入してしまったら紙はむしろ増えたという事柄からも、やはり紙は無くならないっていうのが僕の実感で、多分事実。会議でパワポのプレゼンしたらもう紙要らんだろと思うけれども、やっぱりそのパワポのプリントアウトを出席者に1人1人配る。だったら部屋暗くすんなよって思うけど、みんなパワポはプロジェクターで大きな画面に表示したい。まあそれはいい。

 紙の書籍が無くなるとか言うけれど、全然無くなる気配はない。あんなに電子化を推奨しているホリエモンの著書だって、紙の方が売上げ断然多いという話。ホリエモンに憧れてる人は全員キンドル持ってるんじゃないのって思うけれども、やはり紙の本を買っているそうだ。

 出版社はいつまでも紙の本の在庫を持ち続けるということが難しい。そういう意味では電子書籍はいつまでも買えるという効能があって、だからその意義も僕は認めているのだが、だからといってすぐに電子書籍に切り替わるのかというとそうではないだろう。まあ20年程経てば状況は少しは変わっているとは思うけれども、年内にどうこうというようなドラスティックさは起こらないだろう。

 で、音楽なのだが、これもまだまだCDは残る。僕は2つの理由をここで述べたい。

 ひとつ目。音楽ビジネスは不特定多数へのアプローチというモデルを失いつつあるということ。以前は1億人に知らせるプロモーションを行なっていた。そして100万枚というゴールに向けて動いていた。いまそれをやろうとすると愚かだろう。一方で最近は「こいつ誰?」と思う程無名なアーチストが連日武道館を満員にさせている。1億人に知らせる必要などはなく、5万人に知らせることが出来れば、1万枚のチケットが売れる時代なのだ。5000人のファンクラブが成立すればバンドが食っていくことは可能だし、それは以前のようなビッグビジネスとして多くの人の協力を得なければ出来ないものではなく、数人のスタッフが有能に稼働すれば実現する世界なのだ。

 だとすれば、CDはファンアイテムとして成立する。それ以外でどうしても聴きたい人は音源だけどこかでダウンロードすればいい。極端なことをいえば、10曲のアルバムのうち8曲はフリーでダウンロード出来る状態にしておいても構わない。2曲だけはCDにのみ収録し、ファンクラブの人にだけ送られる。もちろんそれはファンクラブ会費の中に含まれる形で。

 ふたつ目。アーチストがアーチストとして成立するのは、やはり看板が必要だ。アマチュアと違うスタンスでやっているという証が、CDになっていく。それはある種ビジネスマンが名刺を手放せないのと同じことだろう。facebookでフレンドになればいいだろうと思うが、やはり名刺を渡さなければビジネスは始まらない。だからどんなに電子化が進んでも、名刺という仕組みは当面無くならないだろう。それと同じで、聴かれるか聴かれないかは別にして、どこかで自己紹介をする必要に迫られた時、CDの現物を渡せた方が、その先が明るくなる可能性が高くなる。名刺を渡したところでそこに記載されている電話番号にかけてもらえる確率が低くとも、挨拶を始めるためには名刺が必要で、相手が名刺を出してきた時に「僕持ってないんです」ではビジネスマン失格であるように、アーチストと自称する以上、音源をすぐに渡せないようでは、きっと失格してしまうのだ。

 そんな感じで、やはりまだまだCDは当面無くならないと確信している。問題は、機械だ。CDを鳴らせるプレイヤーがどんどん少なくなってきているのは事実である。薄型のノートパソコンが普及する中、CDドライブを取り外す傾向も強まってきている。そういうのが続いていく中で、物理的にCDを聴けないという人は徐々に増えてきている。そういう人たちへの対応をどうすればいいのかという話でもあるが、それに頭を悩ませるのは、むしろ1億人に向けてプロモーションをするようなものだと考えている。CDの機械が無くなることで奪われるマーケットよりも、自称アーチストが増えていくことでマーケットのパイを奪われていくことの方が、アーチストにとっては目下の大きな悩みなのであるから。

通常営業

 お盆休みを福岡で過ごし、土曜に京都に戻ってきて本日より通常営業。

 では帰省先でのんびりしたのかというと、本当のところはよく判らない。限られた期間の中でこなすべきこともそれなりにあって、墓参りや家族での食事会。それなのに友人の手伝いで仕事を一日入れてしまって(そのことに後悔はないけれど)、まあ、睡眠時間が足りていたかどうかという基準で考えれば、まったく足りていないと思う。

 それでも息子がおばあちゃんにきっちり懐いてくれて、笑顔を振りまいて、家族の距離はちょっとだけ縮まったような気もする。そういう意味では、休暇というよりは特別営業という気もする。仕事をするのも大切なことだが、それ以上に家族が密になることは長い人生にとってとても大切なことだ。

 夫婦そろって月曜から仕事だし、息子も保育園へ。だから日曜に京都に戻るよりは1日本当の休日を入れた方がいいということで土曜に帰京。帰京というと東京のようだね。でも、帰るのは京都。

 そして今日から通常営業。皆さんよろしくお願いします。

 皆さんって誰のことだろう?? まあいいさ。よろしくお願いします。

OKな教育、NGな教育

 数日前にやっていたBS海外ドキュメンタリーで、子供に加熱したものを食べさせないという母子の話があった。肉や魚はもっての他で、野菜だって加熱しない。ベリーを食べたり、バナナを食べたり。乳製品をとらない子供は同年齢の平均よりも背が低く、そういった事態を市だか国だかの健康機関が問題視し、この母親を訴える。この母は勉強も学校に通わせることなく自分で教えている。それは児童虐待だと公共機関は言うのだ。

 親というのは子供に対してどこまでの関与と管理が義務で、同時に権利なのだろうか。判断力が足りていない児童は簡単に親の影響を受ける。DVを行なう親のことを一番必死に庇うのは、DVを受けている子供自身だ。大人でもハイジャックなどの状況に陥ると犯人に共感を覚えるという。ストックホルム症候群というやつだ。犯人の許可がなければ食事やトイレさえ自由に出来ない状況下で、犯人のちょっとした優しさに感謝の情が起こり、それが共感や同情につながるそうだ。だから子供が親にどのような扱いを受けていようと、誰よりも大切なのが親であることは疑いのないことだろう。

 子供に加熱したものを食べさせない親が虐待の気持ちで子供に接しているのかというと、そうでもない。むしろ積極的に育児に取り組んでいる。そのやり方が他人と違うだけのこと。それを「違うから」と訴えて母子を引きはがすというのは如何なものか。乳製品を食べさせないように気をつけているというと僕の常識とは違うので違和感があるけれども、じゃあ放射性物質を含んでいる食物を食べさせないようにしているというとどうだろうか。それを当然という人もいるし、「いや、基準値以内だったら安全なので気にするのはおかしい」という人もいるだろう。どちらが科学的に正しいのかという議論とは別に、親が子供の安全を考えて最大限の思考を重ねた結果、どう判断するのかということについては、結局家庭それぞれに委ねられるべきで、放射性物質を国の基準値以内含んでいる食物を不安視している母子に「食え」と命令するのは如何なものか。その命令は、不安視する母親の気持ちを一切ほぐすことはない。

 終戦の日になるとTwitterでもfacebookでも靖国に参拝したという投稿を沢山見る。大臣が靖国を参拝すると国際問題に発展すること、天皇陛下がある時点以降参拝をしないこと。それを持って普通の国民が参拝することの是非を問うというのは別の話だと思っている。一般に「英霊」という抽象的な総体に対して参拝することと、親族の誰かをお参りすることとは違うからである。親族に戦死した軍人がいる場合、そしてその人が神道に帰依している場合、靖国神社に参拝することはごく自然なことだ。戦死した軍人の親族もなく、自らの軍国主義の表現のひとつとして参拝するのとは意味が違う。

 だが、そこで故人を偲ぶということと、日本軍のやってきたことの正当性を美化していくことは、また分けて考えなければならないと思うのだ。靖国神社にある遊就館に展示してあるもの、展示の仕方については賛否ある。何の迷いもなく正しいと思う人から、軍国主義を賛美する場所と非難する人まで様々だ。で、そこに大人が自分の意思で行くのは本当に自由なことだ。ではそこに子供を連れて行くというのはどうなのだろうか。もっての他と言う人もいるだろうし、何が悪いのかと言う人もいるだろう。そこに教育的効果は確実にあって、遊就館で判断力の足りない子供がどのように考えるようになるのかは考えればわかる。その是非を親はどう考えるのか。真剣に考えた結果、行かせようとする親。行かせるべきでないとする親。実はその2者だけでなく、何も考えずに連れて行っている親、何も考えずに連れて行かない親というのがあって、そのどれも、親であるのなら子供になんらかの影響を与えているということを考えた方がいいように思うのだ(何も考えずにやっている人が今さら考えるとは思い難いのだが)。

 なぜこんなことをいっているのかというと、子供への親の影響というのは重いもので、その重さを(無論僕自身も含め)自覚して教育的な行動を取れているのだろうかということに、疑問を持ってしまうからである。Twitterで旭日旗を振っている幼稚園児の写真を見た。その幼稚園は右寄りで有名なところだそうで、なぜ判断力の弱い時期から旭日旗を振らせるのだろうかと訝しい気持ちになった。そこで旭日旗を振っている子供は思想的にどのように育つのだろうか。もちろんカトリック系の幼稚園に通う子供が全員経験なキリスト教徒になるわけではない。だから旭日旗を振っている子供が全員軍国主義者になるわけでもない。だが、もしも自分の子供が通っている園が旭日旗を振らせる園だとしたら、僕ならまず退園させるだろう。だがむしろそういう園だから通わせたいと思っている親もいるのだろうし、だから園の経営も潰れないのだろう。不思議な話だ。

 今も戦乱下にあるパレスチナガザ地区では、自爆テロが歴史的に続いている。ガザ地区に閉じ込められて自由を奪われているという状況下で考えることと比較的自由と思われる現在の日本で考えることが同じであるはずはないのだが、そこでは自爆テロをすることによって天国に行けるという教育が一部でなされていると聞く。その教えによって子供はそう思い込み、爆弾を抱えて家を出るのだ。おそらく真面目そのものである。そういう思想であればもう迷いはないのだろう。それは正しいのか、間違っているのか。行動もそうだが、そういう教育を施すというのは、正しいのか間違っているのか。

 特定の宗教に於いては輸血を禁じているという。そのため輸血を必要とする外科手術で助かるはずの患者が命を失う。自分の子供が事故に遭っても輸血はさせないという。それは正しいことなのか、間違っているのか。

 それぞれに考えはあるだろう。自分の子供の輸血はOKだが整形手術はNGなのだとすると、その間にOKとNGの境目があるはずで、その親にとっての境目はどこなのか。軍国主義賛美の遊就館に連れて行くという教育はOKで、自爆テロによって天国に行けるという教育はNGなのだとすると、その間にOKとNGの境目があるはずで、その親にとっての境目はどこなのか。肉や魚を食べるのはOKで、非加熱の食品のみを食べるというのはNGなのだとすると、その親にとっての境目はどこなのか。NGの何かをNGにしている理由はなんなのか。OKの何かをOKにしている理由はなんなのか。それを明確に自覚して親は教育をしているのか。僕自身はどうなのか。もしも自身の方針が国などの方針と違っていた場合、自分の方針をどこまで押し通すことが出来るのか。それはとても難しい。だが何の考えもなく流されるようにしていたのでは、親としては失格なのだろう。抗えなくとも、考えを持って子供に接していかなければと、少なくともそう思う。

戦争体験を伝える

 8月15日は終戦記念日。最近は敗戦記念日にしろとかどうだこうだとか、本来の終戦はその日ではないとか、南京虐殺はなかったとかなんとか、いろいろなことが言われているけれどもだ、そんなにこの時期のことを詳しく知っているわけではない身としては、まあ式典などもあることだし、この日が終戦記念日ということで。

 で、終戦から69年とのことで、その日に生まれた人がもう69歳なのだから、そりゃあ体験は風化するよなと普通に思うが、それにしても風化の仕方があんまりじゃないかと思ったりする。戦争の史実がどんどん変わっていくような懸念もあり、変えたいと思う勢力と思惑がなんであるのだろうかという気もするけれど、あれはまあドイツが先の大戦をナチスによって起こされたモノということで精算した結果、今のドイツ国民とナチスは別モノであるというスタンスを確立することが出来て、だからナチスの残党が発見されればたとえ故人であっても墓を暴いて成敗するということまでやることで、「今のドイツ」というものをクリーンなものとして生まれ変わらせたのに対し、日本は戦犯の人たちも戦後立場を回復していき、戦犯が総理大臣になったり、高級軍人も総理大臣になったりして、そして今は戦犯の孫が総理大臣なのであって、つまりはあの大戦と今の日本を切り離すことに完全に失敗しているからなのだろうと思う。そういう人に取っては第二次大戦が悪魔の愚行なのではなく、ノスタルジーを伴った美学そのものだったりする。だから末端の平民が死んだということに対して哀悼するよりも、おじいちゃんがいかに正しい存在であったかを示すことの方が重要なのだ。だから英霊といわれる記号としての戦没軍人の神社に参拝するためのロジックは毎年練りに練るけれども、一般市民たちの被曝者たちへの哀悼の言葉は毎年使い回しで済まそうとする。

 A級戦犯として処刑された唯一の文官に広田弘毅という当時の総理大臣がいて、彼は僕の出身高校のOBでもある。だからOBのことを悪く言わない風潮の中で3年間学び、城山三郎の伝記小説などを読んだりもするので、戦犯であっても悪人ではないというスタンスに対して理解はするが、でもその理解するという心根が、「ナチス許すまじ」のドイツとはまったく違うものなんだろうとは思う。まあそれについては『落日燃ゆ』という小説などを読んでみてください。

 で、終戦の日。戦争体験は風化していくことが嘆かれる昨今。「戦争体験を聞いたり、小説やテレビドラマを見たりして、まるで行った気になって戦争反対を唱える愚行」という言葉をTwitterなどで見たりもするが、そもそも歴史に学ぶというのはそういうことである。行って体験しなければ理解出来ないというのは想像力の足りない愚か者の言い訳に過ぎぬ。ゆとり教育がゆとり世代以外にも広がってしまって、理解力がない自分を肯定するためにそんな愚かなことを公言してしまうのか、それとも戦争反対の風潮を広めたくない勢力が戦争体験伝承をバッシングする意図で敢えて言ってるのかはわからないし、多分両方だろうと思うけれども、はっきり言って、伝承で当時のことを実感出来ないというのは、歴史というものを根本的に知らない愚か者の開き直りである。

 歴史を学ぶ人なら、1000年以上前の戦争からも戦争というものを学ぶことが出来る。無論歴史に残された文献は現場の100%を伝えているわけではない。だがその限られた文献や史料から類推して結びつけて立体的な何かをつかみ取るのが歴史という学問である。第二次世界大戦のことだって、遺骨がまだ完全に拾集出来ていないわけで、その遺骨の人がどのような体験をしたのかなんてわかるわけはなくて、そういう意味では史料は不完全である。それでも生きている軍人も市民もかなりの数で体験を語っている。それを聞いて見て、なにも理解出来ないなどと思うのは愚かそのものだろう。

 ただ、戦争の悲惨さに対する感覚が薄まっているのは事実だろうと思う。「テレビやドラマを見て戦争の悲惨さを語るなどナンセンス」などと言う人たちがいる一方、第二次大戦を描いた映画にアイドルが起用されて、戦争が美しいものであるかのような演出が昨今は増えていると感じている。むしろ、戦争を美化する流れの方が強くなってきていて、その方を危惧した方が真っ当だと思うのだが、僕の同級生などの世代もそういう映画に涙したりしていて、オイオイ若い人ばかりをどうこう言えないよなと正直思う。

 なぜそうなるのか。それは戦争に反対する人たちには統一したシンボルのようなものがないからなのだと思っている。

 宗教を考えてみよう。全部とは言わないが、ほとんどの宗教には尊い教えがあり、教祖とか神などがいる。キリスト教に於けるイエスキリストなどはその典型であるが、仏教にも仏さまがいて、阿弥陀如来とか大日如来とか、まあ様々いらっしゃるが、総称して仏さまは拝むべきシンボルである。そういう絶対的に正しいシンボルがあるから人は帰依し易いし、そのシンボルが説く教えは、人間の本能や社会の法律を超越した最高の戒律であるがゆえに、疑う理由がないのである。その仕組みを維持することを生活の基本にする聖職者は当然その教えを維持することに自らの存在意義があるし収入の根拠があるので、全力で伝えようとするし、帰依させようとする。そのエネルギーが1000年も2000年も「何か」を伝えていくことにつながっていると思う。

 しかしながら反戦というものには何のシンボルもない。何のために反戦なのか、何のために平和なのか。そのことはとても哲学的で、最初は本能で「ケンカは良くないね」的な母の教えだし、「空襲は地獄だったよ」という祖母の教えだ。しかしよくよく考えてみると非常に哲学的な話になってきて、何故反戦であるべきなのかという根拠を正確に規定することはとても難しい。もしも反戦を象徴するキャラクター、それは漫画の主人公でもよくて、そういうものが確立しさえすれば、その反戦という主張はスムーズに広がっていくだろう。それは世界のサッカー選手たちが「キャプテン翼のボールは友達」を心から信じているようなもので、しかしそういうものが反戦には存在しない。反戦を語る「おばあちゃん」はその人にとってのみのおばあちゃんでしかないし、そのおばあちゃんが語る戦争の悲惨話は人によって全部違う。

 だが、平和を願う人の多くに共通する点として、誰かに強制されたくない的な感情論は常にあるので、多くの戦争悲惨話を上手くまとめて日本人の反戦の教典にするなどというのはとても困難なことなのだろうと思う。その試みはおそらく数限りなく繰り返されてきた戦争の後で何度も試みられたもののはずだが、結局何ひとつ成功することなく、平和教や反戦教などが存在しないというのが、このことの困難度合いを証明しているような気がしている。

 まあ本当に難しくて、解決の糸口など何も見えないことではあるけれども。こんな僕ごときがこんな駄文を書くのも、多少なりとも考えているんですよという一種の免罪符に過ぎないのかもしれなくて、もどかしいという気持ちが大きいけれど、それでも考えずに「体験しないで何がわかる」などと開き直るよりは遥かにマシだろう。

 最後に繰り返すけれども、行ったことのない戦争であっても、史料文献から何かをつかみ取るというのが歴史に学ぶということであり、「何がわかる」と言っている人は、戦争で儲けようとしている人か、歴史を知らないバカなので、真に受ける必要もないし、惑わされてはいけない。