月別アーカイブ: 2014年5月

七丌ず

 七並べはご存知だろうか。トランプの、あれである。

 この七並べで勝つためには単純に持ち手を出し続けていてはいけない。効果的に特定のカードを出し惜しむことで対戦者がカードを出せないように仕向けていく。そして許されているパスの回数を超えさせ、負けていくのをじっと待つ。それが七並べのセオリーだ。

 現在の経済はこの七並べが行なわれているように感じている。大手企業が内部留保を史上最大に抱え込んでいると言われているからだ。内部留保とは富の蓄積である。回せば良いものを回さずに溜め込んでいる。そのおかげで回ってこない人たちが苦しむ。自分がカードを出せなくなってドボン、ゲームセットだ。

 もちろん企業も必死なのだろう。バブル崩壊を経験し、リーマンショックを経験した。円高で輸出産業は大赤字に苦しんだ時期もある。だから内部留保は一種の保険のようなもので、次いつ何どき経済危機が訪れるかわからず、そういう時でも倒産を避け、社員の生活を守るための自己防衛本能がそうさせているのだろう。それはわかる。わかるが、限度というものもあるだろう。内部留保を溜め込むには、利益を出さなければならない。利益をこれまでどこで出してきたのか。基本的には経費を削って売上を上げるという単純なもので、細かく言い出すといろいろあるとは思うが、端的に言えば人件費を削ってきたというのが大きいと思う。正社員比率を下げ、正社員の給料も伸びを抑える事で全体的に下げてきた。その結果労働者の平均年収は下がっている。人件費を下げる事で内部留保を増やし、来たるべき経済危機の際に社員の生活を守ると言われても、なんだかピンとこない。

 企業経営も経済活動であり、いい商品を安く作って消費者に喜んでもらえればそれで何の文句があろうかという話なのかもしれない。だが、どんな企業もそれに邁進して行く結果、国内の経済は回らなくなってくる。回らないから消費も落ち込み、売れなくなって危機感が高まってまたせっせと内部留保。

 そのうちに内部留保そのものが内部で評価されていって自己目的化していくんじゃないかという気がする。経済格差が進行していく過程で持てる者がどんどん富を蓄積していき、歯止めが無くなるのもそういうことだと思う。だから放置しておくとこの傾向はますます拍車がかかっていく。怖いことだ。

 だがその経済活動を国や法律が縛るようなことになってくると、ますますおかしなことになってしまうので、それだけは割けるべきだと思うのだが、じゃあ人間の良心に期待してというのでは、それにも限界はあるように思う。

 なんか書いててまとまらなくなった。それでも一応アップしておきます。ともかく、企業の内部留保って、健全な経済の大きな阻害要因だと思います。続きはまたいずれ。

bot

 Twitterでbotアカウントを作りました。その名も『キラキラレコード大島bot』!!

 バンドマンと話をしているといろいろな突っ込みどころが満載だったりして、まあバンドマンって基本的にガリ勉高学歴な人よりも、授業サボって屋上にいたり盗んだバイクで校舎の窓ガラス割ってたような人が多いわけなので(!)、効率的な努力のポイントを知らなかったり、努力するのがそもそもキライだったりする傾向が強くて、それがなかなか伸びていかない理由だと思っている。もちろん音楽で成功をするのは大変な話だし、確率論的に言っても失敗する方がほとんど。でも、その確率論だけで「もうやめておこう」と思えるのならまだしも、「いや、それでも」とどこかで思っているから音楽活動を続けるわけで、じゃあどこかとかいつかとか言ってないで、イマココで頑張ろうよと思うのだが、どうにも腰が重かったりするのを見るにつけ、本当はこいつら売れたいなんて思ってないんだろうと、突っ込みたくなるのだ。

 そもそも成功ってなんだろうか。五輪で日本代表選手に選ばれるとか、さらに金メダルを取るとかいうレベルの話をしてるのではない(してる人もいると思うけど)。それはずっと先の話として思っていればよくて、その前段階でまずは県大会に出られる選手になろう。そういう話だ。そして県大会でベスト4くらいに入れれば、メジャーデビューだって十分に有り得る。今となってはメジャーデビューって何という話でもあるが、やはりメジャーデビューはひとつの憧れハードルとして今も存在する。誰もがクリア出来る話ではないからだ。でも、仮に年間200組デビューするとすれば、47都道府県でベスト4に入れば十分だろう。しかも県大会では去年の優勝者もまた今年出場して来るが、去年メジャーデビューしたアーチストは、もう今年メジャーデビューすることはない。そう考えたら、県大会でベスト10に入ればもういいというレベルなのかもしれないぞマジで。

 メジャーデビューじゃなくとも、それ以前に「ワンマンを成功させる」とかCDで利益を出すとか、そういうずいぶん手前の目標をちゃんと設定して、着実にそれを達成していければ、また次の目標にチャレンジする資格も出てくるのであって、だから、そういうのを、明確に持てばいいわけで、例えば小学生なら中学受験が目標になるし、そこで良い中学に行ければ次はその中で頭角を現していい高校受験を目標にして、積み重ねていっていい大学合格を勝ち取ればいいわけで、なにも小学生に「東大合格を」と言わなくてもよくて、だからバンドマンもいきなり「武道館」とか言わず、まずは100人のワンマンから目指していけばいいのだ。当然そのずっと先に「武道館」はやってくる。良い中学を目指す小学生も、その遥か先には東大があったりするように。でもそういう手前の頑張りをせずに「武道館」とだけ言っているのは、単に妄想だから絶対に実現などしない。

 ちょっと脱線しました。そのbotのアカウントは https://twitter.com/kirarecbot です。今のところは10時間に1ツイートのペースでつぶやきます。僕の普段のアカウントとは違って、誰もフォローしたりはしませんので、見てくれる人だけがこっそり見てくれればという感じです。ひっそりとやります。でも、バンドマンにはためになることがいろいろ含まれてると思うし、バンドやってない人にも面白いんじゃないかな〜。

 ま、そんな感じです。

運動会

 息子1歳11ヶ月の保育園運動会が本日午前に開催。いやあ面白かった。

 登園してまず保育士さんに息子を預ける。「お子さんは頑張ってるので、親御さんの顔が見えると泣いちゃいます。だから見えないところでそっと見守ってください」と言われる。見えないところで見るっていうのも高度な技だなと思うが、まあいつもと違う雰囲気の中、連れて行かれた息子は案の定泣いてた。そして僕ら親を探す。目線が合うと泣く。しばらくは泣いている子どももけっこういた。

 そんなこんなで開会の挨拶。挨拶に引き続き、おゆうぎ。まだ1歳児クラスだから、おゆうぎといっても大したことが出来るわけでもなく、ただ泣きじゃくるだけの子どもも多数。年長組のパフォーマンスたるや複雑な動きもけっこうちゃんとこなしていて、ああ、あと数年でこんなことが出来るようになるのか〜という感心と、そのそぶりも見せない1歳児クラスの面々とのギャップったらない。

 だが、その決められた振りを多分出来るだろうなみんな練習しているもんなという年齢と演目は、それはそれで面白いのだろうが、まったく違った観点で、先生の振りと音楽に合わせてちょっとだけ腕を振ったぞといえば「おおおっ」となり、音楽と違ったタイミングであっても少し屈伸したら「しゃがんどる〜」となるような、そういうハラハラ感というのが味わえるのはこの年齢ならではだし、逆にいえばこの時期の運動会でしか味わえないレアものともいえる。2歳児クラスのお子さんたちは、3/5くらいの児童がきちんと踊り、2/5くらいはあまり踊れずにいた。冷静に考えれば3/5の子どもたちがエラすぎるのであって、2/5の子どもたちは劣ってなどいなくて、普通なのである。だが、やはり半数以上の子どもが踊っていれば、全体として「踊って当たり前」的な空気は流れるし、ということは、来年の春の運動会では、きちんと踊っていても当たり前として受け取るのだろうから、やはり今年1歳児としての運動会の「おお、身体動かしてたよ」的な喜びは、多分これが最初で最後だったのだろう。

 おゆうぎが終わって次の次がかけっこだ。親と手をつないでゴールを目指す。頑張りましたよ僕も。手をつないで15mほどをかけっこ。運動会で走るなんて、30年以上ぶりのことだった。楽しかった。

信号無視

 息子を自転車の前かごに乗せて保育園に送り迎えをするのが最近の日課だ。

 当然というか、当たり前というか、信号はキッチリと守る。赤信号で停まったら「信号が赤の時は停・ま・れ」と話しかけ、青になったら「青になったら注意してす・す・め!」と声をかけて動き出す。これも教育の一環だ。1歳11ヶ月の息子は「赤、とまれ」と繰り返し、青になると「あお〜っ!」とシャウトする。やはり進めるのは嬉しいのだろうか。それとも信号が変わるのを発見するのが嬉しいのか。ともかく、青信号は気分が上がるらしい。

 そんな教育的な自転車活動をしている時に、必ず信号無視をして進んじゃうヤツがいる。自転車も歩行者も男も女も老いも若きも関係なく。そういうの、大変困る。お父さんがいちいち言っていることはなんなんだと息子が迷うだろうが。確かに、車が来ることもないような場所の信号だってある。だが、そういう所だからこそ息子には「信号は絶対だ」的な何かを覚えさせたい。いや、社会のルールに無自覚に唯々諾々と従うのがいいとは思ってない。状況を判断して自分の考えで時には社会のルールも超えて動けるしなやかさというのは人生に必要だ。だが、信号など交通ルールくらいは素直に従った方がいいだろうし、なにも1歳11ヶ月の幼児にしなやかさを求める必要はない。今のところは赤信号は停まれということを徹底させなければ、そのうちに1人で行動するようになったときに交通事故に遭う確率が上がってしまう。それは何より悲しいし、避けられるためのことは全力で手を打った方がいいはずだと思う。

 そこで、僕は赤信号を突っ切る人たちを見るたびに「ほら、バカな人が赤信号で渡ってる。あの人はバカな人。そのうちに交通事故で車に跳ねられる。赤で渡るのはバカな人」と話しかけている。まあそれもイヤなのだ。言霊というのをちょっと信じてる部分があって、赤で渡っている人に僕が「そのうちに交通事故で〜」と言うことで、言霊が発生するような気分にもなるからだ。それに、僕の自転車と並んで信号で止まっている人に「怪しい人だ」と思われるようで、なんか気分が悪い。

 じゃあ言わなきゃいいじゃん。いやいやいや、それは出来ない。息子に交通ルールのいろはを教える良い機会なのだ。他人に害の及ぶ言霊が発しようとも、周囲の人が僕のことを怪しい人と思おうとも、そんなのは重要度は低い。やはり息子に「信号が赤の時は停・ま・れ」「青になったら注意してす・す・め!」と話しかける。話しかけるのだ。

 子育ては、今までの自分のダメなところを見直すことでもある。信号無視、それまでは僕自身もやっていた。でも、それはいけないのだ。子どもに対して立派な大人になるために、いや子どもに恥ずかしくない程度の大人になるために、今日も僕は我が振りを直す日々だ。

 なので皆さん、どうか信号は守ってください。子どもが見てますよ。

片山「容疑者」

 片山容疑者。もう起訴されたから片山被告なのか?数日前まで片山氏だったのだから、呼び方もどんどん変わってて、もうよくわからない。

 しかし今回の1件はびっくりしたなあ。片山氏が河川敷に何かを埋めていたのが目撃されてて、捜査員が掘り返したらスマホで、片山氏のDNAが検出されたと。で、その報の翌日に弁護士と一緒に会見するはずだったのに姿を現さず、弁護士も連絡が取れない状態だと。

 まあこの段階で怪しい。普通はそう思う。だが、僕はこの時点で怪しいなどと言っててはだめだと思ったしツイートもした。基本的に刑が確定するまで推定無罪の立場を取るべきだと。そんなことをツイートしている間に、片山氏が出てきて「全部自分がやりました」と。なんだなんだこの肩すかし感。「犯罪者を擁護しやがって」的なことを言われるかもなあと思った。まあ一個人の僕のところにまで罵倒してくる人はいなかったけど、ジャーナリストの人たちには結構なバッシングがあったそうだ。

 だが、そういう問題ではないのだ。罪を犯した人は裁かれなければならない。だが、罪を犯してない人は謂れのない不当な扱いを受けてはならない。ではこの両者を分けるタイミングは一体どこなのかと、そういう問題なのである。それは、裁判が終結して刑が確定した瞬間にその扱いが決まるべきなのだと思う。それが推定無罪の原則だと認識している。

 だが、日本ではそういう感覚は一般にない。誰かが逮捕されるとその時点で容疑者となり、容疑者イコール犯罪者というレッテルが付く。起訴されてもいないのだから被告でもない。なのにもう世間の扱いは極悪人だ。警察が容疑者の詳細を発表してニュースで報じられ、世間の信用は地に落ちる。仮にその後裁判で無罪を勝ち取ったとしても、「あの時逮捕された○○さんは裁判で無罪を勝ち取りました。まったく犯罪者ではありませんでした。申し訳ありません」などという謝罪報道は一切行なわれない。行なわれないどころか、「限りなく黒に近い灰色」などと平気で言う評論家やコメンテイターが現れてしまう始末。何を言っているのだと思うが、まあ日本の一般的感覚はその程度なのだろう。

 人権を考える時、それをどう守るのかということが大きな課題になる。原則的には、それは法律で縛って守るのか、市民の意識で守るのかのどちらかだ。だが日本はそのどちらも守ることに向いていないように感じる。

 今回の件でも「ほら、片山は真犯人じゃないか、擁護してたヤツは犯罪者の肩を持ってた」的な口調論調がTwitterのTLでもある程度見られた。そこまで発言する人は氷山の一角で、公に発言はしなくとも心で直感的に「ああ、あいつは悪いやつ」と思って疑問のない人は相当な割合いたと思う。フォローしてる人で、片山氏が保釈になってから司法の欠点を追求するような発言をしていた人でさえ「片山には騙された」という始末。いや、もちろん今回の件では片山容疑者は法廷で自ら述べていたことを根拠にすれば「すべての人を騙していた」のである。だから騙されたと思う気持ちもわからないではないし必ずしも間違いではない。しかし、今回の片山氏が片山容疑者に戻り、片山被告として法廷に立ったとしても、それで検察警察の今回の一連の捜査や取り調べの方法が肯定されるのかというと、それはまた別の話であり、そこのところを一緒にしてしまうと見誤ると思う。

 検察や警察も必死に正義を追い求めて努力をしているのだろう。それを疑うつもりは無い。だが、その手法が問題になることが時々起こる。僕などが把握していることなんでほんの一握りに過ぎない。だが今回の片山容疑者の捜査と取り調べは明らかに異常だった。結果として片山氏が片山容疑者として自ら法廷で「すべて自分が行なった」ということになったとしても、それで取り調べ手法が肯定されるものではない。これが肯定されてしまうのだったら、次も同じような手法で取り調べても良いということになってしまう。そうなると、次の容疑者は実は無罪であるかもしれなくて、それでもかなりムチャな取り調べが行なわれてしまう。そしてそれが自分の身に降り掛かるかもしれない。そのことを考えると、やはり片山氏が真犯人だったとしてもだ、それはそれとして別に、検察のやり方は正しかったのかという検証がなされるべきなのだ。勝てば官軍としてすべてが許されるというのでは、誰もが勝ちたいが故に無茶をするようになる。そして無茶をする以上、負ければその手法が暴かれて非難されるので、さらに強引に勝ちにつなげようとする。それは絶対にダメなことなのだ。なぜなら冤罪を生むからだ。しかも、功を挙げようと焦る馬鹿者の保身のために冤罪が生まれるのだ。そういうことは絶対に避けられる社会でなければならない。

 そのためにも、市民はもっと人権意識を高く持ち、正義とは何かを確認する必要がある。この場合の正義とは、個人が犯罪を犯したかどうかという問題ではなく、組織として制度として犯罪的な行為に陥る可能性があるかどうかという問題なのだと思っている。

 そういう観点から今回の顛末を見た時、現状の片山氏のことをどう扱うのかというのは突きつけられた課題だと感じている。現状の片山氏は、先日まで保釈されていた「片山氏」から保釈を取り消され収監された「片山容疑者」となり、収監後の初法廷に出廷した「片山被告」ということになっている。その法廷では自白をしている。全部自分がやりましたと。その片山氏は犯罪者なのか。いや、そう思うのは僕の弱い心なのだと思う。彼が裁判を終了し、仮に有罪判決が下りて「片山受刑者」となった時(執行猶予がついたとすれば判決からその執行猶予が終了するまでの間)、初めて彼を犯罪者と認定出来る。それが推定無罪ということなのではないだろうか。自白をしている現状からはとても容認出来ない考えと映るだろうが、それを押してもその考えを貫けるかどうかが、この社会から冤罪を無くす唯一の方法なのではないかと、今回の顛末を眺めていて自戒したのだ。

なし崩し内閣

 時の内閣について「○○内閣」とキャッチフレーズを付けることがよくあるが、あれって、内閣が終了するときにつけるんだったっけ? 内閣がスタートするときにはどんな内閣になるかわからないから適切なキャッチは付けられないはずだし。でも終わってから付けても歴史的意義以外にはあまり意味が無いと思う。で、僕は今の安倍内閣についてネーミングしてみたい。

 なし崩し内閣。どうですか、みなさん。

 現在集団的自衛権でいろいろと進めているけれども、これ、憲法のことなんですよ。それを憲法改正しないで解釈の変更で強引に進めようとしている。昔防衛費にかける予算を「GDPの1パーセント以内」という歯止めがあって、それを超すべきか超さざるべきかで揉めたことがある。中曽根内閣の時の話。大問題になって、それでも中曽根内閣は押し切ってこの制限枠を撤廃。でもこれ、法律じゃないんですよ。三木内閣のときの閣議決定による制限枠。閣議決定を変えることでも大問題になったわけだけれども、今回のは憲法。1%枠なんて憲法に書いてあるわけじゃない(そもそも軍備を保持しないって書いてあるわけで、そこからって話でもあるが、まあ置いておいて)。閣議決定の決まりを変えるのに大問題なのに、今回の憲法の解釈を変えるという大問題が、あまり大問題になっていない感じ。なんでなんだろうか。これは、安倍内閣がこれまでやってきた「なし崩し」手法の成れの果てで、国民ももう諦めムードだからなんじゃないかって、僕は思う。

 そもそも安倍政権が出来る直接のきっかけは一昨年暮れの党首討論の席で、野田前総理と安倍総裁の「衆院の定数是正」を行なうということで解散したことだった。だが、その定数是正はなし崩し的な感じで、実現していない。

 その衆院選で「TPPはやりません」と選挙公約にして戦った自民党。なのに交渉参加。しかも聖域は死守と言ってたがそれもグズグズと。なし崩しです、なし崩し。

 東京五輪の最終プレゼンで「福島原発の放射能はアンダーコントロール」と言ったのに、汚染水はダダ漏れ中。普通はプレゼンの前提となった事実が事実ではないとわかったら返上だろう。だが「決まったんだしガタガタ言うな」的な印象。そもそも汚染水が漏れてることなどもうほとんど関係ない的な雰囲気。いくら反対してもなし崩し的にいろいろなことが進められる。

 特定秘密保護法なんかもあっさりと通ってしまう。数を持っているとなんでも出来る。

 そして集団的自衛権。これそもそも自民党は改憲を党是としている政党で、特に憲法9条を改正したいとずっと思っている。だからそれをやりたいわけだが、簡単には出来ない。だから96条から改正したいと言ってたけれど、それもなかなか出来そうにないから、憲法解釈の変更を、しかも法的な手続きじゃなくて閣議決定というやり口で。もう完全になし崩し。本来あるべき手続きをとらないなんてことがなし崩し以外のなにものでもない。

 こういうことをやっている政権に対して、国民が何も言わない雰囲気。これが一番怖い。

 集団的自衛権は「最小限必要な場合に限定される」などと言っているが、この最小限必要な場合という曖昧な規定は必ずなし崩しにされる。今後もいろいろなことがなし崩しにされる。今言っている前提は土俵の俵ではない。次の俵、徳俵が常に用意される。そして気がついたら徴兵制だ。なぜなら、アメリカと軍事同盟を結んでいて、そのアメリカが戦争を始めると日本が行かないわけにはいかなくなるからだ。「同盟とは信頼である。その信頼を失ったら日本は一気に聴きに陥る」と脅されるからだ。そうして各地への出兵が常態化すれば今の自衛隊のような志願兵だけで賄えるわけがない。だから、徴兵制になる。それが必要になってくるのだから。必要なものを揃えるためには理屈がいくらでも出てくる。なし崩しに進めていくのは得意な政権なんだもの。とにかくそうなる。

 だから、今のうちにそれを止めることが絶対的に必要なのだ、と思う。だがそれを止めるために必要な対抗勢力が存在せず、ああどんどんとなし崩されていくのかという絶望感を日に日に大きくせざるを得ない。そんな最悪ななし崩し内閣が、今の安倍内閣だといえよう。

鼻血がどうしたこうした

 美味しんぼの件、はっきり言ってどうでもいいです。「福島にいたら鼻血が出るから逃げて!」と叫ぶ気も無ければ、「放射能で鼻血なんて、福島の状況で有り得ない、これだから放射脳は」と言う気も無い。何故か? もはや「危険だから反原発」サイドの人と「安全だよ原発推進」サイドの人がまともに討論してお互いの話を聞くような、そんな状況ではないからだ。

 僕には「危険である」と断言出来る科学的根拠は無い。だが「安全である」と断言出来る根拠も無い。だからあくまでフィーリングと俄知識で判断するだけなのだけれど、やはりちょっと怖い。出来うるならば放射性物質は避けたい。無論100%避けるにも専門知識は必要だし計測機器も必須だろうが、そんなものを取り揃えてもいないので、注意してても完全に避けるのは無理だろう。出来るだけ避けるという実に漠然とした感じの日々だが、まあ他のことも併せてのバランスの中で、出来ることをするしかないのではないだろうか。いやそれ以上と言われたところで、やはり出来ることしか出来ないわけで。

 鼻血が出るのか出ないのかが今回の美味しんぼの中で問われているわけだけれども、懸念とすれば、鼻血問題に矮小化されているということだ。鼻血が出るのか出ないのかはいろいろと論があるだろうが、鼻血って結局急性的な反応であって、一時に大量に浴びることが前提条件になると感じている。その前提条件は初期のヨウ素大量被曝では有り得るが今はもう無いだろうということが、バッシングの基本論理になっているようで、それにも異論はあるだろうが、まあ概ねそれは正しいように思う。それで反原発の人たちが「論理的」にやり込められている状況がそこここに見られていて、鼻血にこだわりすぎると足下をすくわれるなあと感じる。個人的には問題は鼻血ではなく、少量を長期に浴び続けた場合の影響ということで、それはこれから徐々に起こってくるのではないかと想像している。それさえ科学的根拠も示すことの出来ない文系のフィーリングなので、科学者の方々ごめんなさい、最初に謝っておきますよ。で、その時が来るまでに反原発の人をどれだけ叩いて声を潰しておけるのかということに躍起になっている人もいるのではないかと思った。しかも実際にヤバいのが起きても、哀しみの個人情報はなかなか表に現れてこないわけで、だからいろいろヤバいなあと。

 本当にそれが文系の思い違いで無知な故の誤解で、何年経っても誰にも何も起こらないというのが一番良いのだけれど、だからといって「そうなりやしないよ」と確信を持てるだけの根拠も無くて。ただただ科学に疎い人はそうやって不安の中で生きていたりする。

 あと、何故か大臣や福島県知事が抗議したりするらしいけれど、そんなのしなければよかったじゃんと心から思う。風評被害が云々というが、抗議などせず放置してれば、せいぜいネットだけでの話題に留まっていたと思う。それを知事がしゃしゃり出てくるものだから、テレビも大々的に取り上げて、結局知事が懸念していた「風評被害」はどんどん拡散していって。ああ、こんな直情的な動きしか出来ない人が知事にいるということは、長期の念入りな計画で被害を減らそうなどまったく期待出来ないということでもあって、すなわち、こういう人に知事やらせていては、県のいろいろなことは進んでいかないんじゃないのかって、そんな風にも思った。

 今日はもう眠いです。文章も結構乱雑気味。まあお金もらって書いている文章ではないので、まあこの辺で。失礼しました。

無駄な経費と活きた宣伝費

 バンドマンがは日常的にスタジオに入るのだが、普通1時間2000円くらいはする。それを1回3時間ほどやれば6000円。4人バンドであれば1練習1人あたり1500円は経費として使う。それを週に2回やれば年間100回なので、1人あたり15万円はスタジオ代として使っている。

 一方、年に1枚程度リリースするアルバムのためには経費を渋る。10曲録音するのにスタジオを使えば30時間くらいはかかるので、ピンキリだが、15万〜45万くらいレコーディングに必要になる。しかしそうやって作り上げた音源を多くの人に聴いてもらうための宣伝には一切経費をかけようとしない。

 もちろん宣伝の効果とか、そういうことは結構専門的なことになるので音楽だけしか知らないミュージシャンには思いもよらないことかもしれない。だが、それを知らないことによって損をしているケースも少なくない。

 もちろん金を使えば良いというものではない。だが、バランスだ。スタジオで3時間練習する時に途中休憩を15分入れたりは普通にする。だが年間100回それをやれば1500分間の休憩にスタジオ代を払うことになる。1500分は25時間だ。時間2000円のスタジオなら5万円を休憩に払っている。

 バランスというのはそういうこと。その毎回の15分休憩を練習に充てて、年間25時間のスタジオ代を削れば、年に1アルバムの宣伝に5万円を充てることが出来る。そういう発想をして実践するだけで、同レベルのバンドに差を付けることが確実に出来る。

 何かというと「金がないから」と宣伝に消極的なバンドほど、実は何も考えていない。そして疑問も持たずにタバコ休憩のために15分の休憩を取る。スタジオの時間に遅刻することもしばしばだ。

 無駄な金など使うべきではない。だが、効果的に宣伝をして知名度を上げることができれば、その後のライブの動員も増えていくだろう。そうすればライブでのギャラも発生するようになるし、なによりライブの楽しさが増す。そういうのは無駄な金ではない。

 僕がやっているmusipl.comでは、広告も受け付けている。まだお金出したくない人はセルフレビューの方法もある。これならタダ。やらない理由が理解出来ない。

 (2014.5.11のTwitterでのつぶやきより転載)

3年経って

 実際はもう3年と2ヶ月近く経ったわけだが、まあとりあえず3年ということで。

 今もTwitterのTLには放射能の危険性を訴えるアカウントはたくさんあるが、3年前の今頃と較べると遥かに少ない。減っている。これについてちょっと考えてみた。

 【可能性1】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによって一切影響が無いと判断したので、もう怖がっていない。

 【可能性2】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによってやっぱり影響はあると感じているので、避けるための努力はしているのだが、その努力をしているということを公言するといろいろ社会的に問題が出てくると感じているので、言及は避けている。

 【可能性3】さほど調べたりしていないし、調べるヒマも能力も無いので調べる気がなく、まあ専門家の人が安心だと言っているから、自分も安心して、特に避ける努力もせずに暮らしている。

 【可能性4】3年前の事故当時は危険だと思っていたが、もう3年経ったし、放射能のパワーも無くなってきてるんじゃないの?

 他にも可能性はあろうが、まあこんな感じのことを想定してみた。可能性1の人は、いいと思います。その判断が結果的に正しいか間違っているのかは、それは誰にも判らないんじゃないかと。新興宗教に知人がはまった場合、「お前の信じてるのは間違ってるよ」と周囲は諭すけど、信じている本人はそんな周囲の声がサタンだと思うだろうし、まあそれは仕方ない。あ、ここで言う新興宗教の信者というのは、危険性があると思っている人のことでもあるし、危険性は無いと思っている人のことでもあって、立場が違えば相手をヤバい状況の人と思うという意味で、どちらの立場も信者であり、サタンである可能性があるということ。その判断によって得るものと失うものがあるというのは、放射能の件に限ったことではなく、自分の能力内できっちりと情報収集して判断したのなら、それはそれでいいと思う。

 可能性2の人。僕はこれが一番多いんじゃないかって思っている。このところ会う人とそういう話をすることも多く、誰もが不安を抱えているけれども、じゃあ自分の努力で社会全体を変えられるのかというとそういうわけでもなく、出来ることはせいぜい自分自身の防御をやるということくらい。それは黙ってやっていればいいのであって、その防御にしても100%はムリだろうから、出来る範囲で。他のことや他人への警鐘をするような余裕はありません的な、それが普通だと思う。

 可能性3の人。専門家を信じるのはそれはそれで自由だし、信じればいいと思うし、じゃあ専門家でない人と専門家のどちらを信じるのかといわれれば、まあ専門家の方かなあとは思う。ただ、専門家の中にも様々な意見があって、その中の誰を信じるのかということが結構重要なんだろう。顔つきとか肩書きとか、物腰の柔らかさとか、そういったものを含めて、信じる相手を探すということに尽きる。まあこれも一種の宗教に近いものであり、信じていない人からはなんだかなあと思うけれども、信じている人にとってその専門家は神でもあるし、まあ、信じるものは救われるってこと(?)なのかな??

 可能性4の人。これはもう、間違ってます。放射能の半減期は(全部じゃないけど)3年なんてものではない。だから3年経ったからといって安心出来る理由はまったくない。安心するとすれば、3年前の事故直後も安全だったということでしかなく、果たしてそうだったのか?そして現時点でどうなのか?当時も今も基本は変わらず、ずっと安心か、ずっと心配かのどちらかであるべきだろう。

 まあなんでこんなことを今さら書くのかって話なんだが、この4つの可能性の他にもうひとつ大きな理由(可能性)があるんじゃないかって最近は思っているのだ。それは

 【可能性5】時事的なネタについて流行としてしか認識していない。
 である。この3年間Twitterでもfacebookでも各種ブログでも、いろいろな話題が起こっては消えていく。昨日までTPPって言ってたじゃないかと思ったら、参加が決まったらもう何も言わなくなって次のネタに。要するに、日々の話題として言ってるだけで、中身としてはそんなに考えてもいない。芸能ゴシップ好きが昨日まである芸能人の不倫に躍起になってたのに、今日は別の芸能人のスキャンダルに夢中というような感じで、時事ネタ好きが提供される話題にその都度食いついているだけということ。実はそれが一番多いんじゃないかなあと思う。

 まあ、そんな感じでたいして気にもしない人が数年後数十年後にそのことで健康被害を受けたとしても、それが理由だとは想い至らないだろうし、逆に気にして気にして避けて避けてという人が、その避ける過程で受けるストレスによって健康を害したとしてもけっしてそのストレスを理由だとは想い至らないだろうし。だからまあ、それぞれが信ずるところに従って生きていくしか無いんだろうなあと、そんな風に思う。

 もちろん、気にしない人たちの行動によって社会が回っていくことで、気にしている人たちが避けたいのに避けられない状況が生まれてしまうということはちょっと困ったことではあるが、同時に気にする人たちの行動によって社会が回っていかなくなることを問題にしている人たちもいるわけで、その両者が歩み寄れるフェイズというものはもうなかなか実現しないことだろうと、そんな風にも思う。

ゴールデンウィーク

 GWも終了した。既に5月7日に突入している。

 今年のGWはというと、あまりゴールデンではなかった。前半は僕と息子が風邪を引き、ほぼ寝て家に。後半の4連休は最初の2日が仕事。5日と6日が連休。だから実質的にいつもの週末と変わらない2連休だった。まあ正規の会社勤めとはちょっと違うのでカレンダー通りの連休にする必要もないし、渋滞や満席や割引なしの移動や行楽地に行く必要もない。だからGWといっても特に期待などしていないのだけれども、それでも結婚してからはカレンダーもちょっとは意識しながらの暮らし。Twitterなどでも多くの人がGWを醸し出すつぶやきをしてて、だからちょっと羨ましくなったりもする。

 でも、行楽地のお店や、普通の飲食店、交通機関などに勤務する人にカレンダー通りのGWなんて存在するのだろうか。いや、無いね。そういう人が働かないと多くの人がGWなどといって浮かれることも出来やしない。一度イースターの時にヨーロッパに行ったことがあるのだが、向こうは休みは完全に休み。チェーン系のカフェはやっていたものの、レストランもショッピングモールも軒並み休んでた。宗教上関係ないのか、中華料理店がかろうじてやっていてなんとかメシが食えたが、日本ではそんなことは考えられない。多くの人が休みを満喫するために働く人が大勢いるのだ。

 一方で、今回のようにとびとびの日程だったGWでも、11連休を取っているという人が実に沢山いて驚いた。ヒマなのか、それが普通なのか、浮世離れの稼業の僕にはもうよくわからない。11連休って、一応月をまたいでいるものの、1ヶ月のうち1/3は休んでいるわけで、それでよく業務が持つよなと心配でならない。休める人自身は勤務先の業績が傾くことへの心配などないのだろうか。それもよくわからない。そういう会社と取引をしている人は急な対応を求めなきゃいけない時にどうするのだろうか。休日受付対応の要員は配されているのだろうか。それもよくわからない。

 フリーの人なら理解してくれるだろうが、大手企業の人と仕事をすると、彼らに取っての週末はとても大切で、出入り業者の週末は歯牙にもかけないということが多い。金曜の夕方に素材が入ってきて、「月曜日に見せてください」って、そりゃあ土日にやれってことでしょうと。しかもその土日には自分は一切応対しないということだから、作業途中に疑問質問が起こっても勝手に悩めってことだし、それで月曜日に見せたものが自分の意図とズレていた場合に普通に怒るし。

 GWも祝日も年末年始も、一応「こうだからね」と世間的に決められるから休むことも出来るわけであって、そういう意味では大手の人が「そこは絶対に休み」として休むことは何の問題も無い。だが下請けには土日にするしかないスケジュールで仕事を回してもOKということになるなら、結局社会全体の決めごとも反故になってしまうわけで、それによる身分制度というか、格差というか、そういうのって広がっちゃうと思う。

 とかなんとか書いていて、尻切れとんぼな感じで終わります。要するに、GWってくそくらえって話です。明日も普通に仕事します。風邪は完全に治ったみたいだし。