月別アーカイブ: 2013年10月

WordPressを入れてみた。

 ブログを独自ドメインでやるようにするためにWordPressを入れてみた。

 書店に行ってみたらWordPress関連の書籍がたくさん並んでいて、ああ、みんなこれ使ったりしているんだなあということがよくわかった。

 とりあえず入れてみて、これが初めての書き込み。一応使えるみたい。でもカスタマイズなんかがダメみたいな感じで、いろいろとパーミッションを書き換えたりしなきゃいけないみたい。ま、頑張るわ。

 これって、はたしてスマホからも投稿出来るんだろうか?きっと出来るよね。

ブログについて

 ここしばらくブログを熱心に更新している。やっぱりブログをちゃんとやらなきゃダメだと思って。

 で、書く以上読んでもらいたいさ。読んでもらいたい?本当にそうかな。それにしては文章長過ぎる。長すぎると誰も読まんぞ。自分だって他のブログも記事も長いと気持ち萎えるもんな。

 SEO的な人たちの「ブログ集客の極意」なんてのを読んだりもした。例外なく書いてあるのは「自分が書きたいことを書くのではなく、読みたいものを書く」ということだ。なにかのノウハウ的な、そういう知識を欲している人がいる分野の、しかも誰もが書いているような使い古しじゃないフレッシュな内容を。

 そんな記事、書けるか?しかもSEO的には毎日書けと。毎日他人が知らないようなノウハウ的な記事を。どんな物知りやねん。

 そもそもSEO的なアドバイスというのは、集客のためのものだ。Google上位に表示させてブログにアクセスさせて、そこから何らかの商材を売ろうと。自分で商材を持って売るも良し、アフィリエイトで売るも良し、とりあえずクリックさせてアドセンスで稼ぐも良し。そのためにはとにかくアクセスだ。だからアクセスのためにブログをやれと。

 でもそれ、アクセスさせるために道を作るためのブログということであって、インフラ事業ということになる。そのインフラに乗ってやってきた人に何かを売りつける。要するにブログでやりたいことはお金儲けだ。

 そりゃあお金は儲けたいよ。お金はステキだ。でもそのためにフレッシュなノウハウを仕入れて書いて。もうそのために人生を費やさないと無理。費やしても多分無理。

 何のためにブログを書くのか。ある意味存在証明のようなものだと思っている。僕はこんな人間なのだと。こんなことを考えていると。それを書く。ブログなる言葉が出来る以前からそういうことをやってきている。アクセスは少ないかもしれないが、それでも1日2件くらい書くと1000ページビューくらいにはなるよ。それをコンスタントに続けたとしたら月間3万ページビューくらいにはなるということだ。こんなに長い文章を載せていて3万ビューあればたいしたものじゃないか。そこからCD売れてくれたりはなかなかしないけれど。

 というわけで、これからも長い文章を書いたりし続けると思います。もちろんたくさん読んでもらえるようにいろいろ頑張ります。でもその頑張りは何かを売ることではなく、存在を証明するためのものだったりするので、こんな僕ごときが世の中にいるということをわかってくれる奇特な方々、これからもどうぞよろしく。

 ああ、何か売れると良いなあ。せめてfacebookのmusipl.comページにイイねがつくと良いなあ…。

夜のクラゲ『ジュリーフジヲ』〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 ゆるーい感じの音楽にのって、オッサンの風貌をしたオッサンがこちらに歩いてきながら歌います。これでスターになれるのだろうか?そんな疑問などおかまいなしに歌います。後ろから怪しげな女性2人が踊りながらついてきます。同じファッションです。ファッションというかユニフォームです。でも僕こういうのいいと思うんですよ、音楽さえ良ければ。どうしてもルックス重視の人はジャニーズとかビジュアル系を追っていただいて、音楽重視の人はジュリーフジヲですよ。いや他のバンドでもいいですけど。ルックス度外視だからこそ音楽そのものに向き合える、聴いていて柔らかく優しい気持ちにさせてくれます。あ、彼らのルックスがツボっていう人、大変失礼いたしました。
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 キラキラレコードが東京から京都に移転する時、多くの人から「大丈夫ですか」と言われた。音楽の仕事が東京以外で成立するのかという、そんな心配である。

 東京にいる頃から関西や九州、東北など要するに東京以外のバンドたちのCDも積極的にリリースしてきた。バンドたちとのコミュニケーションは、直接会える東京のバンドよりも、会えないことを前提にした地方のバンドたちとの方が実は密だったりする。会えないからメールでOK。時にはスカイプも使えば良いのである。東京のバンドは妙に会おうとするから日程合わせ含め時間がかかる。会えた時には問題は済んでいたり、さらにこじれていたりする。

 なので、東京を離れてもまったく問題ないと思ったし、実際にそうだった。多くのバンドが「やっぱり東京に行かないとダメですかね」などと相談を持ちかけてくるが、僕の答えは「やめとけよ、今売れてないのは東京にいないからじゃないよ。地方にいるせいにしている間は東京に行ったって売れやしないよ」というもの。もちろん東京で成功するバンドもいるが、圧倒的多数は新たな生活に慣れることに懸命になって音楽活動が疎かになる。そもそも地方で頭角を現せないで東京なら成功出来るという論理がまったく間違いなのである。

 で、このジュリーフジヲ。群馬のバンド。会ってないし話してもいないし、だからどういう想いで群馬でバンドやっているのかはよくわからない。でも、今回musiplで紹介するとすぐに反応があった。エゴサーチしているのだろう。エゴサーチなんて自意識過剰と言う人もいるようだが、僕はそう思わない。他人が自分たちをどう評価しているのか、知りたくないのなら人前で演奏する意味あるのかと思うからだ。東京に行きたいというのも根本は多くの人に聴いてもらいたいというところにある。でも、日本中どこにいても全国相手に反応を得ることは可能である。その方法のひとつがエゴサーチだろう。ちゃんとサーチしてmusiplのツイートをリツイートしているバンドは、現在50ほど紹介している中で10程度。みんな自分がどう思われていてもいいってことなんだろうか。自分の紹介をリツイートすることで広がるし、そのファンと思われる人もリツイートして広がって、その結果が視聴ランキング上位になる。で、また見てもらう可能性が増える。すごく地道だけれども、そういう地道なことを着実にできるバンドがやっぱり伸びるんだろうと、僕は思う。

 もちろん、いい歌なのか、一般受けするのかどうか、イケメンなのか、そういうことも多いに関係するので、エゴサーチするだけが売れる条件だなんて言わない。でも、その他のパーツがすべて同じなのだとしたら、エゴサーチする方が確実に売れる。時代はソーシャルの時代なのだから。

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転校生『エンド・ロール』〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 無力を宣言しなければならない。知り合いの情報、彼の情報が、SNSを通じてどんどん流れこんでくるからだ。「あー、その日は先に別の約束があってライブに行けない」「猫の病院行かなくちゃ、本当ライブ行きたかったのに」そう断った日は、楽しく遊んでるツイートは出来ないけど、彼のその日の写真には「いいね!」しとく。本当は彼らのつまんないバンド見るの面倒くさかっただけ…みたいな日常を送ってる人は携帯スマホ手放して、転校生のライブに行けばいいじゃん!「僕には何にもできない」「何も聞こえない」そんな甘い絶望を頼りなく唄う彼女に無力なる者の共感。あいつへの無力宣言は「スマホ壊れちゃった」で済ませて、君にだけ投げかけてくる音楽を聴け。
(レビュアー:北沢東京)
ミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ
 
 僕(キラキラ大島)はこの曲を聴いて、今の若い子の眼に映っている社会ってこんな感じなのかなあと漠然と思った。とても軽やかで爽やかな音楽なんだけれども、歌われているのは絶望に溢れる現状認識。そして絶望を受入れることの肯定。もう社会って終わっているわけですよ。終わっているわけですよ。終わっているから今さらどうしようもなくて、それに抵抗してどうすんのって、そんな感じ。抵抗なんてしてるパワーあんのかよって。昔泉谷しげるが黒いカバン歌ってる頃みたいな、社会への抵抗とか反戦とかなんだとかかんだとか、そういうのは見えている世界の矛盾を変えられるという信念みたいなものがあって、だから活動をするわけで、全共闘とか学生運動とかが盛上がる。でも今は選挙行ったって変わりゃしないじゃんって、そんな感じ。

 なんで今の若者は、選挙行かなかったら自分たちが不利になるだけなのにってずっと思っていたけれど、理由が判らないでいたけれど、こういう風に世界が見えているのなら、やっぱり無駄な抵抗だとしか思えないだろうなあって、そういう風に思う。もう政治とか大上段の話ではなくて身近な普通の生活の中にまで入り込んでいる絶望感。政治だったら住む世界が違うとか言って逃避していればいいんだけれど、身近なことからは逃れようもなく、やっぱ絶望を感じてなくちゃいけなくて、できるだけ軽やかで爽やかに振る舞うしかないよねって、そんな歌かなあと。いやかなり独断な感想なのであまり参考にしない方がいいかもだけど。

 レビュアーの北沢東京さんはいつもユニークな音楽を紹介してくれます。ユニークな中に毒というか刺というか、そんなものがある不思議な音楽を。こういう人がいるって思うだけで、インディーズレーベルの仕事をやる励みになったりします。

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踊ってばかりの国『セシウム』〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 長髪のお兄さんがアコギを弾きながら歌い歩く映像。サラリと歌う中に込められたパッションとメッセージのなんと響くことか。状況を諦めているようで、でも認めてはいない。そんな強さを感じます。撮影されているのは渋谷公会堂から昔の原宿ホコ天に抜ける、NHKホール前の遊歩道、一時は東京でのストリート弾き語りの聖地でもあった場所。曲が終わったあとで「逃げろ!」と笑いながら口にしているのがとても印象的だと思うのです。
 踊ってばかりの国はサイケ色を帯びたイケてるロックバンドで、この「セシウム」の弾き語り映像は本来のバンドの姿からすると別バージョンなのでしょうが、サラリとしたメッセージ性という意味ではそんなに別バージョンでもないように思います。でも本来のロックバンドの曲が聴きたい方は他を探してみてください。僕は個人的に「世界が見たい」がとても好きです。
 この踊ってばかりの国のボーカル下津光史がソロで活動するライブ映像が他にもあって、「世界が見たい」のライブ映像がこれ。

 本来はバンドだけれども、ソロでアコギで歌うというのがこの人にはとても似合うような気がしています。いや、バンドとしてのファンもたくさんいるだろうし、そういう人の前に出てエラそうなことを言う資格なんてまったく無いのです。僕自身RCサクセションが活動停止して、忌野清志郎がソロで活動していることが納得出来なくて、やはりRCじゃなきゃとずっと思っていたような人間だから、バンドのファンにソロもいいよと言いにくい気持ちがあるのも十分に判ります。でも、清志郎が死んだあとにいろいろと映像を見て、チャボのアコギで歌う清志郎の歌は、ロックバンドの演奏じゃないからやはりRCとは似て非なる歌なんだけれども、でもそこには清志郎の等身大の歌があって、とても良かった。チャボとの共演というのも良かったんだけれども、清志郎ってやっぱり歌上手いよなあという、そういう発見も確かにあって、だから、この下津光史という人のソロは、演奏がシンプルな分歌の上手さを理解するのには最適かもなあと思ったりしたわけです。で、バンドの曲ではあまり感じなかったけれど、下津光史は清志郎の歌や声にちょっと似てるという気がするのです。彼のファンからはものまねじゃないぞと怒られると思うけど、清志郎をそこに映して聴くのはやはり間違いだとも思うけれども、もう死んだシンガーのことを懐かしがるばかりじゃなくて、こういう新しい人たちの今の歌を、清志郎のファンも聴けばいいんじゃないかって、清志郎だったら「若いの、なかなかやるじゃねえか」って面白がるだろうなって思ったりしたわけです。今のこの時代にセシウムなんて歌を歌ったって大人たちに睨まれるのは判っていながらやっぱり歌っちゃうってところも、カバーズで突然いきりたって張り切った清志郎を彷彿とさせたし。
 そんなことを延々と言ってる僕がまだ清志郎を忘れきれないんだというのは事実ですが、忘れる必要なんてなくて、でも新しい歌をやっぱり聴きたくて、清志郎が歌わないんだったら、彼が出てきた時に「この化粧したオッサンは誰なんだ」って思って面白がったように、今の最前線の若けえやつを面白がればいいんだと思って、この踊ってばかりの国もそうだし、musipl.comでいろいろと発掘したりしているわけなのです。
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MacBook Air

 いや、買いませんよ。最初に断っておくけど。

 上の画像をクリックして衝動的にMacBook Airを買う人が出てくると、amazonから幾許かのお金が僕に入ってくるので今買いたいって思ってる人は血迷ってここから買ってください。CD1枚売るよりその手数料の方が多そうだ。いや、冗談ですけど。
 冗談ついでにこんな画像リンクも貼っておこう。

 単価が997500円なので手数料といえどもバカにならない。何の機械なのかは勿論知りません。
 さて、冗談はこのくらいにしておいて。最近iPadの新しいのが出るとかで発表があったとかで、まったく魅力を感じません。まあそもそもタブレットを買ったことないし、どこで使うんだって思うし、何のために使うか判らないものを流行りだからって買うのってやっぱオカシイって思う。それが数ミリ薄くなったとか、数グラム軽くなったって大の大人が嬉々とするより、筋トレして重いマシンを持ち運べよって思う。昔アメリカを旅行したとき、飛行機の座席でタイプライターより重いんじゃないかってノート(?)パソコンを膝の上で開いてパチパチやってるのを見て、ああ、ガタイのいいアメリカンビジネスマンには負けるよなあって思ったことがあった。それから考えれば、今僕がMacBook Proをリュックに入れて持ち歩いていることなんて軽くて申し訳ないよって思う。それがiPadの重さを数グラム軽くするのになんで躍起になるんだって気がする。
 で、そんなiPadにフタといわれるカバーがあって、それがキーボードになる機能付きの新しいのが出るとかいわれてる。マイクロソフトのタブレットには既にそういうフタがあるらしい。いやいや、iPadにキーボード要らないでしょって思うよ。そんなにキーボード入力したいのならせめてMacBook Airにしようよ。先日神戸に仕事に行った時、東京から来ていた友人がMacBook Airを使ってて、それはちょっと軽そうで羨ましかった。結局羨ましいのかよオレ…。
 それでも今すぐに買ったりしないのは、仕事のデータが全部MacBook Proのハードディスクに入っているからだ。外でMacBook Airを使っても、結局大事なデータが無いのならただの軽い箱だもの。今後クラウドにデータを置いてというのが一般的になってくればそれもアリかもしれないが、Dropboxなどの無料スペースなどはせいぜい数十ギガバイトなので、正直言って使い物になるレベルではない。いずれ容量も大きくなって通信速度も速くなって今必要な仕事は出来るようにはなるのだろうけれども、その頃にはまたCPUスピードもデータ容量も増量ということになって、クラウドは見劣りするということになるのではないだろうかと想像する。だから結局筋トレして重いパソコンを持ち歩いてどこでも仕事というのが、健康の観点からもいいのではないかって、そう思う。いや、本当はオフの時はパソコンも仕事も忘れるのが一番なのだろうが。
 ま、そんなこんなのことを言っているけれども、たくさんお金があればiPadもMacBook Airもすべて最新のが出るたびに買っちゃうかもしれん。そしてそういうのを運んでくれる秘書を雇うかもしれん。わははは。誰か上の怪しげな機械を衝動的にクリックして20台くらい買ってくれんかなあ。そしたら手数料だけでMacBook Airの1台くらい買えるんじゃないだろうかって妄想したりする。いや、買わんでいいですけど。買ってくれっていっても誰も買わんのも知ってますけど…。

Lamp『空想夜間飛行』〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 ポップスはメロディの冒険であり、グルーヴの旅行です。だからこそ、その依って立つところや、ルーツへの愛情、帰るべきところを持つ事が重要だとおもいます。どこかから、何やら良さげなものを大事そうに抱えて現れた人は、とても魅力的で秘密めいていて、愛おしく感じられます。
 Lampはまさにそんな存在で、こんなに秘密めいて官能的な音楽を生み出すグループからは目を離すことができません。そのシルキーな感触の作品1曲1曲が、かけがえのない謎だらけの塊でありながら、聴く度に謎解きのヒントが、依って立つルーツが少しづつ現れてくるからです。
 リリースのペースはゆっくりですが、過去作はいつ聴いても何度聴いても擦り切れない強度で作られているので、ファンはいつまでも気長に次回作を待ち続けていられます。
 でも、そろそろどうでしょう。
(レビュアー:松尾宗能 for Parks Records)
ミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミミ
 
 musipl.comのレビューは、僕だけがやっているのではなく、数人の信頼出来る音楽通にもお願いをしています。そうすることで偏りなくいろいろな音楽を紹介出来るかということで。今回のLampを紹介してくれたのは福岡にある中古レコード屋Parks Recordsの松尾店長。僕がなかなか辿り着けない音楽を紹介してくれるので個人的にも音楽の幅が広がって感謝しています。
 で、このLamp、とても良かった。雰囲気としては野宮真貴を彷彿とさせる、要するにピチカートファイヴですね。あの辺のオシャレ系サウンドはいろいろとアーチストもいて、その系譜に入ってくるのでしょうか、とにかくオシャレです。
 でも僕にとって野宮真貴はどうしてもポータブルロック、それ以前の野宮真貴ソロ時代だったりするんですよ。ファーストアルバムの「ピンクの心」は今聴いてもなんかとてもいい感じ。多少アイドルポップスのような感じもあって、ピチカートのようなオシャレさはまったく無い。ではアイドルポップスなのかというとそれも違っていて、ヒカシューの様なアバンギャルド(いや、ヒカシューがアバンギャルドかというとそれもちょっと違うけれども)な実験的な曲も多く、不思議な人だなあという思いで見ていたわけです。しかしその後ああやってオシャレミュージックのご本尊みたいになっていって、人に歴史ありという感じ。でもその歴史のスタートはアレですから、どんなバンドも最初にやっていることに縛られることなくやりたいことをやればいいじゃん、そのうちに形も紆余曲折する中で定まってくるし、一番成功したスタイルが自分のスタイルということに評価されるから、無名のうちは気にせずに自由にやれよと。そんなことを今若いバンドに向かって言っている根拠のひとつです、ハイ。
 話逸れましたね。Lamp、とてもいい感じで、ゆったりと聴きたい音楽でした。松尾さんありがとう。何年待っても新作を期待し続ける気持ちがよくわかります。そんな風に期待されるアーチストっていいですね。でもやっぱり期待されているうちに新作出しなよって、そう思います。
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さすらいの都くらし

 昨日、musipl.comで山形のバンドマンの歌を紹介した。山形の人が東京に出て暮らして、それから故郷に戻ったというような内容の歌。メンバーが本当にそういう経歴なのかはわからないけれども、歌の内容はそうだ。
 僕は2つのアーチストのことを思い出した。
 ひとつは、キラキラレコードからリリースしたDAIZOというアーチスト。

 同じく山形在住のアーチストで、とても澄んだシンプルな歌を歌ってくれていた。彼は田舎に住んで、田舎の暮らしを歌っていた。そういうものに僕も憧れたし、PVを撮影するために山形まで車を走らせたりもした。そこで見た風景はまさに思い描いていた田舎、とまではいかず、JRの駅はそれなりに立派だったし、日本って本当の田舎ってないのかなあと思ったのを記憶している。仙台に泊まり日帰りで山形を後にしたので、星空がきれいだったのかどうかはよくわからない。
 もうひとつは、キラキラレコードのオムニバスに参加してくれて後にユニバーサルからデビューしたサンダルバッヂ。

 僕がオレンジ☆プランクトンのツアーで四国にいた時、ラジオから「浮キ草」という曲が流れてきた。この曲は田舎から都会に出たもののそこで根を生やすことも出来ず浮き草のような状態になっているという歌。僕自身実家のある福岡から東京に上京し、学校を卒業して怪しげな会社を運営し、ちょうど愛媛県でその歌を聴いた。愛媛県はサンダルバッヂ赤松くんの故郷でもある。不思議な縁を感じたし、自分はどこにいるんだろうという気持ちにさせられた。赤松くんは今も東京で暮らしてバンド活動を続けている。
 僕は今東京を離れ、実家のある福岡でもなく、奥さんの故郷三重県でもなく、夫婦にとって縁もゆかりもない京都で暮らしている。他所者を受入れにくいといわれている土地だが、故郷を離れ30年近い僕にとってはそんなに排他的な疎外感は感じられない。意外と落ち着いて暮らせている。
 人がどこに暮らすのかは、経済的要因も大きいけれども、経済的要因だけに振り回されると自分の根っこを失う。同様に、生まれ故郷というファクターは大きいけれども、それを至上としてこだわれば、自由を失ってしまう。もちろんその2つ以外にも要因はあって、それらをすべて勘案して、自分の哲学とかも含めて判断するしかないのだろう。その結果決めた生活の場に納得するしかないし、納得出来なければ移動することも良し。いろいろなことを考えての今のマイ京都暮らし。ある意味浮き草暮らし。何の迷いもなく絶対東京とか、絶対田舎とか言える人がちょっとだけ羨ましかったりする。

sweet&sourlife『山形さくらんぼ』〜musipl.comレビュー+α〜

 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 山形のバンドsweet&sourlifeが送る郷土愛あふれる歌。単純に田舎は良いぞ的なものとはちょっと違ってて、東京生活を経験した視点で語られる山形がとてもいいなと思います。大学や仕事で東京に行く人は多くて、そういう人が懐かしながら想う郷土というのはこういうものかもしれません。確かに東京はすごいところだけれども、東京が持ってないものはたくさんあって、でもその価値を正面から語るには東京はあまりに輝いていて、結局誰も口にせずにずっとそこに住み続ける。そんな東京人が心の奥に隠し持っている心を飾らずに歌っている、そんな素晴らしさが純朴なサウンドの中に染み渡っているような気がします。地味な名曲。
 このビデオを作っているのは半田技研というバンドのようで、彼ら自身のビデオもなかなかイケてました。イケてるというとなにか決め決めでカッコいい的なものを想像される方も多いとは思いますが、彼らのイケてるは普通のそのままをそのままにした上でちょっとだけカッコいいというような、そんな感じで興味深いです。どんな人も素顔はダサイし、でもその素顔の奥を覗けば、本当はみんな見栄えとは違ったカッコ良さを持っているものだと思うのです。そういうものを素朴に描き出せるって、けっこう珍しいものじゃないかなあと思ったりしました。
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予算の使い方〜「恋するフォーチュンクッキー」動画

 最近いくつかの自治体がAKBの「恋するフォーチュンクッキー」を踊る動画を制作するために予算を使ったということで叩かれている。面白いことだ。そこに予算を使うという決済をしているということも面白いし、その予算執行を叩くという行為も面白い。
 まず、この動画について神奈川県バージョン。

 次に佐賀県庁バージョン

 ここで僕が注目したのはいずれも100万回以上視聴されているということだ。2013年10月22日13時現在、神奈川県で161万回、佐賀県で145万回。どの自治体も広報活動をやっているだろうし、地味な観光アピール動画などを作っているだろう。それも結構な予算を使って。それはどこで見られているのだろうか。YouTubeで「神奈川 観光」または「神奈川 広報」で調べてみたが、1000回を超えている動画は見当たらない。佐賀も同様だ。1000回以上の視聴動画はない。それに比べるとこの「恋する〜」の影響力の大きいこと。もし仮にAKBの誰かを観光大使に任命して動画に出演させていたならば結構なギャラが発生することだろうが、これは曲に合わせて素人が勝手に踊っているだけなのでギャラは発生しない。もちろん動画作成にはお金はそれなりにかかるわけだが、1000回を超えない動画を作るのにもお金はかかるわけで、費用対効果としては悪くない。1000回に対して160万回だと1600倍見られているのだから、本当なら1600倍の予算をかけてもいいくらいなのだがさすがにそんなにはかかっていないだろう。
 たくさんの人に見られるというのは、それだけで価値のあることだ。雑誌の広告など、たった1ページのカラーページに百万円以上の出稿料はザラだ。でもそこに載せることに価値があると考える企業がたくさんある。そう考えると県の広報ビデオが160万回視聴されるというのはとても大きな価値である。その可能性に賭けた予算執行ならきっと十分に元が取れただろうと思う。
 では一方で叩く人がいるということ。これはどうなのか。僕自身、最初にこのことをTwitterのタイムラインで見た時には「アホか」と思った。だがよくよく考えてみるとそのアホかは一体何に対するアホかだったのだろうかと思うようになってきた。まず、この動画を作っている人たちの感覚に対するアホっぽさだったのだろう。2008年あたりの神奈川県は1350億円の赤字で財政破綻の危機的状況と言われていた。1999年には2200億円の赤字で財政危機宣言を出した。そこから「神奈川県=予算不足自治体」というイメージがついてきていた。だが最近のニュースによると2012年度では赤字がなく、公債の返済はあるものの早期健全化基準をクリアしたといわれている。だからといって無駄遣いをしていいわけはないが、過度に緊縮にする必要もないわけで、当然観光促進などのために必要な予算を使って活動することは批判されるべきではない。確かにAKBの歌を踊るビデオが観光を促進するのかといわれれば難しいところだが、1000人にも見られることのないビデオを作るよりは可能性はあるんじゃないかなと個人的には思う。
 叩くというのは一体どういう行為なのだろうか。最近では生活保護受給者への叩きがある。数年前のこども手当への叩きもあった。両方を一緒にしていいとは思わないが、いろいろな日々の不満が国民の一部に渦巻いているんだろうという気がする。例えば「生活保護受給者がパチンコをやっているのはどういうことか」ということもよく言われた。「こども手当をもらった親がそれをパチンコに使うかもしれない」という批判もあった。パチンコが生活に必要かどうかは論の分かれるところだろう。だが、人間だもの、娯楽は必要だ。映画を見に行くのは必要なことなのだろうか、不要なことなのだろうか。音楽を聴くのは必要なことだろうか不要なことなのだろうか。意見はきっと分かれる。しかし映画を見に行くのが必要だとして、生活保護受給者が映画を見に行ったらどうだろう。こども手当をもらった親が映画を見に行ったらどうだろう。こども手当をもらった親だって映画くらい行くさ。今はこども手当じゃなくて児童手当が支給されている。そんな僕だって映画には行く。そのお金は児童手当から出たのかそうではないのか。その区別はどこでつければいいのか。児童手当が銀行口座に振り込まれ、自分の稼ぎもその口座に振り込まれ、そこから引き出した1800円はいったいどちらから出たお金なのか。わかる訳がない。児童手当が出なければ、自分の稼ぎから子供を育てる費用を捻出するわけで、同じように映画代も自分の稼ぎから捻出する。で、児童手当が月に1万5千円出るので、自分の稼ぎから子供を育てる分が楽になるわけで、でも映画に行ったらそれは楽になった自分の稼ぎからしはらっているとすれば、結局児童手当の1万5千円から出しているのも同じということになるのか?もうよくわからない。だったら子供を育てている間は映画になど行かなければいいのか。それとも映画に行く人は児童手当を返上すればいいのか。まったくよくわからなくなってくるが、児童手当でパチンコという批判の人のロジックはたぶんそういうものだ。というより、おそらくロジックなどはなくて、言葉の表面に見えてくる刺激的ななにかに本能的な反射をしているだけなのだと思う。生活保護受給者への批判だってそうだ。それは社会のセーフガードという意味合いがあって、不意の失職をも恐れずに生きていくために必要なものだと思うが、そういう叩きをすることによってセーフガードを自ら葬り去ることにつながるのだと僕は思う。その人がパチンコをするのが我慢ならないのなら、その時間を労働させればいいのだが、社会はその人に職を与えることなく放置している。で、生活保護をもらうのなら娯楽禁止と叩く。なんだかなあと思う。
 話が逸れた。ま、神奈川県も佐賀県も、費用対効果をきちんと示せば誰も文句は言わなくなると思う。だから、今回の動画作成に予算を使ったことによる効果をきちんと示せばいいだろう。昔東国原氏がメディアに出まくってマンゴーや地鶏を宣伝したことがあったが、あれでそういうのの売上げはアップしたそうだ。彼がメディアに出るために県庁での仕事を疎かにしたとか、東京のテレビに出るための交通費がどうだったとか、それで叩く人の根拠が無くなるくらいに宮崎は一時的に潤った。そういうのを出せばいいんじゃないだろうか。まああの動画の内容で観光が盛上がるとは個人的にはあまり思えないけれども。