月別アーカイブ: 2013年8月

土曜午前の公園にて

 土曜午前。午後から台風が来るとか、温帯低気圧に変わるとかいろいろな情報が錯綜する中、とりあえず午前は雨降らなそうだったので1歳2ヶ月の息子をベビーカーに乗せ近所の公園へ。
 その公園には水遊びができる施設がある。奥さんからは息子が「そこで水遊びすると喜ぶ」と聞いていたので、そこを目指す。奥さんはそのための準備をすべて整えたバッグを渡してくれた。準備というのは、水遊び用のオムツと、遊び終わった後に交換する普通のオムツ。オムツ替えに必要な一連のグッズと、着替え。喉が渇いた時用の麦茶入りマグボトル。あ、これ全部子供用。大人の僕はなんとでもしろという放任主義。
 で、着くやいなやさっと水遊び用オムツに替え、息子を水遊びスペースに放り込む。というか連れて行ってそっと置く。傍らで見張りながら、何かあったらさっと助けられるようにしているわけだが、まあそんなことはそう簡単には起こらないので、結局は水遊びをしている息子を眺めるという案配に。
 するとそのスペースに親子がやってくる。いや、人気の公園なので他の親子もたくさんいる訳だが、そこにある親子がやってきたということ。ちょっと美人OL風のメイクバッチリ母と3〜4歳くらいの娘。娘は「ねえここ入っていい?」と訪ねる。しかし母親「着替え持ってないからダメ」と。そう言いながらも手と目はスマホに釘付けで、フリック入力の最中らしい。でも娘も食い下がる。「ねえねえ、足つけるだけだから。サンダルだし」と。すると母親あっさりと認める。で、娘は堂々とサンダルのまま水の中へ。
 僕は別にその母子に注目している訳ではなく、基本は自分の息子の世話。水遊びスペースはそれなりに広く、最初に入った場所よりももう少し深めの場所に息子を連れて行き、先ほどよりも危険回避に神経を集中させながら、遊ぶ。僕自身それなりに濡れる。
 で、その母子も遅れてその深めスペースに移動。娘はかぶっていた麦わら帽子を水の中に落下させ、母が「何してるの!どうするのこれ、もう!」と怒鳴る。でも娘意に介せず遊び続ける。
 僕ら父子は程よいタイミングで切り上げ、ベビーカーを置いている場所に戻り着替え。濡れているランニングを脱がせ、身体をタオルでよく拭いて、オムツを普通のに交換し、服を着せる。その隣で見知らぬ(まあ全員見知らぬのだが)お母さんグループが会話していたのが耳に入ってくる。「アレ見てよ、女の子裸じゃない。あれは危ないわ〜」と。さっきの母子の娘が既に裸で水遊びをしていた。なにが危ないのかは俄には判らなかったのだが、どうやらロリコン不審者がどこにいるかも判らないし、盗撮や性犯罪の引き金になりかねないと。まあそこまでかという気もしないではないが、まったく有り得ないということも言い切れない。うちが息子だからそこまで想いが至らないだけで、娘の親だったらその危険トークに完全に頷いていたかもしれない、と今は思う。
 でもまあ、あの母親はちょっとなあと思った。せっかく公園に遊びに来ているのに娘と関係ないスマホいじりに熱中しているし、娘の「水に入って遊びたい」要求に対し、いちいち「ダメ」的なことを言いながらも結局あっさりと、かなり簡単に折れてしまっているし。
 じゃあお前はどれだけ完璧な父親なんだと問われれば、「いや、不完全です、ダメな部分の巣窟です」と白旗あげて降参するしか無い程度なんだけれども、それでもまあ、こういう交流(盗み聞き???)等を経て、他人の振る舞いに対していろいろ考えたりすることで、ダメダメ新米父親は精進していくしかないんだろうなあって思ったりした。
 でもまあ、子供と公園に行ってオムツ替えてあげたり出来るだけでもけっこうやってる方なんじゃないかって、心の底では自分で自分を褒めてあげたい気持ちではある。ま、他人に褒めてもらわずとも、息子が父子だけの公園遊びで楽しそうにしてくれて笑顔で抱きついてきてくれるだけでいいんだけれども。ただ、水遊び中のびしょぬれ状態でなぜ笑顔で抱きついてくるのか息子よ。なんかの抗議で、一種の罰を与えようとしているのか息子よ。なんて思ったりもしないではない。
 いや、そんなことは本当は思ったりしてないなオレ。

継続は力か? 〜SNSの死にアカウント〜

 流行りのSNS、流行りというだけあっていずれは廃れる。うつろいゆくのが世の習い。もはや墓標のようになってしまったmixiも一時は時代の寵児と呼ばれた。そして今、Twitterをメインに僕はつぶやいているのだが、そこも死にアカウントがかなり増えてきたような気がしている。
 死にアカウントとは、かつてそこで発言したり交流したりしていたのに、突如うんともすんとも言わなくなったアカウントのこと。おそらくアカウントの主はもうあまりTwitterを見ていないのだろう。facebookやLINEにGoogle+、LinkedinにPinterest、SumallyにInstagramとみんなそれぞれのところに行っては刹那の楽しみを味わっているのではないかと思う。ではそこに移っていってどうなるのか?定住(?)できる理想郷的なSNSなど本当にあるのか?
 思うに、彼らは新しいサービスに触れてみることが大切なのだろうという気がする。新しいSNSを試してみて、どういう仕組みになっているのかを確かめる。確かめるためには使ってみる必要があるので、そこで日記を書く必要があれば日記も書くし、写真をアップしなければいけないのならアップもする。だがそれはそもそも日記を書くことも写真をアップすることも目的ではないので、仕組みについて理解して、飽きたらそういう活動は止めてしまう。他に新しいサービスが登場すればそちらを試しに動いていく。過去に試した仕組みに付き合っているヒマなど無いのだ。だから作ったアカウントも放置。立派な死にアカウントの誕生だ。
 ネットによって1億総発信者の時代が到来とかなんとか言われた。確かに発信するのは簡単になった。だがその発信も一時的で飽きてしまうようなものであれば、それは発信者と言えるのだろうか?
 発信者とは、その発信を受ける人がいて初めて成立するのだと思っている。誰もその声を聴いてくれなければ意味が無い。それは単なる独り言だ。独り言をいうことを発信と呼ぶか?いや呼ばない。だから、受け手の存在があって初めて発信と呼べるのである。少なくとも僕はそう思う。
 では受け手がいるということはどういうことなのか。そしてその受け手に対して発信するということはどういうことなのか。受け手はその発信者のことを何かしら気にかけている。文章の内容なのか発信者の人柄なのか、とにかく何か気になって、その発信に付き合うのである。付き合わなければ時間が出来て他の何かを読んだりする余裕も出る。だが気になる発信者の文章を読むために時間を割く。だとすれば発信者はその受け手に対して多少の責任が生じるだろう。そう、続けて書くということだ。
 文章で考えるからちょっとイメージが湧きにくいが、これを音楽で考えるとちょっとはわかり易くなるかもしれない。新人バンドが「俺のライブを観にきてくれ、CDを買ってくれ」と言う。タダじゃない。ライブならチケットが2000円くらいするだろう。CDだってまともな商品なら1000円以上はする。それを買わなきゃ別のこと、例えばちょっと贅沢ランチくらいは食べられる。しかしそれを控えて新人バンドのライブチケットを買うのだ。そのバンドが半年後に「バンド飽きたからやめちゃったんだよね〜」と言われたらどうだろう。金返せって言いたくもなる。とてもファンを大切に考えた行為ではない。そんなことなら最初からやらなきゃいいのにと思う。SNSの発信も似たようなところはある。だったら最初からやるなよと。最近見なくなったあの人やこの人のことを考えると寂しくもなるし、だったら最初から目の前に現れるなよっていう気にさえなったりもする。
 そう、1億総発信者の時代などはウソだったのである。一時的なきまぐれの与太話は誰にでも出来る。だが継続して発信し続けるということはすべての人には難しい。かく言う自分だってそうだ。僕のブログを書くペースには明らかにムラがある。ここしばらくはコンスタントに書いているつもりだが、1週間ほど間が空くこともしばしばだ。ブログ以前の自社サイトでの日記も含めると2000年からやっているが、ブログになってからは文量が長くなって、頻度が落ちた。Twitterは毎日なにかしらつぶやいているからまあいいか。いや、よくない。こんなことで発信者なんて言えるのか?まあそんなに発信者になりた〜いなんていうつもりでもないけれども。
 余談になるかもしれないが、死にアカウントは本当に死んでいるのだろうか。その疑問は常にある。昨年急逝した同級生の友人がいるのだが、彼のアカウントは今も残っている。まさしく死にアカウントなのだが、facebookの彼のアカウントはちょっと面白い。彼を偲ぶ友人たちが時折訪れては彼への言葉を書き込んでいる。友人の想いを通じて、その死にアカウントは今も生きているのだ。興味深い現象だと思う。
 また、Facebookで面白いのは、自分では絶対に発信しないけれどもイイねは押すというアカウントがあるということだ。それはなんと呼ぶべきなのか。きっとそれを示す言葉が既にあるだろうと思うけれど、知らないのでここでは眺めアカウントと呼びたい。死にアカウントとまでは言わないけれども眺める専門のアカウントだ。そうだね、そういうのもあっていいと思う。というか、そういうアカウントが無ければ、発信者のアカウントも存在する意味が無いということになる。受け手がいて初めて発信には意味があるのだから。イイねさえしないけれどただ見ているというアカウントもきっとあるのだろう。そういう人がどのくらいいるのかはわからないけれども、死にアカウントだと思われるようなものが実は死んでなくて、今もただじっと静かに眺めている、そんなことを淡く期待したりしている。

労働力とレッテル

 労働者の格差が広がっていると言われている。確かにそうだと思う。正規と非正規の格差は激しい。かなり以前なら「正社員になると自由が利かないから」とあえて非正規を選んだ人(劇団員やバンドマンなど)がいたので、自由を得るのだから所得に格差あっても仕方ないよねという理屈も成り立ったのだが、今や正社員になりたくてなりたくて夢なんてまったく見ませんよという人まで就活で落ちこぼれ、派遣やバイトという名の非正規労働を余儀なくされている。もはやこれは社会制度の域に達している。何パーセントではなく何割という世界なのだ。
 しかもこの社会制度、一度非正規になると正規になるのはかなり難しい。しかもこんどは派遣で働くのは3年が限度という法律になるそうだ。これは3年派遣で働かせたらいい加減に正規雇用にしなさいというのが一応の建前。しかし正規雇用に出来るのなら雇用側も最初からやっているだろう。派遣というシステムが楽だから、責任を持たなくていいから、派遣を使っているのだ。現実問題としては派遣3年満了する手前で雇い止めをするケースがほとんどになるだろう。結果として非正規労働者は3年分の経験しかつむことができないし、雇用側も3年でオサラバの労働者にはそれなりの仕事しか与えない。経験の点でもますます格差は広がっていく。
 と、ここまでは労働者側の立場の話。だが雇用側にも理屈はあろう。労働者というのはやはり財産だ。誰を使うかが業績の明暗を分ける。野球でも誰をレギュラーにするかでチームの成績は大きく変わるのだ。自分の首がかかっているのだから監督も非情な采配を振るわなければならない。企業の人事も同じことだ。
 以前僕が求人をした時、面接を重視して学歴などにこだわらなかった時期がある。で、高卒の人を採用したことがある。結果として、それはたまたま偶然なのだろうとは思いたいが、哀しい結果に終わってしまった。詳しい経緯は省くが、その時に「ああ、高卒の人を採用したからなのか」という気持ちが広がった。
 もちろん大卒であってもいい加減な人はいるし、高卒中卒であってもちゃんとした人は少なくない。だが、大卒を雇って失敗した時に「大卒を採用したからダメだったのか」とは思わない。なぜならそれ以上の条件は無いからである。大学院卒があるだろうというかもしれないが、大学院卒の方が労働者として、人として優秀であるということは考えにくい。だが大卒の方が高卒よりもちゃんとした人の割合が多いというのは考えうることだ。その厳密な意味での正否は別としても。
 繰り返すが、もちろん大卒にもいい加減な人はいるし、高卒でもちゃんとした人はいる。だがそれを判別する方法はあるのだろうか。あると思い、若い頃の僕は高卒の人もおおいに採用した。だが、結果失敗すると「オレの見る目は無かった」ということになり、安全策として大卒だけを採用するという気持ちになってしまう。それでも失敗する可能性はゼロにはならないのだけれども。
 ここで言いたいのは、どんな人にも歴史があり、その歴史の一部をもってレッテルを貼られるということである。高卒の人は高卒というレッテルでひとくくりにされてしまう。中卒の人なら中卒というレッテルがついて回る。そこから逃げるには大学に行くしかないのだが、ある程度の年になってからはそれも大変だ。だとすれば、そのレッテルで括られるグループに属している人は、自分だけのためではなくそのグループにいる人全員の為にも、一生懸命にきちんとした生き方をしていかなければならないということだ。何人か採用した高卒の人がきちんとしてさえいれば、僕も落ち込んだり、「やはり大卒じゃなきゃダメだな」なんてことは考えもしなかっただろう。でも誰かがいい加減なことをすると、「やっぱり○○だからダメだ」という先入観を植え付けられてしまう。
 今ネットでは若者のバイトがいい加減なことをして、さらにはネットでそのいい加減なことを自慢するかのように写真をアップして炎上したりしている。あれは「若者」というグループのことを貶めているなあと思う。もちろんあれはごく一部のバカどもがやっていることであり、それをして若者全員がそうだということではない。だが「ごく一部はあんなことをするんだ」という気持ちを雇用側に植え付けることは間違いない。したがって若者の雇用が厳しくなる。今は30代40代のフリーターも少なくない。3年という派遣労働制限が実施されれば、今以上に50代60代のフリーターだって労働者市場に出てくる。そんな時に「若者」のごく一部がそういうとんでもないことをやらかす恐れというのは、若者を雇用する上でのリスクになる。
 若者は労働の上でも教育環境の上でも、社会保障の上でもかなり不利な状態にある。そしてさらにそういう一部の不心得者によって自分たちの首を絞めている。ただでさえ国内の労働力は機械による自動化や海外製造によって要らなくなってきている。責任のある仕事が若者に回ってくる可能性は減っているのだ。そのことを考えると、バカ発見器に引っ掛かった不心得者に対し、老人が眉をひそめる前に若者自身が徹底的にその不心得者を非難しなければならないはずだと思うのだが、現実はそうなってはいないようだ。自分たちには「若者」というレッテルが貼られており、そのレッテルのカテゴリーにいる人間の不心得は自らの脚をかなり強烈に引っ張っているという現実に意識があまり回らないように見える。

はだしのゲン問題について

 島根県松江市でのはだしのゲン問題。これは元市民の強硬な陳情を受け、小学校の図書館でのはだしのゲンを閲覧制限にするように市教育委員会が各校に要請をしたということだ。これが全国的な話題となり、問題となり、本日松江市教育委員会は要請を撤回することを決めた。
 この問題にはいろいろと参考になることが含まれていると思う。言論の自由、ひいては自由が制限されるということについて。
 まず、今回の陳情とはどういうものだったのか。はだしのゲンの原発に対する内容について問題にしているのではなかった。過激な表現があるということで、子供に見せるのはどうなのかということを理由にした撤去要請だったのである。自分が気に入らない何かを失脚させる為には、気に入らない理由で責めるのではなく別件の瑕疵を責めるのが定石だ。政治家でも政策論争で負かすのではなくスキャンダルや汚職問題や失言で責めるのが一般的。田中角栄も細川護煕も小沢一郎もこれでやられた。本当に悪いことをしているのであれば罰せられるべきではあるが、その追求が、本当に攻撃したいポイントでは太刀打ち出来ないから行なわれているものであるならば、その追求も一種卑怯な行為だと思う。だが汚職追及という正義の御旗のもとで行なわれるから卑怯とは映りにくい。だが実際に政敵は失脚していくのであって、その失脚によって一番得をするのは誰なのかということが問題になるべきである。しかし日本ではその追求はほとんど行なわれない。
 政治家に限らずどんな清廉潔白な人であっても、まったく非の打ち所のない完璧な人などはほとんどいない。誰しも弱い部分や不完全な部分、触れられたくない過去くらいある。本人だけではなく身内にまで広げれば、どこかに落ち度はあるものだ。ということは、政敵を失脚させるにはその不完全なる部分を探して突けばいい。こうして正論は闇に追いやられる。それで良いのかと正直思うが現実はそれがまかり通っている。
 今回のはだしのゲンの閲覧制限も、これで陳情されている。だからこそ、今この時点ではだしのゲンを閲覧制限することによって一番利するのは何なのかということを考えるべきだろう。はだしのゲンとは広島の原爆投下の悲惨さを描いたマンガとして有名である。放射能汚染の恐怖についても描かれ、そこから戦争の悲惨さにも話は広がる。今の世情を考えると、原発事故で放射能汚染の危機が日本全土に及んでいて、再稼働を目指す政府や電力各社にとってはこんなマンガは百害あって一利無しだろう。また、憲法を改正してまで正規軍を保持したいと思っている現政権にとっても、戦争の悲惨さについて殊更に描くマンガは奥にしまいたい存在だろう。そういう意思を慮ってなのか、はたまた暗に指令が下ったのか、松江市の元市民は強烈に陳情を行なった。そして松江市教育委員会は安易に屈し、マンガを閲覧制限した。
 今回は小学校の図書館での取扱いという問題であり、直接的に言論の自由と完全一致する問題ではない。だが、このような措置が行なわれるということを現実に見ると、他の局面でも言論が制限されるということは容易に行なわれるだろうことは想像に難くない。実際に閲覧制限という仕組みがあるということは、他にも閲覧制限されている本が沢山あるということだろう。それらはどのような理由でそうなったのだろうか。それを考えると暗鬱な気持ちにもなってくる。ある意味これは焚書坑儒だ。焚書坑儒とは秦の統治下にあった中国で、儒教を敵視した始皇帝が儒教関連の書物を含め多くの書物を焼き払う命令を出し、儒者を生き埋めにしたという史実である。その時の始皇帝にも理由も理屈もあった。だが現代から見てそれは愚かな行為でしかない。愚かというしか無いのだが、それと同じようなことを実際に現代の権力者が行なっている。そりゃあ暗鬱な気持ちになったっておかしいことではないだろう。
 また、このゲン問題に関して昨日辺りから言われていることがある。それはこのマンガの成り立ちについてである。はだしのゲンは週刊少年ジャンプに連載されていた。だが2部とも言うべき後半は少年ジャンプから離れ、左翼系の機関誌などで連載されていた。その点を突いて「やはり閲覧制限すべきだ」という主張も起こっている。だが、ちょっと待て。左翼系の機関誌で連載されていたものはダメなのか?この点を持って「閲覧すべき」としている人は重大な過失を行なっている。言論の自由とは思想信条とはまったく関係なく保障されるべきであり、左翼系であるかどうかということは問題ではない。自分と違う思想信条に近いからといってそれだけで閲覧制限するのが真っ当だというのは愚かな考えだ。これは逆のことを考えればいい。右翼系の機関誌に連載されているものが単行本となった場合、それを理由に閲覧制限ということになるのは是か非か。いうまでもない、そんなのはダメに決まっている。だが左翼の狂信的な人なら「あんなに戦争賛美の書物は悪影響を及ぼすから子供に見せるべきではない」と言うだろう。だが、それを理由に閲覧制限というのは愚かな話だ。同様に左翼系の機関誌に載っていたものだから閲覧制限というのは100%愚かなことだと言わざるを得ない。
 だが、今回の問題を眺めていると、左翼系の書物は閲覧制限していいんだという考えの人がかなりの数いるんだなということがよくわかった。もちろんバリバリの右翼の人なら当然のようにそう考えているだろう。だが比較的普通の人までそう思っているようだった。これは非常に危うい。もちろん左翼が嫌いな人もいて良いのだ。同じように右翼が嫌いな人もいて構わない。だが、その人がどういう思想信条にあろうと、自分とは違う価値観を持っている人が同じ街に普通に暮らしているということを想像出来ないというのはマズいことだと思う。それはつまり、自分が嫌いな考えの人が隣に住んでいたとして、自分とは対立する考えを排除することを是とした場合、逆に自分の考えだって排除される可能性があるということであって、自分が自分の首を絞めているのも同然なのである。そのことに想いが至らないというのは、とても危険である。もちろんその人たちの大半は悪意を持ってそう考えているのではなく、普通に何気なく直感的にそういう結論を受入れているようなのだ。だからその直感的な志向や判断を、利用したいと考えている人にとっては利用しやすいタイプの人になってしまう。そういうタイプの人が思ってた以上に多いということが、僕をまたまた暗鬱な気持ちにさせたのである。

音楽の情報について

 レーベルをやっているといろいろな情報が蓄積される。で、それらはすべてノウハウだし、ノウハウでなければ他社の情報だったりして、公開にはどうしても躊躇する。嫌な話は攻撃的になってしまうし、良い話は敵に塩を送ることにもつながりかねない。なので、比較的口を閉ざして来ているという傾向が僕にはある。ブログなどでも政治や社会情勢についての内容が多くなり、お前は音楽屋だろうという指摘もいただくことしばしばだったが、それもそういう事情もあってのことだった。
 しかし、最近はそういうことでいいのかという気もして来ている。なので、もっと音楽の情報を発信するようにしていこうという気分だ。そこで昨日新しいドメインを取得し、サイトの計画に入った。音楽情報を伝えるメディアのようなものをやろうと思うのだ。まあ音楽の情報といってもかなり特殊なものになるとは思う。普通の情報は取り扱っているサイトが既に複数ある。だが、僕がやっているインディーズというのは、ニーズが少ないのか、どうしても扱う人が少ないようだ。それで結局myspaceやsoundcloudのように、ミュージシャン自身が情報を発信するだけとなり、玉石混淆の、混沌とした泥沼のようなものになってしまっている。それをちょっと整理しながら、良いものを紹介していくというものにしたいなと思っている。これはある意味かつてのイカ天のような感じの、今まで価値と思われなかったミュージシャンにスポットを当てるような企画になっていけば大成功だと思う。まあそこまで行かなくとも、僕が僕として素敵だと思うものを共有していってもらえればそれだけで満足だ。
 レーベルの運営もそんなに稼げていないのに何をやっているんだという気がしないでもないけれど、23年間やってきたことの、なんというか、ひとつのアウトプットというか、そんな感じのことなのです。どうか、応援したいなと思ってくれる人がいらっしゃったら、キラキラレコードの20周年ベストCDを買ってください。もう半ば脅しですw。(でも本当にこれ良いですから!)

ュミネ

 昨日のことだ。僕はYouTubeにてとあるバンドの音源を聴いた。その感想を伝えようとメールを送った。そしてよければデモ音源を送ってくれないかというメッセージを添えた。
 YouTubeで聴いたのならなぜ敢えてまたデモ音源を送る必要があるのか。送らなくてもいいじゃないか。そういう人もいるだろう。しかし、ネット上に公開している音源というのはレーベルに聴かせたくてそこにあるものばかりではない。身内で楽しむだけということもあるだろうし、すでに新たなレーベルなど不要な状況で頑張っているバンドもいるのだ。そういうものを勝手に聴き、ずかずかと土足で踏み込んでいくようにして「君たちは云々」などと言うのは不遜というものだ。レーベルはそんなにエラい立場の存在ではない。だから公開音源を聴いてそこそこ良ければ「聴きましたよ。よかったらデモを送ってください」という流れになる。そこで送ってくれたバンドのみ、その次の正式なステップとしての試聴をさせていただくということなのである。正式なステップではもっと真剣に聴く。いや公開の音源だって常に真剣に聴いているのだが、正式な試聴ではそのバンドに足りないところなども指摘する。それがウザイと思われようと、貴重な話を聞かせてもらったと思われようと、そんなことは関係ない。わざわざデモを送ってくれた時点で、「まともに聴いてくれ」というバンド側の意思表示なのだ。将来一緒に仕事をすることになる可能性も多少高まっている。褒めてばかりもいられないし、それを望んでもいないだろうと思う。
 というわけで、デモを送って欲しいと伝えたのだが、そのとあるバンドからはこういう返事メールが届いた。「自分たちは直接お会いした人としか一緒にやっていけない。メールで言われても決められるようなことではない」と。それはその人たちの感覚なのでとやかく言うつもりは無い。そもそも返事もなしにデモを送らないで無視というケースだって少なくないのだから、そうやって意思表示をしてくれただけでありがたい。でも、それでいいのか。そのバンドの音は本当にカッコ良かったのだ。彼らからのメールは続く。「よければライブをまず観に来てもらえませんか」と。だが具体的な日程や会場名は記載されていない。
 ライブを観にいくこと自体はやぶさかではない。契約していないバンドのライブでも、機会があるなら行くこと自体は問題ない。ただ、日程が合わない場合も多い。優先すべきは契約しているバンドのライブだ。次に正式にデモを聴いて契約に向けて具体的な話を進めているバンドのライブ、最後にデモさえ聴いていないバンドのライブということになる。それは観に行ければ行くけれど、前日に別の予定が入ればキャンセルせざるを得ないものになる。そういう状態では、行ければ行くけれど約束は出来ないということにならざるを得ない。もし仮にそういうライブをすべて観に行っていたとしたら、他の業務が疎かになる。他の業務とは契約をしているバンドの仕事だ。それは本末転倒というものだろう。なぜなら、毎日デモ試聴の前のバンドのライブを観に行きまくって、その結果「直接会ってビビッと来た」から契約をしてリリースをしたとしても、そのバンドがリリースした後はそのリリース関連の仕事が疎かになる。なぜなら、デモさえ聴いていないバンドのライブを観るのに忙しいからだ。それではいけない。だから一線を引く。そのことを丁寧に説明して、僕はメールの返事を書いた。
 数時間後、彼らから返事がやってきた。僕の返事メールを読んで感動したと。誠実さを感じ取ったと。直接話をしてみたい気になったと。でもメールのやり取りで進めて行くことは自分の中で納得しきれないものが残ると。だから今回のデモの話はお断りさせていただくと。
 まあそれも彼らの考え方感じ方なので否定はしない。だが僕は思うのだ。なんだって最初はメールだったり電話だろう。もちろん営業根性丸出しのメールや電話もたくさんある。僕からのメールがそういう風に映っていることもあるだろう。だが、その中から何かを取捨選択して、自分にとって意味のある出会いをつかんでいかなければ、永遠に何かが起こったりはしない。すべての問いかけに全部対応するのも軽々しすぎるが、すべての問いかけに「メールだから」という理由だけで拒絶するのは怠慢である。怠慢という言い方はキツいだろうか。ではナイーブ過ぎである。
 今の世の中、メールでの連絡というのはそれほど特殊で不躾なものではないと個人的には思っている。それをすべて否定していたら、新しい出会いなどは難しくなる。結活と同じで、お見合いは嫌とすべて拒否するならばそれもいいだろう。では自由恋愛の出会いを求めて積極的に動いているのだろうか。それもしていない人も多い。だから未婚の人はどんどん増える。もちろん主義として独身を貫くのはいい。だが結婚はしたいが相手がいないとボヤいているのは、やはり怠慢の誹りを免れないのではないだろうか。
 デモを試聴する。それはその後に一緒に仕事をすることを前提としたものだ。仕事をはじめると、最初はそんなに良い話が舞い込むこともない。で、飛び込んでくるのは微妙な話がほとんどだ。夢のような提案なら何の迷いもなく乗ればいい。だが微妙な話にはそんなに気乗りもしないだろう。それでも、乗らなきゃいけないのだ。怪しげかどうかの判断はレーベルの方で出来る。怪しくはないけれど、そんなに即効性のあるメリットはない。だがそういう微妙な話に乗り続けて小さな成果を出し続けることで、知らない間に知名度も上がり、少しずつ条件のいい話も舞い込むようになってくる。だとしたら、その最初の微妙で利の薄い話を受けてもらわなければならない。そういう時、最初の「デモを送る」ことに考え込んでしまうバンドだと、おそらく微妙な話にも考え込んでしまうだろう。そういうところもデモの段階で見ることが出来るのならば、という気持ちを持っている。だから、件のバンドがいくらサウンド的にカッコ良くとも、デモの段階で躊躇するようでは、将来的に一緒に仕事をするのは難しいだろうと思う。
 もちろん、そういうバンドがいてもいいのだ。そして彼らがものすごく素晴らしい才能にあふれていて、デモなんて送らずとも数多の話が舞い込んで売れていくということだってゼロではない訳で、それに賭けるのも悪くない。で、凡百な才能で、積極的に出ていけば多少はモノになっただろうけれども、消極的故に芽が出なかったとしても、それはそれなりに楽しい音楽活動は待っているだろうから、それも悪くない。あるいは彼らが実は冷静に分析をしていて、キラキラレコードの話だから「直接お会いした人でなければ」という言葉で濁しながらやんわりと断っただけなのだとしたら、それもそれでいいだろう。そうして冷静な分析と判断で別のもっと可能性を秘めた話にノっていけばいいだけのことだ。僕は彼らのことを批判するつもりはまったく無く、それなりにカッコいいのも事実なので、なんとかモノになっていってもらいたいと心から思っている。ただ、僕が自分のレーベルでやっている仕事のルールというか、方法論の中ではやはり一緒にやるのは難しいだろうと思うし、だからデモを送ってもらえないことは残念ではあるけれども、それ以上の深追いは自分の首を絞めると思っているのである。

Long goodbye

 最近は訃報がネットを駆け巡る。
 巡った訃報はお悔やみだの残念だの、いろいろな尾ひれがついてまた巡る。故人への想いが重なり乗っかり転がる雪だるまのような感じでどんどん広がる。
 だが、そんな想いが乗っかって重なったにも関わらず、訃報はどんどん軽くなっているように僕は思うのだ。そしてそういうのを眺めながら、僕は死というものをそんなに大変なものだとは思わなくなってきている。そう感じている。
 だって、訃報をネットで知るというのは要するにその程度の関係ということだろう。本当に関係のある人なら直接知らされる。それなのに悼む。本当に悼んでいるのだろうかそれ。ネットで知った程度の訃報に、ネット上で残念とか言ってみる。簡単だなそりゃ。本当に簡単だ。別に香典包む訳でも無し、暑い中喪服着て葬儀に行くでも無し。ネット上に流れてきた訃報に反応しているだけである。そこに何の悼みがあるのだろうか。
 ネットでの訃報でなくとも、もう何年も会っていない人の訃報に接することだってある。ではその場合の関係性とは一体なんなんだろうか。それは要するに「何年も会わなかった人」なのであろう。だから、その人の死によって永遠に会えなくなったというよりも、自らの自由意志で何年も会わなかったという要素の方が強かったのだろう。誰かに会う場合の優先順位が低い相手、様々な理由で会うことが許されざる相手。そういう人に対し、訃報に接したからといってお悔やみだけ言うというのもあまりに軽過ぎやしないか、と思うのである。
 ここ数日に接した有名人の訃報は、ちょっとばかり時代の変化を実感するものだった。その人たちの時代が終わる。いや、業績的にはもうとっくに終わっているのだけれど、その人が死ぬことで完璧に終焉を迎える。なぜならもう復活などし得ないのだから。でも生きていたところで復活はしないのだ。実際にしてこなかったし、個人の努力で時代の流れに抗うことは容易ではないのだ。だからもうその人たちが時代のスポットライトを浴びることはまず無いのもわかっている。というか、その人が今もいることさえ正確な認知は出来ていなかった。訃報によって、彼らがまだ存命であったということを知り、そしてその人たちが作ってきた時代の終焉を確認する。そういう作業。訃報はある意味存在証明でもあるし、最後の気持ちを寄せる機会でもある。人々は取り繕うように悼み、そしてまた普通の日々に戻っていく。悼んだことさえ日々の流れの中で記憶に残っていくことは稀だ。
 僕は、人は何故死に対して畏れるのだろうかと最近考える。畏れるのは恐いからだ。この世の生を終えるということが恐くて仕方が無く、だからその立場になった人のことを悲しみ、畏れる。自分がもう会えなくなったという事実より、恐いところへ行ってしまって可哀想だと思う、その力の方が強いのではないだろうか。なんて思う。
 悼む時に、一体どのくらいの人が相手のことを想い、そしてどのくらいの人が自分のことを思うのだろうか。終戦の日の今日、多くの人は正午に黙祷をしたのだろう。その場合の悼む相手とは誰のことだろう。具体的に戦没者が近親にいて、その人のことを悼むのであればいいと思う。だが68回目の終戦である以上、戦死者のことを直接知っている人はかなり減ってしまっているだろう。ネットに駆け巡る「黙祷」は、ネットを使いこなす平均年齢から考えれば大部分が戦死者のことを知らないと僕は思う。だが、黙祷をする。それは一体誰に対する黙祷なのだろうか。
 そして3閣僚を含む国会議員たちも多数靖国神社を訪れた。その人たちは誰を想っての参拝なのだろうか。それより政治家としてのパフォーマンスだったのでは無いだろうか。どちらの立場の人もいるに違いない。だが、悼む相手の顔も浮かばず、政治家だからと靖国に行った人も少なくはないと思う。それが良いとか悪いとかではなく、僕の感性とはなかなか相容れないなという気がする。
 なんか話がグダグダになった。深夜零時半だからそろそろ寝ないといけない時間だ。中途半端で申し訳ない。ただ、僕は人を悼む前に生きているその人に会いに行こうと思う。会いに行けなかった人は、悼むときの気持ちもその程度のものにしようと思う。だって、そうじゃないとウソっぽいから。あくまで僕の風変わりな考えでしか無いけれども。
 それと、あまり悲しまないようにしようと思う。死んだからといって必ずしも残念至極ではないと思うのだ。あちらの世界でどうかまた楽しくお過ごしくださいと。そう思えば気が楽だ。自分もそんなに畏れなくてもよくなりそうだし。ああもちろん言うまでもないことだけど、なんとなく今そう思っているだけのこと。僕自身はまだまだまだまだまだまだ生き続けるつもり。子供も小さいのだし、責任あるもの。それになにより育児は楽しくてたまらないのだもの。

本屋

 つい先日ふらりと入った本屋で。買いたい本が見当たらなかった。壁には新書(新刊ではなく新書)がずらりと並んでて、知識人とか評論家の人たちがいっぱい本を出していて、それを見て「なんだかなあ」と思った。
 Twitterをやっていると、いろいろな知識人がそれぞれ自説を呟いたりしている。もちろん説とは関係ない日常を呟いたりもしている。日々の話題やニュースについてなんやら叫んだりもしている。で、そういう生の言葉を見ていると、ああ、なんてこの人はマヌケなんだろうとか、底が浅いんだろうとか、思ってしまう。いや、まったく僕の主観に過ぎないんだけれど。新書の棚に並んでいるのは、概してそういう人だ。そういう人たちが本を出版していてももはや読む気がしない。それはTwitterをやっている良い効果なのか悪い効果なのかよくわからないけれど、有名知識人の知識の本を買ってまで読みたいとは現時点でまったく思えなくなってきてしまっている。
 もちろん一方で無名の人の面白いつぶやきもたくさん目にしている。そういう人が本を出したなら買ってでも読んでみたいと思う。でもそういうのは本になって並んでいないのだ。残念至極だ。
 さて、話を元に戻そう。その書店で新書の棚を眺めてみて、手に取ってみたいという気分さえ起こらず。次々と生み出される新しい本の中に埋もれる感じがした。48歳になり、まあおそらく人生の折り返し地点は過ぎているだろうし、読める本の数も限られている。そんな自分が何を読むべきなのか。貴重な残りの読書体験で、何を読むべきなのか。そういう指針はこういう本屋にはもう無いんじゃないだろうか。そんな気持ちにさえなってきた。読むべき本って、中学生が読むべきと48歳が読むべきとは違うのであって、その48歳の読むべきとはいったい何なんだろうか。
 それは映画でもそうだ。結婚して、子供が産まれて、映画館に行く時間もあまりなくなった。でもそれは正確には時間が無くなったのではなくて、観たいという欲求が薄れたのだ。昔は新しい映画は片っ端から観ていた。ハリウッドの大作は一通り観ていた。DVDも3作くらいは借りて週末だけで観ていた。ヒマだったのかもしれない。いや、映画を観る程度のことで最近のトレンドというか、なにかをつかむことが出来るというのは判っている。その価値も意味も判っている。だからある程度は自分を追い込むように観ていた。でも、最近はなかなかそういう気持ちになれない。だってずっとトムクルーズかブラッドピットが主演を続けているんだもの。おまけにシュワちゃんまで映画に復帰する始末。もう映画を観るというのは彼らの仕事をフォローすることなんじゃないかって感じるようになってきたのだ。
 本もなんかそう。毎年毎年芥川賞が発表される。毎年誰か2〜3人にあげていたら、そのうちあげる対象が枯渇するだろう。でも賞あげないと売れないし、だからあげているように思えてくるのだ。それを読み続けることになんの意味があるのだろうか。なんて思う。変かなこんな考え方。後ろ向きになってしまっているのかオレは?
 でもやはりなんか読みたい。読める冊数が限られている中、本当に良い本に出会いたい。だからいい作家も知りたい。それは新人も歴史上の大家でもそうだ。日本人でも外国人でもいい。読むに値する本に出会いたい。そんな中、本屋のあるコーナーに目が行った。夢だの幻だの夜だのという文字が表紙の中心でデーンと位置を占めている。百年文庫というシリーズらしい。1文字のテーマに沿って、古今東西の名作短編が3つ収録されている。面白そうだ。そして出会えそうだ。そう感じた僕は、「都」と題した本を買って見ることにした。京都だから、都を買うのがいいだろう。そういう単純な理由である。出会いなんて単純で偶然の結果なのだから。
 「都」に収録されているのは「ギッシング」「H.S.ホワイトヘッド」「ウォートン」という3人の作家。その誰をも知らない。こういう企画はとてもいいと思う。出版社の広告宣伝に煽られるように買って読むのもいいけれど、埋もれそう(いや、僕が知らないだけなんだろうけれど)な作家を掘り起こしてもらうことでこうして出会える。つまらない作品かもしれないけれど、こうやって誰かが掘り起こしてくれたことに、僕は敬意を表したい。
 本とはこうした偶然の出会いが楽しいと思う。壁一面の新書で「知識をとりあえずつけとけ」的な雰囲気には辟易するが、こういうブラリ偶然の発見も本屋にはある。CD屋が次々と閉店していってしまっていることで、音楽とのこういう出会いをずいぶん失っているような気もする。その点京都はまだまだ恵まれていると思うけれど、どこまでこういう状況が続いていくのか、楽観出来る感じでもないような気はする。まあしばらくは電子書籍に負けずに、多くの本屋には頑張っていって欲しいなとちょっと思ったのだった。

サザンとキョンキョン

 僕が今小さなインディーズレーベルなんてものを運営しているのは、平成元年にたまたまビクターレコードに入ったのがきっかけだ。当時のビクターの看板といえばサザンとキョンキョンだった。その経緯などは詳しく書かないが、僕がビクターに入社するきっかけはキョンキョンだった。キョンキョンのプロデューサーが僕を気に入ってくれて入社が決まったのである。そしてビクターを退社する時にいたのは、サザンなどを抱えるグループの宣伝部だった。数度ではあるが、サザンと同じ現場も担当した。控え室で寡黙にしている桑田さんを何度も見かけた。
 そんなサザンとキョンキョンが、今年大注目を集めている。35周年を機に復活するという。既にCDもリリースしたし、まもなくアリーナツアーが始まる。35万人を動員するという。で、僕は今NHKでやっているサザンの特集番組を見ているのだが、その番組では海という曲から始まった。1984年の、どちらかというと初期の作品だ。その後も初期の作品群をずっと歌っている。まるで生きている歴史だ。旧い歌が古くない。十分今に通用する。それとも僕の脳が思考停止してて、昔の感覚でしかこれらの曲をとらえられていないのだろうか。まあその懸念が無いわけではないが、80年代のロックバンドのCDを今聴き直した時には恐ろしく古臭いなと思うのだから、脳が思考停止しているなどと卑下する必要はないと思う。彼らの当時の音源は今聴いても全然古くない。少なくとも僕はそう思う。良いものは残るのだな。不滅なのだな。そう思う。ほんの一時期、スタジオの片隅でうろちょろさせてもらっただけではあるが、彼らと一緒に仕事をさせてもらったのは、小さなレーベルを運営する上でも財産だと思う。
 キョンキョンはというと、現在大人気のNHK朝ドラ「あまちゃん」で主人公の母親役をやっている。その母親が若かりし頃、アイドルの替え玉として歌を歌い、それが大ヒットした為に世に出るチャンスを失ったという設定だ。そのドラマの中での歌がCD化され、先週だったか、オリコンチャート2位に食い込んだ。20年ぶりの快挙だという。ドラマの人気でのことではあるが、小泉さんが女優として着実に仕事をしてきたことがそのベースになっている。それにアイドルがモチーフになっているこのドラマで、「なんてったってアイドル」なキョンキョン以外にこの役に適した人はいなかっただろう。そういう偶然が絡まり合っての、今回のヒットだ。時代は移って世代は変われども、デビュー31周年のキョンキョンがこうして歌で結果を出すというのが、なんとも嬉しい。
 20年とか、31年とか、35年とか、そういう数字が並んでいる。その期間を第一線としてファンを離すことなく活躍し続けているアーチストというのはスゴいものだ。キラキラレコードが23年というのを僕はそれなりに誇ってきているけれども、まだまだヒヨッコだ。しかも何にも結果を出していない。音楽不況だというけれど、それは多分ウソだ。売れるものは売れる、売れないものは売れない。それが真実だと思う。そうでなければ、サザンもキョンキョンも売れてるわけがないじゃないか。もちろん昔のサクセスストーリーが現在に通用するはずは無い。新しい時代に適したサクセスがあるわけで、売れていないとしたら、結果を出せていないとしたら、それは新しい時代の新しいサクセスの法則を見いだせていないか、実践出来ていないかのどちらかだ。
 そんなことを、僕は思った。サザンの新曲は「叶わない夢など追いかけるほどやぼじゃない」と歌っていて、その解釈はいろいろあるんだろうと思う。現実を見ろよ、夢見てる場合かよ。そういう意味にとらえることも出来るだろう。だが僕は、夢を見るなら叶えろよ、叶えないと野暮だぞ、と解釈した。いや、解釈したいのだ。
 どんな時代にも、どんな規模の夢にも、必ずサクセスはあるのだ。無論失敗することもある。だが、サクセスを目指して一生懸命に頑張ろう。そういうことを、僕は以前の会社の看板であったスターたちの、20年後の今日の活躍を見て心を新たにしたのだった。

黙祷

 今日8月9日は長崎に原爆が落とされた日。で、今日のタイムラインに黙祷の文字が並ぶ。
 黙祷を何のためにするのか。第一義的には鎮魂だ。でも具体的に誰の鎮魂なのか、具体的な人の顔が浮かばない僕にとって、その鎮魂は免罪符のようにも思う。黙祷することで、いや黙祷とタイプすることで、自分は良い人なんだという、そんな感じ。いや、これは批判をしているわけではなくて、だから黙祷自体はいいことなんだろうけれども、はて、じゃあいいことの具体的意味は何だろうと考えた時に、僕にはすぐに答えが出てこないということなのである。
 京都では神社仏閣が近くにあるので参拝は日常茶飯事だ。会社のすぐ近くにも神社があって、出勤前には必ず立ち寄る。境内を通過するのが近道だからということもあるが、急いで会社に行きたいのなら手を合わせる時間が無駄なのに、立ち止まってお参りをする。近道なのに余計な時間がかかってしまう。でもいいのだ。そんなに急いだ人生ではない。
 二礼二拍一礼という作法も京都に来るようになって身に付いた。観光客の若者が「どうやるんだっけ」なんて言っているのを耳にするとおかしげな気持ちになる。ついこの間まで自分もそうだったなと思う。そんな僕も神社参拝の作法くらいは身に付いた。で、何を願ってのお参りなんだろうといつも思う。
 神社では、具体的なことを願って手を合わせることもある。だがそれはあまりいいことではないという説もある。合目的性な参拝ではなく、漠然とした感謝の気持ちで頭を下げるというのが正しいともいわれる。よくわからないけれど、確かに毎日僕が近所の神社で願っていることには意味など無い。漠然とした感謝だ。現在仕事がうまくいっているとは決して言えない状況だけれど、それでもこうして生きていられることへの感謝なのだろうか。手を合わせている瞬間は清らかな気持ちになれたりもする。そういうのは、アリだという気もする。
 で、黙祷だ。僕は311までほぼ毎月11日の14:46に黙祷をしていた。でも時間が過ぎるとTwitterのTLには黙祷の文字が少なくなってくる。でも地震の1年後の3月11日には再び黙祷の文字が流れた。そのメモリアルなあれは何なんだろうか。バカらしくなって、1年半後の9月も2年後の3月も黙祷をやめてみた。すると批判もされた。なんかヘンだなと思ったが、現実はそういうことだ。
 じゃあ、普通の月の11日に黙祷していたのは何だったのだろうか。それもメモリアルなあれじゃないのか。そう思うと、いつやったっていいじゃないかという気にもなる。その「時」にやる必要はなくて、で、その「時」にやってもいいということでいつやるのかにこだわる方が無意味だということになる。
 では、いつやってもいいとして、それをやる意味はなんなんだろうかと。
 ウチに子供が産まれて、この夏には福岡に連れて帰省をする予定だ。そうすると家族で僕の父、息子のおじいさんの墓参りをすることになるだろう。何もわからない1歳の息子は手を合わせたりはしないだろうが、それでも自分のおじいさんの位牌の前に連れて行かれる。いずれは手を合わせることになるだろう。それ以前に僕の奥さんも父には会っていない。1994年に亡くなっているからだ。そういう会ったこともない人の墓前で手を合わせるということは一体なんなんだろうか。よくわからない。僕だって奥さんのおじいさんの墓参りに何度か行った。それに何の意味があるのだろうか。
 でも、家族である以上みんなで祖先の霊を祭るのは大切なことだと思う。だが原爆で死んだ人、津波で死んだ人。そういう人の霊に対して黙祷をするということ。それで慰霊はできるのだろうか。そもそもすることに意味があるのだろうか。僕の黙祷を感じ取ってくれる霊はあるのだろうか。そんなことを考えるとますます判らなくなってくる。
 でも、ひとつ言えることは、原爆投下の被害者の鎮魂には意味があるということだ。それは、そうして投下の日に僕らが慰霊の意味でその出来事を思い出し、そういうことが二度と起こらないように心に誓うと。それだけでも意味がある。実際に自分に何か行動ができるのかというと甚だ疑わしいし、そんな力など無いよと思う。でも、無名の無力の人がたくさん心に誓うことで、そんなことをやろうという輩の心理的ストッパーになれるのかもしれないという気はする。その程度の微力ではあるが、世の中の人はみんな黙祷してるんだぞ、こんな悲劇は二度と懲り懲りって思ってるんだぞって、そんなプレッシャーを与えることにはなるような気がする。悪い輩が僕の黙祷の文字を見てるのかどうかはわからないけれど、僕ごときの小さな存在の小さな声や文字の積み重ねが、何かの力になればいいなと、そして平和が続くことで、被害者の子孫たちもその平和の恩恵をちょっとは受けるわけで、そうしたら被害者の魂も少しは安らかになれるんじゃないかという気もするし。
 本当にそんなことになるんだろうか。そんなことを考えて書いていることも、単なる免罪符に過ぎないような気もしないではないけれども。