月別アーカイブ: 2013年6月

メールマガジン〜本文文字数の怪

 メールマガジンを発行した。今日が第2号である。
 本文を作っていざ送信という段階でエラー。なにがどうなったんだと思いつつ、何度も試す。でも送れない。
 で、沢山送るからダメなのか、1通なら送れるのか、そんなことを考えて、短い内容のテストメールを自分宛に送ってみる。すると成功。じゃあこの送信サーバーの設定は間違っていないんだなということがわかる。で、今回のメルマガを送ってみる。またエラー。
 なので、自分宛てに1通だけ送ってみようとすると、今度はエラー。もう本当に訳わからなくなって、どうしたらいいんだと思っていた。で、前回(第1回)との違いをチェックしてみたら、本文の文字数が多かった。前回は2400文字。今回は4800文字。ほぼ倍だ。それが問題なのか、いやいや、そんなことはないだろう、文字データなど写真データに較べればたいした量ではないはずだもの。でも、明らかにそこがネックになっている様子。なので本文を2つに分割して、送ってみた。すると成功。
 メールというのは送信文字数に制限があるのか?それはそのメルマガ送信ソフト特有の制限なのか?それともサーバー側の制限なのか?なんだかよくわからないけれども、とにかくそれで送れるんだったら送ってしまわなきゃ、すでに前回のメルマガ発行から12日も経過しているのだから…。
 というわけで、文字数制限については改善策を探しつつ、定期的な発行を目指したいと思ったりしている。3000文字くらいは送れるようなので、その範囲で書いていけば、それはそれで書くのも楽なのかもしれないし。
 
 メルマガをご希望の方は mailmaga@kirakirarecord.com まで空メールを送ってください。本文には何も入れなくてもいいですが、お名前(ニックネーム可)を入れていただければ嬉しいです。

夏バテ

 夏至が過ぎたら、もう夏バテの季節。んな訳はないと思うけれど、この2日ほど眠いしダルいし、歩きたくない。ということで毎朝会社まで約6kmを歩くのをサボり、電車やバスで出勤中。そんなことをしていると身体がなまって体重も増えるぞと思うけれども、さっき食後に体重を量ったら74.2kg。食事前ならきっと74kgを割っていただろう。
 これじゃいかんな。まあいいんだけれど、深刻なことではないけれど、痩せすぎるのはかえって良くないと思う。なので明日からは朝飯の量を少し増やそうと思う。
 夏バテ的な気分では仕事にもならない。いくつかの懸案もなかなか進んでいない。これではアカンと思っているのだ。思っているだけでは進まないのもよくわかっているので、頑張っていきたいと思う。

祭りの後

 19日に1歳になった息子の誕生日を祝う会を、京都の料理屋で開いた。福岡からおばあちゃん、松阪からはおじいちゃんとおばあちゃん。大阪からはおばさん(僕の義理の妹)が駆けつけてくれた。それに僕ら夫婦と主役の息子。
 福岡のおばあちゃんは昨日から京都入りし、孫との触れ合いを1日かけて深めていた。今朝も9時過ぎにはマンションにやってきて孫をだっこして、抱っこされる側もすっかり慣れて楽しげに過ごしていた。息子、あまりに楽しげにはしゃぐものだから疲れてもいたのだろう。そもそも日頃午前の昼寝をする時間帯に松阪のおじいちゃんが登場し、突然のギャン泣き開始。僕が抱っこしても泣き止まず、これから料理店に行くというのにこりゃ困ったなと思っていたものの、泣き止まないのでとりあえず寝かすことに。布団に置いて背中をさすってやっていると10分ほどですやすやと寝始めた。30分くらいで起こさなきゃいけないから可哀想だなと思っていたけれど、可哀想なのはわざわざ150kmほど運転してやってきたおじいちゃんの方だ。おばあちゃんに「おじいさんは恐いのよ。ちょっと見えないところに座ってて」と言われてしまった。大人相手なら反論も出来ようが、泣く子には勝てない。義理の息子としてなんとかしたいところではあるが、何とも出来ないというのが正直なところだ。ま、それも赤ちゃんとの付き合いということなのかもしれない。
 で、そろそろ出発の時間。息子を起こすと、意外にもけろっと。30分の睡眠で復活出来るとは赤ちゃんのパワーはあらためて恐れ入る。機嫌が変わらないうちにさっさと出発。木屋町の料理屋に到着。家族全員料理を楽しみ、息子1歳も食べられそうなものを少しずつお裾分けしてもらった。大変堪能した。で、最後に残っていたのが餅踏みの儀式。一生食うことに困らないようにという願いを込め、一升の餅をわらじを履いた子供が踏むということで、出町ふたばで注文していた一升餅を取り出して、わらじを履かせてその上に立たせる。踏むというより乗せるという感じだったが、それをやるためにみんな集まってくれたのだから、なんかしらないけれども家族大盛上がり。
 息子がこれで一生食いっぱぐれなくいけるのかどうか、神頼みという意味でいえばそこに裏付けはないんだろうと、さほど信心深くない僕は思う。やはり実力をどう磨いていくのかということが不可欠なのだ。だが、こういう神事をするということをきっかけに、おじいちゃんおばあちゃんが集うということが大事で、そういうことで多くの愛情を受ける存在になっていく。愛情ある家族に恵まれれば、いざという時に頼れる存在もあるということであり、つまりはメシぐらい食わせてくれる人がいるという、そういうことになるのだろう。実際結婚式以来4年半会っていなかった両家の父母が、孫が産まれたことによってまず出産時に再会し、お宮参りの時に再会し、今回また1歳の誕生日の時に再会した。自分の足で立つことがまだ出来ない赤ちゃんなのに、家族をより強く結んでいく力を持っている。孫のためなら何でもしてやりたいと思っている人が少なくとも3人いる。その3人がこうして仲良くなっていくことで、その家族の一員としての1歳児は、メチャ明るい未来が約束されるとまでは言わないにしても、それなりに見守られた、家族に恵まれる人生を送ることがしばらくは約束されたという感じになっている。それは大きいことだと思う。
 その会が終わり、福岡や松阪や大阪に家族は帰っていった。僕ら夫婦と息子の3人もマンションに帰宅し、普通の生活に戻ろうとしている。朝7人がいた僕らのマンションに、今は3人だけだ。疲れたのか、息子も奥さんもはやばやと寝てしまっている。このブログを書きながら、お祭りの後の寂しさのような気分にひたってしまっている僕である。

オブリビオン

 昨日、トムクルーズの映画「オブリビオン」を観た。映画館で映画を観るのはずいぶんと久しぶりのこと。おそらく1年半くらいぶりなんじゃないだろうか。
 基本的に未来の話で、ハリウッドの映画はこういう設定多いなと思う。何十年か前の日本映画ではなにかとヤクザが登場するのが定番で、まあ非日常を描くのに手っ取り早かったのだろう。そして最近はCG技術のおかげで近未来などを描き易いのだろう。こういう設定が多くなるのもわからなくはない。まあ設定が似ていても、良い映画とさほどでもない映画はある。僕はこの映画を観て、結構楽しめた。いろいろな意見はあるだろうが、まあ僕が1年半ぶりに映画館に行ったという感動も含めて楽しんだという意味合いもプラスされてはいるのだが。
 で、この映画を観てて、僕は家族の不思議を思っていた。縁あって家族というのは集うわけだ。別れるケースもあるし、ずっと一緒のケースもある。では何でその縁はあったのか、正直よくわからない。自分の家族だってそうだ。なぜ奥さんと出会ったのだろう。そこには沢山の偶然が重なっていて、だから必然とは言い難い。だが偶然の積み重ねは他にも沢山あって、その中で他の偶然は家族に至らず、この偶然は家族に至っているわけで、だからやっぱり必然ということもできるのかもしれない。
 家族だけじゃなく、友人もそうだ。今日たまたま近畿の同窓会の懇親会(説明するのややこしいので割愛)があって、そこにほぼ30年ぶりに会った同級生がいた。30年音信不通なら基本他人だ。なのにそいつは会えばやはり友人なのだ。面白い。それってなんなの?疑問は尽きないけど、やはり友人なのだ。そのまま受け入れている僕の思考も、また不思議だ。
 映画の話に戻したいが、詳しく書けばネタバレになる。なので観てない人にはちんぷんかんぷんだろうが、まあそれも仕方のないこと。そして観た人にも僕の文章はちんぷんかんぷんなのだろう。それは僕の表現力の問題なので許してください。
 ラストシーンで、僕はとても不思議な気分になった。その再会は再会なのか?それを言い出したらその前の再会も再会だったのか?受け入れるとはどういうことなのか?なにを持って本物の出会いと言うべきなのか?
 しかしまあ、根源的なことを言うなら、自分と奥さんの出会いだって本物の出会いだったのかなど断言できるのだろうか?それでも今こうして一緒に暮らし、子供も授かり、長い年月をかけて、あの出会いを本物の出会いに育てているのかもしれない。だとすれば、映画の再会が外形的に本物の出会いだったかどうかなど考えることさえ無意味なのだと思う。理不尽にも思えるような出来事の積み重ねを乗り越えて、偶然を必然に変えていくことこそ家族の営みそのものなのかもしれない。そんなことを僕はこの近未来の映画に思った。
 幸せは遠くに予定されているようなものではなく、今ここに既に用意されていて、気付いたり、築いたりすることで獲得していくものなのだ。それは何も家族というものだけに限ったことではない。そんなことを思わせてくれたこの映画が、僕は結構好きだなと思った。

1ć­ł

 息子が1歳になった。昨日はそれを惜しむ気持ちでいっぱいだったけれど、誕生日を迎えれば、それはもう過去のこと。今日がやはり喜ばしい日であることを実感するばかりだ。
 今日は誕生日を祝いたいと、仕事を休んだ。奥さんの提案で、バースデーケーキは買わず、自作することに。ケーキ屋で買うと見栄えはいいが、食材が赤ちゃん向けではない。ケーキを周囲が食べて祝うより、本人に食べさせたいじゃないかと。なるほどなるほど、もっともだ。奥さんはネットのどこかでレシピを調べていたらしく、材料も準備済み。あとは、作るだけだ。僕が。ええっ、僕が??
 昔キラキラカフェをやってた頃、一応ケーキを作って出していた。だったらケーキを作るのは僕の役目だろうと。なるほどなるほど。作ろうじゃないか。作るよオレ。頑張って作った。薄切りの食パンをコップでくりぬいて同じサイズの丸いのを3枚。それをベビーダノンのジャム部分をはさんで重ねる。重ねたものに今度はベビーダノンのヨーグルト部分を塗りたくる。その周囲にベビー用チーズクラッカーを適当な大きさに切って貼付けていく。最後にイチゴを乗せれば完成だ。
 思った以上にきれいに出来た。1歳の息子に見せるとなぜか興奮。ケーキなんて知らないだろうに。あのビジュアルは本能的に興奮させる力を持っているのだろうか?で、瞬殺できれいなケーキは無惨な姿に。手づかみでイチゴをパクパク。チーズクラッカーもボリボリ。ヨーグルトを塗られた食パンはさすがにお母さんに切ってもらって食べさせてもらったが、食べ終わる時には白ヒゲ危機一髪というなんとものんきな表情に。
 普段お昼はそれほど食べないという息子。なのに今日はお昼に爆食。嬉しかったのかなあ。そういうのを見たお父さんは嬉しかったなあ。
 こういう光景は何も誕生日に限ったことではないだろう。そういうのをほとんど見ずに過ごしているお父さんも多かろう。たまには仕事安んで子供の姿を眺めようよと本当に思う。育児休暇というのは育児を労働として考え、その労働をするために必要という目的で存在しているのだと思う。それさえ父親はとれずにいることがほとんどだ。でも、労働の一部としてではなく、父親がただ子供の姿を眺めるというために育児休暇はあっていいんだろうと本当に思う。そう簡単ではないのも判るが、子供を持つ親が、その子供の成長の場面を見ずして、一体何のために生きているんだという気がする。いや本当に簡単にはいかないのはよく判っているつもりだが、素朴にそう思ったよ。
 話が逸れた。
 今日は仕事を休んで家にいたものの、朝から京都は雨で、お散歩には行けず。まあそれも仕方ないな。息子は梅雨に産まれたんだった。1年前の今日も、いつ降ってもおかしくないような雲に覆われていたことを思い出す。病院の窓から、そんな雲を眺めていたことを思い出す。記念の日の記憶というのは、そういうどうでもいいようなことが、脳に残っているというのが、ちょっと面白い。

0ć­ł

 ここ2ヶ月くらい、奥さんが「もうすぐ0歳ではなくなってしまう」と悲しげな顔で繰り返していた。僕は正直そこまでのことかと思っていたのだけれど、ここ数日、ああ、もう0歳ではなくなってしまうのかという実感に襲われていた。
 今朝、電話インタビュー取材があると奥さんが言うので、出社を遅めて昇太の世話係。ついでだから2km先にあるショッピングセンターまでお散歩した。本当の本当の、0歳時代最後の男同士二人旅だ。
 ショッピングセンターで昇太はそれなりにはしゃいでいた。おそらく明日もそう変わらずにはしゃぐのだろう。でも、その昇太はもう0歳ではない。何も違わないのだが、何かは確実に違う。0と1の差って、やっぱりスゴいのだ。
 まあとにかく、この1年よく頑張って生きてきたな昇太。明日からの1年は、昇太にとってのすべてではないのだが、今日までの1年は、昇太にとってのすべてだったわけで、そのすべてを、よく頑張った。頑張ったっていっても食べて寝てはしゃいで泣いての繰り返しだったんだが、でもまあ、体重も約3倍に増えてるし。やっぱすげえ頑張ったんだと思う。
 遅く出社した分、帰りも遅くなり、帰宅したら昇太は寝ていた。ああ、0歳の昇太よサヨウナラ。と思っていたら、寝苦しかったのか、泣きながら起きた。まだ寝ぼけ状態の昇太の背中をさすってあげましたボク。0歳最後の泣き声も愛おしかったよ。
 そんなことを書いているうちに、昇太の誕生日になっていた。でもまあ、生まれた午前7時41分までは、まだまだ昇太は0歳のままなんだということにしておこうと思う。

父の日

 6月16日が父の日。で、僕は朝から会社に向かう。日曜日だけれど、やらなきゃならないことはあるのだ。
 昨年の父の日は息子が生まれる直前で、だから今年は初めて自分が父となった父の日。その父の日に何かをもらえるというような段階ではなく、いつもと同じように早朝に睡眠たっぷりの息子に起こされる。そして今日どうしてもやっておかなきゃいけない仕事のために会社に。電車の中で「昼間のパパは光ってる、だぜ」とツイートした。そう思わなきゃやってられない。普段はパパなんて言葉は使わないのに、清志郎の歌詞だからそこはパパで。
 会社では届くはずの荷物が届かず。おかしいなと思って佐川急便のサイトを見て確認すると「10:38に不在でしたので持ち帰りました」という表示。おかしい。その時間には既に会社にいたのだ。そしてほぼ30分おきに不在票を確認しにいっていた。会社の入っているビルは休日だと1階のドアが閉まってしまう可能性があるからだ。でも今日は1階のギャラリーが営業しているようでドアは開いている。不在票ももちろん入っていない。佐川に電話して、大至急持ってこいとちょっと怒鳴る。やってきた担当ドライバーは「いつも日曜は閉まっているので、勝手な思い込みで配達しなかった」と。それで不在も入れてなかったと。なんだそりゃ。配達もせずに不在も入れずに会社には不在だったと報告する。これはもう詐欺だろ。と憤った。もう一度佐川に電話をして、会社としての正式な説明を求めた。それは月曜日に電話をしてもらうことに。
 ちょっと横道に逸れた。だがそれも父の日の出来事だから。
 で、会社を4時には退出し、出町柳へ。今日は叡山電車でイベントがあり、それに奥さんが参加することになっていたのだ。歌人の穂村弘がファンと一緒に電車に乗ってトークをするというなかなかユニークなイベントで、奥さんがファンだと知っていたので僕が「行ってきなよ」と奨めた。その間長男は僕が見る必要があるので、仕事を切り上げて2人に会いに出町柳へ。イベントに参加する奥さんと別れ、僕は長男を抱っこして帰宅。長男用のご飯を作って食べさせる。
 そんなこんなで、父の日はとても忙しかった。
 昨年の6月、僕はmixiに日記を書いた。友人まで公開設定の私的な日記だが、その中で僕は「あの子は、僕と奥さんへのプレゼントなのだ。我が家の父の日は、世間一般とは違う6月19日だった。来年以降も、我が家は6月19日が父の日でいいと思う。ま、父がプレゼントをもらうんじゃなくて、あげる側なんだけれどね。でも、もう一生分のプレゼントをもらったような気がしている。」と書いている。だからきっと僕にとっての父の日は3日後なのだろうと思う。そして今日の一般的父の日は、0歳の息子の世話をする機会をプレゼントしてもらったんだと勝手に解釈している。まあその説明も後付けでしかないんだけれども。
 さっき息子を寝かせつけた奥さんは一緒に寝てしまった。日々息子の世話で疲れているのだろう。僕はゆっくりビデオを見たりしながら、たいして内容のないブログなんかを書いて時間をつぶしている。

家族の助け合い

 家族は、助け合ってこそだと思う。それはひとつの美学であり美談であり、ある種の宗教的哲学のようなものであると思う。大切にしなければならない。そのことは結婚した時にも思ったし、息子が生まれて親となって一層強く思うようになった。自分には責任がある。そして結婚したり息子が生まれたりした時に真っ先に喜んでくれるのは家族だった。勝手に生きてきたように思っていた時期もあったが、自分は1人ではない。そうやって心配してくれていた人がいて、だから自分も家族を思わなければならないんだと、いや、思うのが当たり前なんだと思う。
 だが、それは社会制度とは別の話だ。家族がいる人は得をして、天涯孤独な人は孤独と不安の中で生きなければいけないのだとしたら、それは社会ではない。家族が貧しい人も家族が富裕な人も等しく教育を受けることができて、初めて国力は維持されるのだと思う。
 昨今、自民党が作成している憲法改正草案では「家族の助け合い」や「道徳」を書き込んであるそうだ。それは徳育の中で言われるのはいいが、法に書き込むのはおかしいと思う。逆に言えば、法に書き込まなければならないことなのか。それほどまでに家族は崩壊しているのか。
 これはしばらく話題になり続けている生活保護の問題にもつながる。要するに国は払いたくないのだ。税収が落ち込んでいるのだから、そりゃあ1円だって払いたくない。だから「不正受給」の話題をことさらに問題化し、不正受給を無くす方向に進んでいる。もちろん不正は良くない。だが、不正受給を無くすための努力が、結果的に不正ではない人たちの受給にまでブレーキをかけるようでは行き過ぎだ。そして実際にそういう状況になりつつあるらしい。
 生活保護を申請するには三親等までの親族の資産や収入がチェックされる可能性があるとの話。これはとても恐ろしいことだ。生活保護を申請するような事態というのは、様々な不義理を重ねてしまった結果だろう。そして追いつめられて生きていけなくなり、遂には申告するのである。その時に親族に知れ渡る可能性があるとしたら、不義理の上に不義理を重ねることになる。まともな人なら申請よりも餓死を選ぶ。実際にそういう例は報告されている。つまりこの国のセーフティーガードは家族愛という美名のもとに底辺の人を追いつめているのだと僕は思う。
 しかし生活保護への反発は大きい。最低賃金でまともに働くよりも生活保護受給の方が高収入になるということが大きな理由になっているようだが、それは最低賃金しか払わずにこき使っている雇用側の問題であって、受給者の問題ではない。また、仕事もせずに遊んでいて暮らせるなら誰も働かないじゃないかという理屈もある。だがそれも(特に若年層の)失業率が高く、今また更に「限定正社員制度」なるものまで登場しようとしている現状では「遊んでいるわけじゃない、仕事が無いんだよ」という叫びの方がリアルに聞こえてくる。
 それでも生活保護を「どうしても必要な人にだけ与える」ということで、三親等までの家族の収入をチェックするというのなら、それは要するに三親等までの家族は困難な家族の一員を支えるべきという思想なのだろうと思う。だったら、僕はその思想を国是として、年金にも適用すべきだと思う。年金は積み立てではない。現役世代の保険料と税金で引退世代を支える仕組みだ。生活保護が働いたり消費したりする人による税金で生活困窮者を支える仕組みなのであれば、基本的な構図は変わらない。だが、年金ではかなり贅沢出来るくらいの厚生年金をもらっている人たちがいる。厚生年金で海外旅行している人だって沢山いる。それは特段咎められることは無い。だが生活保護を受けてパチンコをしたり安酒を飲んだりするのは激しく糾弾される。子ども手当をもらってパチンコに行く親ももの凄く糾弾される。糾弾されるだけならまだしも、それを理由に精度そのものを否定される。
 単独では生活をすることが困難な人を三親等までの家族が支えることが国の思想の根本にあるべきなら、年金だって支給する前に三親等までの家族がその引退世代を支える能力があるのかを問われるべきである。家族に生活支援能力のある者がいれば、年金だって支給しなくてもいいということになる。だがそうはならない。なんかバランスがおかしい。
 僕は何も年金制度を廃止せよと言っているのではない。頑張って働いた人が老後を保障してもらうことが社会として維持可能なのであれば、それはとてもいいことだと思う。だったら、なぜその思想や制度が、生活困窮者やこれからの未来を担う子どもたちの教育に対しては適用されないのかということを言いたいのである。
 家族は、もちろん助け合えれば助け合った方がいい。家族とは、血だけの問題ではない。血をひとつの要因としながらも、お互い支えあうことによって家族は家族足りうるのだと思う。だが、それをすべての家族に対して強要するのは、それは社会ではない。それは単なる血縁関係のみによる集合体の無秩序な群れだ。社会とは、裕福な者も貧しい者も、知人が多い者も孤独な者も、それぞれある程度等しく生きていける基盤であり、制度であり、知恵である。家族ももちろんその制度を構成する一つの単位であるが、所詮一つの単位に過ぎない。そこに過度の義務を負わせるということは、別の単位の義務を軽減するということにつながる。それでバランスを取ることが出来る改正であればいいのだが、最近行われている制度改変は悪い方向に傾く改悪にしか見えない。

ビデオとアーチスト

 昨年の今頃だろうか。僕のレーベルからCDをリリースしたばかりのバンドのライブを四条烏丸辺りのライブハウスに観に行った。といってもただ観るのではない。ビデオを撮影してプロモーションに役立てようというのが最大の目的。楽しみに行ったのではなく、仕事で行ったのだ。
 で、撮影して帰る直前に挨拶。「後でYouTubeにアップしとくから」と言うと、「ちょっと待ってください。そんなにいいライブの出来ではなかったし、これは公開したくないです。イメージをコントロールしたいので」と。そう言われると無理にアップするわけにはいかない。ライブに行ったのも撮影をしたのも、100%ではないにせよ無駄になった。
 もちろんアーチストにはアーチストの方針があっていい。だがそれが周囲とのバランスをどう取るかが大切なんだと思う。忙しい中ライブに出かけて撮影したのにそれを使えないということになれば、次に労力をかけることには躊躇してしまう。僕もそれなりに忙しい。時間をかけるなら意味のある確率が高い方にかけたい。もっと手伝って欲しいと思うバンドは他にもいるのだから。
 まだ売れていないバンドが伸びるのかどうかは、もちろん第一義的には本人たちが奏でる音楽の質なのだが、それをどう広めていくのか、その上でどうやって周囲を巻き込んでいくのかということも非常に重要な要素になってくる。周囲を巻き込むというのは、自分たち以外に動いてくれる人を何人作る事ができるのかということである。ライブに来てくれるだけの友人も重要だし、スタッフとして動いてくれる人も重要だ。将来的には懸命にやってくれる所属事務所との連携という意味合いもあるし、報じてくれるメディアの人たちをどれだけシンパに出来るのかということにもつながってくる。
 そう考えた時に、彼らの「今回は公開したくない」というのは自分の首を絞めることにつながるだろうと思った。別になにも「オレのビデオ撮影の労力を無駄にしやがって」という私怨から言っているのではない。自分ですべてを管理&コントロールしたいという気持ちが強ければ、周囲を巻き込むことは不可能になってくるからだ。巻き込まれるというのは、当事者感覚になるということである。自分がやらなきゃ回らないという感覚にさせられれば、周囲を巻き込むことに成功したも同然だ。そうすべきときに「自分の思い通りにやりたいから」の一言で拒絶するのは、要するに「あなたは当事者として口を挟まないでくれ」ということである。それでは周囲は協力してくれない。もちろんアーチストがアーチストとして守らなければならないものはある。それがなければアートではない。だから絶対にそこは妥協してはいけない。しかしすべてを思い通りにしようとすると誰も協力してくれなくなる。その妥協すべきところと妥協すべきではないところをどこで峻別するのかが、結局は成功するかどうかを分けてくる、と僕は思う。
 かつてビクターに勤めていた時のことだ。なかなか知名度が上がらない女性4人バンドを売り出すため、担当者がプレイボーイのグラビアの話をまとめてきた。それが彼女たちに取ってプラスだったのかどうかはわからない。だが本人たちが一旦OKを出したのだ。だが、撮影する段取りまで組まれた段階でメンバーの1人からNGが出た。彼氏からダメ出しがあったとかなかったとか。担当者は集英社に平謝りだ。当然彼はもう彼女たちのために動くなんて気持ちにはなれないだろう。でも事態はそれだけで終わらなかった。ビクターとしてそのバンドのケアはしないことになった。事務所はどうだったかというと、他の所属バンドもあるのだ。そもそもの理不尽はバンド側の個人的な考えにある。ビクターとケンカするよりもバンドを干すという結論になった。メジャーデビューまでしていた人たちが、グラビアの話を途中で「いやだ」と言い出したことでその活動を終了することになってしまった。
 今ならメジャーを辞めても自分たちだけでインディーズで自主制作すればいいのかもしれない。だがそれはどこに所属するかという話ではなく、周囲をどれだけ巻き込めるのかという話である。集英社に掛け合ってなんとか露出を図ろうと頑張ってくれるようなスタッフを怒らせるようでは、小さなレベルでの周囲の協力も得られないだろうと思う。規模の大小ではない。身近な人たちとの共有ができるかどうかという話である。
 で、その僕の撮影を無駄にしたバンドは普通ならそこで終わりである。いや、バンドそのものがということではなく僕との関係がという意味で。だが、ほぼ1年を経過して彼らから連絡をしてきた。次のCDをリリースしたいと。会社に来てもらい、いろいろと話もした。そもそも彼らの音楽に対する評価は高かったし、それをなんとかしたいという気持ちも消えてはいなかった。なので前回の経緯なども話し、今後の計画なども大まかに話し、リリースをすることになった。それで先週ライブに行き、ビデオを撮って軽く編集を施して、今回はYouTubeにアップした。その映像がこれ。

 これは家庭用ビデオカメラ1台で撮影したものをFinal Cut Proで色調を加工し、AfterEffectで文字を重ねただけのもの。このアングルで撮影するためにはライブハウスのスピーカーのすぐ前に立つ必要があり、音声は割れて最悪になる。なのでCDの音声を重ねた。CDの音声だけだとライブっぽくないので、割れたライブ音声にリバーブをかけて重ねている。ここまで約1日。我ながらよくできたと自画自賛している。
 これが彼らにとってどういうクオリティなのか、アップする前に確認はとっていない。これで「ちょっとマズいッスよ」と言われるようならもうこれ以上付き合っていけないだろうと思う。もちろんこれが最上クオリティのビデオというつもりはない。いいビデオを作ろうと思えば何ランクも上のものを作ることは可能なはずだ。当然予算も天井知らずになっていくわけだが。まだまだこれからのバンドにそんな予算があるわけもなく、その予算を作るためにもこれから頑張って売れていかなければいけない。いいものを作るために、予算が必要なら、その予算を稼ぐために売れる。売れるということは音楽を作ることと関係ない汚いことという意見を言われることもあるが、僕はそうは思わない。さらにいいものを作るには、金だけではないけれども、金も必要になってくる。それを実現するために売れる必要があるのであって、それは純粋にいいものを作るために必要な要素なのだ。
 話が逸れてきたので戻すが、その後メンバーがTwitterで「1カメでここまで出来るとは」とつぶやいていたので、それなりに評価してもらったのだろう。評価されようがされまいが、僕は僕なりに僕の出来ることで動くことしか出来ないわけで、マイナスにさえならなければ多少のプラスとして評価してもらう以外にないんだろうと思う。それにこのビデオが本当につまらなくて足を引っ張るようなものでしかなかったならば、後から削除すればいいだけの話だし、そもそもバンドの致命傷になるほど一気に広まったりはどうせしないのである。
 ビデオは今のインディーズにとって非常に重要だ。音だけで聴かせるよりも映像付きで見せた方が印象に残りやすいし、興味が持続する。どこで聴かせるかということで考えても、myspaceやsoundcloudは音楽が好きな人は知っているが、普通の人には浸透していない。Twitterなどでリンクしても、知らないサイトにはなかなか飛んでいかないことを考えてもYouTubeの方が見てもらいやすいし、そこで音だけ流していてもすぐに消されてしまう。映像付きなら20秒くらいは見てもらえる可能性が高い。だから、ある意味何でもいいから映像が必要なのだ。写真をつなぐだけの映像でも構わない。ライブの映像があればもっといい。引きの動きがない映像よりは1カメでもいいから寄りの映像を入れた動きのある映像の方がいい。2台でいいので複数のカメラで撮影して切り替えながらの編集を施せばさらにいい。iPhoneのカメラ程度でもライブ以外の映像を加えてPVを作れればもっといい。数十万円以上の費用をかけて本格的なPVを作るのはその先で十分だ。
 ある海外のアーチストのビデオを先日偶然に見た。自分の家でいろいろな楽器を固定のカメラで撮影したものを編集したビデオだ。これがなかなか面白い。製作過程がとてもチープであることもすぐにわかる。でも面白い。それがこれ。

 予算がなくともこんなビデオは作れる。予算がないから作れないなどというのは言い訳に過ぎないと思う。
 
 前段で触れたバンドstunning under dogのことを、僕は非難しているのではない。むしろ逆だ。非難するのなら最初からビデオを作ったりはしない。むしろ、前作でコミュニケーションが途切れかけたところを自分たちの行動でリスタートさせ、なんとか前に進もうとしている姿勢がむしろ頼もしいとさえ思っている。普通なら1枚出しただけでフェードアウトしてしまう。最悪のケースなら「キラキラが何もしてくれなかった」と各地で悪口を言うことだってあるだろう。でも彼らはそうならず、再び関係を修復させた。確認しておきたいのだが、なにも僕はキラキラレコードに確実な未来があるなどと言っているのではないし、ウチとつながってないと絶対に売れないぞなどと言っているのでもない。他で成功する可能性は当然あるし、相性の問題も実際にある。だが、ウチとそういう感じでフェードアウトするということは、他所でも小さなことでスタッフを排除し、溝を作ってしまうということを繰り返す可能性が十分にあるということだ。仮に彼らがビッグスターになっていくとすれば、それはいずれインディーズの枠に収まらなくなり、他のところに所属するということでもある。だとすれば、今のうちにその点で脱皮しておく必要がある。それは普通は意外と難しいことだ。そうそう出来ることではない。だが彼らはそれを克服して今に至っている。そういう姿を目にするのは、いい音楽に出会うよりも稀だし、だからこそとても嬉しいことだ。今後の活躍を積極的に応援していきたいという気にさせられる。

歩くこと

 昨年末の健康診断でちょっと太り過ぎだと指摘され、ダイエットに取り組んだ。
 やると決めたらとことんやる性格だからか、かなり順調に痩せ、年末には84.5kgあった体重も今や75kgをちょっと切るほどになった。もちろん食事制限もしていて、それが最大の要因ではあるのだが、それ以外にウォーキングが重要だったと思っている。毎日会社に行く時に、約6kmの道のりを歩いている。正確に何歩なのかはわからないけれど、一歩を60cmだとすれば100歩で60m、1万歩で6000mだ。だから朝の片道だけで1万歩を歩いているといえる。これに帰宅時に最寄りの駅まで約2kmを歩く。1日8kmほどを歩き続けている。
 休日はどうかというと、これはバラバラだ。しかし最近は土日のいずれかを0歳の息子と男同士の二人旅と称して午前中から出かける。バスなどにも乗るが基本はベビーカーを押していろいろと回る。京都は見るところがたくさんあるのでどこに行っても結構楽しい。先日は家から銀閣寺方面をうろうろし、最後は電車に乗ったもののそれで約7.8kmの散歩。さらには一度帰宅してから、いくつかの寄り道をしながら四条堀川のライブハウスまで徒歩移動。それが9.2km。帰りはバス停まで約1km。都合18kmも歩いてしまった。
 歩数のカウントは出来ないくせになんでそんなに距離がわかるのかと言えば、RunkeeperというiPhoneのアプリを使っているからだ。GPSを使って、自分がどこを歩いたのかが地図上のルートとして表示される。だから距離も正確にカウントされるし、おまけに1kmごとのラップタイムも表示される。これがいい。僕は普通だと1kmを10分半から11分半のペースで歩いている。これを9分台にしようとするとかなりの早足になる。仮に1kmを10分のペースで歩いたとしたら1時間で6km。マラソンの42.195kmを歩くには7時間20分かかる計算になる。それを2時間チョイで走るマラソンランナーはすごいなとあらためて思う。いちどは1日かけて42.195kmを歩いてみようとか思ってもみるけれど、7時間を同じペースで歩くのは多分無理だろうから、結局10時間くらいはかかることになるのではないだろうか。とか思ったりする。
 会社まで約6kmの道のりは、そのほとんどが鴨川の土手だ。高野川を下り、出町柳デルタで飛び石を渡り、丸太町橋までの約6km。自然の移り変わりを肌で感じながらのウォーキングだ。悪くない。むしろ楽しい。なぜ行きだけ歩くのかというと、行きの方が楽だからだ。仕事を終えて疲れているところで歩くのは大変だという意味もあるけれども、実際には高低差があるからだ。なだらかで平坦に見える川岸の道だが、川が流れるということは高低差があるということだ。確認はしていないが、知人の話によると京都駅付近と北山通りでは京都タワーよりも高低差があるそうだ。俄には信じられないし、実際僕もまだ信じてはいないのだが、川が流れる以上高低差は絶対にある。そこを上るよりは下る方が楽なのは間違いない。だから毎朝歩くことにしているのである。
 川にはいつも鳥がいる。鳥は川の上を飛ぶから、川岸にいる僕らはその姿を上から見ることができる。そういうのは京都に来るまでに見た覚えが無い。そもそも鳩とカラス以外の鳥を見る機会はほとんど無かった。なのに鴨が土手の道を歩いたりしている。普通のことだ。だがその普通のことを僕はほとんど知らずに生きてきた。先日は川に鹿がいた。奈良公園にいる、あの鹿だ。川の中で水浴びしたり、草を食ったりしていた。上流の山から紛れてきたのだろうか。ここが都会であるとは俄に信じ難いほどだ。
 草花もいろんな種類が時間差で咲いてくれる。桜と紅葉だけではないことを住むようになって初めて理解した。普通の人が普通に歩くところに、桃の木や枇杷の木があって、普通に実を付ける。今は枇杷が黄色い実をたわわに付けている。そういうのを眺めながらのウォーキングだから、楽しくないはずがない。だから続くのだと思う。東京にいた頃のウォーキングにはもう少し悲壮感があった。今は無い。確かに京都の夏は暑いし、汗をダラダラかきながら歩くのは少々しんどい。でもそれも季節を感じる一つの装置であって、それさえ楽しみながら、歩いているというのが本当のところだ。
 歩くことで、健康はすっかり取り戻した。心の栄養もたっぷり取れているという気がする。そして交通費が少し削減出来たという効用もあって、懐にもちょっとだけ嬉しい結果になっているのである。