こういうタイトルにすると並列に並べるなって怒られそうだな。でもまあ片方が敬称で片方が呼び捨てだから良しとしよう。
さて、最初に断っておくが、別に山本太郎を支持しているわけではない。そのことをまず理解してもらえればと思う。まあ理解されなくともいいけど。
今回のことはTwitterのTLで知った。山本太郎への一斉のバッシング。なにがあったんだと思ったが、仕事の真っ最中だったことと、帰宅して日本シリーズに熱中したり息子を風呂に入れたりと大変だったし、このブログをWordPressを使ったものに引越し作業しなきゃいけなかったりで、とても調べる暇はなかった。報ステでも長嶋さんと三浦さんは取り上げられてたけれど山本は取り上げられてなかったし。まあ僕の中での関心度はその程度のものだった。
どうやら園遊会で山本太郎が天皇陛下に手紙を渡したらしい。原発事故にまつわるあれやこれやについて陛下に知ってもらいたいと。手紙の内容など確認する術もないので憶測報道を参照するしかないが、まあ山本太郎が渡すのだからおおよそそういう内容で間違いないのだろう。その行為について「不敬だ」「天皇陛下を政治利用するなんて許せない」という反応がTLにずらりと。僕のTLにはバリバリの右翼の人からバリバリの左翼の人までまんべんなくいるので、日頃の出来事については両方の視点と意見が並んでいてとても参考になるのだが、この件については右の人も左の人も、体制側の人も反体制側の人もそろって「けしからん」と言っていた。これがちょっと怖いなという気がしたのである。
何度も繰り返すが、山本太郎を賞賛する気も擁護する気も無い。そうではなく、今回のことへのかなりの人の反応が一様過ぎて、怖いし、警鐘を鳴らす必要があると、そういう気持ちである。僕のブログ(しかも引越ししてろくにRSS登録もされていないだろうブログ)ごときで警鐘などチャンチャラおかしいのは承知の上で。
まず、山本太郎の行為はどうしてNGなのだろうか。「陛下に直訴など畏れ多い」なのか。それは本当に真っ当なのか。じゃあその理由で山本太郎を批判している人は、水戸黄門で黄門さまに直訴するシーンなどを見て「平民が直訴などけしからん」と憤るのか。ドラマの中で直訴した平民がその場で斬り殺されることが正義だと考えているのか。もちろんルールというものはある。だがそのルールが正しく機能していないと感じている人も多く、山本太郎などはそういう思いで政治活動をし、そういう感性と活動に共感する人が票を投じて今に至っている。ルールに則れば、彼の政治行動などは国会の中で抹殺ですよ。だから奇策を用いたいという気持ちはわかる。それが水戸黄門の中の平民の直訴と通じる何かがあるように思う。
次に「陛下を政治利用しようとしている」からNGなのか。確かに国会議員が天皇陛下に直訴するなんてナンセンスだと思う。彼が国会で孤立無援状態で、その奇策として天皇陛下に手紙を渡すことによって虎の威を借る狐ならぬ、陛下の威を借る山本を演じようということなのだとしたらまったくナンセンスだ。僕はそうではないだろうという気がしている。というかそこまで彼が考えているとも思えず、単純な思い付きでとった行動だろう。陛下を政治利用したくとも政治的な権限はないし、何も出来ないのだ。だから、彼を「陛下を政治利用しようとしている」と非難することも同程度にナンセンスなことだと思う。
陛下は山本太郎のことを知っているのだろうか。おそらく知っている。陛下はかなり情報に明るい。山本太郎がどのような活動をしているのかについてもそれなりに知っていると考える方が妥当だし、それ以上に陛下自身が地震と津波、原発事故のことに対して思いを馳せているのは想像に難くない。それでも陛下が自ら動いたり指図することはもちろん、意見を言うことさえ簡単ではない。先日水俣病患者の人たちと事件以来初めて会ってお言葉をかけられた。おそらくずっと憂慮されていただろう。福島のことを案じているのは山本太郎だけではなく、だから、「知ってもらいたくて手紙を渡した」ということがどれほどナンセンスなことなのかと、僕は思う。
では、山本太郎に対して「陛下を政治利用しようとしている」と非難することは正しいのだろうか。
基本的な感想として、山本太郎は反原発の急先鋒として活動している以上、多くの敵を作ってしまっている。そしてその敵は何かあれば山本太郎を失脚させたいと考えている。その場合に用いる手法のひとつとして、人格破壊というものがある。小沢一郎に対してもその攻撃は行なわれた。献金問題(検察が不起訴とし、裁判でも無罪が確定している事案)や、愛人騒動、離婚問題など、政治家の本質とは関係ない事柄や無実の罪を騒ぐことで「あの人は悪い人」というレッテルを国民に定着させるという攻撃手法だ。バリエーションは違えども、今回の騒動も同様の攻撃だと僕は感じている。
何度も繰り返すが、山本太郎のことを支持しているわけではない。そして、彼を憎く思う人がいて、その人たちがあらん限りの攻撃をしようとしていることも理解している。攻撃すべしということではなく、攻撃をしたいと思う人はするものだということへの理解として。だから、攻撃があることも織り込み済みで国民は見るべきだと思うし、山本太郎自身も攻撃されることを覚悟しながら活動しているはずだ。
で、問題なのは結局何かというと、多くの普通の国民が、産經新聞あたりの論説に乗せられているのか、一斉に山本太郎批判に加担しているのが怖いなということである。その批判の殆どが「天皇陛下を政治利用している」「不敬である」「常識の欠片もないバカ」などというもの。
よく考えてみよう。彼が天皇陛下に手紙を渡したところで彼の政治的な目的は1mmも前進しない。彼の気持ちの中で「天皇陛下に手紙渡したぞ〜」という達成感があるだけだ。天皇陛下が水戸黄門のように国会や東電に乗り出して「この印籠が眼に入らぬか〜」と言うのか。言うのなら政治的に利用といえるだろう。だがそんなことは99.99%以上有り得ない。だとしたら「政治利用している」と非難することは大いなる的外れと言わざるを得ない。
だが一方で「陛下を政治利用している」と糾弾することによって、山本太郎を快く思わない人たちの政治的目的はかなり前進するのだ。山本太郎を人格破壊することが出来る。それで支持率を落とせればいいのだから。このことの方が「天皇陛下の政治利用」なのではないかと僕は思っている。だから安易に「陛下に対して不敬だ」などと言うのは、平民の僕ごときでも慎まなければならないと思うのだ。
戦前の天皇の権威というのはものすごかった。それに比べると今の天皇は制度上も政治的な権限など持っていないわけだが、それでも今回の例でわかるように国民は陛下をものすごく敬っている。その感情を利用することこそ、陛下の利用そのものだと僕は思うのだ。
戦前に軍部が天皇陛下の威光のもと戦争を押し進めた。それに対して国民も政治家も逆らえなかった。それは陛下への不忠に当たるからだ。歴史を見ても形式的とはいえ天皇というのは権威そのもの、正しさの理由そのものである。隆盛を極めた平清盛も天皇を利用することで勢力を拡大したし、幕末の薩長も錦の御旗を掲げることで徳川勢を威圧した。いってみれば今回の山本太郎の行動もそれに近い奇策だったのかもしれない。そのことは批判されて然るべきだし愚かな行為だったといえるが、同様に山本太郎を批判している人たちも天皇陛下を利用しているだけなのではないか。そのことに気付かずに山本批判の舌鋒を鋭くさせることは、結局山本太郎と同じことをやっているのだと自覚すべきである。山本太郎もよく考えずに手紙を渡すという行為に及んだ。彼の心の中には天皇陛下は特別なものであるという価値判断が無自覚の中に存在していたに違いない。そのことを非難する多くの人たちの心の中にも、天皇陛下は特別なものであるという価値判断が無自覚の中に存在している。そしてそのことを理由に山本太郎を批判することは、自分も同じことをやっているのであって、そのことに気がつかなければ、結局戦前の軍部が天皇陛下の威光を盾に戦争を(というより自己の権限伸張を)押し進めていったことへ多くの国民が無意識に加担していったことを批判出来ないどころか、そのうちに同じ過ちを自分たちも犯してしまうだろう。
無意識に天皇を敬うことは別に悪いことではない。だが、天皇を敬う側の装いで権威を利用する人が確実にいる。そのことに気がつかなければ、その人たちの天皇陛下の権威利用に加担することになってしまう。そしてやがて大日本帝国万歳なんてことを平気で口にしてしまうようになるのである。そんなことを、今回の一件で強く感じたし、不安な気分にさせられた。