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その時に手が届く

 アーチストの訃報を知る。その人の歌は美しく、つかみ所がない。musiplでもレビューを書いていただいたことのある人のレコードショップでジャケ買いしたCDで初めて聴いた。ジャケ買いというより、バンド名買いという方が正しいだろう。

 その人の訃報に際したのだろうと思われるレビュー原稿を、別のレビュアーの人からいただく。世間は狭い、というか、つながっているのだなあという気持ちになる。圧倒的多数は知らないかもしれないその人たちの、歌声は聴いたことがあると言うかもしれない人は結構いるだろうが、歌声しか知らないのであれば訃報が巡ってきても目には留まらない。留まる人だけがここに集っているのかも知らんと、そんな狭さ。

 その訃報を聞いて、音楽を聴いてみようと思ってCDを棚に探すのだけれど、案の定棚で発見されることはなく、数日経った今もまだ彼女たちの歌を聴くことは出来ていない。配信ならそんなことはなかったのだろうと思う。データはいいよな。CDという板に記録されているものは板が無くなれば聴くことは出来ない。クラウドに浮遊していつだってどこからだって検索でGOみたいなわけにはいかない。CDは不便だ。

 実際にはそのCDのデータも僕のiTunesには入っている。クリックを数回すれば聴くことは出来る。出来るのだ。

 でも、僕はそのクリックをしてはいない。訃報があって思い出し、CDが棚に発見出来ないということは、彼女たちの存在は僕にとってその程度のものでしかないということでもある。日頃「有名人が死んだからといってその時に思い出してももう遅いよ。生きているうちに愛でておけ」という主張をしているが、要するにすぐにCDが出てこない程度の距離感なんだよと。お前は訃報を耳にしなければ「聴こう」と思ったのかと。いや、思っていない。だからその程度なのだ。

 CDは不便だ。だが、距離感を僕に知らせてくれる。配信のようにゆるゆるでぬるぬるなねじれた距離感ではなく、明確に自分と音楽との距離を示してくれる。

 愛するというのはそういうことだ。だから、もはやCDが棚に見つからなかった音楽を、どうにかして聴こうなんて思うことが間違いなのだ。その間違いを犯してしまったら、僕は有名人の訃報にSNSでお悔やみを申し上げ、翌日にはもう忘れてしまうような人になってしまうと思う。だから、今はクリックして聴くなんてことはやめておこうと心に誓う。

 誓っているところに届いたレビューの原稿。それは「でも、聴いてみろよ」と言ってくれているようなものだったのだろうと思う。皆さんもよかったらmusipl.comで聴いてみてください。来週月曜日、4月13日の正午に musipl.com にてレビューと動画を公開しますので。

雨の日曜日

朝から雨が降っている。

朝から軽くひと仕事を終え、家族が起きてきて朝食。奥さんは久しぶりに美容院に出かけ、小さな息子と留守番。昨日来少しばかり咳をしている息子にとっては雨で出かけられないのもちょうどいい。二人きりの室内で、僕は乾き終えた洗濯物をたたみ、再び洗濯機を回したりしつつ、基本的には延々と息子の鼻水を拭くのに追われている。実際は僕が息子を追いかけているのだが。

合間をみてスマホでFacebookを眺めていると、友人が1人で京都の桜を眺め歩いている。いいなあと思う。住みながらもそういう時間はなかなか取れない。息子を保育園に送りつつ桜並木を通ったり、通勤途中に少しだけ立ち寄ったりはするものの、1日ひとりで散策するのはいろいろな意味で難しい。

そういえばそんなFacebookで、知り合いの息子さんが卒業して家を出て行かれたと知る。悲しみで涙が止まらないという。失踪などではなく就職による自立なので基本的にはめでたい門出だが、あの時あれも出来たはず、これもしてやれたはずと、叶うことならもう一度この子を育てたいと。無論それは叶わぬ相談だが、その気持ちはよくわかる。いや、正確にはわかるはずもない。だが、その人がコメントのやりとりで「その時はあっという間に来ますよ、自分がそうだった」と返してきたのを見て、そういえば息子が誕生したのは本当に昨日のことのようで、今までに僕に何ができたのか、自問すると答えがない。おそらくは今日のように鼻水を拭いて回るようなことばかりやってきたのだろう。そしてこれからも鼻水を拭いて回るようなことを繰り返すのだろう。鼻水を拭きながら、昨日は長くこの子を外で連れ回しすぎた、もうちょっと早く帰宅して昼寝させておけば良かったなどと、考えては叶わぬことを思い巡らすのだろう。そんな程度の日々で、20年という歳月は簡単に過ぎていくのだろう。外ではしゃぐ小さなな生命を早く連れ帰るなどは現実にはほとんど不可能だと解っていたとしても。

そうしてある日気がついたら、友人のようにカメラを抱えて京都の桜を追いかけていたりするのだろうか。そんな時間は羨ましくもあり。だが友人には小さな人を自転車に乗せて四苦八苦してる僕を羨ましく感じることも多少はあろう。幸せというのは一定ではなく、同じ瞬間に二つを同時に手にすることは出来ない。今ある何かを手離さなければ、別の何かを獲得することはない。いや、今ある何かを手離せば別の何かが転がり込んでくる保証などまったくないのだけれども。

美容院から奥さんが戻ってきて、簡単な昼食を作ってくれて腹が膨れた。息子はその奥さん(お母さん)に添い寝をしてもらい、2人で午睡している。雨の中部屋に閉ざされているというのも、あながち悪い光景ではない。

ああっ、洗濯物を干さなくちゃ。忘れてた忘れてた。スマホでブログ書いてる場合じゃなかったんだった。

お弁当

 通常は給食が出る息子の保育園、昨日から年度替わりのなんとやら(?)で、3日間だけお弁当だ。慣れないことで、先週末に急遽お弁当箱を買いに行き、2歳9ヶ月くらいにちょうどいいお弁当箱って意外にないんだなということを知る。子供用品のお店に行かなかったからかもしれないが、じゃあ今の息子にジャストサイズを買ったら、来年はもう使えないかもしれない。そんなわけでちょっと大きめかなというお弁当箱になり、フタにムーミンの絵が描いてあるそれを息子も甚く気に入り、お父さんはかなり満足。

 んで、昨日朝から奥さんは息子のお弁当作りに張り切っていたわけだが、箱のサイズに合わせてごはん入れたら、お迎えに行った時に「おとうさん、いつもあのくらい食べてます?」と質問された。要するに他の子と比べても量が多かったのだそうだ。先生が「このくらいにしとこうか」と言うと息子は「食べる!」と宣言して全部食べたそうで、まあ身体も大きい方だからあのくらい食べるのかということだったそうだが、それにしても一度確認しておこうということだったのだろう。

 そういうわけで、今日のお弁当はおかずの量はさほど変えず、お米の量を減らし気味にしていたようだ。それで足りなかったらまた考えるとして。

 で、お弁当を持たせた経験の無い立場としてはどんなお弁当がいいのかが皆目見当もつかず、それでそのようなことになったわけで、仮に他のお家が持たせているお弁当を見せてもらうことができたなら、量についてもいろいろと参考に出来たのかもしれない。

 だが、見たらいいのかというと、そうでもないという気がする。給食ならいざ知らず、お弁当なのだから、親が子供と日頃接して、この食材をこのくらいという見当をつけて作ればいいはずで、他の家庭のお弁当を見てそれに合わせるということになったら、いったい何がスタンダードなのかという問題が生じる。単に量だけの話ではなくて、一説にはお弁当が基本の幼稚園ではすでにキャラ弁でなければダメ的な状況も生まれているとも聞く。おともだちの○○ちゃんがキャラ弁なら、僕もキャラ弁にして欲しいと言い出すのも無理は無く、それがお母さん同士の競争意識にも火をつけ、激しいキャラ弁競争が激化するとか。

 いやはや、面倒ですなあ。

 お弁当程度であればまだしも、それは結局子供の進学などでも言えることで、どこそこに合格したとかいうのって、結局ウチのキャラ弁が一番スゴい的な話と然程変わらないというか、子供の将来よりも親の自己満足ポイントの割合が多そうにも思える。いやまだ経験していないからあくまで憶測、妄想に過ぎないんだけれども。

 その結果、競争することや比較することが幼少期から刷り込まれて、将来仮にいい学歴を得たとしても、今度はその学歴こそが自分の最高のアイデンティティとなったりもする。その学校で学んだことを活かしてさらに自分のキャリアを発展させるのはいいのだけれども、過去の栄光にしがみついて、今努力している人に対しても「オレより学歴低いから」などと見下すようになってしまったら、もう目も当てられない。

 そんな風にならないようにするにはどうすればいいのだろうと日々考えるけれども、なかなか答えは見つからず。現実としてはせいぜい保育園の先生に「多過ぎじゃないですか」とか「ちょっと少なかったように思います」とか言われない程度の気を遣うことで精一杯だ。ま、息子はお弁当もお弁当箱もたいそう気に入っていて、今朝の登園時も「お弁当持って行く?お弁当は?」とさんざん言っていた。だから、お弁当の内容についてはもうこれでいいんだろうと思っている。ただ、懸念としては、そのお弁当も今週いっぱい、つまり明日持って行けばとりあえず終了なのである。来週登園する時にも息子は「お弁当持った?お弁当は?」と聞くのではないだろうか。そして持ってないことを知ると落胆するのではないだろうか。だとしたらちょっとだけ可哀想だなと。まあ給食あるので腹減ったりはしないで済むのだろうが。

京都の桜

 京都、まだ桜は咲いていません。

 厳密に言うとそこここに桜は咲いていて、とくに枝垂れ桜は京都御苑でも有栖川邸でも満開の様子。だが僕にとっては高野川の修学院から出町柳までの土手に咲く桜並木こそが京都の桜で、それはまだ咲いていないということ。ソメイヨシノなんですけど。

 でも、まだ咲いていないものの蕾はすでに割れていて、いつ咲いてもおかしくないくらい。明日の雨のうちに咲いちゃうのかな。わからないけれども。そんな開花寸前の花の蕾をたたえた桜の木は、遠目に見るとワインレッドのような色気を放っている。その光景は「ああ、もうすぐ咲くな、咲くんだな」という期待を持たせるし、春の到来を心待ちにさせてくれる。こういう気分は東京ではついぞ感じたことがなかった。桜は、それなりにあるのだ。でもなかなかそんなことを感じない。感じる余裕がなかったのか。花が咲いてこその桜であって、咲いていない蕾に何かを感じるということが、まずなかった。

 ひとつには、京都には桜ももちろんだがそれ以外の花がいたるところにあるということが大きいのだろう。しかもそれは大自然が横たわった中の花ではなくて、手入れされた箱庭に周到に配置されたような花。京都の寺には名庭園がたくさんあって、そこはただあるがままの自然を愛でるのではなく、季節ごとに季節を楽しめるように考えられて樹々や岩に苔が配されている。それを見て「見事だなあ」とずっと思っていたけれど、どうやらそれはまだ序の口らしい。京都では街全体が庭園のようで、普通の街中であっても季節を楽しめるように樹々が配されている。そうとしか思えない。だから、春にはまず梅が咲く。そこここで梅の花を見る。見ないで街を行き来できないくらいの巧みさだ。梅が咲いたかと思うと雪柳が咲く。そして桜。それが終われば山吹が咲き、錦糸梅が咲いていく。こういうのが巧みに配されていて、しかも春だけじゃなくて年中。花を目にする機会が続けばそれが季節そのものだということにも気づくし、次は何かと興味も湧く。で、やっぱりそれでも桜と紅葉は京都の二大お目当て植物で、こちらもちょっとだけそわそわする。

 紅葉については青もみじという言葉もあって、要するに赤くなったときのもみじよりも地元の人は新緑のもみじの方が好きだとか何とか。いや、僕ももみじの名所東福寺には初夏に文庫本を持って行って数時間読書をするというのが一番の楽しみだったりするのだけれども、それでも赤い東福寺は別格だと思う。初夏の青もみじの頃の東福寺は、人が少ないからいいということもあったりするし。赤いもみじを観に行ってまだ緑のままだとちょっとガッカリしてしまう。

 しかし今年、まだ咲いていない桜を見ても、ガッカリ感などまったくなくて、むしろワクワク感が高揚していくのが自分でも判る。ああ、春を待っているんだ自分はと、寒かった冬ももう終わろうとしているなと、そんな気分が自分を盛り上げる。そういうのが楽しみなんだと、実は今年始めて感じた驚きでもあった。

 これは、箱庭のような京都に暮らすことで開発された自分の感性なんだろうと思う。だからこれを年に1度、2〜3ヶ月前に開花時期を予測してホテルの予約を取り(あ、今の時期週末、直前に京都のホテルを取ろうと思ってもかなり難しいです。どうしてもの場合は大阪のホテルをとって片道1時間の阪急電車で京都に来るのがベストでしょう)、満開の桜を期待している人に無理矢理押し付けて「桜は咲く前の蕾を見よ」などと言うつもりはまったく無いけど、まあ不幸にして予測が早過ぎて京都に来ても全然咲いてなかったとしても、まあそういう蕾を愛でる楽しみもあるんだと思ってもらえればなあと。

 まあそんな感じです。土曜の夜は文章がまとまりません。眠いなちょっと。

他人を叩くということ。

叩かれる人はそれだけ価値があるのだと自信を持っていい。これは常日頃肝に命じている信念だ。だって考えてもみてくれ。価値の無いものを叩くモチベーションなどないじゃないか。

そう考えると、やはり小沢一郎と鳩山由紀夫のコンビとは価値があったのだなと改めて感じる。彼らなど、政権を追い落とされてもなお叩かれる。今も叩かれている。彼らに復権されたら困る人にとっては今も亡霊のようなものであり、寝しなにうなされそうなトラウマがあるのかもしれない。

安倍晋三政権に対してはかなりの危機感を持つし、なんとか致命傷になる前に打倒できないものかと思うが、それもアレが一面では価値を持った政権ということの証拠かもしれない。小沢鳩山による政治は、ある人にとってはなんとしても推進すべきひとつの理想だったが、それは別の立場の人には実現などしてはならぬ悪夢そのものだったのだろう。それは安倍晋三の政治が、ある人にとってはなんとしても推進すべきひとつの理想だが、それは別の立場の人には実現などしてはならぬ悪夢そのものだということと、形式上は相似の関係であるように。そういう意味では両方の政治にはある種の理念があるということなのだろうと思う。ただ、小沢鳩山の理念は(政治手法という意味ではなく)他者を攻撃しないことにベースがあり、安倍晋三の理念は他者を攻撃することにベースがあるという決定的な違いはあるけれど。その結果、小沢鳩山ともに反勢力から徹底的な攻撃を受けた。一方安倍晋三は攻撃ともいえない状態の反勢力を未然に徹底的な攻撃を加える。これでは闘いにならないとつくづく思う。

さて、叩かれる人は価値のある人だということを考えているが、最近はちょっとそれだけでは説明がつかないことも多いなと感じている。事件が起きると被害者や被害者家族がかなりの勢いで叩かれている。これをどう説明すればいいのか。

ブルーハーツの歌の中に「弱い者がさらに弱い者を叩く」という歌詞がある。うん、これだと思う。叩く必要もない誰かを叩くモチベーションは、それを叩くことで自分のなにかを保全しようということなのかもしれない。保全したいものとは、極言すれば小さなプライドだ。叩くことで、自分はもっとマシなのだと境界線を引く。

古い日本の身分制度に士農工商というものがあり、その下に被差別階級を置いていた。それは公式な身分であったか非公式なものだったのかは知らないが、非公式であれ、抑圧された誰かが自分が最下層ではないと安堵するために他者をさらに下層に位置づけることで心の平安を保とうとするのは、その是非は別としてモチベーションの成立要因になり得る。決して江戸時代の特殊なことではなく、今この瞬間の日本においても普遍的に潜在する人間の負の部分だろう。特別弱い人にだけ起こる特殊なものではなく、自分自身にも容易に沸き起こる可能性のある悪として認識することが必要だ。そしてそういう誰にも起こり得る人間の弱い何かを政治的に利用することで自分の立場を保全しようという向きもある。これは本当に悪い人間の行いと言って間違いないだろう。なぜならそれは理解の上での意図的行為だからだ。

しかし、残念なことに日本の社会全体がそのような落とし穴に堕していっているように感じられて仕方がない。経済など困窮したところで、その精神の部分が自立していれば、まだまだ未来はあると思う。しかしたとえ経済が繁栄しても、精神の部分が堕してしまえば、その社会は餓鬼の住む修羅の世界にしかすぎない。

どちらの世界がいいのか。政治の選択とは畢竟そこに尽きる。無論簡単な選択ではない。単純な選択肢が与えられているわけでもなんでもない。百手先の詰将棋を解けと言われてるようなもので、まともに向き合えば疲弊してしまう。だが、向き合わない限り堕してしまうのは必然であり、望まない世界に息を潜めて暮らすことになってしまうのだろう。

弱い者を叩く行為は、自らが弱いということを宣言しているようなものだ。そんなことをしていないのかと、あらためて自問自答すべきだろう。誰もが。それはつまり、僕自身もそうではないのかという自省の意味も含めて。

土曜お出かけ

 息子と奥さんと、まあようするに家族でお出かけ。まず、息子はバスに乗りたいのだという。で、神社に行きたいのだという。あと、10階に行きたいのだと。住んでいるのはマンションの5階で、いちばん高いのが7階だ。なのに保育園から帰るとき「10階にあがる」と主張する。部屋の壁に貼ってあるアイウエオ表の下に数字が1から10まで書いてあって、彼の中では10が最強の数字のようだ。いや、風呂に入っては僕が100まで数えるというのを延々とやっているので100までは(一緒になら)数えられるし、京都市内を走るバスの番号は208まで言える。でも、アイウエオ表にある10がなぜか最強。ということで、10階にあがりたいのだそうだ。

 しかしマンションではどう足掻いても7階が限度。なので休日にデパートにでも行こうと。で、昼前くらいからバスに乗っておでかけ。河原町三条で降りて歩きはじめるが、息子の機嫌が悪くなる。たくさんのバスに乗りたいとか言ってた割には「おうち帰る」と言いだす。でも帰るわけにはいかないよ。来たばかりだし。それにこのおでかけには外食がしたいという奥さんの目的もあるわけで、せめてお昼ご飯を食べてからでないと。

 ということで、堺町錦まで行こうと思っていた予定を急遽変更し三条でメシを。すると息子の機嫌も血色も別人のようになる。メシって大事だな。

 寺町通を通って錦まで。そこから錦市場を通って大丸まで行くのだが、錦市場に入ったところで15.5kgの息子を抱っこ。もはやある種の罰ゲーム的な感じにもなってきたな。んでなんとか大丸についたら、なんと大丸は8階建てらしい…。まあ仕方なく8階まで。と思ったけれども6階の子供用品売り場に。100均のブロックしかウチには無いので、そろそろレゴを買ってやろうかな、幾らくらいするのかな。見てみるとオーソドックスなやつは2000円くらいから8000円くらいまで。要するに入っている個数が違うのだけれども、2000円のはやはり少ないなという印象だ。ブロックはたくさんあればあるほど自由度が増すわけで、遊びも複雑なことにトライ出来る。なのでいちばん高いやつを買わなきゃな。でも今はちょっと買えないな。スマン息子、誕生日まで待っておくれ。まあレゴにこだわっているのは父親だけであって、息子本人はパトカーのハンドルを回すという単純なおもちゃにはまりまくり。それ買ってって言われないように細心の注意を払ったですよ。

 そこから四条通に出て、一日券を買ったので来たバスに乗る。46番バスは祗園から岡崎に向かうコース。祗園で一旦降りて202番バスに乗り換える。熊野で降りて熊野神社に行く。そして65番バスに乗って帰宅。もうちょっとたくさんのバスに乗せてあげたかったけど、奥さんがバス酔いみたいな感じになってたので、そろそろ潮時かなと。息子、65番バスの中で熟睡。そして帰宅しても熟睡。まったく起きません。晩ご飯も食べてないので、明朝はかなり早起きするんだろうなあ。

 そして明日はどこに行こうかなあ。奥さんからは「今日は疲れているんだから、明日も無理したりしたらダメ」と釘を刺される。泣く子と地頭よりも奥さんには勝てないので、一日中部屋の中で遊ぶというのもいいかな、と思ってる。

ありがとうの花

 つい先日旧い友人がネット上で母親の死を報告していた。意識混濁する病床の母の手を握りながら、おかあさんありがとうと口にしていたと。最期の数年は介護に明け暮れ、息子にありがとうと繰り返す母に感謝されて当然と思いながらもありがとうと口にすることはなかったと。それを悔いていた。看護士に「意識は無くとも言葉は聴こえてる」と言われ、それを頼りに感謝を口にしていたと。

 同様のことは僕の父が亡くなる時にも聞いた。死ぬその瞬間まで耳は聴こえていると。だが、それでは遅いのだね。神の存在や死後の世界を信じるのならば、近親の死者は死後も側にいてくれて僕らのことを見守ってくれている。だから死ぬ瞬間に感謝の言葉を物理的に聴かせることに意味は無く、死んだ後も仏壇に手をあわせて声をかければいい。でもそれではやはり遅いのだ。感謝は、聴こえている間ではなく聞こえている間に言っておかなければ。

 では、言えるのか。母親にありがとうと言えるのか。唐突に言えばなんのことやらと驚かれる。そういう気持ちがあるから平素からその言葉を口にするのは難しい。旧い友人の文章に接して、明日は言おうと思って数日が経つが、やはりちゃんと言う糸口さえ見つからない。きっとずっとそうだろう。

 これが誕生日や母の日であれば言うことができる。言うことが当たり前というムードが前提にあるからだ。言ってみればそれは銭湯で何の躊躇無く服を脱げるのと同じこと。それをしてもいいというコンセンサスがあって、行動は容易になる。それは、感謝なのか。ベルトコンベアに乗って移動していることと自らの足で歩くことは根本的に違う。たとえ移動の方向と目的地とスピードは同じであったとしても。着地点で同じになれば満足なのか。ありがとうと言えたのか。それはよくわからない。

 朝息子と教育テレビを見ている。おかあさんといっしょでは「ありがとうの花」という歌が流れていた。いい歌だ。大好きだ。その歌では、ありがとうの言葉が飛んでいってあなたの街にも届くよ、ありがとうがひろがるよと、メッセージを届けている。ありがとうは、こちらが言えば相手も言ってくれる。そうして言った相手の心も優しくさせることができる。そういう意味でやはり素晴らしい言葉だ。で、誰かに言われておうむ返しのように口にすることと、自分がその端緒を切ることと、同じなのだろうか。別のことなのだろうか。

 よく言われるのが、英語人は感情表現を頻繁にするということだ。Thank youと日常的に口にすると。日本人が「ありがとうは言えないけれどThank youなら言える。愛してるは言えないけれどI love youなら言える」とよく言う。だがそれは本当なのだろうか。言葉が違えばそこに込められる意味も深さも違ってくる。一般的な日本人なら英語のニュアンスなどほとんど判らない。わからない言葉を口にするのは意味など込めてないということでもある。リュブリューとか口にしたところでほとんどの人は何を言っているのかも言われているのかもわからない。それでは愛など伝わらないだろう。

 英語の人が感情をオーバーアクションを加えながら表現することと、日本の人が感情をほとんど表現しないということは、文化の違いと一言で片付けていいのか、そこには実は疑問を持っている。言葉が文化や認識を作るということは事実だと思う。日本人はおにいさんおねえさんと上下を明確に区別するし、区別しない言い方を持たない。だが英語ではbrotherやsisterでしかなく、無理に区別するための表現はあるけれども、基本的にはそこに上下の意識が生まれにくい構造がある。それを文化と呼ぶのか、明確な区別をする言語が深くて繊細と言うべきなのか、それは人によって意見も分かれるだろう。だが、その言葉が喋る人の意識に深く影響を与えるのは間違いないだろう。

 では感謝の言葉を言えるのか言えないのかというのは単に言語だけの話なのだろうか。思うに、信仰を生活の基盤に置く人たちは基本的に感謝というものを日常的に持っているのだろう。日本人も「いただきます」は平易に口にする。それも本来は感謝の言葉である。しかし、感謝の気持ちとして口にしている人は少ないのではないだろうか。だとしたら、英語の人が平易に口にするThank youにどれだけの感謝がこもっているのだろうか。同様にI love youは「愛しています」なのか「好きだよ」なのか、実のところはよくわからない。僕らだって愛していますは言いにくいけど、好きだよ程度ならさほどの躊躇無く言うことができるかもしれない。もしかするとそのI love youはfacebookの「イイね」程度の響きでしかないのかもしれない。そう思うと、僕らはSNSの中で毎日それを言っているのかもしれない。まあfacebookの日本での「イイね」ボタンは、英語設定にすれば「Like」である。でも僕らはそこに「好きだよ」という意味を込めて押しているのではない。もしもあの「イイね」ボタンが「愛してます」と訳されてそこにレイアウトしていたと仮定したら、一体どのくらいの人がそのボタンを押したのだろうか。

 言葉によって、文化によって、感謝の言葉を口にし易いのかし難いのかという問題を文化論的に言いたかったのではない。問題は、人間はその場の雰囲気や条件さえ整えば、さした抵抗感も無く公衆の面前で裸になれる。それは何なのだろうか。つまり「ありがとう」という言葉は、条件によって言い易くなったり言いにくくなったりするものなのだろうか。それでいいのだろうか。そういうことだ。まだ幼かった中学生の頃の悩みのひとつに、修学旅行での団体での入浴というものがあった。ちょうど陰毛が生えたりする頃でもあり、それを見られたくはないという想いから、風呂にも海パンを着て入りたいという気持ちを誰もが持っただろう。それは大人からすればどうでもいいことでしかないけれど、考えてみれば「裸になる」ということが記号化してなくて、純粋に「みんなの前で裸になるということ」の是非、意味を真剣に考えていたということでもあるような気がする。そういう考えを経て、みんなの前で裸になるのか、それとも裸になるのを固辞するのかということが、結局はちゃんと考えて行動するということなのではないかと思う。同様に、「ありがとう」ということをどのタイミングで言うのか、言わないのかということをちゃんと考えて行動するということに、実は意味があるし、言ったとした場合の価値があるのではないかと思うのだ。英語だからサラリと言えるんだよThank youというのには、やはり逃げがある。ちゃんと言ったことになるのかと問われれば疑問がやはり残る。

 3月11日になると14時46分に「黙祷」の言葉がTwitterのタイムラインに今も並ぶ。でもそれはその時だから言うという、セレモニーでしかないのではないかと毎年思う。要するにそれと似ていて、ありがとうも誕生日や母の日にしか言わないのであれば、言ってないのと変わらないようにも思うのだ。へそ曲がり過ぎるだろうか。

 別に母の日や誕生日に感謝の気持ちを伝えるということを否定しているのではない。311の時に黙祷をすることも否定してはいない。そういうタイミングでしか言いにくい言葉というのは確かに存在するからだ。だからセレモニーが背中を後押ししてその言葉を口にするということは、人が日常を生き易くする知恵でもあると思う。だからそういうセレモニー的なタイミングが与えられることに感謝しつつ、それを口にすればいい。だがそれは、知らないうちにベルトコンベアーに乗ってどこかに到達してしまうような思考停止ではダメなのだろう。そういう時にも照れながら言葉を口にしつつ、もう手遅れにならないうちに、本当に感謝すべきかどうかを考えてみて、その気持ちをなんでもない時に伝えていけるような、そんな人になりたい。なかなか難しくて、当分無理なような気もするのだが。

 あ、リュブリューとは「Я люблю вас」のことです。ロシア語のI love youです。大学で2年ほど勉強したのに、今となってはこれと「おはよう」「こんにちは」「とっても」くらいしか覚えていません…。

動物園

動物園に行ったわけですよ、息子が行きたいというので。で、チケットを買って入場したらすぐそこにジャガーとライオン。息子さぞ喜ぶだろうと思ったら、「見らん」と。まあ言い回しは僕の影響を受けてか博多弁もどきなのですけど、それはさておき。

一目散に駆けていく先は乗り物コーナー。汽車に乗るんだと。仕方ない、乗るか。ええっ、1人200円??親が子供と乗ると400円かよ。で、乗りました。2周しておしまい。息子「また乗る」と。「もう1回だけだよ、次乗ったらゾウさんを見に行くよ」「うん」の会話のあと、仕方なくもう一度乗って、800円。これけっこうバカにならない出費。

2回乗っても「もっと乗る」と言い張るので、こりゃきりがないということで抱きかかえて移動。息子泣き叫ぶ。隣のオナガザルのところで結構満足げに眺めてて、こりゃ良かったと思ってたら、乗り物コーナーの方から踏切の音が。音を聞いたら思い出すのは必然で、それは息子のせいではない。高らかに響く踏切の音。こりゃあ厄介だ。またまた抱きかかえて象の森へ。

京都市動物園にはつい最近子ゾウが数頭やってきてて、象の森は先週オープンしたばかりの施設。おお、子ゾウカワイイぞ。しかし息子泣き叫び続行。いやいや、もう汽車には乗らないから。で、また移動。踏切の音が届かないところは無いものかな。というわけで熱帯動物館みたいな名前の建物に入る。

そこでカメの展示前で30分ほど固まる。ずっと見てる。まあカメが意外に動いて面白いのもあるが、基本的には汽車に乗れないことでヘソ曲げてるんだな。そのうちにお昼の時間も過ぎていき、徐々に不機嫌に。汽車に乗れない不機嫌と重なってわけわからなくなってきた様子で、ご飯食べに行こうの提案にも何故か抵抗。動きたくないんだとか。仕方なく強制抱きかかえで園内カフェへ。うどんを食べ始めると徐々に穏やかになってくる。胃は正直だ。そのカフェは持ち込み禁止らしく、子供のおやつもあげられないので、急いで食べて外のイスに移動して、持参のおやつを食べさせてるところで大きめの雨粒が落ちてきた。もう帰ろうということになり、園を後にする。

結局息子、カメを30分、オナガザルを3分ほど見ただけの動物園でした。親の僕はキリンとトラくらいは見たかったけど、まあ仕方ない。動物園、入場料倍でいいから、乗り物フリーにしてくれんかなあ。

そんなわけで、明日は京都市内バスツアーに行くことに。観光バス会社のツアーなどではありません。バスの1日乗車券を買い、息子が乗りたがってるバスに一日中乗りまくるという企画。ちなみにバスの1日乗車券は500円。リーズナブルです。大人にとってはイベント感がまったくないんだけど、まあそれも仕方ない。育児ってそんなものなのかも。親の満足は二の次三の次です。

おかあさんといっしょ

 いつもは8時半頃に家を出る。息子と一緒に「お母さんといっしょ」をぼんやりと眺めたりする。NHKの子供番組は面白く出来ていて、番組によって対象年齢が微妙に違っているらしい。完全幼児向けのものから、小学生にならないとその面白さは理解出来ないであろうもの、大人も楽しめるウィットあるものと、まるで赤文字女性ファッション誌のようだ。ん、今はもうそんなカテゴリーはないのか?ファッション誌の趨勢については詳しくないので、現状と違ってたらゴメン。

 で、お母さんといっしょは中でも比較的守備範囲が広いように感じている。使われている歌が、オーソドックスな童謡からアバンギャルドな歌までさまざま。最近ではtupera tuperaという作家がアニメを担当した『ひみつのパレード』という歌が個人的なお気に入り。で、先日流れたのが『パパの背広』という歌にふと違和感を感じた。パパの背広にはポケットがいっぱいあってイイなという内容の、子供らしい感想を歌にしたものだが、これを眺めながら、ああ、人はこうして背広に抵抗感を取り払われていくんだろうなあと、ちょっと思った。

 facebookで友人が、用事があってハローワークに行った時のことを書いていた。周囲からはいかに自己PRをするか、自分を採用したいと思ってもらうかが大切かという話が漏れ聞こえたそうだ。その友人は書いている。それはその通りなのだろう、でも自分には無理だと。採用されなければ、「私という人間」が「必要とされていない、魅力がない」ということになってしまうからだと。僕は多いに同意し、「見つからなければ仕事なんてしなきゃいいんだ」とコメントをしてしまった。

 ある年齢になると人は仕事をする人生に押し出される。いったい何故なんだろうか。

 コウケンテツという料理研究家がいて、その人がアジアの国々を旅し現地の料理を食べるという番組を見たことがある。そこで現地の人は「これから裏山に材料を採りに行くよ」と言い、裏山に登るのか、難儀な話だな、やっぱり駅前のスーパーで材料が揃うのって便利と思っていたら、その人の家のすぐ裏が山。マンションの1階にコンビニがある人よりも、材料の現場はきっと近い。そこで自生しているタロイモを採るのだそう。簡単に採れる。で、家で料理する。毎日タロイモ料理でいいのなら、どこかで働く必要など一切無いよ。煮炊きする薪はいくらでもあるもの。

 その生活を全肯定するつもりはない。服を買うにはお金は要るし、携帯電話も使いたいよね。テレビも見たいし、だったら電気が通ってなきゃいけないし、電気代も払わなきゃいけない。たまには家族で旅行もしたいじゃないか。やはりお金は要る。文化的な暮らしって、完全自給自足だけでは保つことができない(ちなみにそのタロイモの家族も、完全自給自足ではないと思います)。

 で、自給自足の対極として、多くの人たちは会社勤めという生き方を選んでいる。海外もそうかもしれないが、日本ではスーツにネクタイというスタイルで日中の時間の大半を会社での仕事に捧げている。これ、昔の奴隷とどう違うのだろうかなどと時々思う。スーツにネクタイ。ちょっと稼いだ人はいい時計を腕にはめる。「ロレックスですか、いいですね」「いやあ、たいしたものではないですよ」などと謙遜しながらも、表情には笑顔が浮かぶ。都心にマンションを買い、ほぼ一生ローンを背負う。支払えない時のために生命保険にも加入する。奴隷も言葉の響きとは裏腹に、比較的多くの奴隷たちはいいご主人様のところで働けて幸せだという感情を持っていたようだ。他所よりもいい足輪をはめられたことを、いい足輪をはめていただいたと、他の家の奴隷よりも良くしてもらっている証のように自慢する。自我や人権について考えさえしなければ、日々のメシは食えるし、寝る場所もある。そりゃあご主人様とは暮らしのレベルが違うけれども、そんな高望みをしてはいけない。子供には「ご主人様に逆らってはいけません。おぼっちゃまやお嬢様のいい遊び相手になりなさい。けっしてケンカしたり逆らってはいけませんよ」と言い聞かせる。言い聞かせられれば、三つ子の魂は百まで続くわけで、心の芯のところから奴隷としての生き方を尊ぶようになる。それが処世術であると信じる人のように。

 では、本当にサラリーマンと奴隷は同じなのか。多分、違うと思います。理由は、サラリーマンはいつでもそのスーツを脱いで会社に行かないという選択をすることができるから。クソ上司に腹を立てて辞表を提出する権利は誰でもいつでも持っている。辞表を叩き付けたその日から衣食住に困る可能性は発生するのだけれども、それでも覚悟さえすれば自由になれる。金輪際スーツなんて着なくてもいい人生を選択出来る。しかし奴隷にはそれは許されない。そこはやはり大きな違い。また、アメリカでの奴隷は黒人だから奴隷なのだという当時の決まりでそういうことになった。誰が決めたのか、そういう決まりだった。黒人に生まれたら、奴隷以外の生き方は出来なかった。

 いやあ、現代で良かったですね。自由に会社を辞められますものね。やめたところで個人事業主になったら、スーツにネクタイはしなくて済むかもしれないけれど、朝から晩まで働かなければいけません。クライアントから金曜日の夕方に仕事の詳細が届いて「月曜日の午前でいいです」とか平気で言われて逆らうことも出来ません。そりゃ土日に休むなってことかよと思っても、口に出してはいけません。口に出したところでどうせメールの返信に恨みがましく一言添える程度の話で、そのメールさえクライアントが目にするのは月曜日の午前中なわけで、結局土日に作業をするのは変わらない訳で。

 話を戻そう。っていってもたいした話ではないのだけれども。

 お母さんといっしょでは、エンディングで歌のおにいさんおねえさんたちと一緒に歌って踊るコーナーがある。子供たちはこの日のために練習をしてきたのか、振付けも完璧に踊っている。最後にムテ吉やミーニャが出てくるとハイタッチしたりしてとても嬉しそうだ。でも、毎日必ずといっていいほどセットの片隅で立ち尽くしている子供がいる。踊りの輪の中に入っていけないのか、いきたくないのか。とにかく毎日のように1人ぽつんとしている子供がいる。僕はそういう子供を見るのが好きだ。そういう子供をあざ笑うのではなく、ああ、あれは自分だと思うのである。おにいさんおねえさんは輪の中に入ろうよ、一緒に踊ろうよと誘ってくれる。でもそれ、おせっかいなんだよな、と思う。行きたくないんだもの。お母さんは息子娘の晴れ舞台として勝手に応募して当選してスタジオ収録にいそいそと連れてきただろうけれども、オレはそんなのイヤなんだよなと、その子は思っているのだろう。おにいさんおねえさんたちと楽しく歌って踊っている子供の価値感からはきっとわからない感情がそこにはある。それを無理に踊らせて予定調和でシャンシャンなんてことは耐えられないのだ。

 そういう時、さっきまで踊っていた子供がぽつんとしている子供の側に寄っていくシーンが時々見られる。それは、とても嬉しい気分にさせてくれる。おにいさんおねえさんが誘いにくるのは予定調和だけれども、子供が踊りの輪から離れて寄り添うのは、共感である。ひとりじゃないよという、なんかそういうの。それはきっと孤立した子供にとってはとてもありがたい何かだろう。

 そして時々悲しい気持ちになるシーンもあったりする。例えば、おにいさんおねえさんが片隅に立ち尽くしている子供をさっと抱え上げて画面外に強制排除させてしまったりする時。番組を作る上で踊らない子は要らないのかもしれないが、だからといって画面の外に連れ出す必要はないだろうと思う。一緒に踊るのも、片隅で立ち尽くすのも、それぞれの子の不器用ながらの対応の一形態に過ぎない。そう考えるのは間違いなのだろうか。テレビの中というのは楽しくて踊りたくてたったひとつの曇りも無い世界であるべきなのだろうか。そうなのかもしれないけれど、それはリアルではない。立ち尽くしている子の姿を見て、幼稚園で保育園でちょっとだけ居場所の無さを感じているような幼児はホッとするのではないだろうか。そんなリアルを画面から強制排除させるのはちょっとなあと、時々思う。

 おにいさんおねえさんはいつもそういう子供を強制排除しているのではない。むしろ例外的なことであって、たいていは「一緒に踊ろう」と誘いかける。手をつないで輪の中にいれようとする。それはそれでホッとするし、それによって輪の中に入っていけた子供がいれば、それも幸せなことだと胸を撫で下ろす。だが、そうやって入った子供は最初から踊っていてテンションが上がっている子供たちのテンポにすぐにはついていけない。エンディングではゆるキャラが作ったトンネルを子供たちがくぐるようにして円を描いて歩くのだが、周囲よりテンポの遅いその途中加入幼児がのろのろしているところを、後ろからぶつかる子供がたまにいる。かなり意図的に、サッカーのショルダーアタックのような感じで身体を当てる。わあ、なんてことをするんだと正直驚く。子供は残酷だ。全体のテンポに慣れる前の子供に併せてあげるというような気持ちが更々無い子供もいるのだろう。立ち尽くしている子供の側に行って一緒に立ってあげる子供もいれば、せっかく輪の中に入った子供に対して体当たりをしてしまう子供もいて、ああ、幼児の社会もなかなかに厳しいものだなと思う。それは番組の収録の数時間だけ同じ場にいる集団であって、収録が終わればもう会うことも無いだろう。しかしそういう体当たり的な出来事は収録の時だけ起こるものではない。幼稚園や保育園でも普通に日常的に行われていることなのかもしれない。そう考えると、幼児の親としてはちょっと悩んでしまう。悩んだところでそういう厳しさから隔離することも難しいしかえって過保護になるのだろうし。まあ、自分の子供には集団の中で他人に体当たりをするよりは、輪に入れずに壁際で立ち尽くしている方になって欲しいという気がする。泣かせるよりは、泣かされる方がずいぶんマシだと思うのだ。

思う。

 「〜と思う。」という表現はやめなさいと、文章読本的なものには必ずといっていいほど書いてある。なぜなら、断定的な語尾で書いても、それは筆者が思うことなのだから、結局は「〜思う」と同じことなのだという理由。それはそうだ。その通りだ。でも、僕はついつい「〜思う」と書いてしまう。いや、ついついではないね。意図的に「〜思う」を書いているのだ。

 理由を考えた。いや、考えるまでもない。「〜だ」や「〜である」と断定することと、「〜思う」は、やはり違うのである。ここで「やはり違うのであると思う」と書くのと「やはり違うのである」と書くのでは、意味は同じなのか? いや違う。違うでしょ? 違わない? それは読者のあなたの感性がついてきてないんだと思う。そう、思うのである。あくまで僕が思っているだけ。「ついてきてないんだ!」と断定するよりもやわらかなニュアンスが生まれる。そうでしょ? そうじゃない? そうじゃないかなあ。いやたぶんそうだ。きっとそうだ。そうだと思う…。

 このように、文章作法として禁忌にされていることはいくつかあって、語尾を統一しろというのもそのひとつ。というか文章の禁忌としては横綱クラスの禁忌だろう。それでみんなそれはやたらとうるさい。でも僕はそれもけっして絶対の法則ではないと思っている。変えることでニュアンスが変わる。ニュアンスが変わるということは、それぞれ別の表現だということであり、別の表現をひとつにまとめることは強引で横暴で乱暴なアレでしかない。もちろん文章初心者が何も考えずにいろいろな語尾を使えばそりゃあ文章としてのまとまりはなくなる。だから原則論としてのルールとして知っておいて損はない。だが、その原則論のルールに縛られていては、多様な表現など望むべくも無い。

 誰かが作ったルールには、作った意図も意味も存在価値もある。多分ある。あると思う。あるんじゃないかな〜。で、意味があるけれど、絶対ではない。作った意図の範囲では意味があっても、意図を越えたシチュエーションでは縛られることは死を意味する。自由を失う。それはやはり、避けた方がいいのだ。

 とまあ、思ったことを書いてみました。ブログは、毎日書いた方がいいのです。書き続けることに意味があるのです。難しいけどね。そんなわけで、思ったことをとりあえず書いてみました。10分文章ブログでも、書かないよりマシ。さあ、これから保育園にお迎えです。お父さん忙しい。