作成者別アーカイブ: kirakiraohshima

弱者を利用するのは誰か

 田中眞紀子文科相が3大学の認可を認めなかったことが話題になっている。
 まず断っておきたいのだが、僕は野田内閣は一刻も早く解散すべきだと思っているし、擁護するつもりはないし、野田の再選を支持した田中眞紀子のことも蔑む思いである。
 だが、今回のことは報道が騒いでいるような暴挙とはまったく思えない。そしてこのような報道の流れになっていることが非常に胡散臭いと感じているのである。
 まず、今回の不認可によって影響が出る、入学を希望していた高校生や、短大が4年制大学になることで編入を希望していた短大生がインタビューを受けて苦しい胸の内を明かしていた。また、翌日に控えたオープンキャンパスに参加するために神戸から秋田までやってきていた高校生も困った表情をしていた。福祉を学ぶために会社を辞めて受験勉強していたオッサンも困った困ったと言っていた。確かに困るだろう。そういう学生に罪は無い。そういう意味では混乱を来している。うん、確かに困ったことだ。
 と、非常にわかりやすい組み立ての報道なのだ。これがどうしても胡散臭い。入学を希望する若者たちをなんとか救済したいよね。そりゃそうだ。それで田中眞紀子が悪者に仕立てられる。だが問題はそんなに単純なものではないはずだ。
 大学が出来る(今回の場合は専門学校が4年制大学に変わるケースが1つと、2年生の短大が4年制大学に変わるケースで、厳密に言えば大学が出来るというのとはちょっと違うと思うが)ことによって利益が得られる人たちというのがいる。そういう人たちは表に出てこない。大学の学長予定者という人は会見を開いていた。が、経営者自身が出てきて会見しているケースは見ていない。彼らは短大を4年制大学にすることで補助金が増えるのだろう。監督官庁の人たちも出てきていない。彼らは大学を新設する際に便宜を図ることで天下り先が出来るのだろう。そういう人の声は出てこずに、入学希望者の声だけが出てくる。いかにも胡散臭い。
 現在800ほどある大学の47%が定員割れをしているという(どこかの報道で見た数字で、誤っている可能性あります)。少子化で子供も減っている。それなのにどんどん新しく新設する理由はどこにあるのか。普通に考えれば、それによって補助金がもらえて儲かるという仕組みに乗っかっている経営者と天下り先を確保しようという官僚の利害が一致しているということだろう。そのことに田中眞紀子は斬り込んだわけで、ある意味闘争だ。これまでの仕組みで行けば時代の変化についていけなくなって国自身が歪になることは自明の理だ。現在はその歪さが顕著になってきていて、それで改革をとみんなが叫んでいる時である。だが、改革には痛みが伴う。これまでの仕組みに乗っかっていた方が楽だし、それを維持したいと思っている人は確実にいて、その人たちが痛むのだ。その痛みが大きければ大きいほど、抵抗も激しくなる。野田内閣というのは、本来改革を叫んで政権を取ったにもかかわらず、既得権に張り付いている側の人たちからの抵抗に屈してしまったダメ内閣である。それを批判する声は多い。それなのに、今回のようにこれまでの仕組みを改めようとする動きに対して、世論はいとも簡単に「田中眞紀子の不認可は暴挙」だという説に流されてしまう。
 これは、弱者を利用する黒幕の強者に、僕らの世論まで操られているということに他ならない。利益を阻害される人たちが、受験をしようとしている学生の苦しみを前面に出すことで抵抗しようとしているのだ。それにころっと騙されてしまっては、いつまで経っても改革なんて無理なんだろう。
 もしも今回の大学が認められなくなったことで、学生の学ぶ機会が奪われたと考える人は、どうか考えてほしい。不況の中で奨学金が奨学金という名の高利貸しに変化してしまっている事実を。保育園の待機児童がいまだに解消されていないという現実を。800ある大学には補助金が交付されていて、これから更に大学の数が増えれば、補助金も増えていくのだ。その補助金を奨学金制度の財源に回した方が絶対にいいと僕は思う。47%の定員割れしている大学があるのであれば、そこに学ぶ機会はたくさんある。鉄筋コンクリートの立派な大学校舎を造る余裕がこの国にあるのなら、待機児童を受け入れる保育園をもっと作ればいい。そうすることで親がもっと働きやすくなり、結果的にもっと子供を作るゆとりが生まれ、将来の国の活力にもつながっていく。苦学生が学ぶことにかかった費用を完済するために苦しむ必要もなくなるし、家が貧しいからといって進学を諦めなくても済む可能性が増えるし、結果的に若者の勉強が豊かな社会につながっていく。学ぶ機会というのはそういうことではないのか?
 今の仕組みを変えないのであれば、そういった問題は永遠に変わらないだろうし、変わらなければ少子化や不況も変わっていかない。もちろんそれは文部科学の分野だけでなくあらゆる社会制度についていえることだ。変えたくない人は、変えないで済む理由を自らの欲を前面に押し出してアピールなど絶対にしない。変えることで生まれる一時的な歪みに苦しむ弱者の存在を押し出してアピールするのである。それに単純に反応していたのでは、社会の仕組みを変えようという勇気ある政治家などすぐに潰される。潰されると、僕らが選挙の時に選択する選択肢を失うということになる。
 まあ、僕は田中眞紀子の選挙区に住んでいないし、住んでいたとしても次の選挙で田中眞紀子を選択肢として選ぶことはないけれども、そのこととは切り離して考えると、やはり田中眞紀子をただ感情的にバッシングしていれば解決するということではないと思う。そして、今回田中眞紀子の唐突な決定によって困る人たち確実に存在していて、彼女をバッシングさせようとして、弱者を前面に出してきているということがどういうことなのかは、やはり考えておく必要があると思うのだ。

覚悟

 IWJというのがある。岩上安身氏が主催する報道団体だ。
 IWJは昨年の初め頃だったか、それとも一昨年の暮れ頃だっただろうか。岩上氏がUstreamを使ってインタビューなどを報じ始めたのがきっかけだと記憶している。亀井静香や森ゆうこなどへのインタビューを行なっていた。郷原弁護士などにもインタビューしていた。その頃は岩上氏自身がUstについてさほど詳しくなく、自前のパソコンでどのくらいのことが出来るのかを試行錯誤していた感じだった。iPhoneでの中継でかなり画質が粗いものなどもあった。
 それは大手メディアとは違う報道が広まり出した頃だったともいえる。ニコ生は少々先行していろいろな番組をやっていた。ケツダンポトフというダダ漏れ番組に注目が集まっていたのもその頃だった。それに比べると岩上氏の試行錯誤は見てる側からももどかしいくらいで、オッサンがITに疎い感じが全面に溢れていた。しかしながら彼のやりたいことは明確だったし、そこでしか見られない聴くことができない情報はたしかにあった。
 当初は小沢一郎への不当な司法圧力への抵抗という印象があったIWJだったが、昨年311以降は東電や政府への切り込みが増えた。そこでしか見られない、そして見るべき情報がたくさんあった。東電の会見はいつも唐突で、深夜に行なわれることもしばしばだった。それをきちんとフォローしてくれていた。事故直後の熱のようなものがあった頃から、毎回たいした情報も無くなって多くの報道がその会見を報じなくなったあとも、IWJはずっとそこにいた。そういうものがそこにあるという安心感があった。たとえ毎回その中継を見なかったとしてもだ。
 東電会見だけじゃなく、政府発表の会見なども細かく中継をした。政府とは違う説を主張する学者のインタビューやシンポジウムも細かく中継した。デモが始まればデモをリアルタイムに中継した。東京にいない僕もまるでそこにいるかのようにその雰囲気を感じられた。警察発表のデモ参加者数がいかに当てにならないかということも、そういうものを見ないとわからない。わからないでは、僕らは次の判断が出来ないから、やはりそういう情報ソースは必要だと思う。政府発表やマスコミの報道がいかに偏っているかを知った今では、その必要性はいや増していると思う。
 そのIWJを主催する岩上氏のTwitterでは、このところ会員数についての悲痛なつぶやきが続いている。今年の夏頃の中継数を維持しようとすると5000人ほどの有料会員が必要なのだという。だが現在3800人ほどらしい。見ている人の数はそんなものではない。だが、有料会員となると3800程度になってしまっている。それでは今の規模の中継を維持することは無理なのだという。
 今の規模の中継を維持せずに、スタッフも解雇し、岩上氏1人になったとしてもIWJは続けるのだという。だが、それでは中継できない「事実」が表に出てこなくなる。だから岩上氏はそれを避けたいと強く願い、会員数を公にして、支援を求め続けている。
 大手新聞は毎月5000円近くの購読料を取り、それで1000万人もの読者を抱えているところもある。IWJをそれと較べても仕方ないが、その大新聞を批判する人が多いにも関わらず、IWJのような奇特なメディアを支えようとする人があまりに少ないのには驚く。結局大手新聞を支える人の方が多いのだ。それも圧倒的な差で。1000万人と100万人の差ならまだわかる。1000万人と10万人でも、まだ仕方ないなと思える。だが、1000万人と3800人だ。その差はなんと2631倍。これで正しい報道を求めるなんていうのは絵空事だ。
 
 覚悟と題したのは、IWJを応援したいとかそういうことではない。僕が昨日TLを眺めていたら、岩上氏の一連のツイの続きにあるバンドマンのつぶやきが目に入ったからだ。「ライブ出演の誘いを受けた。ノルマ有り。さて、どうしたものだろうか」というもの。これを見て、ああ、両者の覚悟には天と地ほどの開きがあるなと感じた。
 バンド活動にライブはつきものだ。ライブをやるにはライブハウスに出なければいけない。ライブハウスはボランティアでやっているのではなく、商売だ。そこに出てライブをするのであれば、ライブハウスも儲けさせなければならない。ライブハウスに出るバンドの大半はまだ無名で、だから集客は簡単ではない。だが集客ゼロではライブハウスも大損害だ。だからノルマというハードルを設定し、バンドマンのケツを叩く。集客できなきゃ自腹だよ。だからバンドマンは頑張って友人たちに声をかける。いやあ、バンドマンも楽ではない。
 楽なのが良ければ、ライブなどやらなければいい。自分の部屋でギターを鳴らして歌って悦に入っていればいい。だがそれでは広がらないよ。そしてそんな活動に誰も振り向いてくれないよ。
 バンドマンは自分で音楽を表現して、それを他人に認めてもらいたい。だから人前で演奏をする。言葉で「良かったよ」と言ってくれる人もいる。そこから進んでライブのチケットを買ってくれる人、CDを買ってくれる人が出てくる。CDが3000円だとすれば、その音楽には3000円払う価値があるという評価だ。CDが100枚売れているバンドと、10000枚売れているバンドでは、「その音楽には3000円払う価値がある」と評価した人の数が100倍違うということだ。認めてもらいたければ、CDを売らなければいけない。ライブのチケットを売らなければいけないのだ。それができなければ、自分の音楽には価値が無いと認めなければいけなくなってしまう。
 それでも、なかなかチケットは売れない。だから、ノルマがあれば怯む。そして演奏をする機会をひとつ失う。
 これは岩上氏が会員数が伸びずに現状の中継規模を縮小するということと同じだろう。ノルマが無いライブを探すというのは、無償でボランティアで手伝ってくれるスタッフを捜して、人件費を抑えようということと同じだろう。だが、岩上氏はそうしたくない。スタッフにはちゃんとメシを食わせてやらなきゃと思っている。食わせてやることで、歳を重ねていずれくる自分が一線を退かなければいけない日にも、この報道中継という機能が失われないような社会を築いていくことを目指している。要するに本気なのだ。だから、Twitterで執拗に有料会員になってもらうためのお願いを続ける。
 僕は、売れないバンドマンがそのくらいの執拗さで「ライブに来てほしい」「CDを買ってほしい」「買ってもらえなければ自分が音楽を続けていけなくなるんだ」「自分の音楽が続かなくなるのは世界中の音楽ファンにとって大きな損失なんだ」と主張しているのを寡聞にして見たことがない。もちろん、音楽はエンターテインメントであり、夢を売る商売という一面もあって、そんなに切実な風を見せることがどうなのだろうという意見もある。僕もそう思う。だが、それはある程度の基盤が確立できる人の言うことである。売れなくて、ライブのノルマもカツカツなバンドは、生き残って自分たちの音楽を続けていくためにも、四の五の言っている暇があったら訴えていくべきだ。必死でお客を呼ぶべきだ。そうしないと活動は縮小する。縮小していく音楽に未来はない。そしてなにより、本人が必死でない音楽表現に対して、他人であるリスナーが必死で好きになる理由がないではないか。
 自分こそ本物の音楽をやっているんだというミュージシャンが必死にならなければ、いわゆる商業音楽に負ける。自分こそ本物の音楽を求めているんだというリスナーが必死にならなければ、いわゆる商業音楽だけがはびこることになる。だからもっと必死になってもらいたいと思うし、ミュージシャンはむしろハードルの高いものにこそどんどんチャレンジしていってもらいたいと切に願うのである。
 そうでないと、IWJに命をかけて取り組んでいる50過ぎのハゲたオッサンに完全に負けているということである。いや、岩上氏はものすごい人だと思う。そのものすごいオッサンでさえ、あの活動に対して3800人の有料会員しか集まってもらえないのだ、今のところ。無名のミュージシャンが自分勝手に作っている音楽がそうそう簡単に有料で支持されるなどと簡単に思っている場合ではない。だが、今すぐに3800人のホールライブを成功させろと要求されているわけではないじゃないか。せいぜい10〜20人ほどの集客を要求されているだけなのである。それができずに何の価値ある音楽だろうか。と、自分自身を叱咤できるミュージシャンだけに、明日はやってくる。そう思う。

言論を守るとは

 橋下市長という人は面白い人だ、好きではないけど。
 週刊朝日の記事を巡って橋下市長が大激怒。Twitterで激しく罵倒。当初は強気だった週刊朝日側も白旗を揚げ連載中止を発表。それでノーサイドといいながらも橋下市長の攻撃は今も続いている。
 この一連のツイートの中で橋下市長は言論の自由に言及した。「言論の自由が保障される民主国家においても、やはり議論の余地なく認められない表現はある。」「民主社会においても絶対に許されない言論がある」と。この点について脊髄反射の如く反発するのは愚かだと思う。それは橋下市長の言うことを脊髄反射の如く盲信するのと同じくらいに愚かなことだ。なぜなら、この言葉の中にはいくつかの視点が混在しているし、そしてなおすべての発言する権利について保証するのが言論の自由という概念だからだ。
 言論とはどう保証されるべきなのか。そして保証された言論によって傷つけられる恐れのある人権はどう守られるべきなのか。そのふたつが盾と矛のような作用を生む対立する概念であり、だからこそ、この問題は複雑なのだと思う。
 自分なりに例えてみたい。それが本当に問題を映せているのかはともかく。言論というから曖昧になるが、それを「拳銃」と置き換えてみればいい。アメリカ社会では銃を持つ自由がある。開拓時代以来、自分を守る手段として武器が必要で、その歴史の流れから今も多くの人が銃を所有している。それはアメリカでは認められた権利でもある。では、銃を持つ権利が他者を撃ち殺す権利につながるのかというと、もちろんそういうことは有り得ない。しかし銃を持つ以上、暴発する狂人は後を絶たない。毎年、銃乱射事件のニュースは世界の果てまでも届いてくる。だったら銃規制をすればいいじゃないかという声も当然のように沸き起こる。だが、アメリカで銃が規制される具体的な動きはまったく起こらない。
 日本ではもちろん銃など持てない。最近ではナイフだって自由には持てない。以前深夜にドライブしている時に検問を受けたが、その際十徳ナイフの刃渡りの長さをチェックされた。こういう社会では銃乱射事件はまず起こらない。よかったよかった。いや、はたしてそれで良かったのか?
 例えを戻そう。言論は、時として人を傷つける。子供社会のイジメもほとんどは言葉が幼い子の心を突き刺しているのである。言葉の力はそれほどに強い。言葉の暴力は深刻だ。だからそれを無くす為に言葉をどう規制すればいいのか。そういう問題に必ず突き当たる。規制すればいいとしたら、誰がそのルールを作るのか。そして言葉の規制が完了したら、人の心の中から憎悪の念は消え去るのか。結局言葉狩りは心の闇をさらに深いところに追いやるだけで、問題の解決は陽の目を見なくなる。問題はそんなに単純ではないのだ。
 また、最初は純粋に善意から規制を始めても、やがてそれは規制する側、すなわち為政者にとって都合の悪い表現を規制するようになる。そうなってくることで単なる規制は言論統制に陥る。言論の自由という概念は、そうなることを避ける為に必要不可欠な概念であって、だから、他者を傷つける恐れのあるようなとんでもない言葉であっても、それを発する自由を基本的な人権として守ろうというものなんだと、僕は考えている。橋下市長が「民主社会においても絶対に許されない言論がある」というのには、やはり疑問を持つし、違和感を覚えるのはそういうところだ。
 
 では一方で、他者を傷つける言葉はどこまでも自由なのだろうか。そうではない。橋下市長の「民主社会においても絶対に許されない言論がある」というのに真っ向から否定出来ないのもそこにある。名誉毀損というのもそういうものだろう。正式に裁判に訴えて裁いてもらうということで対処する方法もある。そうでないオープンな場での発言については、市民がどう判断するかということがひとつの判断基準になるだろう。今回のように週刊誌で書かれた他者を傷つける言葉に対しては、多くの人がそれをどう解釈判断するのかが問われ、それによって雑誌が部数を落とせば、それがひとつの評価になる。それでもガマンできないしスピードがかったるいと思う人は、橋下市長のように激しく怒り、ツイートなどで対抗すればいい。その怒りの発言も、言論の自由で保証されるものだ。当然その発言によって、彼を支持する人も出てくるし、嫌う人も出てくるだろう。政治家である彼がそれで票を増やすも減らすも自己責任だ。
 
 今回の騒動でなんかスッキリとしないのは、登場人物すべてが打算的に見えることである。週刊朝日は、政治的意図というよりも単にスキャンダラスな記事によって売上げを上げたいという浅ましさが前面に立っているように見えた。佐野とかいうノンフィクションライターは、結局有名になった人をいじることで自分の存在感をアピールしようというコバンザメ的な姿にしか見えない。そういうのをジャーナリズムとは言わないと思う。そしてなにより、橋下市長自身が、この騒動を自らの日本維新の会の人気浮揚に利用しようと思っているように映る。こうして結局誰も差別問題への強い想いなどなく、結局その問題の解決になどつながっていないようにしか見えないのだ。これでは30年前に盛んだった糾弾と変わらない。問題は触らぬ神に祟りなし的なところに向かって行くだけである。
 ともあれ、橋下市長の爆発するような怒りツイートに対し、あっさりと白旗を上げる週刊朝日はもうダメだなと思う。ショッキングな内容の記事を出すなら、徹底抗戦する覚悟でやらないとダメだし、その覚悟のない週刊誌はジャーナリズムではまったくない。週刊朝日の元編集長の人も毎日続けていたツイートをパタリと止めて黙ってしまった。佐野というライターもまったく声を上げていない。普通の社会人と違って、彼らは言論人なのだ。言論こそ彼らの唯一の武器なのに、それを放棄したかのような態度で、どうして今後も言論人として生きていくつもりなのだろうか。発言の真意や正義などの判定はともかくも、言論人が自らの言論への批判を浴びた時に黙ってしまうようではどうしようもない。元編集長の人は「対応に追われている」と発言したが、この記事を是認した意味や理由を積極的に主張することこそ「対応」だろう。それなしに何の対応をしているというのか。言論の自由を守る為には、こういう人たちこそ、今積極的に発言すべきである。そうでなければ、橋下市長の「民主社会においても絶対に許されない言論がある」という論が定着してしまう。危惧すべき状況だと僕は憂慮している。

バンドターミネーター

 僕はインディーズレーベルの仕事をもう22年もしている。バンドを育てるのが仕事といってもいい。
 ところが、僕は多くのバンドを潰している。こういうとなにか悪の権化のように聞こえるだろうが、実際はそうではない。僕の仕事の大きな部分は、バンドにワンステップ上を目指してもらうということである。そうすることで彼らは伸びる可能性に触れられるからだ。だが、この「ワンステップ上」というのがくせ者だ。今までとは違う活動に踏み込むという事であって、ハードルはこれまで以上に高くなるということである。高いハードルに挑めば、場合によってはひっかかって転ぶ。バンドもそうだ。活動の質が高くなる事でついていけなくなるメンバーが出てくる。4人編成のバンドの場合、全員が同じモチベーションで動けるのであればいいが、そういうことは稀だ。大概は2人が積極的で2人はついていくだけ。バンドの活動がワンステップあがる事で生じる負荷に、ついていくだけだった2人のメンバーがついていけなくなる危険性はある。結果として、「オレはこれ以上やっていけない」ということになってしまい、バンドが解散するという結果になってしまう。
 これはとても悲しいことだ。僕自身も仕事が途中で頓挫することになる。それまで関わってきた数ヶ月が無駄になる。精神的なダメージもそれなりにある。
 解決策はあるのか。ある。バンドにワンステップ上を目指させなければいい。でもそれでは僕の仕事にならない。なんとかワンステップ上を目指させなければならない。とはいって過激にそれを強いると、解散する確率も上がる。どこまで強いて、どこまでを見逃すかが、とても難しい匙加減だなと日々感じている。
 とはいえ、バンド内のモチベーションの違いがハッキリするということは必ずしも悪いことではない。インディーズデビューして、それなりに人気が出て、メジャーデビューするというところまで(必ずしもメジャーがいいということではない。メジャーデビューできるほどの人気と状況が備わってきたと理解してもらえれば幸いだ)達したところでモチベーションの違いが露になったら目も当てられない。だとしたらインディーズデビューするかどうかというタイミングでそれが露になる方がまだマシだ。
 やる気の乏しいメンバーがいると、活動はそのメンバーのモチベーションに合わせることになる。週に3回練習したくとも、メンバーの1人が「週1しか無理」というと、週3やるのは不可能だ。そうなると、結局やる気のあるメンバーの向上意欲が結果につながらないということにもなる。ツアーに行こうとしても「そんなの面倒」「休みが取れない」と言われたら行くのは無理だ。活動にも制限が加わる。
 つまり、やる気の差が著しいメンバーを抱えていると、やる気のあるメンバーの音楽レベルも向上しないということになるのだ。だったら、さっさと辞めてもらって新しいメンバーを入れなければウソだ。やる気の無い人から「辞めたい」と言ってきてくれるというのは、実はラッキーなことでもある。そう思えばメンバー脱退や解散はいいことだともいえるのだ。ファンから見ても、やる気のあるメンバーの才能を最大限に引き出した音楽を聴けた方がいいに決まっている。だったら、つまらないメンバーに足を取られていないで、さっさと前に進める協力者(メンバー)を探すべきだ。
 だが、4人メンバーのバンドが全員同じ目標意識とモチベーションということはありえない。そもそも違う人間の中身が同じであるわけがない。だから、多少の違いについては理解し合い、互いに欠けたところを補うような関係性を作っていくということも必要である。多少はなだめすかしながら一緒の方向を見て、バンドとして共に歩んでいける状況を作るということも、やる気のあるバンドマンには要求される。それは結局は自分のためでもある。バンドは1人では出来ないのだから。
 どこまでだったらやる気があって、どこからはやる気が無いと判定されるべきなのか、その線引きは難しい。絶対的数値で決められるものではなくて相対的な関係でしかないからである。また、やっているうちにやる気がわいてくるということもしばしばで、だから、どれだけ楽しくやっていけるのか、どれだけ近場の目標を魅力的に設定できるのかということが問われてくる。
 そういうことを、僕はバンドマンのトラブルに際していろいろと話したりもしている。だからタイトルのようなバンドターミネーター的な側面だけではないのだ。可能なのであれば今やっているメンバーで続けていけるのが一番だ。だが、それにあまりに固執して身動き取れなかったり、するべきでない妥協で長期の停滞を余儀なくされるのは愚かなことだから、きっちりと解散するという選択肢も常にカードとして持ちながら、恐れることなく現実に向き合うことで、何らかの前進を目指していきたいと切に願ったりしているのである。

無関心の罪

 今朝ほどからツイッターで「安倍氏の自民党支部「政治資金でキャバクラ」福岡や下関で16店30回にわたり70万3650円を支払った。」と話題になっていた。東京新聞や中国新聞に記事が載っていたらしい。
 僕は基本的に自民党に復活してもらいたくないし、小泉郵政選挙の片棒を担ぎながらも自身が総理になると造反離党組を次々と復党させた安倍晋三は人として嫌いである。だが、そんな僕が冷静に考えても、この記事で安倍晋三を批判する気にはなれない。まず、選挙の時にもほとんど地元入りしない安倍晋三が、日頃の地元対策で下関や福岡のキャバクラやスナックに行くか? まず行かないだろう。だとすればこれは安倍自身ではなく地元の秘書が有権者を連れて行ったとみるのが相当だろう。しかも30回で70万ちょっとだ。1回あたり2万円程度。割り勘の1人あたりならともかく、平均3人で行ったとしても1回1万しない。そういうところに安倍晋三が行くとは思えない。つまり、これは安倍晋三の下の話ではないと見るのが妥当ということである。
 そして、こういうことが選挙に必要だということでもある。自民党支部の関係者は「政党活動に必要な情報収集、意見交換を行う中で、関係者に応じてさまざまなシチュエーションが必要だった」と説明したそうだ。要するにそういう理由を付けながらもキャバクラやスナックで飲ませて欲しい「有権者」がいて、その人たちがそれなりに地元で票を取りまとめる力を持っていて、キャバクラに連れて行くと「さすが安倍先生、話が分かる!次の選挙も安倍先生で決まりだ」などと本気で思っているのだろう。それは安倍晋三の不徳ではない。おそらく他の政治家のところでも多かれ少なかれあることだと思う。無いとしたら、女性議員か、あるいは寄付も集められず政党交付金も満足に配分されずにカツカツの活動を必死でやっている議員かのどちらかだ。もちろん、女性議員であっても秘書がそういう対策をやっている可能性は否定出来ない。
 つまり、そういうさもしい「地域の有力者」たちによって選挙は動かされているのである。それを許しているのは誰なのか。そういうことをあまり追求しないメディアか?いや、そうではないと思う。そういうことを許しているのは、政治に無関心な多くの有権者である。国政選挙でも投票率は7割いかない。3割の人は意思表示を放棄している。そうなると「キャバクラに連れて行くかどうかで投票先を決める」的な人の1票はどんどん重くなる。選挙対策の秘書がその票を無視できる訳が無い。
 選挙で何が変わるんだという諦めにも似た気持ちは確かにある。次の選挙が行なわれた場合、僕は誰に投票すべきなのか決めきれずにいる。非常に困った気持ちである。だが、だからといって棄権したら、それは怪しい意図をもった政治関係者の思うつぼなんだろうと思う。自分の1票が何かを変えるという明確な答えは見つからなくとも、それでも票を投じるんだという人の総意が、徐々にではあるけれども何かを変えるんだと思う。そうでなければ、いつまでたっても政治家にたかろうとする人たちは無くならないし、この手のスキャンダルは消えることはないと思う。

本物の素人

 前原誠司が「橋下人気にぶらさがって、大阪維新の会から出馬する政治の素人が、当選すると日本はえらいことになる」と発言したらしい。そのことに対して罵倒ツイートがたくさんあった。「素人民主党にまかせた結果が今だろ」というのがその主な趣旨だ。

 だが、それはちょっと違うと思う。個人的に前原誠司は嫌いだし、今の民主執行部を嫌いな理由のかなりの要因が前原誠司にあるとさえ言える。が、だからといって彼の言うことをすべて否定するつもりはない。批判するなら何故批判すべきなのかということをちゃんと考えないと単なる怨嗟になってしまうし、それだとこちらもおかしくなってくる。

 素人民主党にまかせた結果が今なのではない。それはある勢力の後押しをしてしまう短絡だと僕は考える。その論で前原を非難するのは間違っている。では、前原は正しいのか。そうではない。完全に間違っている。政治は行政を御さなければならない。この場合の行政は官僚のことである。なぜなら、政治は国民に審判を受けるが、官僚は審判を受けないからである。行政が政治を御すことになれば、それは民衆が国家に支配されるということに他ならなくなるからである。そのことを先の総選挙では問うた。少なくとも小沢執行部によって出されたマニフェストはそれを意味していた。民主党の候補者はそれを掲げて選挙を戦い、議席を得た。そこまでは良かったのである。しかし小沢勢力が力をつけることを恐れる勢力が反撃をしてきた。当然官僚組織である。それに手を貸したのが現在の民主党執行部である。

 小沢執行部は自民党から政権を奪うとも言ってきた。それはどういうことか。政治の悪しきプロから政治を取り戻そうということである。民主党は、自民を離党した人と、自民から立候補したかったけれども世襲ではないので出られず、日本新党などから足掛かりをつかんだ人と、万年与党だった人とで成り立っている。前原などは自民から出馬できなかった部類だ。自民には二世三世も多く、大臣経験者も多い。そういう人が自分たちの足場を固めるために官僚とくっつく。いわゆる族議員だ。族議員というと聞こえは悪いが、彼らはある分野の専門家である。プロ中のプロだ。素人がよくないというのであれば、そういう族議員に任せればいい。その族議員とツーカーの官僚に任せればいい。官僚とツーカーの業者に任せればいい。官僚は公開入札といいながらも「この規模の仕事の経験を十分に有している業者」といった制限を加え、実質的な新規参入排除をするだろう。そうやって税金が一部で回る社会が出来るだろう。それでいいのなら、そうしていけばいいじゃないか。でも、それはいかんだろう。ダメだろう。だから、これまでの既成の体制を崩す必要がある。既成の体制でのプロフェッショナルではダメなのだ。それが前回の総選挙だったのではないか。僕はそう思っている。

 もちろん、素人議員は誕生するよ。しかし小泉チルドレンの時は面白いくらいにチルドレンが小泉純一郎の言うことを聞いた。だから、小泉純一郎という政策を実行していけたのである。民主主義は数だ。その数が集まれば国会は動く。小泉チルドレンを当選させた当時の有権者は、個々の政治家の政策を信じたのではない。この無名の人に投票すれば小泉純一郎が何かを変えてくれると信じたのだ。民意は国を動かした。

 だが、民主党の当選議員達はそうはならなかった。素人が素人として自覚し、トップを支えるために数となって動きさえすれば、民意は国を動かしただろう。しかし、民主党の当選議員達は不満を持った。自分の思い通りにさせろと。それはある意味勘違いですよ。前原も代表をやったのに政権を取ることは出来なかった。菅直人も代表をやったけど政権は取れなかった。岡田も代表をやったけれど政権は取れなかった。小泉にぼろ負けした。結局選挙で民主党に議席をもたらしたのは小沢一郎だ。そのことを考えれば、自分たちは数として小沢を支えるべきだったろうに、それよりも自分の地位を優先させた。その結果、内部分裂を来たし、今になっている。今の民主党執行部は、プロにもなりきれず、素人にもなりきれない、実に中途半端な自己中心議員でしかない。どれだけ巧言令色を尽くしても、その事実は変わらない。

 僕は、維新が勝つなら勝つでいいと思う。きっと勝たないと思うけれども。だが、もし勝つのなら、本当に橋下人気で勝ったんだということを自覚できる、本物の素人たちで勝利して欲しいと思う。そして橋下が思うように政治を変えて欲しいと思う。橋下の政策がいいとか悪いではないのだ。それが民主主義であり、主権者たる国民の意を汲んだ政治の実現になると思うからだ。小泉の政治が国を悪くしたと言う人がいる。それは一面で当たっていて、一面で間違っている。本当の真実などはどこにもないし、小泉を非難することで自分の立ち位置を確保しようという人は確実にいて、その人のいうことが真実であるはずもないのだ。同様に、橋下の政治が国を良くする一面も、悪くする一面もあると思う。だが、それはあくまで結果であって、本質ではない。僕が重要と思うのは、この国が良くない方向に行こうとした時に、国民がブレーキをかけ、方向転換をさせられる可能性を確保するということである。それさえ担保されれば、仮に橋下の政治が国を壊していったとしても、また修復することを可能にさせる。今の民主党のように、自民とは決別するといって戦ったのに、途中から180度変節して自民と組んで政治をしようとするのは愚の骨頂だ。民主主義に対する最悪の挑戦である。そんなことが許されれば、選挙など必要ないではないか。そしてまさにそのことこそ、既得権を持っている、「プロ」たちの望むところなのである。

 前原誠司の愚かなところは、まさにそこに端的に現れている。素人による政治が悪いのではなく、プロによる政治が悪いのである。現民主党の政治とは、プロと思い込んでいる素人達による政治であって、一番タチが悪い。経験も乏しい素人の政治だから、プロの官僚の力を借りなければならず、結果的に操り人形になっている。なのに自分たちが操られているということにさえ気付かず、国を崩していく。素人を自覚している素人が政治の数としてプロ政治家の駒になることはいいのである。プロと勘違いしている素人が、プロを排除した上で、素人による政治の可能性を批判している。これが愚かであり、哀れである。彼は本物のプロにも成れず、さらには本物の素人にさえ成りきれずにいるのだ。

生き残るということ

 ニホンカワウソが絶滅したという。最後に確認されたのは昭和54年だとか。もう30年以上も前のことだ。その間に絶滅宣言をすることは何故出来なかったのか。いろいろな事情があるのだろう。つくづく、人間は判断の遅いことだなあと思う。
 絶滅したということを認める判断も遅ければ、まだ絶滅危惧の種をなんとかするという判断もまた遅い。今こうやってニホンカワウソが絶滅したよ、かわいそう、などと言ってるヒマがあったら、今まだ絶滅していないものをどう保護するのかについてエネルギーを注いだ方がマシだ。でも、それよりもカワウソかわいそうの情が先行する。かわいそうがるのは人間のエゴだ。でも、そのエゴがなにより優先するのが人間であり、特にこの日本という国の特徴だろうと思う。
 バンドが解散したというニュースに、Twitterなどで「残念だ」という言葉が並ぶ。本当に残念なら、解散する前にCDを買えばいいじゃないかと思う。ライブに行くのだっていい。最近売れてなさそうだと思うんだったらCDを10枚買って周囲の人に勧めるくらいのことをやればいいじゃないか。しかしそういうことは一切せずに、YouTubeで聴くくらいで、解散したと聞けば「残念だ」という。その残念って言葉はどの程度の残念なのか?「バンドが自分たちのお金をつぎ込んで貧乏しながらツアー回ってCD出して、それでYouTubeに新曲を只でアップしてくれることが今後もう期待できなくて残念」ということなのか。それは、残念という感情とはほど遠いよ。もっと言うなら、「これ以上バンドマンから搾取できなくて残念」ということでしかないよ。
 もちろん、バンドが解散する理由は金銭的なものだけではない。だが、音楽をやることで裕福な収入が得られて、多くの観衆の前で演奏が出来るのなら、多少イヤなことがあっても続けるという人の方が多い。それでも内部分裂とかケンカで解散をするのなら、それはもう仕方ないけれども。
 バンドマンの側も、本当に生き残る努力をしているのかと首を傾げたくなることが多い。生き残るためには、自らの存在を広く知らせる必要がある。そのための方法論はいくつもある。お金がかかる方法もあれば、地道だけれどもコツコツとやるべき方法もある。お金がかかる方法はなかなか難しいケースが多い。だが、コツコツとやることは誰にだって出来る。でも、ほとんどのケースでそれは実行されない。つまらないのだろうな、コツコツは。「いい歌を作って、披露すれば自然と口コミで広がりますよ」なんて言う。だが、そんなに簡単にはいかないよ。だって、いい歌かどうかさえ、聴かなきゃわからないんだから。だから聴かせなきゃいけないし、聴かせるための作業をコツコツやらなきゃいけない。そんなバンドに未来はなくて当然。なんとなく日々を過ごし、変化を求めなければ、バンドであろうと企業であろうと個人であろうと、緩慢に死に向かうだけである。
 
 生き残るというタイトルを付けたのは、そのための判断が難しいということを言いたかったからだ。ついさっき、ある人のブログを見た。その人のことは追っているわけではないし、誰かのTwitterで紹介されていたからたまたま見ただけのこと。その人は南相馬の学校でライブをやってきて、そこに暮らしている人たちと向き合って、なんとかしなければと思ったそうだ。その地域では0.798マイクロシーベルトだったそうで、単純計算で年間6.94ミリシーベルトになるらしい。学校内では除染されて0.1マイクロシーベルト台に保たれているそうだが、安心して暮らせる状況だとは言い難い。それでも、様々な理由を抱えて、住民はそこで暮らしている。良いのか悪いのかではなく、そういう現状だということ。もちろんその状況で「安全だ」と考えるのか「危険だ」と考えるのかも、結局は個々に委ねられている。去る理由も、留まる理由も、様々だ。
 僕は東京だってどうなることやらと、いろいろなことを考えた挙句に京都に引越した。それが正しいのか間違いなのかはよくわからない。だが、後悔はない。先日もFacebookで久しぶりに再会した旧友に「放射能ごときにビビりやがって」と言われた。まあその通りだから仕方ないのだが、東京の放射能状況が大丈夫なのかそうでないのか、素人の僕には正直わからない。でも不安に思いながら生きるよりは、多少なりとも不安を払拭することが僕にとっては大事だと思ったから、引越すことにしたわけだが、それが確実な健康的安全を意味するわけでもないし、東京に暮らし続けることが確実な健康的不安を意味するわけでもない。それは南相馬でも同じことだ。海外から見れば東京も京都もたいした違いではないのだろうし。
 先日のテレビでは、最後にニホンカワウソが目撃された高知県のある村が取材されていた。村の人は「人間社会が自然をダメにしちゃったんだろうなあ」ということを喋っていたが、彼の後ろに広がる光景は田舎そのもの、自然そのものだった。それでもニホンカワウソは生き残ることができなかったのだ。僕のような都会育ちの人間にはわからないような微妙な自然の変化が、名前に「ニホン」とついているような動物を絶滅させるとは。
 人間にはわからないような微妙な変化が、動物を絶滅させるのだ。後から感情論で「かわいそう」などと言っても後の祭りである。生きているうちに有効な対策をしなければ、生き残るというのは難しいことである。だが、実際は生きているうちの方が感情論が優先しているみたいで、それがなんとも哀しくなってしまうのである。

野田民主党政治の危険

 野田民主党がどうなのかということについて、もはや論を待たないとは思うが、一応念のため僕が思うところを述べておきたい。
 彼の政治のどこがダメなのかを端的に言うと、主権が誰にあるのかということについての認識不足、いや、誤認にあるのである。
 この国は一応民主主義制度ということになっている。だから国民に選挙権があり、選挙によって国をどう動かしていくべきなのかを決めるということになっている。先の総選挙では民主党も自民党もマニフェストという名の公約を発表し、それに基づいて国民は投票した。つまり国民はこの国の在り様を、それぞれ各政党のマニフェストを元に選択したということに他ならない。
 民主党のマニフェストがどうだったのかについてはいろいろと論があるだろう。デタラメばかり書いている各新聞などは、出来もしないことばかりを約束して国民を騙したマニフェストであり、そんなものは守れるはずが無いと。それについては異論がある。出来もしないことだったのかというとそうではない。それまでとは違う方針で国を変えていこうというものであったから抵抗は大きかった。だから実現に大きな壁はあったが、論理的に破綻しているような内容ではない。それは単に既得権益を持っている側と、既得権益から漏れていた側の攻防であって、マスメディアは既得権益を持っている側の家来のような立場でその論を張っているに過ぎない。今もあのときの民主党マニフェストは実行可能だと僕は思う。問題は、抵抗の多いその理想を押し進めていけるだけの力量を持った政治家がいるのかということだけだ。当時の民主党を引っ張っていた小沢一郎と鳩山由紀夫を表舞台から引きずり降ろしたのが現在の民主党執行部である。獅子身中の虫が、自分たちもそのマニフェストを掲げて選挙をしたにも関わらず、自分はその作成に関わっていなかったかのごとき態度で反古にしている。それが現在の野田民主党ということなのである。
 説明的な文章が続いたので、本筋に戻したい。あのマニフェストはひとつの理想であり、それの実現にはハードルがいくつもあるというのは理解できる。そのハードルを越えていこうという強い意思が政治家には必要ではあるが、百歩譲って今の執行部にはその意思にも実力にも欠けるとしよう。だから、現実を見て実現可能な政治を行なっていくのだというのが、野田政権の今の態度だ。これが根本的に良くない。彼の政権は一体誰から与えられているのか。それは民主主義における選挙制度を根本とした国民主権の考え方を是とするならば、やはり国民から与えられているのである。その主権者の意思を実現するために実務に当たるのが選ばれた政治家の役割である。だが、自民党政治との決別を選んだ国民の意思に反して自民公明との談合に走る。これは完全に主権者たる国民の意思を現場が否定しているということに他ならない。
 これを軍隊を例にして考えるとわかりやすい。軍の最高司令官(肩書きは何であろうと、とにかくトップで決定者)がある国と戦えという方針を示して戦争は起こる。戦争の是非はともかく、戦うとなれば、現場の元帥や大将や末端の歩兵まで含めて全員が戦わなければならない。それを最前線の師団長が「敵国もなかなかいいヤツらだし、俺は彼らと戦うべきではないと思う」と言って戦闘を回避したらどうだろうか。それでは戦争に確実に負ける。戦うべきではないというのであれば、職を辞して別の人に最前線を指揮してもらうべきである。
 戦争をするという例えにすると「それでも戦争は避けるべき」という頓珍漢な反論も出るかもしれない。だからもうひとつ例えてみるが、今度は緊張関係にある両国の国境での状況での例え。軍の最高司令官は「まだ外交でいろいろと和平の可能性を探っている段階だから、国境の警備を厳重にしながらも、絶対に攻撃を仕掛けてはならない」と全軍に命令している状況という例えだ。この時に最前線の師団長が「もう外交なんて面倒なことをやっても、敵国は絶対に妥協などしないですよ。このまま待っていたら相手の兵力が増すだけで、いざ戦闘に入った時に負ける可能性が高まるので、今まだこちら側有利の段階で先制攻撃をするのが得策だ」と言って勝手に戦端を開いたらどうだろうか。現場の感触としてその状況分析がいくら正しかろうと、組織としては完全に間違いである。
 要するに、この国は大きな組織であって、民主主義という理想の基に、国民全体が主権者として政治家を選び、選ばれた政治家は選挙の時の国民への約束に基づいて努力し働くのである。国民が選択した政策こそが実行されるべきであり、それと反対のことをやってはいけないのである。そういうことをしたのでは、もはや組織ではない。すなわち、この日本という国が国家で無くなるということを意味している。野田政権は、それを現在やってしまっている。司令官たる国民の命令を無視し、戦うべきで無いところで戦闘し、戦うべきところで戦闘を放棄している。だからダメなのだ。
 それでも「いや、マニフェストは実現不可能なことなんだから」というのなら、辞して他人にその職を譲らなければならない。すなわち解散総選挙だ。解散の権限は野田総理にある。それは実現不可能なことではない。辞して、その上で自ら「実現可能」なマニフェストを掲げて国民に問い、国民が「野田のいう通りだよね。前のマニフェストよりもこちらの方が国に取っていいよね」と判断すれば、また政権につけるだろう。それから思う通りの政治をすればいいのだ。
 だが、それを野田はしない。そして国民の選択とは真逆なことをする。それは民主主義の否定である。この野田総理の国家が肯定されるのであれば、実質的な戦力を有した自衛隊が、現場で勝手な判断をして暴発することも肯定されるだろう。なぜなら野田は立場上自衛隊の最高指揮官であり、最高指揮官が上司である国民の命令を無視していいのだから、野田の部下である自衛隊の全隊員が各部署で上官の命令を無視していいということにつながる。少なくとも理論上はそうだ。現実に各省庁の末端は総理大臣の政策をことごとくサボタージュしてしまっている。いつそれが防衛省の末端に起きないとも限らない。そうなってはいけないと思うから、僕は現在の民主党政権を構成しているメンバーを否定し、批判しているのである。

ホーム

 日曜日、長男昇太のお宮参りをした。僕らが結婚式をした下鴨神社で息子がお宮参り。不思議な巡り合わせだな。あの時は東京から結婚式のためにやってきたのに、息子はこの神社のすぐ裏の病院で生まれたのだ。
 4年5ヶ月前にもここに集まった家族たちが、あの時はいなかった小さい昇太のために集まった。昇太のためか、自分自身の楽しみのためかは厳密には言えないが、とにかく、楽しそうに集まった。
 お宮参りのあと、近くのお店で食事会。昇太と僕ら夫婦と、松阪のおじいちゃんおばあちゃんと、おばさん。福岡のおばあちゃんと、おじさんおばさん、いとこ二人(昇太目線で)。総勢11人の賑やかな会。嬉しかったなあ。
 なぜ嬉しかったのか?2日かけて考えてみた。それはこの会が、ホーム&アウェイでいうところのホームゲームだったからだ、多分。
 今まで東京から福岡に帰り、兄夫婦と甥姪を加えての食事だったりで、それは、家族の食事に僕が混ぜていただいているみたいなものだったと今は思う。もちろん僕も家族の一員だが、遠くから馳せ参じてきた外様のようなもの。で、結婚してからは奥さんの実家に行き、義父義母義妹と僕ら夫婦。僕がいなくても以前から成立してた食卓に混ぜていただいていた。無論、そんな意識はなく、この家で生まれたかのような馴染みっぷりではあったが。
 だが、日曜日の食事会は、昇太のために、僕ら夫婦の食卓にみんなが集ってくれたような、そんな気がした。僕らのフランチャイズ、京都スタジアムでのホームゲームだった。
 子供の頃は、正月の度におじいちゃんの家に親戚が集まった。でもおじいちゃんが亡くなってからは、その集まりも無くなった。おじいちゃんの家がフランチャイズで、だからみんなが集まれたのだ。フランチャイズもないチームは、何処かにアウェイとして出向くしかない。今は母の家に、兄と僕が集う形。母のすぐ近くに住む兄家族にとって、母の家はセカンドホームみたいなものだし、兄の家で食事会をすることだってある。だから、福岡から遠くに住む僕はいつもアウェイチームだったのだ。
 そんな万年アウェイチームの僕のところに、福岡から、松阪から、万年ホームチームの人たちがやってきた。しかもみんな嬉しそうだ。そういうのが、なんか良かった。
 松阪の家族は日曜日に日帰り。福岡の家族は京都観光をして先ほど新幹線に乗った。
 はあ〜、ふう〜、疲れたよいろいろ。でもそんな疲れを乗り越えて、家族は家族になっていくんだと思う。アウェイチームがホームチームにランクアップするのが、そう簡単であるはずはないのだ。

金メダル

 オリンピックが盛上がっている昨今、まあ僕も見ている口ですが。つい3週間前までは「あれ、ロンドンオリンピックってもうすぐなの?全然盛上がってないけど」なんてことを言っておきながら。
 で、そんな昨今とは関係なく、僕は仕事で単純作業をしていた。朝からずっとやっている作業で集中力を切らさないために、ストップウォッチを取り出した。iPhoneのやつ。で、1工程を計ると、12秒。つまり1分間で5工程出来るということだ。10分で50工程、300工程やるためにはちょうど1時間かかるという計算になる。だが、ちょっとしたミスをすると12秒は20秒にもなる。しくじってはダメだと思えば思うほど緊張して手先が乱れる。結果、計算上の1時間は平気で1時間半にもなってしまう。
 そんなことをしながら、僕は思った。アスリートのやっていることというのはこういうことなんじゃないのだろうかと。僕らはオリンピックを見て簡単に「もっと速く泳げないのか」などという。だが、彼らのやっているのは、僕が1工程12秒かかることを7秒でやるということなんだろうと思う。それを世界のトップクラスが競っていて、人類として6秒半は無理だが、7秒なら可能で、あとはその7秒をどれだけコンスタントにミス無く維持出来るか。そういうことなんじゃないかと思った。
 例えば水泳で、今の泳ぎ方だと7秒だが、工夫すれば6秒90くらいにはなるかもしれないと考える。だから、今までの泳ぎ方を変えてみる。だがうまくいかない。しかしフォーム改造には筋肉改造も伴い、簡単に前のフォームに戻すこともままならない。それでも6秒90になれば、他を引き離すことだって出来るに違いない。そう思って、トライする。それを全世界のトップがやっている。そういう究極のことを4年間やって、ロンドンに集っているのだろう。
 そんなことを考えながら、僕は自分がやっていることはどうなんだろうと考えた。目の前の単純作業の効率を上げることが僕にとっての金メダルではない。だが、こんなことであっても、集中してやりこなせば30分でも速く終わり、その分別のことに費やすことが出来る。その積み重ねが、人生を豊かにするんじゃないかとか、そんなことを考えたのだ。
 このブログも、一時期(ブログに移行する前の日記の頃)は毎日のように更新していた。それは今から考えるとヒマだったということなのだろうか。今は結婚もし、子供も生まれ、自分だけの時間はどんどん減っている。だが、それが自分の人生を小さくしているなんて思うのは間違いだと思う。もっともっと無駄にしている時間が多いような気がする。それを見つけて、減らしていくことで、有意義な時間の使い方を出来るような、そんなことをふと考えたりしたのだ。それが結局もっとブログを書くということにつながるのかもしれない。ブログをたくさん書けば有意義なのかと問われれば、どうなんだろうと首をひねるしかないが、でも毎日文章を書いていくことで、文章は上手くなる。自分は磨かれる。それでいいではないか。人間は水泳が上手いから偉いのか?サッカーが上手いから偉いのか?そうではないけれども、上手くて、オリンピックに出場している人たちは輝いている。人はそれぞれの輝き方がある。文章が上手くなる自分というものにも十分に価値がある。ぼんやりと過ごして文章が下手なままよりは、ずっと有意義だ。
 つまり、水泳が上手い人が目指す金メダルもあれば、サッカーが上手い人が目指す金メダルもある。僕はオリンピックに出場は出来ないけれども、僕なりに目指す金メダルがあっても良いじゃないか。それは日常を見直して、集中力を高めることでそのメダルに近づけるんじゃないだろうかと、そんなことを思ったりしたのだ。
 今日もこうやって、出社して午前中に2つの仕事を終わらせた上でこうしてブログを書くことが出来た。今までならずるずると午後を迎えていたことだろう。ちょっと嬉しいし、誇らしい。まだまだ遠いが、僕なりの金メダルに一歩近付いたような気分がする。