作成者別アーカイブ: kirakiraohshima

フレンド

 友あり遠方より来る。
 一昨日は、高校時代の友人がやって来て、2人で大原の三千院に行った。
京都大原三千院、恋に疲れた女が一人~
ではなくて、仕事に疲れたオッサンが2人~である。楽しかったなあ。
 彼は東京時代のキラキラレコードから徒歩数分のところに住んでいる。それなのに東京時代には20年くらい会わなかった。なんか、きっかけがなかったのだろう。いつでも会えるは、また今度でいいやと同義語である。
 それに較べて、東京から京都は遠い。せっかく関西まで来たのだからついでに会いに行くかとなるのかもしれない。それはそうだ。東京在住の人が「高田馬場にきたからついでに会いに行くか」なんて言ってたら年間何回会いに来ることになるのか。だからみんな来ない。結局年に一度さえも来ない。
 その点、繰り返しになるが京都は遠い。だから別件で来たらついでに会いに行くかとなる。しかも京都には別件となる理由が多い。観光でも仕事でも来る理由に溢れている。どちらがついでなのかは判らないが、いずれであっても、訪ねてくれるのは嬉しいことだ。
 最近はSNSが流行りで、それは人間関係をバーチャルにするとか、だから健全ではないとか、言う人も多い。そういう面もあるだろう。だが、一方で人間関係を密にする効果もあるんだろうと思う。実際に昨日来た友人も、Facebookでこの半年ほどやり取りを続けるようになったのが急速に旧交を温めるきっかけだった。SNSでやり取りをすることで、実際に会う機会が生まれる。もちろんそこまでに至らない関係もたくさんある。しかし、僕の場合は確実にSNSが実際の交流に繋がっていると思えるのだ。
 SNSは単なるきっかけにすぎない。それはリアルの出会いでも同じこと。学校で同じように40人のクラスに放り込まれても、大半の同級生と友達になる人もいれば、無口で誰とも親しくならない人もいる。SNSもそうだ。積極的に発言し、他人の発言にも絡んでいけば知り合いも増えるし、なんの発言もしなければ孤独なままだ。僕は、積極的に発言するぞ。だってその方が楽しいもの。
 何の話だったっけ、ああそうだ、友人が遊びにやってきたということだった。
 こんなブログを読んでいただいている人は、面識のない方が大半だろうけれども、中には面識があって読んでくれている知己もいるだろう。mixiみたいに足跡はつかないし、facebookのイイねやTwitterのお気に入りなんて機能もないし、そもそも読んでることを覚られたくないという人もいるだろう。そういう人は、別に読んでるなんて宣言していただく必要もないけど、まあたまには重い腰を上げて京都にふらりと訪ねてきてもらえればと思う。そして「近くまで来たから」とか「どこかステキなカフェはないかな」とか言ってきてもらえればと思う。そしたら2年足らずの経験からなんとか絞り出してステキなカフェを紹介するだろう。そして万難を排してカフェにお供するだろう。抹茶を飲めるお寺にだって案内するぞ。抹茶のたて方を教えてくれるカフェだって、お喋りするのが憚られるような読書カフェだって案内しちゃうぞ。
 まあそれはともかく、友が訪ねてくるというのはとてもいいものだ(もちろん面識のない方が訪ねてくれるのもいいものだ。そこから親友にだってなれるもの)。京都に来て、わざわざ訪ねてくれるヤツがいるのはとても嬉しい。そいつは本当に友達だなって思えるもの。いや、まだ訪ねてきていない人が友達じゃないって言ってるわけではないのだけれど。

家族の在り方

 近くの大学がやっているトットクラブというのに家族で参加した。子育て家族が集まって、子供との楽しみ方を学ぶみたいな、そんな会だ。子供とどんな遊びをするのかを参加家族が紹介したりした。他の家では僕がまったく知らない歌遊びなどをしているんだと知って、とても参考になった。うちは「高い高い」などをやっていると言ったが、謎のテキトー歌を即興で作って歌ってあげているなんてことは口が裂けても言えなかったよ。
 その会の帰りに、奥さんが「お母さんは行くところが限られているから、こういう会に積極的に参加するの」と言った。なるほど、そうなのか。平日は外に仕事に行っている身からすると、それもまったく知らない母親の心理だなあと参考になった。比較的子育てに参加しているつもりではいるが、父親の思っていることと、母親の思っていることは、やはり大きな差があるんだ。
 Twitterなどでいろいろな人の話を目にする。母親をやっている人のつぶやきもよく目にする。旦那への愚痴とか、子供への不満とか、ママ友やPTAのこととか、いろいろだ。先日も旦那が家事へどう関わるのかについて不満というか、愚痴というか、諦めのようなつぶやきを見た。じゃあなんでそんな人と結婚したのだろう、今も一緒に暮らしているんだろうと、その時は思うが、では夫婦が完全に一致して日々が過ごされているのかというと、そうでもないだろう。いや、ほぼすべての場合で一致などしないのだろう。だって人間はどんなに判りあったとしても結局は他人だ。いや、他人ではないな。家族であっても別人格というのが正しいだろう。父親と母親で行動パターンが違うのは当然だし、日々の行動が違えばインプットされる情報も違う。違う情報が入っていて考えが完全に一致するなんてことは有り得ない。少なくとも僕はそう思う。
 そう考えていた今日の夕方、僕は家事の手伝いをしていた。ウチでは家事の特定の仕事は僕の役目だ。役目というと重荷のようなイメージがつくだろうが、そうではない。その作業は僕の方が得意だから、僕がやっているというだけのこと。もしかしたら僕の方が得意なんだからと思い込んでいるだけで、思い込まされているだけで、だから結局は僕がうまく操縦されているのかもしれないが、まあそうだったとして何だと言うのだ。僕はそれなりに「僕がやらなきゃ」という使命感を持って、今日も淡々とその家事作業を、割と嬉々としてこなしているのである。
 思えば、結婚してからその作業を僕がやるようになるまでにもいろんな変遷はあった。具体的にどうだったのかはもう忘れたが、まったく別の生活をしていた2人が一緒に暮らすようになって、それなりにお互いが役割分担をして、それなりに個人の領域を確保し、それでも楽しい生活を模索して、今がある。今が完成形では無いと思うし、それは7ヶ月前の長男の誕生を機に、僕ら家族の生活もいろいろと変化を余儀なくされているわけで、だからこれからももっともっと変わっていくだろう。その変化は自ら変わっていくというのとはちょっと違って、子供の成長が家庭を変えていくという、ある意味変化させられているということではある。が、今のところそういう変化が僕らの生活に否応無しに訪れることを、僕は素直に楽しんでいる。結婚生活の過程で起こってきた変化も、僕は楽しんできたつもりだ。楽しめる範囲での変化というのが、夫婦の相性というものなのかもしれない。あまりに違う2人の生活に起こる変化はものすごいものになるだろうし、それが本当にものすごかったら、耐えていけないものなのだろうから。
 少し遡って今年の正月、大学時代の同級生が遊びに来て、6ヶ月半の長男を抱っこしてもらった。それから10日後の同窓会で彼は「この間大島のところの子供を抱っこさせてもらったんだけれど、可愛いんだよね。ちょっと子供が欲しくなっちゃった」と話していた。まだ独身の彼が子供を持つには、普通に考えればまず結婚することが必要だろうし、結婚にしても同じ歳の女性と結婚するのであれば出産はかなり非現実的なことになる。だが、まったく不可能ではない。10歳以上歳の離れた人と出会って結婚すればいい。まあ結婚することを目的に婚活するのと、子供が欲しくて婚活するのではまったく違うし、成果も違ってくるだろうなとは思う。子供が欲しいことを最大の目的にされても、女性としては「なんだよ出産マシンなのかよ」という気分になるだろうし、それでは前提となる結婚生活での意見の一致も難しいような気がする。相手も同様に子供のことを最大の目的として、種馬としての旦那を探しているのであればいいのだろうが、それだと生まれてからもお金を稼ぐマシンとしてのみ利用されるだけのような気がする。挙句に離婚して親権を持っていかれたら目も当てられない。まあ、そんなこんなは派生する妄想に過ぎないし、同級生には頑張ってもらいたいとして。
 今日の会で、担当者の先生が面白いことを言っていた。子供はここに生まれてくる役割をもって生まれてきたと。だから生まれる前から知っていることもたくさんあって、そんなことを知らないと思っていることをなぜか知っていることがあると。なんでそんなことを知ってるのと尋ねても、そんなん生まれる前から知ってるよと子供は平然と答えることがよくあるのだと。その話を聞いて、なんか不思議と腑に落ちる気がした。僕はスピリチュアルなことなどほとんど信じていないのだが、子供が産まれて来たとき、やはりこの子はここに生まれてこようとしていたんじゃないかと感じたのだ。つまり、魂というものがあって、生まれる前の長男の魂はずっと前からその辺を浮遊していて、僕と奥さんの間に生まれてやろうと虎視眈々と狙っていて、彼によって僕らは引き合わされ、結婚することになり、京都に引越しをさせられて、そしてようやく準備が整ったなしめしめと、長男は狙い通りに僕らの間に誕生してきた、そう感じるのだ。だから、僕らが出会ったのも結婚したのも、抗い難い力にそうさせられたんじゃないかという、そんな思いなのである。そんなことを言うと、子供のいない夫婦はどうなるんだとか怒られそうだが、まあ妄想だから気にしないでくださいとしか言い様が無いので無視するとして、少なくとも僕ら夫婦はそんな風に感じている。だから同級生にもそういう力が働いていたらある日突然そういう流れに飲まれるように子供が授かるかもしれないし、だから焦らず騒がずに、取り合えず婚活しろよと、まあそんな風に思ったりしている。けっして遅くないぞ。僕だって40過ぎで結婚して、47で父親だ。そもそも僕が結婚するという話を聞いたとき、近しい友人ほど驚いていたじゃないか。何が起こるか判らないのが人生ってものだ。
 話は長くなり、何の結論も出やしないのだが、まあ、そんな感じです。今も奥さんは長男を寝かしつけてて、その間だけ僕もヒマなのでこんなことを書いてみました。もうすぐ長男も熟睡するだろうし、そしたらまた夫婦の会話の時間です。文章としてのまとまりより、夫婦の会話の方が断然重要なので、たいした推敲もせずに、この辺で終わりにします。

ブログスタイル

 僕のブログは基本的に長い。それは自分でも自覚している。長いのには理由がある。ここでしか長いのを書けないからだ。
 書けないというのは大げさだが、書く場所が文章を作るというのは信じている。2000年頃からキラキラのサイト内で始めた日記は、ほぼ毎日書くことを唯一のルールにしていた。そうなるととりあえず書くということが大切になり、一日あたりの文章量は短いものだった。そのうちにmixiに出会った。ここではマイミクからの反応があり、日記もウケを狙った傾向がでてくる。ここでは、画面の幅に収まる長さの一文で改行することを心掛けた。そうすると非常に読みやすい文章になる。その一方、物足りなさもこみ上げてきた。短い文章が読みやすいのは間違いないのだが、読みやすいだけが文章の価値ではない。入れ子入れ子の構造になって修飾語のオンパレードになることによって初めて表現できる内容というものもある。それを書くためには、mixiでやっているような文章ではダメなのだ。だから、ブログではそういう面倒くさい書き方もアリで、文章を書こうと、ずっと思ってやっている。
 で、長い文章を書くとなると、やはり携帯ではなくパソコンで書きたい。キーボードの方が入力効率は圧倒的に良い。だが、入力効率が良いものだから、どんどん書いていき、際限がなくなる。見直しをしてたら修正したくなる。単なる修正ならいいが、途中に文章を追加したくなる。追加したら前後のつながりもおかしくなって、全部書き直したくもなる。それで結局書ききれなかったネタが何個あるのかも判らない。
 というわけで、これからはブログを携帯でも書こうと思う。その分長さも短くなるだろうし、文章的にも推敲しなくなるから適当な誤字脱字も甚だしくなるだろう。それでも、書く頻度が上がれば、文章力も多少は上がるだろう。
 なんか、TwitterやFacebookのことも書こうとは思ったがとりあえずやめておく。書けばそれなりに話も広がるような気もするが、それをやり始めると結局元の木阿弥になるような気がして。

東京

 東京に行ってきた。
 その前に行ったのは、友人が突然死んで、そのお葬式のため。いいヤツだったけど、死んじゃしようがない。重要だけど虚しい東京行きだった。でも今回はなかなかに楽しい東京だったよ。ビクター時代の後輩とメシ、大学時代の親友たちと同窓会で飲み会、高校時代の友達とメシ。その他に僕の友人両横綱とは結構密な時間を過ごした。一人きりになる時間なんてほとんど無かった。
 京都に移り住んでも、TwitterやFacebookで友達とは連絡取れるしそんなに寂しい思いをすることはほとんどない。それは事実だ。でもネット上でコミュニケーションをするのと実際に会うのではやはり違うね。違うからといって、これからまた会えない日々が続くことを寂しいことだとはまったく思わないんだけれど、でも両方が同じだとは思わない。あれもあって、これもあって、それでいいんだろう。東京にいた頃にもそんなに毎日のように友達に会っていたわけじゃないし。
 京都の生活に慣れたかとか、京都はどうだとか、いろいろと尋ねられる。京都永住のつもりかとも聞かれる。でもね、そんなことはあまり考えてないのですよ。どっちにするかなんて。それは東京に26年住んで、自分の人生の中では一番長くいた場所なのに、京都に移ってから第二の故郷的な場所として意識するかと思っていたら、そんなことはまったくなくて、生まれ故郷の福岡に対する気持ちと、東京に対する気持ちはまるで違う。流れ者が長いこと東京にいてしまったなと、だから東京を離れても、またそこに戻ろうとか思わないし、でも決別したというような強い拒否反応もないし。
 同様に、京都の暮らしを今は満喫しているけれども、そこに永住するとまではまったく考えていないし、それはそのうちに京都を離れるつもりでいるということでもなくて、だから、いつまでっていわれても、3年後に学校を卒業するぞというような、予定を考えるようなことはまったく考えていないということ。動くかもしれないし、ずっといるかもしれないし。そういう、流れ者がたまたまそこにいて、いつまでと期限を切ってもいないという、そんな感じ。
 だから今日も気軽に東京を離れた。センチメンタルな感傷も無く、そこはただ26年住んだ街であって、それ以上でもそれ以下でもないというような。
 でもまあ、こんなことを書いているということ自体が、多少のセンチメンタリズムがあるということなんだろうか。そんなつもりはさらさら無いんだけれども。ただ、友との別れ際にポーンと肩を叩かれたりすると、なんか勝手に自己都合で東京を離れて悪かったかなというような、そんな気持ちにはなるよ。東京は、そういう感じで僕を思ってくれる友達がたくさん住んでいる街、そんな感じだ。だからやっぱり特別だし、ついついまた来るよなんて気持ちにもなる。それがいずれまた住もうというようなことにはなかなかつながらないんだけれども。

2013

 久しぶりに福岡で年を越した僕ら家族は、昨日3日に京都に戻ってきた。2年前までは東京から奥さんの実家松阪に行って年を越し、福岡に移動する途中で京都に1泊したりしてたが、その旅先だった京都に戻る。それもまた面白きことかなという感じだ。
 福岡では、僕はなかなか有意義な時間を過ごせたよ。7人もの友人に会えたし、親戚のところにも顔を出せた。赤ちゃんを連れて夫婦でお散歩にも行ったし、博多うどんも食べた。いっぱいご馳走を食べて、これはちょっと食べ過ぎなくらいだった。これからダイエットしなきゃな。
 で、京都に戻って、今朝いつものように会社まで徒歩通勤し、途中下鴨神社に寄って初詣。ニュースでは各地の神社が初詣客で溢れていると言われてたが、ほとんどの人は年に1度だけ神社に行くのかもしれないが、僕はもう下鴨神社に年間70回ほど行くという一種のマニアだから、今日も普通に参拝。普通の参拝がたまたま初詣だという、そんな感じ。また新しい1年が始まるよなという感じの感慨はある。
 というわけで、今年も皆さんよろしく。というわけでと言っても、僕にもどういうわけなのかはわかっていない。なんとなく、よろしくです。
 さて、早く年賀状を書かなきゃ!

2012

2012年を振り返る。
ある意味、激動の一年だった。生涯で二度目の、福岡に帰らない新年を京都で迎えた。妊娠していた奥さんの体調を考慮して、移動を控えていたところ、さらに体調が悪くなり安静に。だから結局福岡に帰ること自体がなくなるという2012のスタートだった。
友人の突然の死もあった。酒の席でのイザコザで殴りあい、転んだ際の打ちどころが悪くくも膜下出血であっけなく。その前には別の親友もくも膜下で倒れ、手術。こちらは幸いにも命はとりとめたものの、リハビリなどを兼ねて実家に戻ることに。何が起こるか判らないなと感じさせられた。
そして何といっても6月の長男誕生。大げさなステレオタイプ的なことではなく、地味に確実に人生観が変わった。子どものパワーってすごいと思う。いやまったく。
振り返るってなんだろうな。出来事を列記するならいくらでもできる。でもそんなのは振り返るとは言わないような気がする。
2012年が終わろうとする今、紅白を観ながらふと考えた。実家の食卓には母と兄夫婦と甥っ子姪っ子。それに僕ら夫婦と長男の、合計8人が集っている。今はもうそれが当然なんだけど、この家を建てたのは今は亡き父であり、この場所は父と母と、兄と僕の4人の場所だった。いつも父が座っていた辺りに僕が座ってしまっている。僕が政治に関心が深いのは明らかに父の影響だ。当時は自民が政権を追われるなど考えもしなかった時代で、山崎拓を応援していた父は、生きていたら今の政治状況にどんなことを言ったのだろうか。そのことを、自民党支持の父と話してみたかった。
父が肺がんで危篤状態になった晩、母は病院に泊まり込んだ。だから僕は兄と2人で食卓にいた。何故か僕が晩飯を作って、一緒に食べた。ちゃんとした礼服も持ってなかった僕らは、いざという時のために準備しておかなければいけなくて、でも準備するのも不謹慎な気もしたし、そんなことを夜通しずっと話していた。それが、父がまだ生きている最後の晩になった。
そんな食卓に、今は三世代が8人で集っている。不思議だな。8人の主役は生後半年の長男で、代わる代わるに抱っこされたりしている。幸せの象徴のような存在だ。父が存命の頃には考えもしなかった光景が、幸せの色を帯びて展開している。不思議すぎて涙が出そうになったよ。このことを、父が生きていたらどう思っただろうか?それとも政治談義の方に熱を上げただろうか?
世代が移り、顔ぶれが変わる。それはごく自然なことだ。でも、今は一人欠けることも想像出来ないこの8人の家族がここにいることは、自然でも何でもなく、むしろ奇跡的な何かだと思う。長男が生まれて以来感じていることは、僕ら夫婦のDNAが組み合わさってひとつの命が誕生したという科学的な話ではなく、魂として浮遊していた長男が、僕と奥さんのところに狙いを定めてやってきたという、そんな非科学的な運命論である。だから、僕ら家族も偶然の組み合わせでここにいるのではなく、必然的にここに集うようになっていたと、そんな風に感じているのだ。
さて、2012年ももうあと1時間を切った。今僕はその食卓を離れ、実家の寝室に長男と2人でいる。生後半年の赤ちゃんに夜更かしなどさせられぬのだ。だから大人が1人付いているわけで、さっきまで寝かしつけてた奥さんと交代し、長男の横で転がりながらこれを書いている。階下の食卓では年越しそばの準備が始まっているのだろうか?父存命中に食卓を囲んだ4人のうち2人が不在で、6人の家族が楽しくやっている。奥さんには、1年前には家族としての血縁関係はなかったが、今は隣に寝ている赤ちゃんのおかげでれっきとした血縁者だ。いや、血が重要なのではなくて、いろいろなことがあって、家族は家族になっていくわけで、僕のいない食卓で飯食っているこの瞬間というのも、奥さんを家族にしていっているのだろう。
なんかまとまりがなくなってきた。まとまりをつけるためには、あと50分を切った残りの2012年はあまりにも短い。来年はもっとまとまりの有る文章をスラスラと書ける自分になりたいと思う。
年越しそば、僕の分は残っているのだろうか?

おもてなしについて

 先週の土曜日、15日に僕ら家族はある京料理屋に行った。
 その店は僕にとって大切なお店である。今から18年前に父が他界し、翌年僕は母と兄と3人で関西に親子旅をした。その旅は、父を想う旅だった。福岡で父を火葬したとき、骨壺に入れられる骨は僅かで、残りの骨がどうなってしまうのか、母は気にかけ、兄は係の人に尋ねた。すると、そういった骨を集めて供養するお寺が淡路島にあるという話だった。それで、落ち着いたらそのお寺にお参りしたいと、母が言い出したのである。
 95年の5月、僕らは関空に集合し、2泊3日の旅をした。初日は大阪に、2日目は京都に宿泊した。せっかくの京都だから、おいしい料理を食べたかったのだが、どこに行けばいいのか、慣れない旅行者には難しい問題だった。それでホテルのコンシェルジェに、リーズナブルで京都っぽいお店はないかと聞いて、紹介してもらったのがそのお店だった。
 特別仰々しい店構えでもなく、ホテルから予約をしてもらっていた僕らはカウンター席に通された。そんなに構える必要のない料理がいくつか出てきた。美味しかった。忘れられない一品は若竹煮だ。それまで筍が嫌いだった僕が、一夜にして筍好きになったのはここの若竹煮が美味しかったからだ。
 カウンターにいたその店の大将が、僕らに京都の観光ガイドブックをくれた。お店の情報が載っているんだと大将は誇らしげだった。だが、なぜ大将は僕らにガイドブックをくれたのだろうか。それは今もよくわからない。よほど京都に迷った家族と思われたのか。でもその時は嬉しかった。メニューにもなく代金にも含まれないサービスを受けたような気がした。そういうちょっとした思いは、なかなか頭から消えることがない。
 以後、何度かそのお店に行った。一人で京都に行った時にお手頃なランチを一人で食べたりした。奥さんと結婚前に始めて京都旅行した時も、夜ご飯はそこで食べた。そんなに京都に詳しいわけもない僕に、女性に喜んでもらえそうな選択肢はそうそうない中、ここがベストだと思った。彼女にも喜んでもらえた。最終の新幹線に乗るために大将はタクシーを呼んでくれ、玄関を出て車に乗れる通りまで約50mほど出てきて、呼んだタクシーが確実に来たことを確認し、見送ってくれた。おいおい店にはまだお客さんいるだろうに。この瞬間に他のお客さんがお帰りになってたらどうするんだ。まあそんなことを考えていたら、お見送りなんて出来ないんだろう。その不器用ながらもストレートな人柄が、僕らを嬉しくさせるのだろう。
 やがて婚約をし、両家の親の顔合わせにもここを予約した。京都に越し、奥さんが妊娠し、子供が生まれる直前最後のお出かけでもここにランチを食べにいった。そして先週末、生後半年の長男を連れてランチに。
 仰々しいお店ではない。ランチメニューは申し訳ないくらいな値段でしかない。なのに、お店の人は心からのサービスをしてくれる。食事が終わって帰る時には玄関まで出てきて見送ってくれる。もしかしたらそういうお店は他にもたくさんあるのかもしれない。だが僕が知っているのはそこだけで、そこではそういうおもてなしをしてくれて、そこと自分との歴史もあって、なんかいいなと思っている。そういうお店をひとつだけでも持てて、幸せだなと思う。
 変わって今日、僕はある友人のホームパーティーに家族で出かけた。
 彼とはFacebookで偶然に知り合った。京都に住む映画監督「R」で、スイス人だった。2009年に彼が作る映画が東京のライブハウスでも上映すると聞き、足を運んだ。その後Facebook上でちょくちょくやりとりをし、僕が京都に移住して、直接再会した。その彼が先月京都の郊外に引越して、今日は新居披露パーティーということだった。
 面識あるのは彼だけで、どんな人が集まるのかもわからない。パーティーというのはそういうものだろうが、何人集まるのかもわからず、料理などは持ち寄り制というのに、どのくらいの量の食材を持っていけば良いのかもよくわからず、まあとにかく行こうということで車を走らせた。一般道で約1時間半。京都市内とはかなり違う雰囲気の町に着き、家に上がった。
 楽しかった。まったく知らない人たちの輪の中に入れてもらったわけだが、彼らもまた「R」に招待されてやってきたわけで、きっと知らない人たちの中に入った状態だったのだろう。話をして、食べて飲んで、とても和やかな時が過ぎた。
 和やかな時を過ごせたのは、きっと「R」の人柄なんだろうと思う。知らない人でも、みな彼の人柄に引き寄せられた人たちだから、きっと話しやすい人だったんだろうと思う。みんなを彼と奥さんがもてなし、場が作られる。食べ物は各自が持ち寄ったが、僕らは彼にもてなされたと感じた。
 目的はお店に料理を食べにいく、あるいは友達のパーティーに参加する、ただそれだけだ。でも、料理が食べられたら満足なんだろうか。パーティーに顔を出せれば満足なんだろうか。満足とはそういった目的の向こうにあるものだと思う。牛丼屋で満足することもあれば、高級レストランでイヤな思いをすることもある。それはきっと、メニューでも料金でもなく、人なんじゃないかと思うのだ。気持ちのいい人と一緒に時間を過ごすことが出来れば、それで嬉しい。
 僕は、おもてなしをしてくれる幾人かの人と出会うことができて幸せだと思う。僕が幸せである以上、相手にもそういう気持ちになってもらいたいと思う。そういうおもてなしが出来る人間なんだろうか、自分は。そんなことを考えながら、家路の1時間半、車を走らせた。

小さな声

 今回の選挙は、いろいろな意味で興奮もしたし、警戒もしたし、失望もした。
 僕の住む京都2区からは、民主党逆風の中で前原誠司が当選を果たした。TwitterのTLでは「枝野や前原や野田を当選させる地域のヤツらは何を考えているんだ」という言葉も沢山目にした。そう。僕がその地域のヤツらである。地域のヤツらにもいろいろいる。だが、僕の小さな1票では前原誠司を落選させることは出来なかった。前原誠司が72170票、自民が42017票、共産が24633票、社民が7416票。2位以下を全部足せばかろうじて前原誠司1人の得票を上回る程度という圧勝状況。それでどうすればいいんだ?日頃から街を歩けばそこら中に前原のどアップのポスターが貼られている。ここは前原が将軍さまの独裁国家かと思うくらいの勢いで貼られている。そんな中で、国民の1票なんて小さいなあと無力感を感じさせられた。
 自分の選挙区の問題もさることながら、全体の政党の当選者数もとんでもない感じに終わった。選挙前から「自民の圧勝」的な世論調査が繰り返され、それでマッチポンプ的な雰囲気が強調されていったという側面もあるだろう。が、結局は反自民の勢力がまとまれなかったのが敗因だと思う。
 思えば、1993年の政権交替以来、政治は結局自民対反自民の構図がずっと続いてきたと言える。最初の政権交替では中選挙区制で勝ち抜いてきた8党派による連立政権だった。それが自民党によるスキャンダル攻撃と、村山富市率いる社会党の離脱によって政権が再び自民に戻ることになった。続く2009年の政権交替は、旧民主党と自由党の合併によって生まれた民主党が大きな反自民の対抗馬として選挙に勝利したのである。その後小沢一郎への司法的な攻撃と、マニフェストと真逆の政策を次々に進めた菅&野田首相への不信感が、民主党に逆風を吹かせ、離党者を続出させてふたたび自民に政権が戻ることになった。
 別の党による選挙後の連立という手法と、反自民が1つの党になるという手法とで、とりあえず2度の自民下野は実現した。だがいずれも自民の巧みな攻撃によって、反自民勢力は権力を明け渡す時にはバラバラに崩されてしまう。そこから再び対抗馬になるまでに、実に15年のサイクルが必要だということになる。
 そうなると、次のチャンスは2027年だ。その時には小沢一郎も85歳。政治家として第一線で勝負するということは難しいだろう。今回のように少数野党になっても、それはかつての自由党のようなものであって、だからこれで終わったという条件になるとは思わない。だが、復活するのに15年かかったとしたら、それは政治生命としてかなり難しい状況になると言わざるを得ないだろう。
 そうなると、もう自民による政治に甘んじるという選択か、もしくは小沢一郎に代わる新たな政権交代実行能力を持った政治家が育つことに賭けるという選択しかなくなってくる。だがそれは両方とも難しい。そもそも自民は今回の選挙でも実質過半数の支持を得ているわけではない。それに甘んじて納得できる国民ばかりのはずはない。
 また、小沢一郎は希有な才能を持った政治家であり戦略家である。それと同等以上の政治家の成長は容易ではない。小沢一郎と同等ではダメなのだ。それ以上でなければならない。それが15年で出来ると考える方が能天気だ。一方で自民党は着々と世代交替を行なっている。1期や2期浪人を強いられても生活には困らないという態勢で二世三世という世襲政治家を登場させ、なおかつ小泉進次郎という才のある四世までも登場させている。それに勝つために、政党としても野党集団としても崩された中から新たな才を見いだし育てなければならないのである。これはもう難事業中の難事業と言わざるを得ないだろう。
 普通なら、諦めるところだ。でもそれではいけないと思う。じゃあどうするのかという具体的な工程表などはまったくない。次の参院選でどう巻き返すのかさえ五里霧中だ。でも、諦めたりしてはいけない。例え今回の選挙中に巷間噂されていたように国防軍ができ、徴兵制が実施され、戦争に突入したとしても、諦めるなんてことは許されない。原発が次々と再稼働されたところで原発事故が再び起こったとしても、諦めたりしてはいけないのだと思う。
 ここまで書いてきて、では何にそんなに対抗すべきなのかという疑問は当然湧く。自民がそんなに悪の権化なのかと。そうではない。55年体制が始まって以降93年の政権交替まで、自民党は下野の心配がないから慢心してきた。政治のプロではあっても、慢心がそこにあるが故に社会が歪んだ。それを監視チェックすることが大切なのだと思っている。そのためには、常に下野の危険性を感じさせる必要があると思うのである。そうでなければ、政治は国民の方を向かない。自分に関係のある業界や官僚や外国を向く。それで善政がされるならまだいいが、そうだとしても、それは民主主義に非ず、単なる殿様による世襲政治である。世襲の支配層によるおこぼれ善政に過ぎない。今の自民のように二世三世が跋扈する政党が政権を長期間占めるならばなおさらだ。
 ああ、なんかここまで書いてきて、そんな大きな問題のことまでじゃなくて、もっと卑近な矮小なつまらない部分での失望だったんだと思う。それは、60%を切る投票率だ。4割以上の有権者が、権利など要らないと行動で示しているのである。そんなところに民主主義も何もないだろう。311という未曾有の災害を経て、その後の国の対応の異常さと不公平さを見てきてなお、権利など要らないと投票を棄権しているのだ。選挙制度がどうだとか、マスコミの情報操作とか、二世三世の世襲とか、そんな問題以前の、国民の意識の低さが問題なのだ。民衆の意識が低いなら民主政治もまた低くならざるを得ない。だったら、このまま谷底に真っ逆さま以外に道はないのかもしれないと、そんな感じの失望だったんだと、今は感じている。
 じいさんたちによる政党「立ち上がれ日本」は消滅したが、いまこそ立ち上がれ日本人なんだろうと思う。そうでなければ、この国に明るい未来などはない。あるのは、ご主人様によって生かされる奴隷の一生ではないのだろうか。

風は吹いているか

 作業をしながらCDをたくさん聴いていた。今日はCOVERSも聴いた。RCサクセションの1988年のアルバムだ。
 このアルバムは当時発売中止になったいわくつきのアルバムだ。原発反対を歌っていたから、原発メーカーである東芝の子会社東芝EMIが発売を中止にしたのだ。しかしその後KITTYレコードから発売された。発売が決まらずお蔵入りかと思われていた時期にはファンの間で非公式のテープ(カセット)が出回っていると噂だった。夏の野音のチケットを取るために日本放送のプレイガイド(当時っぽい)に徹夜で並んでいた時も、先頭付近のファンたちはその話で持ち切りだった。
 ま、それはともかく。1988年のこのアルバムをこの時期に聴いた。311以降は反原発の人たちが清志郎がタイマーズ名義で出した曲のいくつかと、このカバーズの数曲を取り上げて自分たちの主張に利用した。僕個人は原発反対だが、だからといってそうやって清志郎の曲を使うことはどうかと思っていた。なんといっても清志郎は故人だ。その使い方が清志郎の意思に沿っているのかどうかわからない。そういう使い方は故人に失礼だ。
 で、今日のカバーズだ。
 1曲目は「明日なき世界」、バリー・マクガイアのEve of Destructionのカバー。「おまえは殺しの出来る年齢/でも選挙権もまだ持たされちゃいねえ」とくる。
 2曲目は「風に吹かれて」、ボブディランのblowin’ in the windのカバーである。「どれだけ遠くまで歩けば 大人になれるの?/どれだけ金を払えば 満足できるの?/どれだけミサイルが飛んだら 戦争が終わるの?/その答は風のなかさ 風が知ってるだけさ」だ。
 3曲目は「バラバラ」、レインボウズのBalla Ballaのカバー。「世界中バラバラ 人々はバラバラ/考えがバラバラ やることもバラバラ」
 通して聴いていると、清志郎なりの警告だったような気がする。当時の僕は若くて、というか幼くて、ガキで、世界は平和で、単にRCの曲が聴きたいというだけだった。発売が中止になった理由に社会的な問題があって、そんなのどうでもいいから作った曲は聴かせろよと思っていた。今聴いて、それはまったくバカだったなと思わずにいられない。それは、今の社会の状況がまさにこのカバーズの警告にピッタシだからだ。
 僕は2曲目の「風に吹かれて」の「その答は風のなかさ 風が知ってるだけさ」が妙に頭に残った。この単純な言葉にはいろいろな意味があるだろうし、いろいろな解釈もされている。僕なんかが今さらだが、聴いていて思った。風とは、社会の雰囲気なんじゃないかと。選挙などではよく「風が吹く」といわれる。郵政選挙の時には「小泉旋風」が吹き荒れた。つまり、風とは、国民の意思なんじゃないかと思ったのだ。そう考えると、世の中にあるあらゆる問題は、国民の意思によってしか決まらないし、その意思が、ひとつの方向に向けて強まった時に風は起きる。311以降初めての総選挙で、僕ら国民の意思というのはひとつの風となって吹くのだろうか?そのことが問われるんだろうなあと思ったのだ。
 その直後に「世界中バラバラ 人々はバラバラ」と来るものだから、頭が痛い。その曲の最後の歌詞は「爆弾がバラバラ 身体までバラバラ WOO!バラバラ」である。そう簡単に、理想など現実にはならない。そもそも人々がみんなバラバラのことを考えていては、風など吹かないのである。それが自由というものの実体なのかもしれないし、それによるメリットも、デメリットも同時に存在しているのかもしれない。
 いずれにせよ、もうすぐ選挙だ。正しい方向に風が吹かないと本当にマズいところに来ていると僕は思う。老いも若きも、正しい日本の、そして世界の在り様を真剣に考えて、自分なりの風を吹かせていかなければいけない。

自分の意思を表明するということ

 2009年の2月、イスラエルの文学賞であるエルサレム賞を受賞した村上春樹はスピーチでこう語った。「ここで、非常に個人的なメッセージをお話しすることをお許しください。それは小説を書いているときにいつも心に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ろうとまで思ったことはないのですが、私の心の壁に刻まれているものなのです。それはこういうことです。
 「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。
 そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。しかし、もしどのような理由であれ、壁側に立って作品を書く小説家がいたら、その作品にいかなる価値を見い出せるのでしょうか?」
 当時はオバマ政権誕生直前で、政権移行期の空白期にイスラエルがパレスチナ自治区ガザを空爆。多数の死者も出ていた中の授賞式に村上氏が出席することへの批判も高まっていた。スピーチの中で村上氏自身が「出席するな」と言われたと明かしている。だが村上氏は敢えて出席し、スピーチで意思を表明した。
 日本での総選挙を来週に控え、僕はそんなことを思い出したのだ。
 今回の選挙は実に重要だと感じている。僕らの選択が国の在り様を大きく左右するという実感があるからだ。これまでの政治の在り様、それにまつわる利権の存在、それらに振り回される小さな人々。それが昨年311の震災とそれに続く原発事故でより如実に迫ってきている。なのに社会はそれを解決する方向には進まない。復興という言葉に対する理想型が国民の中で一致せずにむしろ対立しているようにも見える。では心からの理想を復興に投影しているのかというと、そうではなく自らの利益のために復興を利用している人たちの姿も透けて見える。
 僕は、それが「高くて、固い壁」なのではないかと思うのだ。
 僕らは目の前に横たわっている原発事故の収束という大きな課題を解決できずにいるのに、政治は別の命題を表に出して行こうとしているようにも見える。国防軍問題や改憲問題を殊更にこのタイミングで言う人がいる。徴兵制を口にする人もいる。人権を制限しようとする動きも見える。
 第二次世界大戦で日本は敗戦をした。同じ敗戦国家であるドイツでは、国を戦争に導いたナチスをタブーとし、ナチス関係者の罪をけっして許さず、見つけたら墓を暴いて断罪するほどだった。それは国の平和に関するトラウマだったのだろう。絶対にナチスを許してはならない。それがドイツの姿勢だった。日本ではどうだろうか。トラウマがあるとするならば、それは核であり、軍国主義だったのだと僕は思う。だから非核三原則を愚直に堅持し、憲法第九条の戦争放棄を金科玉条のように大切にしてきた。
 それが、今別の風向きに曝されようとしている。
 改憲論自体はあっていいと思う。時代が変わればルールも変わる必要がある。だが、変われば必ず良くなるとは限らない。そして今おこなわれている改憲論のベクトルは、日本を再び軍事大国へと向かわせようとしている。そしてそのベクトルを善しとしている人が増えつつあることも現実で、空恐ろしい。
 世界的な不況の現代である。不況は常に需要を欲する。不況によって醸成された自暴自棄なムードと厭世観が、戦争に寄って生み出される軍需需要を欲しやすくなるのは歴史が証明している。八方手詰まりの政治がそこに向かう可能性はけっして否定出来ない。だからこそ、現在の改憲ベクトルがとても危険で、忌むべきものだと僕は思うのだ。
 
 48歳の僕は、非常にいい時代を生きてきたと思っている。高度成長の中で両親の仕事もそれなりに順調で、特に不自由なく育った。私立の大学にも通わせてもらった。卒業の頃はまだバブルで就職も比較的簡単だった。それは親の世代が戦争を体験し、平和を大切に思いながらこの国を作ってきたからだと思う。政治家だけではなく、普通の人たちがかなり頑張って日本を豊かにし、僕らの世代は恩恵を受けているのだと思う。
 だからこそ、子供の世代にも平和で豊かな日本を受け継がせていく責任が、僕ら世代にはあるのだと考えている。仮に豊かな日本が難しくなったとしても、せめて平和な日本だけは死守しなければならないんだと強く思う。
 埼玉に94歳の男性が無所属で立候補したという。「葬式代としてためていた年金を選挙資金に充てた」と覚悟を口にする。「右傾化する安倍(晋三・自民党総裁)や石原(慎太郎・日本維新の会代表)から『軍』なんていう言葉が普通に出る。橋下(徹・同党代表代行)もムチャクチャ。無条件降伏したのに。日本はどうなっちゃったんだ、という不安がありました」「オレは戦争で死なず、散々いい思いをした。このままじゃ死んでいった仲間に申し訳ない」と。この人が当選するかどうかは判らないし、仮にこの人が1人当選したところで国会を左右できるとは思わない。だが、この人にとっては居ても立ってもいられない想いが突き動かし、今回の立候補になったのだろうと思う。世代は違えどもそれは僕の中にもあるやりきれない想いだ。本当なら僕も立候補したいくらいの気持ちがあるが、現実がそれを許さない。そういう意味でこの94歳男性の行動はあっぱれだと思うし、ある意味、そうしたいけれども出来ずにいる人たちの代弁者であるように感じている。
 この人のように立候補までしなくとも、僕らには1票を投じるという権利はある。それは無料だ。20歳以上の日本人なら誰だって出来ることだ。だからそれをやればいいんだと思う。投票を出来るということは、とても素晴らしい権利なのだ。
 村上春樹のスピーチにあった「壁と卵」の例えは、ガザ地区を包囲している壁のことを指していることは間違いないだろう。ガザ地区を包囲する高い壁はパレスチナ人をその一画に押しとどめている。パレスチナにも言い分はあるだろう。イスラエルにも言い分はあるだろう。だから問題は解決せずに今も国際問題としてそこに横たわっている。その現実は壁によって遮られ、パレスチナ人は自由を欲し、壁に挑む。人々はイスラエル兵に投石を行ない、やがて火炎瓶を投げるという攻撃につながっていく。その投げ手は女性や子供を含んでいた。
 なぜか?そういう手段しかないからである。合法的な方法など無く、だから石を投げることしかできない。自爆テロも行なわれた。それしか方法がないからである。
 村上氏は常にぶつかって壊れる卵の側に立つと言った。僕はその姿勢は正しいと思う。だが、出来れば卵を投げて壊れてしまう前に行動を起こしたいとも思うのだ。
 それは今なら選挙だ。卵を投げる前に1票を投じたい。そのくらいのことを今しておかなければ、子供の世代には本当に卵を、石を、火炎瓶を投げなければいけないことになってしまうんじゃないかという強い危惧を感じている。
 では選挙でどういう票を投じるべきなのだろうか。僕の住む京都左京区は、京都府2区という選挙区である。ここには佐藤大(社民党)、原 俊史(共産党)、前原誠司(民主党)、上中 康司(自民党)の4氏が立候補をしている。これまでは、この中の特定の候補を落選させたいという思いがとても強かった。その人を落選させるために最大の効果を発揮する投票行動は、1位2位を争う対立候補に投票するということがもっとも効果的だと言える。ではそのやり方で投票したとしたらどうなるのだろうか?それは、改憲論を主張する党首を持つ政党の力になるということに他ならない。当初の目的を達成するために最大の努力を払うということは、結局はそういうことになってしまう。
 だが、それでいいのか。もし仮にこの国が軍国主義に傾斜していったとして、今回の投票行動で改憲論を主張する政党に票を投じていたとしたら、後日子供に言い訳できるのか。そう考えていくと、やはり投票というのは単なる戦術などではなく、自分の意思の表明以外のなにものでもないということに突き当たる。
 僕は思うのだ。民主主義というのは多くの人たちの想いに基づいて意思表明がなされる仕組みなのだと。小さな人たちの意思が票という形で表出し、この国の未来を作っていく。僕の想いは小さいが、同じように小さい想いが積み上げられて、大きなベクトルとなっていく。その小さな想いは、小賢しい戦略であってはならない。純粋に自分がこの国が将来どうあってほしいのかという意見であるべきである。そう考えると、嘘つきの党の中心人物や、この国を軍国主義への第一歩に引きずる可能性のある党の候補には絶対に投票など出来ないと思う。他人はどうか知らないが、僕個人はそう思う。だから、その想いに忠実に意思を表明すればいいのだと思う。割と単純なことだ。
 この京都府2区では、以前から応援したいと思っている人の関係者が立候補してくれてはいない。もしそういう人が立候補していれば簡単な選択だったと思う。だがいろいろな事情があるのだろう。今回はそういう簡単な選択が出来る状況ではない。しかし、そのことでいろいろと考える機会になったわけで、ある意味良かったなとも思っている。投票の結果どんな勢力分布になっていくのかが重要なのではなく、自分がどういう人に政治を託したい、あるいはどういう人に政治を託したくないかという、そういう気持ちを大切にして、子供にも胸を張って自分の選択を説明できるような、そんな票を投じればいいのだ。少なくとも今はそう思っている。