作成者別アーカイブ: kirakiraohshima

相方

 最近、というか結構以前から奥さんや旦那さんのことを相方と呼ぶのをよく目にする。最初にそれを見た時は漫才コンビかと思わず突っ込んだ。そのくらい僕には違和感があったのだ。
 だが結婚してからはそう呼び合っている人の気持ちもなんとなく解るようになった。他人に対して配偶者のことを嫁とか妻というのも横柄な気がするし、それを聴いている配偶者がいい気はしなさそうに思ったし。もちろん正式には妻というのが正しそうなのも知っている。社外の人に対しては平社員であっても社長のことを言うのに「○○さん」などの言葉を付けずに「田中(佐藤でも鈴木でもよし)は席を外しております」などと呼び捨てにするのが礼儀であるように。でも、だからといって他人を立てるために配偶者を呼び捨てにする気など毛頭ない。なぜなら他人の気持ちよりも配偶者の気持ちの方が圧倒的に大切だからだ。
 本当に昔の人なら、名前を呼ぶことさえなく、「おい」とか「ちょっと」という声でしか呼びかけなかったと聴く。その気持ちもすごくよくわかる。でもさすがに今は平成だ。イクメンも当たり前の時代だ。配偶者を「おい」よばわりしていたのでは結婚生活は(大抵の場合)破綻するよ。
 というわけで、僕は配偶者のことをブログやTwitterなどでは「奥さん」と言っている(本人に直接呼びかける時はもっと別の呼び方があるのだが、それはプライベートなものであって、互いの両親さえも知りません)。でもまあ奥さんと言っているのもちょっと気恥ずかしい感じも無いわけではなく、結局正解はないんだなあと思う。
 そんな奥さんも、最近はお母さんだ。当然僕もお父さん。子供が出来るというのは人と人との関係性も変えてしまう。もちろん僕にとっては奥さんだが、家の中、特に子供の前ではお母さんと呼ぶ。僕ら夫婦の父や母はすでにおじいちゃんとおばあちゃんだ。僕らがそう呼んだら関係は悪化するだろうが、孫の前ではすっかりおじいちゃんとおばあちゃん。ご本人たちもその呼称を完全に受入れている。
 そんなこんなで今日は母の日。僕は息子と二人で散歩に出かけ、お母さんが純粋な自分に戻れる時間を作ってみた。その間に本を読もうと昼寝をしようと自由。母の日に、母じゃない自分に戻るというのもおかしな話だが、世の中のお母さんは毎日育児に明け暮れているので、自分に戻れる時間が一番嬉しいんじゃないかなと思う。そんな男2人の小旅行も約4時間で終了。帰りがけに近所の花屋でカーネーションを1輪だけ買って帰った。当然それは僕からではなく息子からのプレゼントだ。だって彼女は僕にはお母さんではなく奥さん(相方でも、妻でも、嫁さんでも、なんでもいい)なのだから。その代金380円を息子のおこずかいからいつ天引きすればいいのか、などとPCの前で今考えたりしている。

おかしな本棚

 本棚から引っ張りだして読み始めたのが、クラフト・エヴィング商會の『おかしな本棚』だ。

 この本は京都に引越してきてすぐ、マンション近くの有名書店恵文社一乗寺店で買ったものだ。東京にいる頃から恵文社という本屋が好きで、Twitterでアカウントをフォローしてて、そこが「こんな本が入荷しました」「こんなイベントが今度あります」とつぶやく度に、ああ、いいなあ、行きたいなあと思っていたものだ。入荷した本など東京でも買えるし、amazonでだってすぐに取り寄せられる。でも、恵文社が奨めてくれるものは恵文社で買いたい。
 京都に引越すことになり、偶然にも恵文社が余裕の徒歩圏内ということになり、しばらくは週に2〜3度は通っていた。今も週に1度は足を運ぶ。で、この『おかしな本棚』も恵文社のアカウントが紹介してくれたのだった。クラフト・エヴィング商會ってなんだ?そこにまず興味を持つ。で、なんとサイン本だという。知らない作者のサイン本を欲しくなるとはおかしな話だが、無くならないうちにと慌てて買いに走った。
 そしてこの本は今僕の本棚にある。本にまつわるエッセイ集なのだが、これが面白い。頭から終わりまで一気に読み通すという本ではなく、時々出してきては雑誌を眺めるようにページをめくる。そう、これは雑誌なのだと思う。雑誌も頭から終わりまで一気に読み通したりはしない。面白い特集を眺めては閉じ、また時間の空いた時に眺めたりする。つまらない雑誌はすぐに古紙回収の日に出されるが、気に入った雑誌はなかなか本棚から消えていかない。同様に『おかしな本棚』も消えていかない。装丁が本なのだから雑誌よりも捨てにくい。というか、これは気に入った雑誌並みに消えていかない気がする。いや、これこそ本棚に長く鎮座していていただきたい本だと思うのだ。
 この本では作者がいろいろな本について、また本棚について書いている。これがとにかく面白い。ある章では、本棚の奥行きがある場合には前後に本が並べられてしまい、奥に収められた本は段ボールにしまわれるよりはマシかもしれないが、せっかく本棚に並べられる栄誉を勝ち取ったにもかかわらず、本棚に並んでいる意味がほとんど無くなる、と書いてある。あるあるそういうこと。うちの本棚でも多くの本が後列に幽閉されている。でも仕方ないのだ。家はそんなに広くない。
 またある章では、本がそこにあるのは、その本を買った時の自分の記憶が背表紙を見ただけで思い起こされるという一種の記憶喚起装置としての意味合いがあるので、また読み返したりしなくても、「おっ、いるな」と思うだけでいいのだ、と書いてある。これもまったく納得出来る。もうきっとその本を読み返したりはしないのに捨てられないのは、自分の記憶を消去&リセットしたくないのと同じことだ。そこにあるだけでいい。もちろんスペースに限りはあるので、記憶の中でも残しておきたい本だけが抽出されることになる。歳を重ねるに連れて、本棚に残る記憶の密度はどんどん濃くなっていく。
 そしてまたある章では、家族の本棚にはみんなの本が並んでいて、存命中の母の本よりも無くなった父の本の方が目立つ場所に並んでいるのがおもしろい、とある。そこに父の本が並んでいることで、本棚は仏壇の役割も果たしていると。ああなるほど。それはまったくそうだなと思う。僕も父が持っていた書道の練習本を本棚に置いている。それは父の存在の証でもある。また、中学に入った時に父からもらった国語辞典もそこにある。今となってはわからない言葉はネットや電子辞書を使うのでもう国語辞典を開くことはほとんど無いが、贈られた国語辞典の表紙を開いたところには父から僕へのメッセージが自書されていて、絶対に捨てることは出来ない。父は確かにその本棚にいるんだなと思う。
 さて、僕の本棚はすでに家族の本棚として役目を変えている。当然僕の本と奥さんの本が渾然一体と並んでいる。だから本の半分には僕の記憶は存在していない。だが、そういう渾然一体としている本棚が既に僕らの結婚の証でもあるのだろう。知らない本があるということが、僕は1人ではないということを意味している。知らない本が並んでいると言っても、それは本屋や図書館の本棚とはまったく意味が違う。そこにある知らない本には、彼女の記憶が詰まっている。それが僕の記憶と渾然一体となっているということは、人生が混ざり合ったということの証明でもあるような気がする。
 こういうことは、電子書籍ではありえない感慨だと僕は思う。それがなかなかデジタルに気持ちが行かないひとつの要因だろう。紙の書籍だったら、自分が読んで面白かったものを奥さんに「読んでみる?」といって貸すことも出来る。だが電子書籍では端末そのものを貸さなければいけない。それは面倒なのできっともう1冊買えということになってしまうだろう。本棚を共有するなんてこととは全く別の文化がそこにはあるように思う。
 もちろん以前は巻物だったものが書籍となって僕らの生活に福音をもたらしたように、いずれ紙の本は消えてなくなり、今の紙の本にあるいくつもの特性をも含む電子書籍文化というものが取って代わるのだろう。だがそれは今日明日ではなく、もう少し先の時代なのではないだろうか。僕はそうあって欲しいと思う。たとえ電子書籍が紙の書籍を圧倒したとしても、僕の家にはまだまだ本棚を置いておきたい。
 そうそう、11ヶ月になろうとする息子に絵本を読んであげるのが今ものすごく楽しいのだ。彼の本(絵本)も僕ら夫婦の本棚を浸食し始めた。本棚は、家族の証でもあると思うのだ。

カッコいいバンドたち:2013年5月編

 たまには音楽の仕事してる人みたいな記事も書いておかなきゃと思います。で、今日はいくつか無名のカッコいいバンドを紹介します。

『lasting』/inorganic or mineral matter
 横浜を中心に活動しているポストロックバンドです。ポストロックと名乗っているバンドでも音楽性はまったくバラバラですし、そんなにポストな感じじゃないぞという普通のロックバンドも多いのですが、これはまったくもってポストなロックだなという印象。このカッコ良さは、そんなにロックに精通していないリスナーでもカッコいいとすぐに感じると思います。追求している世界が明確だし、それにストイックに取り組んでいるような雰囲気も楽曲から滲み出てきます。

『nock』/水中ブランコ
 鹿児島を拠点に活動しているバンド。熱い、とにかく熱い。格好をつけてそれなりに形を整えるバンドはものすごく多く、というかほとんどがそうだと断言しますが、彼らはそういうことなどおかまいなしにぶちかます、そんなエネルギーを感じます。今月はアメリカツアーだそうで、頑張ってるなと思います。

『生マレ守ナイ』/ソコノケモノ
 こちらも横浜を中心に活動しているバンド。リズムが不思議で、ボーカルが妖しい魅力で、ベースに圧力があって、ギターのフレーズが偏執的で、ドラムがグルングルン回っていて、どこをとっても面白い、いや、ステキです。

『FeverRoverRevolver 』/And bottoms
 東京千葉を中心に活動する3ピースロックバンド。なかなか渋い。ボーカルの声質にすごく特徴があり、引っ掛かりのある歌になっている。ベースのフレーズがメロディを持っていて、単なるルート弾きではなくて、とても目立ちます。
 今日のところはこのくらいで。なお彼らに直接取材したり許可を得ている訳ではないので、上記のYouTubeは突然リンクが切れる可能性があります。その時はその時ということでひとつ。
 最後にキラキラレコードの楽曲もリンクしてみます。

『天気予報は雨』/ペパーミントキャンディーズ
先日HDから発見された過去のビデオです。時間が経っても色褪せない名曲というものはあるのです。先日公開したところ、CDが売れました。このマキシシングルに収録している3曲目が一番泣かせる隠れた名曲だったりするので、買っていただいた方は得をしたと密かに思っております、ハイ。
KRDL-00008.jpg
(クリックしてCD買ってくださいね)

放題文化

 書籍の読み放題サービスがスタートするとか。ついにそこまでという気がする。でも、それでいいのか?
 音楽の世界ではすでに聴き放題サービスはある。昔は有線放送がそういうサービスだった。機械を導入して月額を払えば聴き放題。440チャンネルあるから自分が好きなジャンルの音楽のチャンネルに合わせれば良い。これでもうCDを買う必要はないと、有線は宣伝していた。だが好きなジャンルのチャンネルは選べるけれども、自分が好きな曲を今聴くことは出来ない。だからリクエストすれば良いのだが、リクエストしても流れるまでは時間がかかるし、待って1度聴くだけだ。それではリアルタイムでの聴き放題とは言い難い。
 だが今は本当の聴き放題サービスがある。Spotifyだ(日本では2013年5月時点でまだサービス未提供)。サービス未提供だから使い勝手についてはよく知らないが、聴きたい曲を聴きたい時に聴けるそうだ。我がキラキラレコードの楽曲もいくつか配信をしていて、それはSpotifyにも提供されている。稀に支払い明細があって(日本の楽曲なので、海外で聴かれていることも驚きではある)、明細を見ると0.0078ドルだ。1ドル=100円のレートで0.78円だ。日によって変わるが、0.01円になることは滅多に無い。たくさん聴いてもらえればそれなりの金額になるのかもしれない。Spotifyは2000万ユーザーがいるそうだが、その全員が聴いたとして、20万円にならないという計算だ。それほど聴かれていないミュージシャンにとってはほとんどお金にならない音楽流通だと思う。
 僕はよくバンドマンに言っているのだが、今の時点でサザンやミスチルに総売上で勝てるわけはない。だが特定のリスナーに対して「僕らとサザンのどちらを買いますか?」という問いかけであれば、勝てる場面は出てくる。それを増やしていけば良いだけのことである。だがどこかの誰かが1度聴いて1円にならないというレートであればどれだけ勝たないといけないのだろうか?それなら駅前で投げ銭を期待して歌っていた方が遥かに可能性があるというものだ。
 若いバンドマンだけでなく、かつてのスターも生きていかなければならない。以前は毎日テレビに出ていた人もやがてそれほどの露出は無くなる。そうなるとどうすればいいのか。ファンクラブである。1億人が活動を知らなくても、コアなファンが1万人いてくれて、そこに的確に情報を流すことができ、年に1枚CDを買ってくれて、年に1回ライブに来てくれれば十分に採算は取れる。さらにファンクラブの会費を5000円ほど払ってくれるならスタッフだって数人雇うことが出来る。広く薄くというビジネスではなく、狭く深くというビジネススタイルだ。
 インディーズの無名アーチストも、同様のビジネス展開をしていかなければならない。かつてのようなメジャーで100万枚というビジネスモデルを追求しても、その根幹となるメディアも変化していれば、メジャーレーベルの力も変化してしまっている。自分に出来る中でのファンの囲い込みをどうしていくのか。これこそが日本全体で見れば無名でも音楽で食っていくための鍵なのである。しかし聴き放題というシステムは明らかに広く浅くのビジネスモデルであって、無名のアーチストやかつてのスターが同意出来る種類のシステムではないのだ。
 それでも百歩譲って音楽も書籍も動画コンテンツもすべてリスナーや読者などユーザーのためにあるということだとしよう。それでも、人間には1日24時間しかないのである。いったい何曲聴けるというのだろうか?僕はかつてWOWOWに加入してたことがあって、これで映画を観放題だとワクワクしたことがあるが、結局ほとんど観なかった。数ヶ月見なかったこともあって、あまりにバカバカしくなって契約を辞めてしまった。本読み放題、映画観放題。そんなことで愛読書などは出来ないと思うし、感銘を受ける映画も出来ない、一生聴き続ける自分の名曲も出来ないだろう。
 食事にしても食べ放題のお店はある。だが、食べ放題は食べ放題だ。量であって質ではない。もちろんホテルのレストラン食べ放題のクオリティはそれなりに高い。だが飽食の人たちがこれでもかと競って列を作り料理を皿に盛る姿を見ると、せいぜい数年に1度程度でもう十分だと思う。一生毎日食べ放題のレストランでと言われたら僕は絶望するだろう。飢えないということが満足ではない。満腹ということも満足ではない。
 文化も同様だ。値段があって、それに対する価値があるのかどうかをじっくりと吟味する。その過程そのものが鑑賞なのだ。聴き放題見放題読み放題では、価値に対する評価さえ不可能になる。それでは作者に対する尊敬も生まれないだろうし、そういう文化の消費の仕方をしている人は哀れだとさえ思う。
 だが、時代の流れは確実にそういう方向に向かっていて、その流れに抗う方法さえまったく見えていないというのが正直な心持ちなのが悔しい。
 

itunes-icon.jpg

アンネ・フランク

 先日本屋で絵本の「アンネ・フランク」を見た。

知ってはいるものの、もう内容についてはかなりおぼろげだったアンネの日記。それを絵本にしたもの。全体的に無機質なトーンの絵柄で、えも言われぬ寂しい雰囲気の当時をよく表していると感じた。
 当時のドイツは世界的な不況のさなかにあり、ヒトラー率いるナチ党が台頭し、反ユダヤ政策を推し進めた。フランク家はオランダに移住するもののナチスドイツがオランダに侵攻し、やがて隠れ家での生活が始まる。隠遁生活は2年にも及ぶが、ついに密告によって発見されて収容所に送られ病死する。
 もう誰もが知っている話だ。この話を聞いてナチスドイツは酷いヤツらだと思う。どんなに理屈が正しそうに見えようとも、特定の民族だからということだけで権利を奪い、命を奪うことが正当化されるわけがない。だが実際に起きたことだし、疑問を持っていた人であっても抵抗できない雰囲気というものに社会が包まれていたのだろう。
 だが、当時のドイツ国民のことを非難できるのだろうか。今日本では中国や韓国との関係が悪化し、いろいろなところでバッシングが起きている。そこにも理由はあるのだ。竹島や尖閣諸島という領土にまつわる問題と、そこから派生する罵倒合戦。だが、どんなに理由があろうとも、特定の民族や人種に生まれたからということだけで他人に死を要求などできるものか。普通はそうだ。戦後の民主教育でそういうことはダメだと散々教わってきたし、その価値観は誰しも共有出来るものだと思っていた。しかし、最近のニュースを見る限りそれは間違いだったということに気付かされて愕然とする。
 ヒトラーの台頭も、不景気の中での経済対策から始まっている。追いつめられれば人はいろいろな感性を自ら死滅させてしまえるものだ。経済さえ立て直してくれるなら哲学なんてもうどうでもいいよと。窮すれば鈍すである。平素豊かな時ならばそんなことは有り得ないと思うし、今でも大多数の人はそこまで追いつめられてはいないだろうと思う、いや思いたい。だが、実際年間3万人もの人が自殺する。その多くは経済の行き詰まりだ。鬱からの自殺も当然あるが、それとて経済的に満たされていたらそこまで追いつめられなかったケースも多かろう。今の日本はどうなのか。経済的にどうなのか。そして人々の人権意識はどうなのか。というより、愛はどうなのか。少なくともヘイトスピーチが公然と行なわれるような事態を目の当たりにしては、かなりの危機感を覚えずにはいられない。いられないのだ。
 こういうときだからこそ、このアンネフランクに偶然出くわしたのは有意義だったと思う。そうなってからではもう遅いのだ。今自分に出来ることは一体なんなんだろうと考えさせられた。

こどもの日

 なんか世情は不安だ。何が不安だって簡単に説明など出来るものか。簡単に出来るくらいなら簡単に修正も出来るだろう。完全な悪と完全な善がいて、勧善懲悪で物事が済めば苦労は要らない。悪に見える人も一方の陣営からはヒーローである。そして何より1人の人間だ。人間には基本的人権というものがある。その中で誰もが悩んだり苦しんだりしている。どうしようもない流れでその立場になった人もいる。というかほとんどの人はそうだろう。就活でそこに偶然内定が決まっただけの人は五万といる。ある特殊な家に生まれたばっかりに抗えぬ力で政治家になってしまう人もいる。そうなりたい人からすると「ずるい」ということだろうが、なってしまってる人からすれば、それ以外の道を選ぶ自由などない。基本的人権があるから選ぶ自由はあるのだ。だが自由とはいつも手にするために多大なる労力や犠牲が必要となるものだ。ぐずぐずしていたら自由な道を選択することなどなく、いつの間にか「オレはどうして今こんなことをやっているんだろう」という立場になってしまっている。いや、ほとんどの人はそれを天職と錯覚して馬車馬のように頑張っちゃっているのだが。
 で、世情の不安だ。憲法改正して徴兵制とかになって戦争になったらどうするとか言われてて、そこまでなるかよとは思うのだが、じゃあ絶対ならないかと言われるとそんな自信はまったく無い。制度としてそうなるのかという問題とは別次元の、もっとみんな国民はまともだろという期待がかつてはあったけれども、この数年でそんな期待はまったく崩れた。第二次世界大戦前にどうして国民を挙げて戦争に突入していったのか。その時の国民は愚かで阿呆だったんだと思っていて、戦後の民主教育を受けてきた僕らには個人主義が浸透しているからなんだって自由なことが言えるし、だから戦争をするなんてことを言う政治には敢然とNOを突きつけるはずだと思っていた。が、それも311以降の絆圧力を目の当たりにすると、ああ、人間はいとも簡単にその同調圧力にひれ伏してしまうんだということを思わずにいられない。それは一種の諦めだ。絆という一見まともで正義な言葉に押されると、人は「いやそうじゃないよ」と思っていてもそれを言葉にすることが出来ない。出来ると思っていたのは机上の空論だったし、書生論に過ぎなかった。人は圧力に弱いし、それに対抗する唯一の手段は沈黙だった。転向する必要はない。だけど主張を貫き訴える必要もない。だから自然と黙るのだ。黙ると、両極端の人だけが声を上げ続ける。声を上げるというのは事業であり、事業には資金投下が必要である。結果として金を持っている勢力が声を大きくしていくことが出来る。戦争とは詰まる所金だ。やることで儲かると信じてる人が宣伝予算を使ってムードを醸成し、一気に突っ込んでいく。本当は無言の声もあるのに、金を持っているビジネスマン勢力と、正義だけで動こうとする理想主義者での両極端な言い争いのどちらが勝利するのかは目に見えている。ビジネスは結局コストとリターンのバランスだ。利益をあげるためには人件費などどんどん削っていくし、サービス残業で過労死しても仕事の勢いを止めようとしない。止めれば外部とのビジネス戦争に負けるからだ。それは今の世の中で散々見てきている。本物の戦争だって基本は同じこと。働いたのに「サービス」でお金をもらわず黙っているのは、要するに絆みたいな何かのスローガンに騙されているわけで、その精神構造がアリなら、お国のために自分の命までサービスで投げ出すことだろう。だって働いたのにお金もらわないっておかしな話じゃないか。でも、黙っている人はものすごく多い。国のために命だって普通にサービスで投げ出すよ。おかしな話だ。でも、圧力がかかりムードが支配すると、それもアリだと思い込んでしまう。単なる思考停止だと思うけれども、そのまっただ中にいる人にとっては思考停止だという概念さえ消え去ってしまっているのだろう。
 で、こどもの日だ。僕にとっては子供がいる状態で迎える初めてのこどもの日。子供のことを今まで考えていたかこの5月5日に?ただ「休みだ〜」なんて感じでいただけだ。でも今年は子供のことを考える。明るく楽しく過ごしていければいいなと思う。ずっと幸せな人生を送ってもらいたいと思う。そのために何が出来るんだろうと思う。でも、絆圧力が世間を支配したら、僕に一体何が出来るのだろうか?それを考えると頭を抱えてしまう。だって息子10ヶ月半の一生を見守り続けることなんて不可能なのだから。だとすると、やっぱり教育だ。教育といっても勉強を詰め込むことではないと思う。人間がなんで生きているのか。幸せとはなんなのか。こうと思ったことをどうやったら続けていくことが出来るのか。そしてこうと思っていたとしても、それ以外の道もあるんだという柔軟な思考を持つにはどうしたらいいのか。そういったことを教えてあげたい。それを教えてくれる学校も塾も無いと思うから。いや、もちろん生きていく中でいろんな友達や師に出会うだろう。そういう人からも教わっていくだろう。だが父親こそがそういうことを教える最大の柱だと思う。というか、そうでなければならないと思う。それが自分に出来るのだろうか。いや、出来るかどうかじゃないんだなこれ。やるかやらないかなんだなきっと。
 頑張ろう。そんなことを考えながら、夏の陽気が少し顔をのぞかせた京都で1人かき氷を食べながら考えておりました。なぜ1人かというと、肝心の息子はお母さん(僕の奥さん)と一緒に、ママ友から誘われたこどもの日イベントに出かけておりましたので。
 父親は孤独だ。でもその孤独が哲学を鍛えることになるし、それがいろいろ教える基になるんだと、自分に言い聞かせたこどもの日だった。かき氷を食ったのは桂にある中村軒。季節のイチゴ氷はとても美味しかった。いい日だった。

関連ランキング:甘味処 | 桂駅

憲法記念日

 祝日の今日、昨晩遅くまで起きていたにもかかわらず、長男の起床とともに一日が始まる。休みだから遅くまで寝ているという理屈は通用しない。
 で、朝ごはんを食べ、洗濯物をたたんだりしていた。僕がたたんでいる時も生後10.5ヶ月の長男はおとなしくなどしてはいない。お父さんがなにか面白いことをやっているに違いないと思うのか、近くにずり寄ってきては、たたんだ服を片っ端から散らかそうとする。それを排除してはまたたたみ、たたんでは排除する。その繰り返し。効率が悪いったらありゃあしない。
 でも、長男が近寄って来られないように別の部屋に閉じ込めておくのはイヤなのだ。興味あるものに近づくのは正常なことで、喜ぶべきことであっても迷惑がることではない。多少作業効率が下がっても、数枚の洋服を何度もたたみ直すことになっても、それはそれでいい。ちゃんと長男が成長しているということなのだから。
 なぜ連休に僕が洗濯物をたたむのか。奥さんはなぜしないのか。という声は挙るのだろうか?挙ったって気にしない。たたむのは好きなのだ。好きなことを僕がやって何故悪い。長男がたたんだ服を散らかすなら楽しみが増えるというものだ。それに、連休は家族の連休であって僕だけの連休ではないのだ。奥さんがそれで楽が出来るなら、それこそ奥さんの連休スタートというものである。
 そんな連休後半初日は憲法記念日だった。時節柄憲法改正論議が喧しく、もはや改憲は前提のように進んでいる。この問題はなかなかに奥が深い。憲法論議はいろいろな憲法学者が論議を積み重ねてきて、新しい論議は出来ないくらいにガチガチになっていると聞く。その割に僕を含め国民の多くは憲法についてほとんど知らない。9条くらいだろう条文を知っているのは。今96条の改正を自民党が狙っているということだが、96条もあるのかと驚くくらいだ。97条以降もあるのか、それも知らない。仮に96条で終わりだとして、9条と96条以外に94条もあるわけだ。それを知らずに改憲もクソもないだろうという気が正直している。一度きちんと読んでおきたいと思った。
 では、読んでなくてわかっていないなら黙ってろということなのかというとそうではないと思う。戦後67年もの間とりあえず平和に暮らしてくることができた。その平和な国の根本原則である憲法を変えるということに怖さを感じたとしてもまったく不思議ではない。今の憲法を変えないといけないとするならば、何故今のままではダメで、変えることによってどのようにこの平和と繁栄がさらに平和で繁栄な国につながっていくのかということを、改憲主義者は説明する必要があるのだろうと思う。「アメリカから押し付けられた憲法だからダメ」というだけでは説得力などまったく無い。ましてや今回の96条からの改正という手法は、ルールの根本をなし崩しにしようというもので、本質的論議というより技術的戦略に過ぎない。それは邪道だと思う。誘拐犯が子供に「おもちゃ買ってあげるから付いておいで」という時のおもちゃそのものだ。おもちゃに釣られてついていくと、その先にあるのは誘拐だ。そういう怖さを僕は感じる。もちろん善意でおもちゃを本当に買ってくれるおじさんもいるかもしれない。でも親なら「その人が本当におもちゃを買ってくれる人なのかを慎重に見極めなさい」とは教えない。普通は「知らない人についていってはいけません」だ。僕もそう教わってきた。だから、よく知らない改憲論議には最初から嫌悪感を覚えるのである。おもちゃを買ってあげるというおじさんが本当に善意だけで言っているというのなら、親を含めて説明を十分にすべきなのである。説明が十分にされて、それでもなおまともな人はついていかない。それをついてこさせるくらいの丁寧な説明が必要なのであり、それは今の改憲論議ではまったくなされていないと僕は思うのである。
 何事もそうだが、変わっていかなければ生き延びることは出来ない。その変化が改憲を必要とするものなのか、それ以外の変化で十分なのか。そこもちゃんと判断されるべきだ。判断するのは、僕だ。これを読んでいる普通の人だ。政治家だけではない、日本国民すべてが等しく考える義務がある事柄だと思う。
 連休後半初日、僕はとても幸せな気分で過ごすことができた。生後10ヶ月半の長男との暮らしはとてもスリリングでエキサイティングでピースフルなことだ。その長男と1日ずっと一緒でいられるというのは幸せそのものである。その1日が洗濯物をたたんだり、それを邪魔されたりすることだとしても、僕は素晴らしいと感じている。この幸せな時間が少なくとも長男が生きている間くらいまでは続いてもらわなければ困ると思う。憲法を変えるというのは、それに資することなのだろうか。その確信が今の時点ではまったく持てない。
 確信を持てないのは一体何故なのか。単に僕に日本国憲法についての知識が欠けるからなのか。それとも現在の改憲推進の動きが本当に邪道でそれを的確に感じ取っているからなのか。そんなことをちゃんと考えるには、憲法記念日という今日は一番ふさわしいのかもしれない。




ハードディスク

 連休の合間の平日はなんか調子が狂う。なんでだろ?リズムがいつもと違うような気がしてならない。
 なので、オフィスの掃除を結構真面目にやった。かなりスッキリして嬉しい。部屋が片付くのはいつも気分良いものだが、どこにあるかわからなかったものが偶然見つかるというのが特に嬉しい。今回発見されたのはハードディスク。ノートパソコン(MacBook Proだけど)を買い替える時には必ずといっていいほど内臓のHDを自分で交換する。Appleでやってもらうとメチャ高だからだ。買った時点で一番大きなサイズのHDにするわけだが、そうすると入っていたHDが余る。その余ったHDの分も込みで自分交換の方が安いのが面白いところ(しかも中を開けるのは結構楽しい作業)で、余ったHDにケースを買って外付けとして利用。ポータブルHDの出来上がりだ。
 しかしまあ最近はポータブルHDというモノ自体があまり利用価値が無くなっている。USBのメモリスティックが結構な容量だし、Dropboxやbox(キャンペーンで50GBのスペースをいただいた。でもまだほぼ使わずに放置してある有様)があるから、通信環境さえ確保していればそこに放り込んでおけばいい。そして近年の仕事で通信環境が確保されない状況は考えにくい。必然的にポータブルHDとして再生した元内臓HDは再び使われないHDとしてどこかに行ってしまっている。
 それが、見つかった。たいしたものは入っていないだろうと思って見てみたら、どうもポータブルHDというよりも保存用のHDとして利用していたみたいだった。中には古いプロモーションビデオの数々。これはいい。思わず取り込んでMP4に変換して、いくつかをYouTubeチャンネルにアップした。古い映像なので見ると少々恥ずかしいものもある(音楽的に古さがあるのと、昔は映像の加工にものすごい時間がかかっていたので、多少の不満も時間的な要因のために我慢していた部分があったから。もちろんセンスの問題もある)が、まあひとつのネタとしてアップという考えもあるし、その恥ずかしい部分も含めて歴史なのだ。
 結果的にいつもとはちょっと違う仕事をすることができたわけだが、そうするとHDというものに再び興味が出てくる。で、調べてみた。もう3年以上HDを買ったりしていなかったのでこれは興味深い。どんどん安くなってしまっている。
1T以上の2.5インチハードディスクいろいろ
 ノートに内臓用の2.5インチHDが、1TBで8000円しないとは。かなりビックリだ。時代は変わったなあという気がする。僕が遅れているだけなのだろうか?まあ時代は徐々にSSDに移ってきているみたいだが、まだまだアレは高いし、容量の方が僕には必要な気がしているから、このHDの安さはかなりの魅力だと思う。

これなんかもかなりいいと思う。ウエスタンデジタル結構好きなんだよなあ。
 しかしついでに調べてみたら、外付けなら2TBでも1万円しないのか。
2TB以上の外付けHDいろいろ
 こうなってくるとちょっと考えるな。いや、今すぐに買い替えたり追加したりはしないんだけれども(緊急必要性がないので)。目下の課題はいくつか見つかった80GB程度の外付けHDの扱いについてだ。それをまたつないで使うということはまず無い(USB1.0の仕様なので)から、そこからデータを新しいHDに移し替えて、破棄させていただくのがもっとも正しいことなんじゃないかという気がすごくしてしまっていて…。

3年目

 2年前の4月28日午後に僕ら夫婦は車にたくさんの残り荷物を積んで東京を出発した。連日の引越準備の疲れからか、途中のSAでかなりの休憩&仮眠をとり、結局京都に着いたのは日付が変わった4月29日の午前2時を回っていた。
 荷物を懸命に新居に運び込み、とりあえず寝た。翌朝まずトイレットペーパーを買いに行き、ついでに簡単な朝飯を買って食べ、京都の体育館に向かった。偶然にもその日は福岡の兄が剣道の昇段試験を受けに京都に来ていたのだった。会場のスタンドから見ていると大勢の道着のオッサンの中に兄を発見した。笑顔だった。六段に昇進した瞬間だった。僕らの新生活にも弾みがつくような気がした。その後引越祝いと試験合格祝いを兼ねて食事をした。なにか不思議なランチだった。
 それから2年が過ぎた。僕らには昨年長男が生まれ、今は3人での生活である。2年のうち10ヶ月が妊娠期間で、長男が今10ヶ月と11日。京都での純粋な夫婦だけの時期は4ヶ月ほどしかなかったのかと思うが、今となっては夫婦だけの時間があったのかと思うくらいに子供の存在感は大きい。
 京都生活3年目に突入した訳だが、すべて順風満帆というわけでもない。頑張らないといけないと思う。親になったんだから余計にそうだ。
 そんな感じで、気持ちを新たにしたい、そんな新緑の京都である。

記録の行方

 僕らは日常的に写真を撮る。携帯に写真が付いてからの僕らの習慣だ。
 それまで、写真は高かった。36枚のフィルムを撮って現像したらすぐに1000円だ。100枚撮れば3000円。そんな簡単にバシバシ撮るものではなかった。でも今はすぐに録れる。気軽に録れる。赤ちゃんの表情を撮りたいと、毎日連写だ。たった1枚のベストショットのために100枚くらいはあっという間だ。そのベストショットを家族に送ったり、facebookで公開したり。残りの99枚はどうするのかというと、消す訳でもない。とても消せない。だってそれも貴重な長男の一瞬なのだ。消せる訳がないじゃないか。
 そうして、おそらく二度と見ることのない写真は溜まっていく。ハードディスクのどこかに格納されていく。
 坂本龍馬の写真が残っているが、当時は1枚を撮るのにものすごく時間がかかったそうだ。しばらく動かずにジッとしていなければならない。当然高かっただろう。だからそんなに枚数も撮られず、結果として撮った1枚だけが残ることになる。他の瞬間もきっとあったのに、坂本龍馬の記録はその1枚ということになり、みんなのイメージはあの立った写真の坂本龍馬ということになる。
 たくさんあれば、分散する。その時の意識も分散するし、後から省みる時間も分散する。あの日あの時の記録は、人によってバラバラになる。それも仕方がない。そういうものなのだから。僕らはなんのために写真を撮っているのだろうか。気軽は良い。だがその気軽が結果的に価値を下げているのではないだろうか。
 僕は思うのだ。後から見返すことに意味があるのではなくて、今この瞬間自分はこの光景に注目しているんだという意識を自覚するために写真を撮っているのではないかと。だから、撮ってしまえばメモリやHDに収納され、後で見返すことなど無くたっていいのではないだろうか。とはいえ、もう見ないからと割り切ってデータを消去してしまう勇気はまったく無いんだけれども。