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音楽のマネタイズ

 AKBの商法を非難する声は今も多い。あれはCDを売っているのではないと。売っているのは握手券だと。選挙の投票権だと。だからそれでCDのセールスが上がっても実際にそれだけ売れているのではないと。だからクソだと。いやー、さんざん言ってきた。僕は言ってないけれど。
 僕の主張はこうだ。売れるというのは音楽が売れるということではないんだと。もちろん音楽の価値を押し出して売れるという方法もある。だがそれでは1曲だけの一発屋に終わることになる。大事なのはアーチストそのものの価値を理解してもらい、評価してもらうということだ。だから聴いてもいない新曲に期待してもらえるのだし、買ってもらえるのだ。究極としてはアーチストのロゴ入り消しゴムが売れるようにならなければいけない。アーチスト活動というのはそういうものだろう。CDだけが突出して売れるというのは、アーチストパワーがさほどないということの証明でもあるのだ。
 そういう意味で、AKBやジャニーズの売れ方を批判している人たちには、じゃあその音楽の圧倒的なクオリティの高さでCDの売上げ枚数的に勝ってみろよと言う以外にない。AKBのルックスが特別絶世の美女揃いということでもないわけで、踊りや歌がものすごいレベルということもないわけで、それにCDの売上げが負けているのであれば、結局は負けている音楽の価値というものはその比較的普通の集団が提供している芸的な何かに負けているということになってしまう。まあ結果負けるのは仕方の無いことだが、負けていることを正当化するためにAKB商法を揶揄するのは負け惜しみみたいで恥ずかしいなと思うのである。もちろんそんなに単純な話ではなくて、ビジネス的な手法を様々に絡めた戦いなのだから、単純化した論で比較しても仕方ないのはわかっているけれども。
 で、何で今頃そんなことを書いているのかというと、ここ最近のCDの売れ行きの落ち込み(と言われている)への話として、音楽ビジネスそのものをどうシフトしていくべきなのかということを言う人たちが増えているからである。具体的にはこうだ。近年若者は音楽というものはすべて無料で手に入るものだと考えていて、この流れはもう止まらないので、音楽業界はいつまでも音楽を売ることにしがみつくのではなく、YouTubeなどで無料で音楽を聴かせて、それで気に入ってもらってからライブに来てもらい、チケット収入を得たり、グッズ販売をしたりして利益を出していくべきだと。そういうことをいう人がとても多い。
 では、それは音楽活動なのだろうか。
 例えば、若者の支持を必要とする商品を売っている企業、例えば清涼飲料水会社などが、アーチストと契約をしてその飲料水を買ってポイントシールを送った人だけが(抽選で)行けるライブを企画したとする。そのアーチストのライブ映像をテレビCMでバンバン流し「さあ君も飲料水を飲んでライブに行こう!」と宣伝して、飲料水が売れて、ライブに行く人が喜んで、アーチストには相応のギャラが支払われる。これは音楽活動なのだろうか?売るものが清涼飲料水なのか、アーチストのロゴ入りTシャツなのかの違いしかない。テレビCMかYouTubeなのかの違いしかない。ライブは行われるのだ。ファンはチケットを買う代わりに飲料水を買うのだ。飲料水代からアーチストは収入を得る。チケット代とTシャツ代から収入を得る代わりに。アーチストはその企画を成立させるために、クオリティの高い音楽とパフォーマンスを提供しなければならない。でもそれは自主でライブをやるときもまったく同じことなのだ。
 アーチストもお金が無いとやっていけない。霞を食って生きていけるわけはないのだ。だからなんらかのビジネスモデルで収益を獲得する必要がある。だが、それがTシャツやバッヂなのだとしたら、音楽じゃなくてもよかろうという気がする。それに、多くの人はAKB商法を揶揄してたじゃないか。握手券のためにCDを売るのは邪道だと。種類が違うジャケットで何枚もCDを買わせるのは邪道だと。でも「CDを売るのは諦めてライブチケットとTシャツで稼ごう」というのとそれは一体どこが違うのだ?
 少なくとも、AKBもジャニーズもCDを売るために必死にやっている。そのための策としてちょっとだけズルいと思われるような作戦も展開する。だが、そういう商法によってかろうじてCDの売上げが業界として維持されているというのも事実である。エラいと思う。ルックスなどで複数枚売れないアーチストは、もっと別の、それこそ音楽の質そのもので複数枚売るくらいの覚悟と熱意があって当然なのではないだろうか。それが「もはや音楽コンテンツそのものを売る時代は終わった」などと言っているようでは、あるいはそんなことをいっている評論家たちの言葉に屈するようでは、そもそも音楽で身を立てる資格などないんだろうと僕は思うのだ。

鴨川

 先月半ば、京都は強い台風に見舞われた。嵐山の渡月橋が激流に呑まれている映像をニュースで見た人は多かろう。一方の鴨川はそれほどでもなかった。増水はしたが決壊まではせず、周辺の生活に被害はさほどなかった。だが、増水の爪痕はそれなりにある。
 賀茂川と高野川が合流して鴨川になる地点、ここを出町柳デルタという。ここに飛び石があり、市民も観光客も嬉々として渡っている。僕も毎日ここを渡って通勤している。だが、それも過去の話。台風の影響で今この飛び石は水の中に沈んでいる。当然渡って向こう岸に行くことなど不可能だ。
 増水した水は退いたのだ。しかし今でも飛び石は水の下。何故か。台風によって増水した流れの勢いで上流から土砂が流れてきて、このエリアに積もっているのである。つまり飛び石は水の下に沈んでいるのではなく土砂に埋もれているのだ。浅くなった水は飛び石を隠すように積もった土砂の上を流れている。当分元に戻る気配はない。
 子供の頃に地層というのを習った。砂岩の上に粘土層があって、その上にはまた別の成分の層がある。それはものすごく長い時間のなかで起こる自然現象なのだと思っていた。が、そうではない。たった1日の台風で川底の成分は変わる。それまで川底だった場所の上に別の成分の土砂が積もる。実際出町柳デルタ付近で多くの石や岩が留まっているからなのか、そこから丸太町あたりまでの間には砂が多く流れてきているようで、川底は明確に砂が堆積しているのがわかる。ここは将来砂岩になっていくのだろう。いや、普通に考えればやがて苔が生えて藻が生えて以前のような川底になるのかもしれないが。
 このままずっと飛び石周辺の土砂が取り除かれないのだとすれば、何万年後かに発掘された時に「こんな飛び石を作る技術を持った文明が一夜にして土砂に埋もれた。比叡山の噴火があったに違いない」などと言われたりするのだろうか?そんなことは恥ずかしいので、はやいところ出町柳デルタの飛び石周辺を片付けて、ふたたび飛んで渡れるような姿を取り戻してほしいなと、京都市には是非お願いしたい。

ブログのデザイン

 ブログのデザインを変えました。
 僕にとってブログとは一体なんだろう。ブログなんて言葉が存在しない頃からネットで日記を書いていた。ブログが登場してからしばらくしてseesaaでブログをやるようになった。頻繁に更新するときも、なかなかやらないときもあるけど、やめようと思ったことはない。
 ネットでは、mixiもやった(今もやってるけど)。TwitterもやってるしFacebookもやっている。多くの人に声をあげるのが基本的に好きなんだろう。その昔、キラキラ所属のアーチストを宣伝するために渋谷や原宿にA3サイズのモノクロビラをたくさん貼ったりした。今の渋谷タワレコ脇の高架下は当時ビラ貼りのメッカで、大正九年の特大サイズのモノクロビラを貼った時は楽しかったなあ。多くの人に「見たよアレ」と言われ、宣伝効果があったのも事実だが、基本的に楽しかったのだ。お巡りさんに見つかって始末書を書かされたこともあったが、それも含めて楽しかったんだと思う。ブログも基本的には楽しいからやってるのだ。そうじゃなければやらないさ。面倒くさいもの。
 で、ブログはデザインがお仕着せな感じで、それがどうにも不満だった。でもふと調べてみると、デザイン変えられるじゃないか、しかもカスタムな感じで。
 というわけで、ヘッダを変えてみた。文字の大きさや色も変えた。それだけで結構自分の発言って感じになってきた。イイぞイイぞ。
 でもまああれだな、キラキラのジャケットを配したので、あんまり時事的なことばかり書いてる場合じゃないかな。とかなんとか思ったりもするけど、そんなこんな、あれやこれやも含めてキラキラ大島なんです。これからもどうぞよろしく。

ご都合主義

 朝の誰かのツイートで、あの政治家が「長崎や広島で1ミリシーベルト以上の被曝があると医療費が無料になるが、福島ではそういうことになっていない」という発言をしたとかいうことが流れてきた。そうなんだ。福島での被曝限度を20ミリシーベルトにするというのは結局そこに問題が行き着くのではないかという気が僕もしている。
 僕はここで「福島も1ミリシーベルト以上で医療費無料にしなきゃオカシイ」と騒ごうと思っているのではない。ただ、この矛盾を専門家はどう説明しているのかということに注目したいのだ。
 事故後に強制退去とか、移住とか、住み続けるとか、除染とか、まあいろいろなことがあっていろいろな議論が起きた。子供でも年間被曝量20ミリシーベルトの場所に住んでいていいのかという議論もあった。僕個人としてはそれは良くないだろうと思う。チェルノブイリのあとにどういうことになったのかなどをちょっと調べると、それはやっぱりマズいだろうと思った。だが、それは素人の考えである。チェルノブイリのことを精査した経験もなければ、精査出来る知識背景もない。それでも個人としていろいろ考えるのは自由だし、考えた結果をこういう場所等で言うのも自由だし、考えた結果に基づいて自分の行動を決定するのも自由だ。誰からも非難される謂れはない。同時に、僕と違った結果に至った人も、自分でどう行動するのかは自由。他人に迷惑さえかけなければ自由にやれば良いと思う。
 では、専門家はどうなのか。これはやはり責任あるからいい加減なことを言うべきではない。もちろん専門家といえども神ではないので能力に限界はある。間違うこともある。誰かの息がかかっていて偏ったことを言う可能性もある。でも、首尾一貫した理論を構築するべきだろう。それが専門家の最低限の礼儀だ。
 で、今の福島の状況は危険であるという専門家もいれば、いやいや全然大丈夫だよという専門家もいる。いて当然だ。この分野には十分な人体実験結果などないのだ。だからかなりの部分が推測に頼ることになる。危険と思う人もいて、安全と思う人もいて、まあ仕方ないことだ。
 僕個人としては、危険だか安全だか判らないものには近寄らない方がいいかなという気がしている。これは放射能がどのくらいの影響を及ぼすのかということに限らない、生きる上での知恵だ。燃えている火にどこまで手を寄せても安全なのか。1mなのか、50cmなのか、10cmなのか、1cmなのか。その限界値を僕は知らない。だから専門家に1cmまで大丈夫と言われてもきっと10cmくらいまでしか手を寄せないだろう。それが転ばぬ先の杖だ。3cmまで手を寄せて火傷をしたあとでその専門家が「いやあ、データに誤りがありました。5cmが限界でした」と訂正しても、手に負った火傷が突然消えるわけではないのだ。
 それでも専門家の言うことにはある程度の示唆はあると思う。だからこそ、専門家は一貫したことを言うべきなのだ。
 で、医療費無料の線引きの問題。福島の原発事故以降、「20ミリシーベルトの場所で暮らしても問題はありません。今までの1ミリシーベルトというのがそもそも厳し過ぎた線引きなのです」と言う専門家が増えてきた。それはそれでいい。確かに1ミリシーベルトというのは厳し過ぎた可能性はある。火にどれだけ手を近づけたら危険なのかという問題と同じだ。君子危うきに近寄らずだ。ましてや素人を危うきに近寄らせずというのは専門家の大きな仕事のはず。だから厳しい線引きをこれまでしてきたというのも理解出来る。それで今回の事故に際して、そんな厳しい線引きを適用していたのでは社会が回らなくなるというのも一理ある。
 だとしたら、その専門家の説としては20ミリシーベルトがひとつの線引きポイントであるという主張になる。ならば長崎や広島で1ミリシーベルト以上の被曝で医療費無料となっている現実はおかしな話であるということになる。なのでそういう20ミリシーベルト説の専門家は、長崎や広島で医療費無料の適用をしていることがおかしいと声を上げるべきだろう。だがそう言っている専門家の話を聞いたことがない。何故なんだろうか。よくわからない。僕の情報量が少な過ぎて、実はそう言っている専門家は多いのだろうか?
 
 実際は、1ミリシーベルトで医療費無料にしてしまったら国の負担がべらぼうになってしまうから、そういえずに20ミリシーベルトと言っているだけなのだろうと思っている。確かにそれは大きな負担になるだろう。それで国家が破綻するのであればいろいろ困る。だから誰かが頭を下げて「すみません、1ミリシーベルトで医療費無料にするわけにはいかんのです。すみませんすみません。許してください。病気も増えますが勘弁してください」と言うべきだろう。当然その時は無辜の国民が健康的不利益を被るのだから、事故を起こした会社の責任も厳しく問われるべきだし、政治家の責任も厳しく問われるべきだ。だがその責任を取りたくないから、巡り巡って20ミリシーベルトでOKということを専門家に言わせているんじゃないかという気がしている。どうなのだろうか。穿った見方に過ぎるのだろうか?
 これが僕の穿った見方であり、素人の間違った認識であり、本当に20ミリシーベルトでOK、何の問題もないというのであれば、専門家の人たちは、長崎広島の被曝者に対する医療費の優遇をただちに止めるべきだと主張するべきだろう。そして国もその優遇をストップすると宣言すべきである。それができないのは、やはり本当は1ミリシーベルトに根拠があるということの証拠なのではないかと思うのだ。

深夜零時あたり

 もう寝ようと思った。そこで麦茶があと僅かだということに気付き、寝る前に沸かすことにした。朝沸かすとどうしても熱い。そろそろ涼しくなってきたとはいえ、朝の麦茶は熱いより冷たい方がいい。
 麦茶を沸かすのにはそれなりに時間がかかる。というわけで、この時間を利用してブログを書くことにした。その程度かよ書く理由はという罵声が聞こえてきそうだが、まあ僕の駄文等はその程度のものだ。お目汚し誠に相済みません。
 今日の話題といえば消費税増税だ。まあやむなしというところ。やむなしとは、けっして賛成出来ないけれども、その流れを止める力も自分にはなく、流れに呑まれていくしかないかな、その流れの中でどうやって生き抜こうかなという、そういう意味だ。
 消費税増税は、庶民に直撃する。可処分所得が低い方が所得に対する税率が高くなるからだ。消費税とは消費する際に支払うものであり、貯蓄する分には支払う必要がない。高所得の人は使う額も大きいが、貯蓄にも回す。貯蓄額が所得に占める割合が高ければ、消費税として支払う税率が所得に対して低くなるということ。仮に1000万の所得(手取りで)の人が500万円を消費した場合、所得に対する消費税率は4%ということになる。一方で低所得者層は貯蓄したくとも生活で必ず使う支出は最低限あって、それが収入と限りなく近ければ貯蓄どころではない。したがって、所得に対する消費税率が限りなく8%に近くなっていく。
 政府は消費税を上げることと景気回復はセットだとしていた。賃金もそれなりに上がるから大丈夫だとしていた。だが、未だに賃金が全体的に上がっているという話は聞かない。ローソンが上げたとか言っているけれど、ローソンがバイト代まで上げたなんて話は聞かない。麻生太郎も「経営者として考えたら賃上げなどしない」と堂々と語っているそうだ。凄いよなこのオッサン。安倍政権の足を引っ張るのか、さすがは元総理だけのことはある。
 ともかく、賃金が上がるのかどうかが問題なのであるが、消費税を上げた場合、その3%分を商品価格に転嫁したとして、その時点でやっとペイだ。人件費を上げるための財源が生まれるわけではない。だとすれば3%アップではなくて例えば5%アップに便乗値上げして、初めて人件費を上げる根拠が生まれてくる。だが、独占企業ならばともかく民間の競合他社がある企業にそんなことが出来るわけもなく、だから当然賃金が上がる見込みは薄い。景気回復して商品がバカ売れすればまあなんとか行けるかもしれないが、常識的に考えて消費税が上がった直後に消費が増えるはずは無い。おまけに円安で輸入系のものは値上がりし、今やガソリンはレギュラーで160円を突破している。輸送コストも上がるし、電気代だって上がっていく。ほぼ輸入に頼っている小麦関連の製品も軒並み値上げだ。つまり、消費が上がる根拠が乏しく、だから人件費アップのための原資が賄えず、給与は据え置き。そこで消費税も上がって生活苦しくなる。そういう悪循環しかないのではないかというのが、経済学者でもない僕の見立てだ。なにか違ってるのだろうか。
 まあそれでも消費税は上がっていくのだ。その流れに不満は言えても止める力などは持ち合わせていない。でもみんなが「消費税増税で消費が落ちて景気も下がって困るよまったく」と思うのなら、選挙に行きなさいということだろう。もちろん僕は行っているが、それだけで世の中が変わるなんて状況にはまるでないので、このまま政治に無関心な人たちが選挙に行かないのであれば、結局不満を言うだけで流れに呑まれるしかなく、悪化に良貨が駆逐されるという典型的なパターンになりそうで憂鬱だ。まあ僕自身が良貨だなんておこがましくてとても言えないのだけれども。
 そんなこんなしているうちに午前零時を回ってしまっているよ。麦茶も沸いた。さあ寝よう。

ちょっとした努力

 最近musipl.comをやっていて、面白いことに気がつく。まあ当たり前といえば当たり前のことではあるけれども。
 それは、ファンを付けているバンドはやることをやっているということだ。
 musipl.comで紹介したものは、facebookとTwitterでも紹介している。それぞれに情報の届き方が違うのでやっているわけだが、Twitterの場合、エゴサーチということをすることが出来る。まあ詳しい説明は面倒なので簡単に言うと、誰かが自分のことについて何か言ってないかをチェックすることである。別にTwitterのツイートじゃなくてもサーチは出来るけど、Twitterのエゴサーチは超簡単。なので基本だと思っている。で、具体的な名前は伏せるが、この2週間くらいの間にmusiplで取り上げたバンドの中で、エゴサーチをして紹介ツイートをリツイートしているバンドは3組だった。すべてそれなりに売れている。いや、インディーズなので売れてるとまで言っていいのかは判らないけれども。
 音楽で売れるっていうことから議論をすると際限がなくなるが、とりあえず多くの人が知っているとでも言おうか。ライブの動員やTwitterのフォロワーやfacebookページのイイね数などがひとつの指標になるだろう。それだけではなんともいえないのはもちろんだけれども、それさえ少ないよりは多い方が売れている状態に多少近いといって間違いはないはず。
 で、アーチスト本人がエゴサーチするものだから、そのツイートをフォローしているファンがやはりリツイートしてくれる。リツイートされた大元のツイートはmusiplのアカウントだから、当然こちらにその状況が伝わってくる。それが多いバンドは、やはりそれなりに結果を出している。YouTube動画の再生回数も多い。見られているということだ。聴かれているということだ。知られているということだ。それは要するに売れている状態に近いといえる。
 音楽のレベル(非常に大雑把な言い方で申し訳ない)がまったく違うのであれば、レベルが低いバンドはそこを埋める努力をした方がいい。だが音楽的に同じレベルにあるバンドであれば、明暗を分けるのは知られているかどうかだ。お金を使って大量宣伝をすればいいのかもしれないが、普通はそんな予算はない。だとしたらお金を使わない範囲で自分に何が出来るのかを考えて行動することが要求される。すなわち地味な作業をどれだけコツコツ出来るのかということだ。それを出来ているバンドはそれなりの結果を残し、出来ていないバンドはそれなりの結果さえ残せていないということである。それがmusiplを数週間運営しているだけでよくわかった。もちろんそんなことは23年のキラキラレコード運営の中でとっくにわかっていたことなんだけど。
 ではそういうコツコツの努力はお金を使った大量宣伝には負けてしまうのかという問題が出てくる。もちろん大量宣伝をした方が知名度は上がる。コツコツでは結果を得るまでに時間はかかる。でも、考えてみよう。コツコツをきっちりやれるということは、それだけ問題意識と戦略感覚があるということの証拠であり、それができない人はその意識と感覚が欠落しているということなのである。では意識と感覚が備わっている人と欠落している人が同時に同じだけの宣伝予算を使った時にどのような結果が出るのだろうか。答えはハッキリしている。備わっている人はその予算を最大限に活かす行動をとるだろう。欠落している人は予算を無駄に使ってしまうだろう。
 やるべきなのはちょっとした努力なのだと思う。最初は何をやればいいのかさえ判らなかったりするだろう。しかし愚直な努力を続けているうちに、効率的な広報活動を知っていくはずだ。そこでやはり差がつく。コツコツと小さな活動を積み重ねていく努力。音楽の才能のある人には特に、そういう努力を重ねていってもらいたいと強く願う。

musipl.comについて

 このところブログの更新もそこそこにやっていたのが、サイト作りだ。それが今回紹介するmusipl.com。

 どういうサイトかというと、まだほとんど知られていないけどステキな音楽を紹介するサイト。僕は日々キラキラレコードの仕事の関係で実にたくさんの音楽に接する。ほとんどがまだ無名のバンドたちの音楽。場合によってはまだCDさえ出していないというもの。では無名の音楽はつまらないかというと、まったくそうではない。ほとんどはつまらないけど、中には光る宝石のような音楽がある。原石は光っていないが、この無名の音楽は光っている。そういうものに接するたびに、もったいないなあとずっと思ってきた。
 なぜもったいないのか。それは紹介出来ないからである。キラキラレコードの仕事でやっている以上、それをまだCDを出してもいない段階で紹介するわけにはいかない。ましてや他社で出しているものなら余計そうだ。そんなの紹介しているヒマがあったら自社のアーチストを紹介すべきだ。そんなこともあって、ずっと何年も紹介せずにいる音楽がたくさんあった。どれも良いのに。
 だが、それは音楽をやっているもの全体に取ってマイナスだと思うようになった。なので、紹介することにした。手始めにこのブログで2度ほど紹介してみた。すると意外に好評だった。無名だけど良いものは良い。そう思ってくれる人が少なからずいた。だったら恒常的に紹介するサイトを立ち上げようと。それで、ここしばらくはそのサイトにかかり切りだった。いや、もちろんキラキラレコードの仕事はちゃんとしてからの話だけれども。
 具体的なことを体感してもらうにはサイトを見てもらう以外にないけれど、簡単な説明くらいしても良いはずだ。最近は無名バンドであっても楽曲をYouTubeにあげて公開をしている。だからそれを見て、レビューして紹介する。基本的にはたったそれだけ。公開されているものを二次的に紹介するのは回り道じゃないかと言われるかもしれないが、そうではないと思う。最近の音楽の不幸というのは、玉石混淆でたくさんあって、それが同列に置かれていることで、結局リスナーは良い音楽に出会えなくなっているということなのだと思っている。
 なので、その部分をこのサイトで補えればと思っている。もちろん情報の海の中でいい音楽を完全に網羅することは難しいだろう。だが日々の仕事の中で出会えるステキな音楽はたくさんある。しかもどれもがほとんど知られていない状態の。なのでそれを紹介するだけでおそらく年間250組くらいは紹介出来るだろう。それ以上になると今度はこのサイトの情報が情報の海になってしまうだろうし。
 また、僕ひとりでレビューしていると偏りが出る。そこで既に数人の公式レビュアーを選定し、独自の視点でのレビューをお願いしている。彼らから紹介されている音楽は僕がまず出会わないようなもので、やはりこのサイトを豊かにしてくれるだろうと確信している。
 さらにはアーチストやファンからのセルフレビューも受け付けるようにしている。もっともそれをやりすぎると結局玉石混淆になってしまうだけなので、取扱いについては公式レビュアーからのものとは多少の差別化をはかるが、それでも自分からレビューしてくることのメリットは大きいと思う。また、セルフレビューを受けて公開する作業は今のところ手作業で行なっている。僕がだ。なのでその時点で確実に聴く。聴いていいと思ったものは別の形で僕がレビューもしていく。その出会いのきっかけになるという意味でも、セルフレビューはアーチストにとってプラスになると信じている。
 まあ、ともかくこんな感じです。頑張ってやっていきますので応援よろしくお願いします。musipl.comのサイトはもちろん、Twitterのアカウントやfacebookのページもありますので、そこでフォローやイイねをお願いします。その1フォロー、1イイねが勇気になりますし、サイトが盛上がっているなあという感じの実質的後押しになりますので。無論僕自身の活動の後押しのみならず、無名のアーチストの音楽の後押しにもなるので、ひとつよろしくです。
【関連リンク先】

     

父親について

 福岡に帰省した。今回の帰省の主役は圧倒的に息子。立って歩くようになった息子は親戚のだれからも大人気だった。だが、今回の帰省で特別に印象的だったのは父親だ。僕のことではない。他界して19年になる、僕自身の父親のことだ。
 僕はこれまで母親似だと言われてきた。兄が父親似。僕自身そうだと思ってきた。結婚式の時に久しぶりに会った母の弟(僕の叔父さん)と瓜二つだった。間違いなく母親方の血が濃く反映しているのだと思っていた。でも今回、僕が父親にそっくりだと言われた。そんなことを言われたことはかつて無かった。だが、わずか3日の今回の帰省の中で4人に同じことを言われた。「お父さんに似てきたね」と。それはとても不思議で感慨深い体験だった。
 息子は僕に似ているとよく言われる。ほとんどの人がそう言ってくれる。そう言われるとなんか嬉しい。だが、僕自身にその自覚は無い。息子と自分が似ているのか?一体どこが?その程度だ。だから自分が亡き父親に似ているということも、自分ではピンとこない。まったく実感が無い。自分の姿は自分にはよくわからないものだ。日々、近くにいても見ていない。それが自分だ。
 父が生きていたら、どんな老人になっていたのだろうか。他界した時と表情は違っていたのだろうか。そんなことを言っても詮無い。似ているという僕がなんとか長生きをして、父が生きていたらこんな感じだったんだろうなということを身を持って示したいと思う。また、母によれば父は子煩悩だったそうだ。だから孫が出来たらきっと溺愛しただろうと。でも父は孫の顔を見ることは出来なかった。僕の子供だけじゃなく、兄の子供にも会えていない。そもそも息子の奥さんにも会えていない。それが幸せのすべてとは言わないし、太く短い人生というのもあるとは思う。だが、子煩悩ならちょっと残念だったろう。それも僕がやらなきゃと思う。48での子供だから少々ハンデはあるかもしれないが、孫の顔を見るくらいまでは生きなきゃなと思う。もちろんそれが目標というわけではないけど。
 福岡から帰る時、母は僕らを博多駅まで見送りにきた。途中タクシーの中で「昇ちゃんに靴買ってやりたい」と言い出し、駅にある阪急デパートのキッズ売り場に向かった。いつも孫によだれかけや服を縫って沢山送ってくれる母。でも孫と一緒に孫のものを買いに行くというのはやはり格別のように見えた。そういうことが出来るというのが、そこそこ長生きした者の特権だ。早く死んだらそんなことは出来ないぞ。まあ、長く生きたところで息子がなかなか結婚してくれなければ出来やしないのではあるが。

すきま産業でいいじゃないか

 Twitterではいろいろな方にフォローしていただいて大変ありがたい。そしてみなさんのプロフィールなどを眺めていると、そこにいろんな人生があるなあと、面白かったり感動したりしている。
 で、今日はそんな中でもアイドルの話。
 アイドルというとAKBやももクロなのだろうが、その他にもいろいろといる。まあ僕の知識で知っている範囲のアイドルはもう超メジャーな部類であって、ロック界のインディーバンドのような存在がアイドルにもあるらしい。今日フォローしてもらった方のプロフィールを少しぼかしながら紹介したい。
 「音楽と鉄道とロリータ服をこよなく愛する、「ロリ鉄歌手」です」
 なんだそれは!確かに鉄道にもマニアはいるし、ロリータにもマニアはいるだろう。そういうのを併せ技でファンを獲得しようというのか。なんとも凄まじい努力だ。そして次。
 「食べたい痩せたい、でもやっぱり食べたい!歌って踊れる清純派グルメぽっちゃりアイドルです」
 うーん、どっちなんだ。しかし歌って踊れるグルメぽっちゃりというのと清純派がどうも頭の中で結び付かない…。
 でも、僕はそういうのをバカにしているのではないのだ。むしろ尊敬している。アイドルというのはやはりファンがいて、キャーキャーいわれないと意味がないのだろうと思う。だからファン獲得が大命題になる。それでAKBの向こうを張って踊って歌っているだけではもうとても勝ち目がない。だからピンポイントでファンを獲得するため、独自の土俵を作ろうとしているのだと思う。AKBの土俵に乗るのではなく、自分の土俵を作って、そのカテゴリの中ではナンバー1だと。そういう勝負の仕方をしているのだろうと思う。多分。
 そういうの、エラいなあと思うのだ。僕が仕事をしているバンドたちはどうかというと、もちろんアグレッシブにファン獲得に努力している人も少なくないけれども、そうでない人も多い。彼らはスタジオに入って音を出して、ライブと称して友達を呼んで騒ぐ。CDなんて売れなくてもいいし、ライブも自分たちが赤字にならなければいいし、赤字になっても自腹で済まして平気そうな感じで打ち上げにいったりしている。まあ全員がそうではないけれど、バンドはそこで完結しているんだろうと思う。ステージから見ると客席は暗いし、さらに歌いながら目を閉じているボーカリストも多いし、客がいなくてもその音楽活動は成立しているのだろう。いやもちろんそういうのは少数派だし、少数派だと信じたいし…。
 ともかく、アイドルをやろうとしている人たちの必死の想いが肩書きに現れていると思う。あまちゃんの「地元アイドルGMT」というのもなんだろうと思ったが、現実は「ロリ鉄歌手」に「グルメぽっちゃりアイドル」だ。確かにそういわれると「どんなアイドルなんだろう?」って興味が湧く。どんどんすきまを狙って自分のポジションを獲得しようと懸命だ。バンドマンに「君たちのセールスポイントは?」「キャッチフレーズは何?」と聞いても「?」ということも多い。それでは興味も湧かないよ。音楽を聴いてもらうことさえできないよ。
 ま、アイドルとバンドを一概に比較するのはどうかという気もあるにはあるが、アイドルにも見習うことはあると思うのですよ。それはバンドだけじゃなくて普通の仕事をする僕のような人としてもです、ハイ。

その対立はどうしても必要か?

 今朝のあまちゃんで311の震災が描かれた。そのことについて先週末、「これまであまちゃんを見てきた人で、住めなければ引越せばいいのにと言った人が少しでもその残酷さに気付いてくれればいいのに」というツイートを見た。なんだかなあ。正直そう思う。
 こんなことを言うと、「なんと酷いことを言うんだ、被災者の気持ちを考えろ」的な非難を受けそうだと思う。だが、なんか気持ち悪かったのだそのツイート。当時の絆連呼の世情を思い出して。確かに絆は美しいよ。でもそれが連帯を強制するようで、そのための魔法の言葉、金科玉条になってしまって、幕末の錦の御旗のように抗えないものでもあるかのようで、当時の僕が何かを考えたり行動したりすることを封印する魔力を持っているかのようで、とても気持ち悪かったのだ。
 そのツイートをした人の他のツイートも見てみた。すると「東北はすべて放射能汚染にまみれているかのように言われてしまった。それで風評被害を受けた。瓦礫だって汚れたもののように扱われた。」そういうことが書いてあった。その気持ちはわからないでも無い。本当に根も葉もないウソで信頼を失して被害を受けたのであれば、その信頼回復はされるべきであろう。ではどうすればいいのか。それが汚染したかどうかということの大元は原発の事故だ。その事故が起きたのは事実である。そして放射性物質が漏れたのも事実である。では、具体的になにがどのくらい漏れ広がったのか、どの地区のどこにどういう状況で広がったのか。それがどのような影響を与えているのか。そこで作物が作られたり採取されたりした場合にどのくらいの健康への影響があるのかないのか。そういうことをきっちり判明させて喧伝することが大切なのだと思う。だがそれは解明されていない。科学的に検証されていないこともある。放射能の影響は人体に対してどのくらいあるのか。それはなかなか具体例が少ないので判らないことが多い。だから、人は困惑するのだ。
 困惑した結果、まずは与えられていない具体的事実(汚染の度合いなど)に対して個々が推理する。国やメディアが言っていることへの信用度も個々が判断する。そして現状について推理する。推理したあやふやな状況に対してどのくらいの危険度なのかを個々が判断する。だから人それぞれで見解が異なってしまう。同一の状況について「安全だ」と言う人と「危険極まりない」と言う人が同時に存在する。それはある意味仕方の無いことだ。見解が異なれば、取る行動も違って当然。それを安全だと思っている人が危険だと思っている人の行動について「風評被害だ、酷い」と言うのも、危険だと思っている人が「危険なのに信じられない」と言うのも、同様に相手の推理や判断を否定するという点で変わらない。
 そしてこのことは、どちらかの判断に従って行動し、国という制度を運営した場合に、もう一方の判断を完全否定し、納得出来ない状況を強いることになってしまう。だから他者の見解を受入れ難い心情にしてしまう。このことが難しいことなのだ。
 しかし国論は分かれてしまっている。それはもう仕方の無いことで、その中でいかに相手に対して過度な非難も過度な強制もせずに自らの道を追求するのかが個々に問われているんじゃないだろうか。相手の、それは他人であっても友人であっても家族であっても、その関係性を維持しながら個人としての尊厳を貫くということは、なにも放射能問題に限ったことではない。価値観は1人1人違っていて当然なのだから。危険だと思っている人は避難し、危険だと思う食品を避けながら生きるしかない。安全だと思っている人は避難せず、危険ではない食品なのだから何も避けずに生きるしかない。安全だと思っている人をおせっかいにも強制的に移住させるにはデータもそれほど明確には出ていないし、危険だと思っている人を強制的に移住させずにそこに留め置くほどには、この国の人権は限定的ではない。誰しもが自分の思うところに従って自由に居住地を決めることが可能なのである。ましてや、住民の一定の割合が出ていけば残った街の機能が崩壊するからという理由で避難を阻止するのは本末転倒な話だと思う。
 そもそも、あまちゃんは人気ドラマでリアリティもあるとはいえ、所詮はドラマだ。ドラマで簡単に「ああ、自分が悪かった、自分のこととしてはまったく考えていなかった。心を現地の人に寄せてこなかった、悪かった反省する」という感じで気持ちが変わるようであれば、その人は本当に何も考えずに他人の意見に流されてしか311を考えてなかったのだろう。だとすればそういう人はこのドラマで簡単に意見を変えるだろうし、別の視点で描かれたドラマを見た日には簡単にまた心変わりをしてしまうだろう。そういう人のことはどうでもいいと思う。だが、ドラマごときで変わるほど浅い考えしかしてこなかった人というのはどのくらいいるのだろうか。僕はそんなにはいないだろうと思う。みんな経済のこととか健康のこととか、すべて命に関わることとしてとらえてきたはずである。
 そして自分がどういう立場を取るのか、その立場を取った場合にどのような社会的な位置に立つことになるのかを考えているはずである。そして2年半経って、自分の考えを持ちつつ社会の中で生きていくための処世術を見いだそうとしているところなのではないだろうか。だから、もうそんな無用な対立を煽るようなことをなぜ言うんだろうかという気がしてとても不快だった。気持ち悪かった。危険危険と言う人も、安全安全と言う人も、どちらにも両極端な立場がある。その極端な立場がもう一方の極にある人たちを傷つけるという点ではほとんど変わらない。そして自分とはあまりに違う立場の存在が許せないのか、そのツイートは対立する極を攻撃して蔑むことで自分の立場を正当化しようとしているようにしか見えなかった。いろいろな意見が存在していい社会なのだ。もう少しいろいろな意見を許容することで自分をも正当化するということがなぜ一般的にならないのか、悲しい気分になった。このドラマを楽しみに見ているだけに、どちらかの極の人が自分の考えを正当化するためにそのドラマを利用しようとしていることも、なんか悲しかったのである。