作成者別アーカイブ: kirakiraohshima

公演中止

 昨日の台風で多くのイベントが中止になったようだ。東京でも名古屋でも大阪でも。台風がやって来る時間帯と、その影響で交通機関がどうなるのか。または主催者が誰で、アーチストの意志がどこまで通用するのかということもあるので一概には言えない。本当に一概には言えない。だが、決行して良かったと思うアーチスト、やらなきゃよかったと思うアーチスト、逆に中止にして良かったと思うアーチスト、やれば良かったと思うアーチスト、そういう様々な気持ちが錯綜した1日だっただろう。

 どんな気持ちもありだと思う。決断はひとつで、その決断以外だった場合のことはすべて想像、妄想に過ぎない。結果的に台風がどうだったかなんてことで批判するのは容易い。だが、その結果は決断の時には不確定だったのだから、それによって決断を非難することはしてはならないのだ。

 で、僕はいくつかの例を見て、東京で「もう知らん。決行する」と言って本当に決行したライブハウスイベントが一番ロックだったなと感じた。その日にやらないともう再公演はあり得ないような感じのイベントだったので、もうやるしかないと思ったのだろう。当然そこに行き着くことが難しくて断念した人も多かったと思う。でも、チケットを持ってて無理してそこに行って、行ったところで中止を知らされるなんてことになったらその落胆は大きかろう。金返せと、慰謝料よこせと言いたくなるだろう。行くのは客の意志であり判断だ。無理して行ってとんでもないことになったとしても、怪我や死んだりしない限り、ハプニングの中でのライブは特別な記憶として残る。それもまた、エンターテインメントだという気がする。

 無論、怪我や死んだりというようなことはあってはならない。だからこその中止なのだし、それはそれでいいことだ。でもエンターテインメントってそういう大人の判断だけではないだろうという気もしている。

 名古屋のあるライブが早々に中止になり、振替公演が平日になったことで「ふざけんな」と憤っているツイートも散見した。それは本当にふざけんなという気持ちだろう。チケット代が返却されても、チケットをとるために苦労した時間は戻ってこない。その苦労は、そうまでして見たかったライブを観ることでしか昇華しないものなのだと思う。

台風一過

 3連休は皆さんいかがお過ごしでしたか? 台風来ましたね。今の世の中はやれどこの地域に台風がいるとか、上陸したとか雨がスゴいとか、テレビでもTwitterでもfacebookでも盛んに報じられ、まあ報じる主体はメディアか個人かって境目がなくなってきましたが、いずれにしても無駄に情報が飛び込んでくる時代になってきててすごいです。京都に住む僕にとって東京での午前の台風情報を延々と全国放送のニュースで流されることほど無駄なことはないけれど、それでも東京の人にはそれがとても重要。逆に台風によって自分のいる地域に警報が出てるのか解除されたのかってことは重要なわけで、それを見たさにテレビつけてる。実際先週の台風18号で京都市の大雨警報が解除されたのが8時45分、これ、テレビが一番早かった。ネット情報でいつでもアクセス出来るのだろうけれど、それでもテレビが一番早くて驚いた。そのおかげで、9時までに警報が解除されたら保育園は登園可能ですというルールに則して子供と一緒に出かけられて、ああ良かったなと、やっぱり情報は必要な分には必要なもの。

 でも、無駄情報もとても多くて、京都の人にとって東京の雨情報は、その日に出張でもしないのであればやはり無駄。もちろん東京の人には有益な情報だけれども、京都の人には無駄。そんなにキャパシティはないからです。パソコンのHDに無駄データを入れまくってるとすぐに1TBなんて埋まっちゃって、だから時々整理をする必要がある。iPhoneで写真撮りまくってるとやはり埋まっちゃうので整理が必要。お前のは16GBだからなんだよ、128GBにすればいいじゃんと言う人もいるかもしれないけれど、128GBであっても有限である以上どこかのタイミングで整理をしなきゃいけない。整理をする時点で128GBもあったら整理大変だろうなあと16GBの僕は思ったりします。

 で、とにかくキャパシティに限りがある以上自分に有益な情報のみ取り入れるということをやっておかないと、大切なことも出来なくなるわけで、だから、京都の人にとっては東京の雨情報は無駄だと割り切ることも必要。別に東京の人を無視したり阻害したりしたいのではなく、自分のキャパが小さすぎるから仕方ないのであって、じゃあオレのキャパシティは16GBじゃなくて128GBだから東京と京都と大阪くらいはカバー出来るぜっていう人はそれもチェックすればいいけれど、それだってニューヨークとモスクワと北京とロンドンの雨情報を常にチェックしているかというとそんなことはないだろうし、そもそもする意味ないだろうと思うし。

 で、台風の時の雨情報だからそんな他地域の話も気になったりするけれど、ではそれ以外の、たとえばツイッターに流れてくるいろいろな人のつぶやきにどこまで対応すればいいのかというと、それも基本的にはほとんどが無駄情報であったりして、それに1日中張り付いていることなどは無理だし、無駄。では全部が無駄なのかというとそれも違っていて、京都の人にとって京都の雨情報は常にある程度必要だったりするような感じで、自分にとって必要か、そこまでいかなくても有用なつぶやきというものはある。そしてそれが自分にとって有用だからといって、他人にも同程度の意義で有用だという保証はまったくありません。逆もまた真なり。

 まあそんなことを考えながら、台風一過の京都のいつもの道を、息子を自転車のかごに乗せて今日も出勤したりしたわけです。本当は他のこともいろいろ考えたけれども、まあそれを書いていると午前の時間が無くなって仕事にならないから、今日のところはこの辺の当たり障りのない感じの文章で。まあ、駄文です。誰にとっても有用なことなどないと思います、ハイ。

神話

 さっき、ある人の投稿をFBで見た。伊勢神宮に行っていると。伊勢神宮は、確かにいい。でも、その投稿にはちょっと違和感があった。そう、その神々への頼り方に。

 もうここ何年もパワースポットブームで、神社仏閣の特集が載っている雑誌を見ないことは無い。それを普通に眺めてたり、読んで成る程次はここに行ってみようなどと僕自身ブームを楽しんでいた。巻き込まれていた。実際に神社に行くと清々しい気分になれる。それは否定しないしこれからもきっと行く。で、それは正しいことなのかと。

 昨今の愛国は、中国韓国を嫌うことで成立している。テレビでは外国人が日本を絶賛している映像が多くなってきているという話も聞く。一部の国を貶して、それ以外の国が自分たちを褒めていることで安心をするという。それは江戸時代の身分制度と似たような仕組みだと思っている。士農工商というランクがあって、その下にさらに被差別階級を置く。農民は年貢をとられ苦しい思いをし、米を作っているというのにその米さえ食うことができないという生活をさせられる。だが、身分は武士の次に高いのだ。それがプライドをくすぐってくれる。商人は才覚ひとつで巨万の富を得ることが出来る。しかしそんな金持ちよりも貧乏だけど農民の方が身分が上だから。そういう思いで成立するのが社会の安定だ。一番下とされている商人だって、その下にはさらに被差別階級があるから安堵できる。まるで生活保護の人をバッシングして溜飲を下げている一部の人の感覚そのものだ。

 他の国が日本を素晴らしい国だと褒めている。それが自分の心の平安を生んでいる源泉だとしたら、自分の感覚の歪みを危惧した方がいい。その感覚は、やがて麻痺し、他人から安心材料を提供されないと不安に陥る体質になるから。大事なのは自分が自分をどう評価するかであり、他人がどう思うかではない。

 数年前からのパワースポットブームは、それに近いものがあるように感じる。明治神宮のような新しくて実際の人物を奉っているようなところはまだしも、伊勢神宮や出雲大社のように、その根拠が神話であるところの方がその危険性は高い。なぜなら神話こそ日本の成り立ちを神に依拠する根拠なのだから。神が作ったとなれば論理で抵抗することは出来難くなる。だから厄介だ。神による日出ずる国的なお墨付きに心を安らかにするのは、もはや精神的な麻薬に過ぎない。天照大神の国だから他国より素晴らしいと思うのは勝手だが、国際的に通用する話ではない。それによって本来やるべき努力を怠り、他国を不当に貶め、軋轢を拡大させて戦いに突入するなど、あってはならない悲劇的シナリオだ。

 神社仏閣を否定するつもりは更々無い。その効用というものは確かにあるからだ。だが、それに過剰に依拠しようという動きや言動を見た時、それに対してはきっちりと疑問や否定を表明出来るニュートラルさは常に忘れてはいけないと確信する。自分を守ってくれるのは、神様ではなく、自分の理性でしかないのだから。

大阪

 大阪で〜生まれた〜女やさかい〜東京へは〜よう住まん〜

 いや、大阪で生まれてないし、女じゃないし、東京に26年も住んでたし………。

 でもまあこの歌好きなんですね。で、今大阪に。今月CDをリリースするバンド中古U.F.O.が大阪でライブやるというのでやって来て、完成したCDを渡し(!)、インタビューをして。彼らはライブのリハに行き、僕はマクドナルドで電源を得てパソコン仕事。さっきのインタビューを書き起こすための準備などを。

 それと同時に、完成したというケリーマフのPVが送られてきているのでダウンロード。2.8GBもあるので1時間半ほどかかると。なので今ひたすら待ち中。あと35分と表示が出ています。

 大阪というのは東京にいて仕事で来たらとりあえずたこ焼き食べたり豚まん食べたりお好み焼きを食べたりしてたけど、今回はスタバでインタビューしてマクドナルドでパソコン仕事して、まあ、そんなに観光するつもりはないし、したいとも思わない。京都からは片道500円しないでやってこられるので、なんというか、東京時代に横浜に行く程度の感覚というべきか。その割には滅多に来ないけれど。ああ、そういえば東京時代にも横浜には年に2度行くか行かないか程度だったので、それよりは来てるかな。

 マクドナルドの電源席は、店舗にもよるのだろうけれどよくできていて、15インチのMacBook Proを開くとちょっと大きな感じ。具体的にはいい感じで画面を開くと手前が机部分からはみ出して、椅子の座りも良くない。隣でMacBook Airの13インチかな、それ使ってる人いるけれどそれがベストのサイズみたい。でもかなり猫背になっているのでやはり長時間は難しそう。

 もちろん100円のアイスティーでそんなに粘られても困るわけで、そういう意味ではそういう設備でOKなのだろう。せいぜいスマホの充電をして終了と、その程度の利用がお店としても推奨なのだろう。すみませんすみません。でも始めちゃったダウンロードが終わるまではパソコン終えられないし。というわけであと37分はここにいます。えっ、さっきは35分だったじゃないか!もう、これだからWi-Fiって難しいよ。

 もし時間が許せば、期間限定の心斎橋のグリコ看板見に行ってみようかな。実は4日後も来ることになってるから、別に今日見なきゃいかんことでもないんだけどな。

キューブ

 昨日息子が積み木の一種のようなものを一生懸命積上げようとしていた。彼にとっては大きなのが電車で、小さなのが乗客だったらしく、全員乗せて出発進行と行きたいところなのに、乗せるときのバランスが悪くて、ひとつ乗せると別のが落ちる。その繰り返しをするうちにどんどんバランスは酷くなって、一気に全部が落ちたりして、その繰り返し。

 泣かずにまた一からやろうとしているのが偉いなと思う。まあ親バカの感想だけれども。多分彼は積み木に才能があるのかもしれない。あってどうする。それで人生を切り拓けるのか??

 高校生の頃に流行ったルービックキューブを何度も何度もやっているうちに法則性を発見し、それからはもう何度でも6面を揃えることが出来るようになった。百発百中。あとは何秒で完成させられるかという競技になる。でも出来ない友人には永遠に出来ない謎のキューブで、彼らに目の前で見せてあげたところで出来るようにはならない。まあ、僕にルービックキューブの才能があって、彼らには無かったのかもしれない。で、そんな才能あってどうする。確認しておくが、僕はルービックキューブを完成させる能力があるということによって1円だって稼ぐことは出来ていない。

 だから稼げるスキルに能力があった方がいいよなあと思うことは時々ある。で、アベノミクスとやらで友人の投資家の人たちはこの数年躍起になっているようで、しこたま稼いだ、後は引退だという話も時々聞く。彼らのやっていることにはある程度の法則があって、ある意味ルービックキューブのようなものなのかもしれないとは思う。すげえよなあ、金持ったんだなあ。無いより有った方がいいのがお金である。その点を否定するつもりは1mmもない。でも、僕には投資というルービックキューブを完成させる才能は無いのですよ。あるかもしれないけれど、チャレンジもしてないし、なんか退屈そうだなという気がしてしようが無い。彼らのやっていることを隣で見たとしても、それを上手く真似たところで多分成功しないのだ。ルービックキューブならば揃えられなかったとしても痛くも痒くもない。だが、投資で失敗して首をくくる人の話はたくさん聞く。自分が愛して我が道と決めたことで失敗して首をくくるはめになるならまだしも、たいして興味も無い方法で失敗して首をくくることだけはかなわん。まあ、大失敗して大借金を抱えたとしても、僕は首をくくるようなタマではありませんけど、ハイ。

 もちろん、投資を我が道として志して頑張っている人のことを悪し様に言うつもりなんてさらさらなく、道を極めて成功して金持ちになることはとても素晴らしいと思う。だから彼らのことを勝ち組だとして賞賛さえしても、けっと舌打ちして妬んだりすることはありません。ただ、僕にとってはそれは我が道として志すような魅力を感じてないというだけのことで、それでもし仮に(ないけど)僕が投資で大成功をしたとしても、それはそんなに誇らしい気持ちにはならないのだろうなあという、そういう気持ち。あくまで自分の道を見つけることが大事で、その道で成功するというのはとても美しいことなのです。

 さて、息子は何を見つけるのだろうか。もしも積み木のプロになるというのなら、そうなれるように出来るだけの後押しをしてあげたいし、あげられるように自分も我が道でなんとか成功しなくちゃなと、そう思うのです。

気にすんな、いや気にしろ。もうどっちなんだか。

 ある友人がFacebookで怒っていた。個人の記録(?)として使っていて旧い友人たちとの交流の場として楽しんでいるFBを覗いて、会社の評価にしようとかなんとかいう動きを知ったと。

 いるよいる、そういうの。僕の知人たちも僕の投稿を読んでんのだか見てないのだか、コメントもイイねもまったく寄せず。で、実際にあったりした時に「見てるよ、お子さん可愛いね」とか。もうやめてくれ。見てんならイイねくらい押しとけよ。いやまあ、押さんでもいいけど。

 僕はそんなのにめげたりしないんだけれど、というかもっと激しい攻撃も受ける。FBのようなほのぼの投稿空間とちがって僕のTwitterはある意味戦場なので、マジなことツイるとたちまち変なメンションが飛んで来る。そういうとき、実は僕はちょっとだけ凹むのだ。ああ、メンション飛んでくるっていってもこの程度か。数千数万単位で炎上すりゃあいいじゃん。そしてそれを援護する側の人が「頑張ってください」とか数千数万単位で送ってくればいいじゃんと。いくらフォロワーが多いったって基本は無名人の僕だから影響力なんてたかが知れてて、もうちょっと影響力出ないものかと凹んだりしている。まあそれでもこちらがフォローしていないのにフォローしてくださっている方が1万5千人ほどいらっしゃって、ありがたい限り。そのうちのどのくらいが業者だったりbotだったりするのかは把握してないけれども。

 僕の変な状況はともかく、付き合いのあるミュージシャンという種族は感情が鋭敏だったりして、そういうネットにつきものの得体の知れない何かについても過敏な反応をすることが多い。一般的なのは、ブログやSNSを閉鎖したりアカウント消滅させたりするというもの。ちょっと非難されたらいやだもんな。自分は自分だけの世界の中で自己完結していたいのに、やれあの歌詞はどうだとか、メロディがつまんないとか、プライベートな人間関係がどうだとか、もう本当に余計なお世話だからやめておくれと。でも知名度が上がってくればそれに比例しておかしな反応も増えてくる。そうなると解決策は3つだ。(1)アーチスト活動をやめる。(2)ネットでの存在(ブログやHP、SNSなど)を消す。(3)気にしないような図太い神経を持つ。

 しかし急に神経を太くするというのはなかなか難しいことなのか、みんな簡単に2を選択する。1を選択する人は稀だけど時々いて、3を選択するのはまあほとんどいない。でも、自分が創る音楽を愛しているのなら、やはり図太い神経を獲得して、頑張って欲しい。

 このところよく見ているある人のブログがあって、そこで紹介されていたのがTaylor Swiftの『Shake It Off』という動画。

 「勝手に悪口言ってりゃいいわよ。わたしはどんどん前に行くんだから」という意味の歌詞で、
” the haters gonna hate, hate, hate, hate, hate

Baby, I’m just gonna shake, shake, shake, shake, shake

I shake it off, I shake it off
”
と。ヘイター(ヘイトする人)はとにかくヘイトヘイトヘイトヘイトなんだと。ああ成る程、そりゃそうだな。憎む人って憎むしか出来なんだなと。哀れというか、まあそういう本質なんだから仕方が無い。そしてそういう性質の人に負けて自分の道を見失ったりするのはもったいない。テイラースイフトのことについてはさっきのブログリンクの先にいろいろ書いてあるので、興味のある方はそちらをご参照ください。

 以前から言っているのは、日本一バッシングされているのは松田聖子だと。売れてるから、ひがんでバッシングするのだと。まあそれは古い話になってしまっていて、その後は浜崎あゆみがバッシング対象ナンバー1で、今ならEXILEか、それともAKBか?前田敦子も以前はバッシング凄かっただろうが、卒業して以降そんなに話題にもならない。大島優子もそうなんだろうか。それとも僕がその辺の情報に詳しくないからだろうか。かつてのキャンディーズみたいに「普通の女の子になりたい」っていっても、結局はそうそう普通の女の子に戻ったっきりになれるわけもない。そういう意味ではミキちゃんはエラかったなと思ったりもするけれども。

 さて、インディーズバンドも売れないうちはそんなにバッシングされたりはしないけれど、少し頭半分ライバルから抜け出てくると、ちょっとやそっとくらいのバッシングは受けるようになる。それも妬みからくるんですよ。で、凹む。でも本当の駆け出しでリアル友人しかライブ見にきてくれないような時期に「どうだった?」って聞いても、そりゃあリアル友人でわざわざ時間あけて見にきてくれるような人が罵声を浴びせるかというとそんなわけもなく、「いいね」「良かったよ」という声に囲まれることになる。そこでちょっとの音程のズレに目くじら立てて批判して、友人関係が崩れたらイヤだもの。でも噂を聞いてチケット買って見にきた人が「つまらない」と感じれば、もう2度と見に来てはくれなくなる。最近ならブログやTwitterで「○○のライブ観にいったけど、檄つまんなかった、アレはクソ」とか言い放つ。

 最近はエゴサーチなるものがあって、バンドマンも積極的に自分たちへの反応を知ろうとしてキーワード検索をかける。その結果自分たちについて触れている発言をたちどころに知ることになる。本当の無名初心者なら友達が言う褒め言葉だけを見るが、徐々に知られるようになるとバッシングの言葉も目に入ってくる。衝撃だ。愕然とする。凹む。だからネットをシャットアウト。もうエゴサーチなんて金輪際やらないよ。

 でも、それでバッシングも遮断できるけど、同時に賞賛からも遠ざかってしまう。それは本当にもったいないことだ。賞賛は自分を動かすガソリンのようなもので、たとえばライブをやった時に客席から拍手が聞こえてこなかったらどうしよう。それは凹むな。「帰れ〜」と言われるのも困るが、拍手が聞こえないのも凹む。だから、世の中にある賞賛の声を、自分の音楽表現に自信を持つ人ならば、やはり積極的に探していかなければ次には進めないと思った方がいい。

 たとえば僕が運営しているmusipl.comでも、こちらから「掲載しました」という連絡はしないのだが、一部バンドマンたちはレビューがアップされるとすぐに反応し、TwitterでリツイートしたりFBでシェアしたりする。その結果アクセスが伸び、月間アクセスランキングなどで上位に入ったりする。まあ僕のサイトはまだまだ小さな存在だが、そういう小さなところでの何かをプラスに変えることができないアーチストが、もっと大きなステージを得た時にそれを最大限のプラスにしていくことができるわけが無い。そもそもまだMステやフジロックに出られないんだから、そういうところで結果を出していくことに勢力を尽くせばいいのにと思うし、反面結果を出しているバンドのことは、「お、やるな」と思ったりするのだ。

 そして、バッシングの中には単なる妬みの卑屈なものもあるけれど、正確な分析で欠点を見つけてくれている叱咤激励のようなものも含まれる。これも自分にとって大きな財産になる。そういうのを避けて通るのは、やはり大きな損失だろう。

 結果として、やはり(3)の図太くなるという選択をするのがベストだと思う。そうして自分たちについていろいろ言われていることを、適度なフィルターを通しながら、いい感じで気にしていって欲しいなあと思う。

 件のFB友人は、怒りながらもFBをやめたりすることはなさそうだ。それでこそだ。みんなそれぞれ自分のちまちましたところで、凹まずに頑張っていくしかないのだ。

素直に悩みもなく

 毎日毎日死ぬほど音楽を聴いている。音楽といってもサザンやくるりの新譜なんかじゃない。いや、それも聴いているけどね。僕が聴いているのは送られてくるデモだ。デモだけじゃなく、世の中に公開されているほとんど知られていない無名の歌だ。

 歌というのはメロディと歌詞によって出来ている。そこにバンドやテクノクリエイターによるサウンドアレンジが加わって楽曲として完成される。さあ、聴こう。何が面白いのか。

 ビートルズにはライバルがいなかった。それはもちろんコロンブスの卵的な何かで、ビートルズ以外の誰がそれを見つけたのかというとやはり誰も見つけていなかった訳で、やはりその先見の明と一日の長があるわけだが、とにかく彼らには新しい何かがあった。過去の誰もやっていないような音楽を作って、売って、売れて、歴史上の人物になる。

 今の若いバンドマンは、同世代のライバルたちと闘うだけでなく、過去の先人たちとも闘う必要がある。建築ならフランク・ロイド・ライトがいくら好きだといってもこれから建てる自宅の設計を依頼する訳にはいかない。仕方なく現役の誰かに設計してもらうしか無いのだが、音楽はそうではない。リスナーはビートルズもベートーベンも聴きたいと思えば聴けるのだ。買えるのだ。同世代のライバルとも闘っていかなきゃならないし、過去の偉人たちとも闘っていかなければならない。難儀な職業だよまったく。でも、泣き言いってる場合ではない。

 ジャンル的に新しい何かを探そうとしても、これほど細分化した状況の音楽シーンでそれをやるというのは、かなりの隙間の隙間をほじくりかえすか、さもなくば奇を衒うことになってしまう。それでは誰も見向きもしない。奇に興味を持って1曲は聴いたとしても、すぐに飽きる。さて、どうしよう。

 ここでさてどうしようと考えて悩む人はまだマシだ。ほとんどの場合、何も考えない。ただ自分が日頃感じたことを書いて終わりで、それを普通のポップミュージックとして歌にしたところで、そんなの過去の誰それが歌ってるよと言われて終わりだ。無名の考えが足りない焼き直しを聴くくらいなら、有名な過去の誰それが歌ったスタンダードを普通に聴くよ、批判精神など発揮しないで。それが多くのリスナーです。

 感じることというのはやはりその時々の時代を映すものであって、海を見ました綺麗でしたというのであれば時代を問わず不変なのだが、恋人と連絡を取りましたというのであれば、恋文を緑のインクでしたためたという表現はもはや現代では死語の固まり。若い世代の共感など呼ばない。ポケベルが鳴らなくてというのも今やハアッであるし、携帯電話でというのもスマホであることがマストだろうし、しかも電話などかけずにLINEなのだろう。そしてそのうちにそれさえも確実に死語になり(mixiがそうなったように)、やがては頭に刺さった電極でダイレクト送信か、さもなくば無接点電極だ。挿すことさえしたくないものなそりゃそうだ。

 時代によるアイテムへの対応も必須だが、それと同時に時代が持つ雰囲気というものとらえる必要がある。お父さん金持ちでおボッちゃま学校に幼稚舎から進んで何不自由無く人生を終えられる人にはデフレで不況の現代の空気を詩に表現することは不可能だろう。まあそういう人が駅前でギターを抱えてストリートライブする確率は極めて低いのだろうが。でも、そういうリッチな人でもなく、ライブハウスに出演するためのチケット代が惜しくて、友人もビンボーばかりなので無料じゃなきゃ聴いてくれないよって人が、駅前の弾き語りで唄う歌のほとんどが、やはり悩みもなく唄っているのです。何故なんだろう不思議だなと本当に思うのだけれども、これはビンボー故に教育が行き届かずに批判精神もなく、ただ使い古された言い回ししかボキャブラリーに無いのか、さもなくば日本のビンボーというのは本当の意味での貧乏なのではなくて、不幸な顔してりゃなんとなく居場所が出来る程度のビンボーでしかないのかと、本当に思ってしまう。

 だからほとんどのお子様は素直に悩みもなくすくすくと育っていく。だから本当の意味で時代を斬るような言葉を紡ぎ出したりすると、なんちゃってビンボーな同世代には届かないのかなとも思ったりする。

 でも、バブルの頃に尾崎豊がバイクを盗んで校舎の窓ガラスを割って回った(実際はそんなことなかったらしいですが)りしてそこそこ共感を集めてたりしたわけで、若い世代には何らかの悩みとか、その時代特有の苦しみというものがきっとあるはずで、それを表現することが出来れば、きっと大きな時代のアイコンになることも可能なんだと思うし、そうなれば、音楽が売れないとかアホな識者たちが統計数字だけで語ってしまう「常識」を簡単にくつがえすことも出来るはず。そういう人を発掘したいと日々思っているんだけれど、なかなかどうして、そういう人はほとんどいないのが現実だったりするわけなのです。

自分のいるところ

 いろんな意見を持つためには、自分がどこにいるのかということを確認することが必要になる。そりゃあそうだろう。人間なのに火星人の立場でものを言うことはなかなかに難しい。まったく不可能だとは言わないが、それは戯作者のなすべき特殊技能か、さもなくば妄想で自分を見失った人の戯れ言だろう。

 ある人がある人を哀れんだとする。そして救いの手を差し伸べようとしたとする。ではその手を差し伸べた人のいるところとはどんなところなのだろうか。哀れまれた人がその手を差し伸べた人のいる場所に行けば救われるのだろうか。少しはマシになるだろう。そのマシという価値判断も所詮は差し出した人の自分のいるところへの判断に過ぎず、天上の視点から見れば五十歩百歩、大差ないということはよくあることだ。

 様々な活動が行われていて、その活動を是とする人と否とするする人の間に論争、対立が起こる。我こそが正しい説の持ち主であり、その説に従わない者はサタンであると、まあ中世ではないのでサタンではなかろうが、まあサタンに込められた意味の程度には忌み嫌われる種類の何かであるという判断がくだされる。そして正しい説の持ち主の論に従ってなんらかの攻撃がサタン的な立場の者になされ、そしてサタン的な立場の人は正しい何かに必死に抵抗し反撃をする。両者はともに疲弊してゆき、でもそれでもお互いに攻撃や防御をやめないのは、自分のいるところこそ正しいと信じるからであって、だからサタンの側からみれば正しい説の持ち主こそ正真正銘のサタンという見え方をするのだろう。

 放射性物質のせいで故郷を追われるはめになった人が故郷を追われたといって嘆く。それに多くの共感が集まり支援の輪が広がる。でもいまだに仮設住宅に住んでおられる人がゼロにならないというのは一体何の冗談なのだろうかといつも思う。その場所が自分の生きる場所という想いというのは一体なんだろうかとも思う。それが良い悪いではなく、そこにこだわる想いというものはなんなのか。それが正義なのかサタンなのか。いや別に正悪正邪の比較をしているのではなく、正も悪も見方次第で入れ替わるオセロの白と黒のようなもので、他の場所に住むということも考え方次第で住めば都になるのではないかと、暮らす街3都市めの僕などはついついそう考えてしまうのだ。もちろん、そこに暮らすことに徹底的にこだわるも良し、離れる身軽さもまた良し。

 そんなことを書いているとまたいろいろと文句を言われる。おそらく原発推進の人にも反対の人にも文句を言われる。まるで僕の姿は鳥にも動物にも姿を変えるコウモリのようなものに見えるのかもしれない。だが、まあ僕としては何かの考えに徹底的に固執して何も見えなくなるよりも時には動物の視点に立ち、またある時は鳥の視点に立ってみて、いろいろとものを考えてみるのもいいんじゃないかなと、今は思ったりしているということなのだ。

 なんか中途半端になっちゃった。でもまあ、もう少し週末の仕事に精を出さねばならんのです。ブログを書くことばかりに時間を費やしてもいられないのです。それが、週末僕の今いるところ。誰もいない、僕だけが立っている平原のどこかなのです。

色

 音楽レーベルをやっていると必ずぶち当たるひとつの問題がある。それは、ジャンル分けだ。

 バンドが持ってくる音楽を特定のジャンルに分ける必要がある。商品登録をする際に必ず聞かれるからだ。でもそれを考えると必ず戸惑う。ロックかポップスかって、一体どっちなんだと。そもそもロックやポップスに世界共通の定義などあるのかと。僕はレーベルの立場なので、それでもジャンルを決めなきゃと思う。そうしないとユーザーはその音楽に辿り着けないからだ。しかしジャンル分けされる音楽の代弁者であり庇護者でもあるバンドマンは時として抵抗する。なぜジャンルなどに分けられなきゃいかんのかと。僕も正解はその抵抗だと思っている。しかし肝心の音楽をその音楽が好きであろう人たちに知らしめて届ける上でジャンル分けはやはり有効で、だから泣く泣く渋々でいいので、ジャンルを決めてみようよとなだめすかす。

 そうしないと、音楽を全部聴いてから判断してくださいねということをリスナーに強いることになる。在庫枚数20万枚のタワレコ渋谷店に行って、すべてを聴いてから何を買うのかを判断するなどと誰が強制できようか。無理である。もちろんロックというジャンルに分けたところでロックのCDはたくさんあるので、全部聴き較べることは不可能なのだが、それでもロック好きがクラシックを試し聴きする無駄は省ける。

 911のテロが起きたとき、被害者であるアメリカは加害者に色を付けた。イスラムという色である。しかしイスラム教を信じている人すべてが加害者なのではない。だがイスラム原理主義者集団が事件を起こしたという報道がイスラム教徒すべてに疑いの目を向けさせることになる。人は何らかの色を付けることによって、何かを区別して認識しようとする。そのこと自体は自然なことなのだが、その自然なことが、時として恐怖を生み、差別を生む。

 昨今のニュースで衝撃的だった事件のうち2つが、加害者が知的障害者であるとの報道がなされた。この報道によって、「じゃあ仕方ないよ」という想いや、「事前に規制できないものか」という想いが惹起される。だがしかし、知的障害者が何かの事件を起こすということは、ゼロではないが非知的障害者が何かの事件を起こす確率に較べれば統計的に低いそうだ。だから知的障害者が犯罪を起こす前に未然に防ぐための何かを考えるより、非知的障害者が犯罪を起こす前に未然に防ぐための何かを考えた方が防犯という意味では有意義なはずなのだが、そういう論議はなかなか起こらない。

 以前僕が会社の社員を雇おうと募集を出したとき、自分の判断で高卒の人を採用して来てもらうことになった。でも1年ほどしただろうか、詳しくは触れないが後味の悪い退社のされ方になった。以来僕は高卒の人を採用するのはやめようと思うようになった。高卒の人に来てもらって何かうまくいかなかった時には「ああ、大卒にしておけば良かった」と思ってしまうからである。大卒の人でうまくいかなかった時に「ああ、大学院卒にしておけば良かった」とは思わないのだけど、そして大卒の人でもいい加減な人は一定の割合でいるのだけれども、それでも高卒でダメだった時には強い後悔に苛まれる。単なるヒューマニティーの問題ではなく、仕事なので採用自体にも金がかかるし、給料を払って無駄になるのは致命的なのだ。

 でも、大卒でも同様のことは起こる。ではなぜ高卒だと苛まれるのだろうか。それは僕自身がレッテルを貼っているからだ。

 ある人のブログで「女性が管理職に昇進する際に「あなたは今後女性であることを理由に休職をしたりしませんか」的な問いをする企業があり、それにNOと言うと昇進も無くなるからYESと言うが、しかし結婚して子供が授かれば産休も育休も避けられない」という旨のことが書いてあった。まあそれはそうだろう。それで企業が「裏切られた。あの時約束したじゃないか」と怒るそうだが、そんなもの、そもそも問うことがおかしいのだ。もしも夫婦のどちらかが選択すれば夫が妊娠出産できるというのであれば、旦那の了解のもと女性が管理職として産休も育休も取らないということも可能になるだろう。だが、育休は別としても、産休は女性しか取りようがなく、それを否定してしまうとこの社会に子孫は要らないということになってしまう。

 高卒だと問題があった時に「裏切られた」と後悔することと、女性に「女性であることを理由とした休業はしませんね」と問うてYESだったにもかかわらず産休を取ることになり「裏切られた」と悔しがることは、基本的にイコールなのかもしれない。最近はそう思う。

 昔からある人種差別というものは自分と違う何かに対するおそれだったのか、それとも根拠のない優位性を保持することによってプライドを保とうとする愚かで勝手な本能だったのか。例えばライオンとサバンナで出会えばライオンをバカにすることなど叶わぬだろう。だがオリに入れられたライオンを動物園で見れば、檻に入れることが出来るのが人間の英知なのだ、そう、人間は優れた動物なのだと思うことが出来るかもしれない。黒人を連れて来て足に重りを鎖で繋げて労働に使役していたというドラマを子供の頃に見たことがある。それも檻に入れたライオンと接するようなものなのかもしれないと思うし、やはりそれは愚かな者のする行為だという気がしてならない。

 考えてみれば人間であるとかアリであるとかいうことも、魂の上下に関係があるのかと問われればなんの根拠もそこにはない。ただ僕は人間というものに生まれたに過ぎず、魂がイコールであれば場合によってはサルに生まれたかもしれないし、蝉に生まれたかもしれない。空を飛べるのかという基準によって生物を比較すれば、人間などは下等もいいところだ。言葉を使えるかどうかが上等下等を決めるのだとすれば、人間はそれなりに上等の部類に入るのかもしれないが、それにしても他の動物だって言葉を使っているのかもしれないし、単に人間が別の生き物の言葉を理解する能力に欠けているだけなのかもしれない。だが人間に生まれた魂は、自分の優位性を確認するために動物を下等だと定義する。かつて白人が黒人を下等だと定義したことと似た精神構造かもしれないし、それは今の日本でともすれば中国や韓国のことを蔑もうとしている人たちも、精神構造としてはなんら変わっていないように思う。今たまたま人間に生まれ、日本人に生まれただけのことで、世が世なら、何かの偶然が違っていたらダンゴムシに生まれていたかもしれないというのに。

 ヘイトスピーチというものがある。ネトウヨというものがある。他者に対して一定の色を付け、「この国から出ていけ」とか「殺せ」とかを堂々と言っている。そのことに批判的な言動をすれば「お前は在日だな」などと色を付けようとする。まあ僕は在日ではないのだが、そもそも在日であったとしてどうだという話だし、仮に日本を離れて外国に住んだら、在米日本人とか在独日本人とかになるわけで、それが故にその外国を追われることになるとしたら、その「在日め」と色付けしている人たちは嬉しいのだろうか。

 とはいえ、色を付けたくなくともどうしても色はついていく。目に見える姿が違えば色分けされるし、社会的に肩書きがつけば色分けになるし、医者の診断が下った時点で色は付けられる。すべての魂を平等にといって飛んでいる蚊や蠅も自分と同じ価値だと素直に思えるほど自分の心は悟りを得ていなくて、それでも怪しげなデング熱とやらのために殺される公園の蚊たちには同情を禁じ得ない。

 だからもう音楽にも色をつけんなよ、ジャンルなんてカンケーねーんだよと叫べるほどに音楽業界人として余裕はないし、一体どうすれば良いんだろうという気がして、情けなくなるやら凹むやら。

 少なくとも、積極的に色を付けて世界を分けて、分けられた世界同士の対立を煽ろうとしている人たちの論理に従ったりしないで済む程度には心を鍛えていきたいと思っていて、だから、何か言ったことに対して罵倒するようなリプライが飛んで来たとしてもちょっとした雑音として軽く受け流せる程度には図太くなっていきたい。まあ、世界を分けていこうとしている者とそうでない者という色分けをお前自身が今この瞬間しているではないかと指摘されれば、まあその通りでふがいない限りですハイと、まあ軽く受け流すしかないのだろうな。

 生きるって難しい。正義を希求したいのだが、その正義も誰にとっての正義なのやら。

並ぶことの公平、公平の不正義。

 iPhone6が発売されたとかの金曜日、Appleストアに行列ができるというのはもはや恒例行事になっているが、今回はそのニュースの様相が少しばかり違っていた。中国人の割込という一種センセーショナルな報道が流れてきた。中国ではこのiPhone6が同時期に発売にならないそうで、そのため人より早く手に入れたい人が沢山いて、日本での本体価格に数万円上乗せした金額で販売するサイトがたくさんあるそうで、そういうサイトの人なのだろうか、さらにはそこからまた下請けに出された現地バイヤーなのか、まあよく判らないけれども日本のAppleストアでは行列に割り込む中国人がたくさんいたという、そういうニュースだった。

 普通に見れば、なんだよ割り込みすんなよという感情が沸くよな。とは思う。だが、そんなに単純な話で片付けてていいんだろうかという違和感はあった。まず前提として割込が良い訳がない。その点は確認しておきたいし、これから書く内容は、だから割込もOKなのだという論旨でも趣旨でもまったく無いということは断っておきたい。変なイチャモンをつけてこないようにお願いします。

 で、ブローカーたちが19日にどうしても欲しいという気持ちはよく判る。中国本土には「絶対に欲しい」という人がいるのだ。彼らのニーズがある以上、そこにサービスを提供する業者は現れるし、ニーズに応えるための努力をするのは古今東西を問わず当たり前のこと。19日に入手しなければ次はいつになるのか判らないとまで言われているiPhone6だ。それは確実に手に入れるために様々な手を使っているだろう。もちろん事前の予約も行っているはず。友人も予約開始の時にサイトになかなかつながらずに数時間かかったと言っていた。それだけアクセスが集中したということだ。無論その友人のように日本人で初日に欲しいという人が大半ではあるだろうけど、中国人バイヤーも相当数いただろうし、手配出来る策はすべて使って予約しているはずだ。それでも足りないということだろう、Appleストア実店舗に並べば入手出来るのであれば並ぶ。その結果があの騒動だったのだろう。それを否定することは出来るのだろうか。日本でもiPadが最初の時には販売されず、海外から入手して販売するという業者はたくさんいたし、iPhone5まででは日本国内でSIMアンロックのものが売られていなかったため、どうしてもSIMロックされていないものが欲しい人のために並行輸入している業者がたくさんいた。今でもGoogleグラスは日本では買えないので、それを入手するとかどうとか言ってる人は何人もいた。まああれは認証とかそういった類いのこともあるしアメリカでも限定発売だったとかで、そこまで広がっているということでもなさそうだが。

 列に割り込むということの是非はもちろんある。だが、割込みをするのはなにも中国人だけではない。いろいろな行列に並んでも、誰かが先に来てお友達が遅れてやって来た場合、何の申し訳なさ加減も見せずに普通にお友達のところに入ってくるのは日常茶飯事だ。友達が遅れてやってきたからといって先に並んでいた人も一緒に最後尾に並び直すような人を僕は見たことがない。どうだろう、見たことあるだろうか?そして自分は友達が先に並んでいたからそこに後から入っていくことは絶対にしないと言えるだろうか?友達が遅れてきたから一緒に最後尾に並ぼうと提案出来ると言えるだろうか?そういうこと無しに、中国人が列に割り込んだことを、どのくらいの立派さで非難できるのだろうかと、僕は考えた。

 この行列の話題を見て、僕はTwitterで「そういえば京都の人は電車やバスに乗車する時に並ばない」ということを書いた。そうすると東京の友人から「ええっ、本当ですか?」とリプライが来た。

 そのやり取りについて奥さんと会話した時、奥さんは興味深い指摘をしてくれた。「確かに京都の人は並ばないけど、その代わり車内ですぐに席を譲ってくれるよ。妊娠してる時も生まれてから子連れになった時も本当にすぐ代わってくれる。おばあさんやおじいさんだって普通に代わってくれる。多分、たまたま席が空いているから座ってるだけで、その席が自分の権利だっていう感覚がないんじゃないかな。東京の人は並ぶけど、並んで座った分その席は自分の権利だって思っているような感じがする」と。成る程。そこまでは考えてもみなかったし、意識もしてなかった。でも言われてみれば確かにそうだ。僕のようなオッサンでも、子供を連れていると普通に席を譲られる。最初は戸惑って息子だけ座らせようとすると「お父さんが横に座らないとかわいそう」と僕まで座れと言ってくる。おばあさんがだ。

 確かに並ぶというのは公平なことである。先に並んだものが勝ちというような意識は普通にある。じゃあなぜ優先席などがあり、優先席以外でも身体の不自由な人や妊婦さんには席を譲った方がいいのか。それが公平なのかというと、多分公平ではない。公平ではないけど、きっとそこには正義があるんじゃないかなという気がしている。

 正義正義と言葉を振りかざすのはどちらかというと嫌いだ。そこにはその人のみの正義があって、他者からすればまったく正義でもなんでもないものが強制されることになるからだ。最近でいえば「美しい国」とか「絆」もそう。正義のように見えて、実は一部の人の勝手な正義の強制だった。

 だから僕は、誰もが一定のルールに従って公共交通機関の中で誰かに席を譲るべきであると言っているのではない。譲るべき人、譲られるべき人という定義は、各人の中に在って然るべきで、権威が市民に強制すべきものではないと思う。だから各々が自分なりに判断すればいいのであって、俺は誰にも譲らないと思うのであればそれはそれでいい。また、外からは見えない身体の不自由というものもあるし、それを周囲が全員気付くなんてこともないと思うし、その辺のアレはケースバイケースで様々だと思う。

 ただ、今自分がその席に座っていることが「権利」と考えるのか、それとも「何かの偶然」と考えるのか、そのことについては一度考えてみてもいいのではないだろうか。たまたま1つ前の駅から乗っていたので座れただけのこと。それは公園のベンチにたまたま座って気持ちいいなあというようなものなのか、それともコンサートのチケットを買ってその座席を占有する権利を得たようなものなのか。単純に決めることは難しい。新幹線で帰省時期に指定席の予約が取れず、東京から新大阪まで行くのに自由席に座れたら、近くに誰かが立っていても譲る気分にはなかなかなれないかもしれない。では渋谷から新宿まで行く時はどうなんだろうか。新宿から甲府まで行く時はどうなんだろうか。その時の自分の体調もあるだろうし、本当に人それぞれ、状況次第の逡巡なのだろう。

 でも、それでもやはり公平と正義というものはイコールの概念ではないんだなということは、奥さんとの会話からなんとなく理解出来たように思う。

 京都は比較的育児し易い街であると感じている。そして僕はiPhone6など夢のまた夢、いまだにiPhone4Sを愛用している。新しいものが良いという価値観、新しければ良いということではないという価値観。それも考察に値するとは思うが、今日のところはこの辺で。