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泣きどおし

 旧友がFBで書いていた。娘さんが土曜日は朝7時に起こしてと言う。なぜかと聞くと、宿題をやらなきゃいけないからだと。宿題の全部が併記されていた。本を1冊以上読み、漢字ドリルをやり、その他あれやこれや。思い出せないし思い出しても書ききれない。それが夏休みではなく土日の宿題だと。で、旧友は言っていた。遊んで何かを感じ、考える時間が奪われているのではないのかと。ホントそうだ。本を1冊読むだけで週末など終わる。遊ぶことなど出来なそうだし、本を読むのさえも、他の宿題と併せてやってれば、感想を妄想する時間などなかろう。それは読んで感じて考えるという読書ではなく、雑事としてこなすのみの何かの作業に過ぎない。

 んで、今日。息子の保育園運動会。大勢の客(父兄)が見てる前でおゆうぎをするのが嫌だったらしく、開会式から号泣。それはもう目立っていた。誰もが注目してしまうほどの号泣。そんな子供にもハラハラしながら見てる両親が客席にいるという想像力が欠けているのか、躾がなっていないと口にする親もごく一部。

 僕の感想はというと、園児全学年の中で1番大きな声で泣き、誰よりも目立って、息子偉い、である。泣かないのが偉いのではない。もちろんそのシチュエーションが楽しくて嬉しくてというお子さんもいるだろうから、笑顔でおゆうぎしているのは素晴らしいことだ。だが、そのシチュエーションが嫌いなお子さんもいるはず。そういう子が躾によって泣くのを抑え、怒られたくない一心で泣かずにいるのだとしたら、可哀想で仕方が無い。うちの子は、泣きたい時にちゃんと泣ける偉い子だ。その感受性と表現力を大切にしてあげたい。誰か他の人に迷惑をかけたか?子供は泣くのも仕事なのだ。

 そんな息子、帰宅して遊んで昼寝して、晩御飯を食べたら僕のiPhoneで童謡を鳴らせと言ってくる。鳴らしてあげるとおもちゃのミニピアノを出してきて、僕の隣で弾いている。弾いているといっても弾けているわけではない。リズムに合わせて手が乗っているキーを適当に押しているだけだ。でもリズムに合わせようとしているのはわかる。だから僕も童謡を歌いながら、リズムを取り易いように指でテーブルをトントンしてみる。息子嬉しそうにキーを叩く。音程などクソくらえのミニピアノが鳴り続けるのだから、お隣さんホントすみません。で、僕は一曲終わるたびに「上手だね〜」と褒めてやり、「楽しいね〜」と微笑む。息子かなり嬉しいらしく、さらに笑顔でキーを叩く。お隣さんホントすみません。でもリズムをとっているのは確かで、心からすごいと思う、親バカゆえ。

 普通の親バカは、この子は天才だ〜、英才教育を施さねばと近所のヤマハに通わせるのだろう。で、他にもその子の優れたところを見つけては教室に通わせるのだろう。そうして子供の楽しいねは失われていく。広場でムダな遊びをして空を見上げる時間も失われていく。

 最近知り合いがTwitterで、ピカソもアレを描くようになる前は写実なデッサンをちゃんとしてて、そういう基礎が無ければ本当の創造は無いんだと言っていた。それはその通りである。デッサン力の無い独創とは、力のない者の偶然に過ぎない。ドシロウトがマウンドからボールを投げて、絶妙なコースに球が行くことはある。だがそれはたまたまなのであって、プロでは通用しない。プロとは、9回裏同点で迎えた2死満塁フルカウントでその絶妙なコースに投げられる人のことで、それが出来るようになるには、普段からの不断のトレーニングが不可欠なのである。

 トレーニングが不可欠だからといって、親バカが天才だと評価した子供をピアノ教室に通わせるのはまったくナンセンスだ。ルールを教えたがるのはダメな大人の悪い癖。ルールなどは自分で作るようでなければ、人生をドブに捨てることになる。まずは楽しいねという感覚をいかにキープ出来るかが大事。その楽しさが本物になれば、もっと知りたい、もっと上手くなりたいと思うようになる。ルールを知るのはそれからで十分だ。それでは出遅れるぞ、絶対音感が手に入らなくなるぞという人もいるだろう。だが、本当に才能があるのなら、絶対音感に間に合うまでにその向上心に達するはずで、絶対音感アウトな年齢まで楽しさが向上心にまでワンステップ上がらないようなら、才能などそもそも無いということでよくないか?才能が無いのに無理やり教室に通わされ、ルールを教え込まれても、音楽が嫌いになるか、さもなくばそこそこにしか到達出来ないので、結局は無名なピアノの先生になるか、売れないバンドのキーボーディストになるかくらいである。そして無駄な遊びで感じたり考える機会も奪われ、ロクなことにはならない。

 あくまで勝手なシロウトの私論にすぎないのだけども。

 こういうことは、反対意見も少なからずあることは承知している。間違ってますよという人もいるかもしれない。運動会で泣きどおしの息子に「躾がなっていない」という人もいるくらいだ。まあその言葉を泣いてる子供の親が聞くかもしれないという想像力さえ欠けている人に躾けられる子供も可哀想というしかないが、それもその人の教育方針なので、僕がとやかく言うことではない。そんなことをさっき奥さんと話していたら、意見が一致して嬉しかった。両親の方針がずれていると、それが1番辛いことになるだろうから。

 そして運動会が終わって帰ろうとする息子に「◯◯ちゃん、今日は頑張ったね」と何人もの先生が皆口を揃えたかのように声をかけてくださって、 ありがたかった。良い保育園に行けて、息子ともども幸せだと思う。感謝したい。

「安定か混乱か」に対抗する

 僕の政治や社会への姿勢というのは、ブログやTwitterを見ていただいている方であればある程度は伝わっているのではないかと思う。そんな僕がどういう姿勢をとるべきなのか、おそらく他人から見ても想像がつきにくかったのが、大阪都構想だったのではないだろうか。

 確認しておきたいのだが、自分自身の政治や社会への姿勢としては、小沢一郎のそれにかなり近い。その小沢一郎が自民党を割り、戦った1993年の総選挙は僕の姿勢の原点だといっていい。具体的には、深谷隆という東京の政治家のポスターに書いてあった「安定か混乱か」というキャッチフレーズ。政治選択に於いてあたらしい提案がなされた場合、反対する側からは「安定か混乱か」という価値感の定義がなされることが多い。だが、それは本当に安定か混乱かの二択なのかというと、実はそうではないことが多い。変化を志向する提案は、予測のつかない部分が多いので、可能性としては混乱を生むこともあり得る。しかしその混乱は100%悪いことなのではない。人も組織も成長するということは以前と変わるということに他ならず、だとすれば今までとは違う何かにトライするということをしなければ、成長はないということでもある。

 しかし政治や社会においては変化することで困る立場の人たちがいる。既得権を持っている人たちだ。その人たちの立場も理解する。急に既得権を奪われるのは誰だって面白くないことだ。だが、その人たちが既得権を持っているのだとすれば、その人たち以外の人が何らかの権益を受けることが出来ずに不当な状況に置かれているということでもある。そういう人の権利回復を考えれば、やはり変化することは必要なのだが、既得権の恩恵を浴している人からすれば、その変化は「混乱」であるのだろう。

 そこで「安定か、混乱か」という訴えが成されるのだが、それはその訴えをしている人からの「安定」であり「混乱」である。訴えを聞いている他人にとっての「安定」でもなければ「混乱」でもない。その辺を間違えると、訴えをする人の脅しに屈することにもなる。

 もちろん、ただ単に反対すれば良いということでもなければ、賛成すれば良いということでもない。だが、僕は「安定か混乱か」という問いをする勢力が表に現れてきたとき、ケースバイケースで慎重な判断をすることがもちろん前提ではあるが、基本的には「安定か混乱か」を口にする人のことを猜疑心を持って見ることにしている。

 今回の大阪都構想。気になったのは自民と共産がタッグを組んで反対したことだ。1993年の総選挙で宮沢総理は「自民党が政権を失うということは、社会党に政権を任せるということなのですよ。それで良いんですか!」とテレビに出て叫んだ。今でこそ総理大臣がしょっちゅうテレビに出て意見を言うのが普通に感じられるようになったが、当時は総理がテレビに出て話をするということは滅多に無いことだった。そんなのは総理の行動として“軽い”ことだった。どんな討論番組でも、他党が党首を出してきているのに、自民党は幹事長などが出るのが普通。総裁(当時は自民党総裁=総理大臣)が出るなどというのはまず有り得ないことだったのだ。なのに宮沢総理はテレビで危機感を煽った。その自民党も、政権を取り戻すためには社会党を引き込んで、村山氏を総理大臣に立てた。それは「安定か混乱か」という煽りのキャッチコピーが如何に空疎だったのかということの証明でもあったと思っている。

 大阪自民党の責任者は「少しでも不安な点があれば反対に投票してください」と有権者の不安を煽っていた。これは危ないなと直感した。「安定か混乱か」を繰り返しているなと思った。その瞬間に、僕は大阪都構想には賛成という気になった。いやもちろん大阪市民ではないので投票権など持っていないのだけれども。

 今回都構想に反対の人のかなりの人たちは橋下徹への憎しみがベースにあったように思われる。確かに胡散臭い点はある。国政に於いて彼および維新が行ってきたことの罪は大きい。野党の体をしながら与党に擦り寄るような態度は、国論を捻れさせるのに一役も二役も買ってしまったと思う。なので僕も橋下徹に対しては違和感もあれば嫌悪感もある。しかし、その彼のイメージは、個人への人格攻撃によって作られている点も大きい。今回の選挙戦、というか住民投票戦の中では反対派による人格攻撃がものすごかった。僕はこれを、イコールではないものの、小沢一郎への攻撃に似た何かを感じていた。そういう場合にとるべき態度としての僕の考えは、人格への判断というものは一旦脇に置いておくべきというものだ。政策提案がどうなのか。それによってもたらされる未来はどういう可能性があるのか。メリットは、デメリットは。誰にとってのメリットなのか、誰にとってのデメリットなのか。

 そうして見た場合に、大阪都構想というのはとても判りにくい政治的提案ではあった。それによって何が変わるのか。おそらく、変わらないだろう。行政区分を変えたところで、そこに携わって仕事をするメンバーが総入れ替えになるのではない。つまりは運用する人の理性もモラルも価値感も変わらないということ。だとすれば、そこで自分の居場所を立場を確保しようとする動きは、今までと変わるモチベーションがどこにもない。なので、市がいくつかの区になったとしても対して変わらない。

 また、これが最大の判りにくさだったのわけだが、大阪府が大阪都になるわけではないということだ。それでは理解を得にくい。概念を理解するのに困難が伴う。

 橋下徹はプレゼンテーションの天才だといわれているし、反対派の多くが「あの弁舌に騙されてはいかん」と警戒していたが、肝心の政策そのものをプレゼンテーションする能力には何かが欠けていた。それが敗北の大きな理由だったと僕は考えている。

 とはいえ、変化を求めた提案であったことは間違いなく、だとしたら、変化してみればいいじゃんと、単純に僕は思った。多くの人が「混乱する」「不安である」と言い始めた時には、基本的にその声を疑い、「混乱ではなく変化である」というのが大事なのだろうと思う。今回「大阪市が無くなってしまったら、もう元には戻らないんですよ」と言ってきた人も少なからずいた。僕ごときに言ってくるんだから、他の場ではもっと言ってるだろう。しかし僕は思うのだ。今回のような大きな変化のチャンスはそうは起きない。今回否決することで、こういう変化のチャンスもまた、元には戻らないのである。そういう意味では、どちらにしても完全に元に戻るということはありえない。だから、「元に戻らないんですよ」という問いかけもまた、「安定か混乱か」という脅しの、亜種に過ぎない。そういうのに心を動かされるのは、ある特定の勢力の思うつぼなのだろうと思っている。

 ともあれ、橋下徹の政治的チャレンジは終わった。「政治家は引退」と言っていて、それにも「いや、彼は大阪市長を辞めて国政に出るに違いない」という批判的な発言も多く聞かれる。だが、政治家というのはそれ自身がそんなに儲かることではない。世の中に有能なビジネスマンは多いものの、政治の世界には絶対に行かない人がほとんどであることを考えれば、仮に彼が国会に進出したとしても、今回のようなチャレンジはもう出来ないだろう。だから、仮に国会議員に転身したとしてもそれは「ご苦労さまですね」という以外に感慨はないし、本当に政治家を引退したら、「ご苦労さまでした」という以外にない。彼がかき回した与野党のねじれの上のねじれという点では功罪の罪が大きかったと僕は思うが、それも終わればノーサイドだ。そもそも、国の舵取りは一部の政治家に任せるのではなく、その選出の段階から、国民1人1人が負うべきものであり、今後の大阪の在り様もまた、住民投票に行った人、行かなかった人が、その監視も負担も、受け入れていかなければならないことなのだろう。

 あ、断っておくが安倍晋三の憲法改正論に対しては明確に反対である。ひとつひとつの改革が「改正」なのか「改悪」なのかはもちろん個別に考える必要があり、考えもなしに変化=是ではない。こう断っておかないと、「お前は現状を変えることにすべて賛成じゃなかったのか?」と言ってくる人も多少はいて面倒なので断っておきます。

移動

奥さん実家の松阪へ。

京都から松阪へは近鉄で。普通に乗れば1800円、特急だと特急料金がプラス1600円ほどかかる。夫婦では3200円ほどの差になる。で、時間はというと、特急で1時間40分ほど、普通では2時間50分ほど。この時間の差と料金の差をどう考えるか。考えた結果、特急には乗らず普通で行くことに。

他にも条件がある。特急でも乗り換えが1回必要。直通もあるけど数が無く、現実的には選択肢として無いに等しい。普通だと乗り換え2回なので、面倒なのは変わらない。特急が乗り換え不要なら、特急に気持ちが傾いていたかもしれない。

もうひとつ、特急は座席指定ということもある。座席指定だから確実に座れるのだが、ウチの事情としては子連れというのが。2歳10ヶ月の息子は料金タダ。なので特急なら彼の席は無く、親の膝の上に座ることになる。普通ならば満席の時には座れないが、空いてれば3人座れる。この差は結構大きい。

そんなわけで、普通電車を2回乗り換えて電車の旅。安く上がって良かった。途中息子が大便したので乗り換え駅でトイレに駆け込みオムツ交換。危うく2時間50分の旅が3時間40分の旅になりかけたけど、なんとか滑り込み。事なきを得た。

考えてみれば福岡に帰省する時は新幹線に乗っても3時間近くかかる。それが快適で近鉄普通電車が不快ということがあるだろうか?現象としては不快ではないけど、心理的に不快ということはあるのかもしれない。まあ不快ということ自体が心理的なことなのでもあるし。

普通車と特急。自由席と指定席。普通指定席とグリーン車。エコノミークラスとビジネスクラス。さらにファーストクラス。どれがどうなのか。空間としてはファーストクラスとネットカフェでは大差ないように思う。いや、実はファーストクラスに乗ったことはないし、ネットカフェに泊まったこともないのだけれど。少なくとも安いビジネスホテルの方がファーストクラスより快適なはずだし、少なくともテレビの画面は大きい。

そう考えていくと、空間や時間にかける費用というのは、ゴージャスであるとか快適であるとかではなく、グレード設定だけなのだろうと思う。かつてタワー型が主流だった頃のMacintoshは、最上機50万円、ビジネス機22万円、入門機12万円という価格設定がされていた。当時はCPUの進化がすごく、モデルチェンジしたら爆速になるのだけど、それでもそのグレード設定はずっと同じだった。それは要するに人が満足する金額設定というのがあって、安い方がイイに特化した人用、他の人が届かないマシンを使ってるぜオレに価値を見出す人用、そこまで出せんけど、そこそこ拡張性は要るんですの人、そういう風に見ていたのだと思う、マーケティング的な観点で。

乗り物も同じで、ファーストクラスが到着時刻がファーストなのであれば大金を払う意味もあるだろうが、それは無理なので、待遇の差で高価格設定をする。だとすればJRがリニアを実用にした場合、本当ならリニアが東京大阪間を時間半分で行き、その代わり料金3倍というのがマーケティング的には正しいのだろうが、価格設定のために両方走らせると、新幹線グリーン車がいつもガラガラであるように、リニアもガラガラになってしまって採算とれなくなるので、きっと同じ列車の中で価格設定を変えるという戦略にならざるを得ないのだろう。

まあそんなこんなで、今日のところは特急ではなくて普通で。そんなに急ぐ移動ではないからね。といいつつも、もしも時間が3倍かかるのだとしたら、さすがに特急に乗ってたと思う。1時間ほどの差で1600円違うのだといわれれば、最低賃金をはるかに上回る特急料金を払う気持ちにはなれなかった、早い話がビンボーな僕ということでしょう。

ひとくくり

 銀座の寿司店で寿司店の対応に批判的な記事が載り、その記事を批判するツイートをいくつか見る。

 外国人客が予約しても拒否されたことへの批判記事だったのだが、ある国の予約客はいつもドタキャンをするので商売にならないんだぞ的な、記事批判ツイート。その内容はまあそういう現場の事情はあるのだろうなあと思えるものだった。だが、そこで批判されていた外国人客とは、「中国人は」という言葉でひとくくりにされている。

 それが、差別の出発点だ。

 そういうひとくくりがいけないのは、じゃあ外国のどこかで「日本人が」とひとくくりにされた場合にどう感じるのかを考えれば多少はわかるはず。SNSなどを見てても日本人がひとくくりに出来るほど単純な気質で一様なのではないことはよくわかる。自称リベラルな人は右翼的な人をネトウヨと批判し、ネトウヨの人はリベラルな人をサヨクと批判する。これが同じ日本人なのだろうか。幸か不幸か、それすべて日本人。ヘイトスピーチを繰り返すのも、やはり日本人なのだ。

 そういうものが諸外国に伝わった場合、その国の人が「ヘイトスピーチをするような日本人には来て欲しくない」と言い出したらどうだろう。或いは「あんなにリベラルと称して左翼活動をするような日本人には来て欲しくない」だったらどうだろうか。どちらもイヤだし、どちらも間違いだと教えてあげたい。

 ネトウヨもサヨクも、生まれついた条件ではなく、後から考えて自分の考え方はこうなんだと思ってそういう態度や行動をとるのは、自由だ。なので、ネトウヨをひとくくりにするのはまあ許容範囲だし、サヨクをひとくくりにするのも許容範囲だと思う。もちろん各個人によって程度も違うし、政治行動や思想信条をまとめて「ネトウヨ」や「サヨク」というある意味蔑称を使うことには問題がある。それは確認しておきたいけれども。

 一方で、中国人であることや日本人であることについては、選べないという条件だったりする。もちろんそれは国籍の話なので、国籍が比較的自由に取得出来る国に行くことで選ぶことも出来るだろうが、基本的には選べずに一生を終える人が大半だ。そういう「選べない」条件である特定の国民について「あの国民はこうだから」というひとくくりにすることは、やはりダメなのだと思う。差別である。

 じゃあ件の寿司屋の人はどうすべきなのだろうか。現実問題として起こるドタキャン問題に対してはなんらかの対応をするしか無くなる。予約の際に全額を払ってもらうシステムにしたり、ドタキャンが起きたときのリスクも通常の価格に含んだものにするとか、会員制にするとか、いろいろだ。もちろんその他の方法もあるだろうし、差別にはならない範囲の選別と予約拒否をするとか。

 そうしないで、中国人はすべて予約拒否ということになったとすれば、それはそれで仕方ないだろう。だがその考え方は思考停止に過ぎず、まあ一介の寿司店経営者にどのくらいの細やかな対応を望むべきなのかは難しい問題ではあるが、少なくとも客側がそういうお店の対応を「仕方ないよね、当然だよね」と容認していては、やがて外国に旅行などした際に「日本人お断り」という状況に遭遇して困ったとしても、文句は言えなくなってしまうのだろうと思う。

 難しい問題だけどね。

都構想

大阪都構想の住民投票がもうすぐだとか。

個人的にはやってみるといいと思う。やる側も利権あるだろうし、阻止したい側にも利権はあるだろう。だが原点にはピュアな志が多少はあったはずの改革側に較べると、改革阻止側にピュアな原点はない。この政治運動の中でいろいろ乗り越えるために橋下徹が清濁併せ呑んできたのは間違いないわけで、その部分部分や結果としての維新の胡散臭さはとても賛同できるものではないが、だからといって橋下徹を全否定する気もない。原点である都構想は実現させて、それで心置き無く引退してもらえばいいだけのこと。

それに、前代未聞のことをやるのではなく、東京都という前例もある訳で、東京都がとんでもない行政的バッドシティになってないのであれば大阪都になっても恐ろしい顛末にはなりそうもないと思われる。やってみたらええがな、というのが無責任な感想だ。そして無謀に見える変化にチャレンジできないコミュニティは早晩必ず腐敗して崩壊する。それを避けるためにも、無謀なチャレンジャーには頑張って欲しい。

そして大阪都ができた暁には、維新の党に瓦解してもらえば、国政に於いて有権者を惑わす選択肢がひとつ消え、言うことないと思う。

それに、もしも大阪府が大阪都になれば、府である行政単位は京都府だけになるじゃないか。それはなんかイイなと思ったりしているのだ。

哲学

 さっき『世界のエリートはなぜ3歳から哲学を学ぶか』というタイトルのweb記事を見た。同名書籍の宣伝みたいだったけど、たしかに考えるべき話だと思う。

 日本の教育に哲学への糸口があるのかどうかといわれれば、ほとんどないように思う。だからそれは親が子供と接する中で育んでいかなければいけないのだろうという気がする。途端に育児が重い課題になってきたぞ、うん。

 哲学と主義とは違うものだと思っていて、もちろん主義はその人の哲学の上に建てられる生きる指針となりうるわけだが、それも哲学が不在であれば信仰にすぎない。哲学の名言として有名な「人間は考える葦である」というのがあるが、要するに考えなきゃいかんのだろう。考えて、それまで固く思い込んでいたある事柄がどうも違うぞと感じるようになったとき、それまでの考え方や主義を一旦懐疑し、場合によっては否定することさえ出来る柔軟さは持っていたい。それができるかどうかが、哲学的思考なのだろうという気がしている。

 で、3歳の子供が哲学なんて大丈夫なのかという心配もないわけではないが、別にショーペンハウエルを読んで学べということではあるまい。生きるとは何か、何が好きなのか、2つの選択肢があった時にどちらを選ぶのか。そういったことの積み重ねが、哲学を醸成するような気がする。素人考えだけれども。

 昨日も息子と一緒にお風呂に入っていて、湯船に割と多めのお湯がたまっていて、息子は笑いながら「溺れそう」と口にした。いや、立ってれば胸の所よりも下くらいの湯量でしかないのだが。でも溺れるという言葉を聞くと咄嗟に「いかんよ、いかん。おぼれたらいかん」と言ったのだが、そこでちょっと思った。溺れるか溺れないかは結果論であって、自ら溺れようとするのは自殺である。問題は溺れる気がないのに足を滑らせたりして溺れてしまう場合だ。なので、「溺れるな」というのはほとんど無意味な命令形だと気づいた。ではそこで、「危ないことは一切するな」と言うのがいいのか、それとも「危ないことも注意してやれ」と言うのがいいのか。僕の答えはこうだった。

 「お父さんも昔川で溺れそうになったことがある。遊んでて足を滑らせて川の中に落ちたんだ。その時、お父さんのお父さんがさっと引き上げてくれて、助けてくれた。だからお父さんも溺れて死んだりせずに今ここにいるし、○○ちゃんもここにいることが出来てる。だから、お父さんも○○ちゃんが溺れそうになったら、さっと助けてあげるから、心配しないでいいよ。その代わり、お父さんから離れた所に行かないでね」

 その話を聞いた息子はしばらく驚いた表情をしてて、お風呂から上がった後も「お父さん、溺れたことあるん?」と何度も聞いてきた。何かを感じたのだろう。恐さを感じたのか、それとも安心を感じたのか、はたまた「溺れる」ということがリアルになったのか。まあよくわからないけれども、彼なりに何かを理解しようとしている風はあった。それでいいんだろうと思う。また何かの時に正面から向き合って、いろいろなことを話して、考えさせられればという気がする。

 そんな息子、昨日の朝にいつもお父さんに被せてもらっている自転車用のヘルメットを自分で被ると言ってきかなかった。要するにあごひもをパチンと止めるやつを自分でやりたいのだ。他の同様の器具、たとえばリュックの胸の所で止めるやつなんかは自分でも出来るのだけれど、あごひものパチンは眼で見得ない場所なのでなかなかうまくいかない。朝ずっとそれをやられると保育園に遅刻するので、10分ほど見守った後に「今日はもうお父さんがやるから」といってパチンとやった。するとギャン泣きして、道中ずっと泣きっ放し。途中に立ち寄りたかった小さな神社にも時間がなかったので立ち寄らず、それでまたギャン泣き。後ろでギャン泣きする息子を乗せて街を走る自転車を街の人はどう見てたのだろうか。いや、どう見られても構わないのだが、とにかく保育園まで泣き通し。泣いている息子を置いて出社した。お迎えのとき、さすがにもう泣いてはいなくて、でもまたヘルメットを自分でパチンすると言い出す。帰宅は多少遅くなっても仕方ないなとやらせてみる。保育園の先生も「魔の二歳児ですからね。ここを乗り切らないと、何も出来ない子供になってしまうし、お父さんも我慢のしどころですね」と笑顔で眺めてる。そうか、僕も試されているんだ。そう思った。で、息子、15分ほどチャレンジした結果、なんと上手にパチンすることができた。紐はちょっとねじれてたけれども。

 その場で「上手に出来たね」と褒め、帰宅してその点末を母親にも教え、母親にも褒めてもらい、息子けっこう満足げ。今朝も玄関先で10分くらいは見守ってやろうと腹を決めてたら、なんと2分くらいでパチンができた。おかげで予想よりも早く家を出られて、だから小さな神社にも立ち寄り、咲きかけのツツジを2人して眺めて、保育園へ。息子泣かずに上機嫌。

 小さな子供にも、プライドはある。驚きも感動もちゃんとある。そういうのを大切にしてあげながら、日々のちょっとしたことを一緒に驚いたり感動したりすることによって、人間の哲学って育まれるんじゃないだろうかと、ちょっと思ったりする。合ってるのか間違っているのかは判らんけれども。

 おばあちゃんからちょっと早めの誕生日プレゼントでレゴが今日あたり届くらしい。きっとおどろくだろうな。一緒にいろいろなものを作ろう。そういうのもきっと楽しいし、息子の何かには役に立つだろうし。

遠くの人、近くの人

 かつて近かった人のことを、もう忘れているようで、忘れてなんていないことを、突然ネット上でその人の姿や写真を見て、自覚したりすることがある。ネットとはスゴいものだ。検索しようとしまいと、それが目の前に現れてくる時は来る。そして驚く。驚くのはいったい何なのか。それはネットの持つ検索能力のスゴさなどではなくて、かつて近かった人がもうずっと目の前からいなくなって、だけれども意識としては忘れてなんていなかったことを自覚させられ、自覚させられて、じゃあもう一度近づけば良いじゃないかと思うけれども、そのひとクリックふたクリックも、遠くて遠くて。そんなことに気づかされることで、遠いのは距離ではなくて心の中の自らの規定なのだということだ。

 そしてネットでは遠くにいるはずで実際に遠くて遠くて会ったことさえないというのに、とても近くにいるような気がする人もいる。そういう人と僕の間にあるのは、距離的な遠さと、心の中の自らの規定による近さだ。

 さて、このことに関して書きはじめればキリがない。そして僕には今時間がない。遠くに住んでるバンドが京都にライブに来ているのだ。開場時間はもうすぐ。行かなくちゃ。会いに行かなくちゃ。ライブのビデオを撮影して、彼らのことを何ら知らない遠くの人たちに、その勇姿を伝えるために。

いけや

 北欧の家具やさん、ではありません。「行けや」です。アルファベットなら「IKEYA」。ほら、違うでしょ。

 今朝僕は自転車で通勤中、信号待ちの間にスマホを見ていました。すると後ろから「行けや!」の声。待っていた信号は青に変わっていました。

 僕はその横断歩道の一番隅の端っこにいたので、そこが邪魔になるという意識も無く、だからそういう声が飛んで来たのにちょっと驚き、振返ると、空き缶をこれでもかと詰めた袋を5個くらい積んだ自転車のおじさん。きっと驚いて振り向いた僕の表情が睨みつけたように見えたのでしょう。おじさんは視線を逸らし、僕のいるところをよけて信号を渡っていきました。

 よけられるんなら「行けや」とすごまなくてもいいんじゃないかと、正直思います。でも僕はけっして睨んだのではないし、視線をそらして立ち去ったおじさんには悪かったかなという気がしています。だって、あんなに缶を積んでいるのだから、出来るだけ最短距離で動きたいはず。それは日頃息子を自転車に乗せて移動している僕にはわかります。子供を乗せて走っている自転車は最優先で通行出来て当然だとか勝手に思って走ります。だから子供を乗せている自転車を見ると、よけてやらねばと思います。でも、空き缶をたくさん載せて自転車を走らせた経験がないものだから、それがどのくらい重くて、走りにくいのかなんて見当もつきません。でもきっと重いよあれ。スマホなんていじってるオッサンを見たらすごみたくもなるでしょう。

 で、あれはもしかしたら自分なのかもしれないとちょっと思います。

 若い頃、僕はハンドルを握ると人格が変わるとよくいわれたものです。別に暴走魔になるのではありません。口が悪くなるのです。ゆっくり走っているバスに行く手を遮られると「このくそバス」などと口走ります。横断歩道をゆっくり渡っている歩行者には「このくそ歩行者」などと毒づきます。ゆっくり歩いているおじいさんに向かっては「このくそジジイ」と。あれ、これはちょっと普通ですね。いやいや、言葉としては既成の単語でも、普通のドライバーはそんなにくそジジイなんて口にしません。やっぱり普通じゃないのです。

 1度だけ、変な割込をしてきた車に向かって「なんだよこの馬鹿」と言ったことがあります。すると読唇術でもあったのか、その車が停車して運転手が降りてきて僕の車の運転席の窓をノックしました。明らかにヤンキーです。コワいです。口が悪くなっていても僕は紳士(?)、いや紳士でなくても文系の青年。リアルのケンカに勝てる自信などはまったくありません。これはヤバいと思い、ドアの鍵を閉め、窓も固く閉ざしました。出来るだけ目を合わせないようにして嵐が過ぎ去るのを待つようにしていたら、そのヤンキーも「ビビるくらいなら言うな!」と、閉まった窓越しにもはっきりと聴こえるような怒声で捨て台詞を吐いて自分の車に戻っていったのです。ああ、良かった、もうこんなことは言うまいと思いましたよ。ええ、そりゃあ本当に変な割込で馬鹿な運転そのものだったんですけれども。

 僕に「行けや!」と罵声を浴びせたおじさんも、かつての僕と同じ心持ちだったのでしょう。意外に振り向かれ、その顔が睨んで(いや、睨んでないんですけど)いたのでビビっちゃって、重い自転車を迂回させて信号を渡っていった。

 最近のネットで起こっていることも、そんな感じのアレなんじゃないかという気がします。誰かしらない人に罵声を浴びせて喜んでいる人がとにかく多い。で、多くの浴びせられた側の人は驚いて落ち込んでネットから去って行ったりする。そうすると「逃げたぞwwww」なんて喜んだりするものの、時々過激な反論を受けたりすると、今度はビビって自分がアカウント削除したり、ブロックしたりする。それは何なんでしょうかね。心のゆとりが無くなっているんでしょうかね。よくわかりません。でも、良いことと悪いことの区別を出来ずにいる人は、以前にも増してなのか以前もこのくらいだったのかは判りませんけど、たくさんいるような気がしてならないのです。

 あのおじさん、身だしなみがなってないからかなりの、おじさんというよりおじいさんのようにも見えたのですが、実際は何歳だったのでしょうか。僕ももう50歳なので、彼が僕より年下である可能性もまったく否定出来ません。そう考えると、切なさもひとしお。もっと優しい人になろうと固く決意したのです。いや、睨んでなんてないのですけどね。可能な限りの平静さで優しさMAXだったんですけどね。顔つきがアレなのかなあ。もっと日頃から笑うトレーニングして、ちょっとした無心の表情さえ笑顔に満ちた、そんな人になるべきなのかなあ。悩みます。

 (あ、断っておきますが、今はもうハンドルを握っても毒づいたりしませんよ。だって家族いるんですから。そんなこと口走ってたら離婚ですもの、オホホホホ。)

市民の限界

統一地方選で感じたこと。それは市民系の圧倒的な弱さである。僕の暮らす地域は全国的に見てちょっと特殊で、市会議員に共産党が2人、しかも2位と3位で当選。自民が1人しか当選していないし、しかも下位。1位はというと地域政党の京都党なので、まあ本当に特殊なエリアだと思われる。

そんな中、市民系として立候補していた候補に注目してみたが、あっけなく落選。かなりの差をつけられて。これをどう見るのか。僕は、準備がまったくできてなかった故の当然の敗北と感じた。

まず、演説が下手。喋り慣れていない。それでは惹きつけられない。そういうのは基本なので、その訓練が候補者に必要。

次に、市民系と言いつつも、市民のことをわかっていない。選挙カーにはサイケなアートで飾っていた。それはアートとしてはイイかもだが、選挙カーとしては明らかに不適。視線が候補者名や政治団体名に向かない。それに爽やかでない。同様な点はスタッフにもいえる。サイケなヒッピーみたいな人がビラを配っていた。それも何人もで。それでは胡散臭い候補ですよと言ってるようなものだ。明らかにマイナス。

そんなことも理解できずに立候補するのなら無駄である。自分が貫きたいのは風体か、それとも政治信条の実現か。風体優先なら、政治は諦めてアートで自説を訴えればいい。政治で何かを変えようと本気で思っているのなら、それ以外のことはすべて脇に置いて頑張るしかないだろう。

自民党も共産党も、積み重ねがある。日頃から活動をきちんとやっている。政治信条には同調できなくとも、そういった日頃の活動はきちんとやっている、そのことには拍手を送りたい。この地区で1位の京都党も、日頃からビラやポスターを本当に沢山撒いたり貼ったりしている。その金がどこから出ているのかは不明だが、とにかくやっている。半年くらい前から動き出してそれに勝とうとするならば、相当の奇策が必要になるだろう。でも実際には奇策もなければ準備も足りず、本人の演説力さえ無い。これでは勝てない。

たかが地方選、されど地方選。勝つ人は勝つべくして勝っている。それは逆に言えば勝つべくして勝とうと思うのなら、これからの4年の勝負を考えて落選した次の日から行動をしなければならない。だがおそらくは、落選した候補は政治を断念するか、しばらく別のことをして、3年半ほどしてまた熱に浮かされて出てきたりするだけなのだろう。それでは勝てない。また負けるだけだ。

市民系が勝つというのは、市民系が市民系を脱してプロになるところからのスタートなのだろう。そのスタート地点さえ、今は遠く遠くの果ての果てにさえ感じられる。

便利の果てに

 便利なことは良いことだ。

 かつてのテレビCMで「大きいことはいいことだ」というコピーがあった。それ以降なのか以前からなのか、大きなものがもてはやされた。子供の頃に赤ちゃん大会なるものがあったらしく、身長や体重が大きい子供が表彰されるかなにかがあったらしい。そこにエントリーするのはどういう子供であり親であったのか。高ければ良いのか、重ければ良いのか。そういう大会の影響なのか身長が高いことはやがて3高などというトレンドも生まれたが、今となっては誰もそれを口にしない。赤ちゃん大会もおこなわれている風は無い。背が高い僕はその頃の風潮で羨ましがられていいないいなと言われ、悪い気分はあまりしなかったが、10代の頃は服や靴に選択の余地が少なく、今も電車の入り口で頭を打つ。

 便利なことは良いことだ。それは果たして真実なのか。そりゃあ便利は良いだろう。今さらマニュアルの車には乗れないと思う。だが、ブレーキまで機械に任せて大丈夫なのか。その心配はある。旧い世代になったのかオレ。でもやはりブレーキは自分で踏む。踏みたい。踏まずに任せるのなんて僕には無理だろうと思う。しかしやがてそれはジジイと笑われる価値感になってしまうのだろう。

 ナビを使うようになると地図を覚えなくなる。旅先でも日本全国地図を懸命に見ながら行く道を確認していた。僕は今も基本的にそうだ。だが日本全国地図ではなくスマホのマップ。地名を入れたらそこが表示される。ナビ機能も意外に便利だった。それでも使わないよ。だって今自分が正しいルートにいるのかどうかを知りたいのではなくて、今自分がどこにいるのかを知りたいのだから。正しいかどうかは二の次だ。いや、間違うと困るのだけれども。その昔アメリカを旅して、ソルトレイクシティのやや北にあるグランドティトン国立公園のゲートシティ、ジャクソンという街に宿泊しようと思ってて、賑やかな街についたので近くのモーテルにチェックイン。でも待てよ、ガイドブックに書いてある賑やかさほどじゃないぞここ、まあガイドブックなんて過剰に書くのが常だからいいかと就寝したが、翌朝起きて出発したら本当のジャクソンの街に着き、あまりの賑やかさの違いに驚いた。ナビだったらそんなことはなかっただろう。でも今記憶にあるのはその間違いのことで、他のことはまあそんなに覚えていない。僕はそれも悪くないと思う。

 パソコンからクリックひとつで好きなものが買えるネット通販は本当に便利だ。しかしそれに慣れていって僕らが街の本屋やレコード屋を失っていったように、便利の陰には常に弊害がある。もちろん毎朝薪を割って竃に火を入れて米を炊こうとは思わない。でもそういうことの必要性も、いつか出てくるのではないだろうかとちょっとだけ思っている。人はどんどん易き方に流れていってしまう、動物にすぎないのだから。猫は飼い猫と野良では寿命が3倍ほど違うという。もちろん飼い猫が長い。天敵も無く飢えることもなく、病気をしたといえば動物病院に連れて行ってもらう。そりゃ長生きもするさ。それが幸せか。ええ、幸せだよなと、いったい何割の人が答えるのだろう。正しいとか間違いということではなく、哲学、価値感の問題だ。だが哲学や価値感という意識の上にある何かとは違って、無意識の上にある何かは、常に易きに流れていく。だからこそ、意識の中では「竃で毎日飯炊き」を考えた方がいいのではないかと思う。

 便利は競争を生み、淘汰されたプレイヤーは姿を消す。姿を消してもすぐに死なない以上、非プレイヤーたちが世界を埋め尽くすことになる。非プレイヤーたちはプレイヤーの動かす駒となり歯車となり、働いては僅かな賃金を得て、プレイヤーの提供する言い値の商品を消費していくことになるだろう。

 便利は、選択肢を僕らから奪う。新しい便利が登場することで選択肢を得たと喜んでいられるのは過渡期の間にすぎない。果てにあるのは、便利の奴隷になった自分ということになるのだろう。