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自分の言葉

 ちょっとずつでもいいから、毎日書こうと思った2日目です。禁煙のプロがもう何度も禁煙に成功してきたのと同じように、毎日書こうともう何度思ったことやら………。

 それでもまあ、時々思い出したように「これではいかん」と自戒するのが、せめてもの救いなのかもしれません。

 さて、なんかず〜〜と違和感を感じていたことの理由をさっき理解したような気がします。それは、啓発セミナー的なことをやっている人たちが、facebookにも沢山いて、まあそれはいいんですが、そういう人の写真ってすっごく笑顔。いや、笑顔はいいですよね。それを非難する理由なんてありません。人類皆笑顔でいいと思います。でも、なんかその人の笑顔が不自然なような気がしてて。啓発セミナーをやってる人も受けてる(と思われる)人も、まあ受けてると思われる人というのは、その啓発セミナーをやっている人の投稿にやたらとイイねを押したりコメントを残したりしている人のことですが、その人たちも笑顔で、なんか不自然。

 で、今日思ったのです。啓発系の人たちの投稿に特徴的なパターンはこうです。
 【おはよう系挨拶(挨拶はほぼすべて「おはよう」です。昼以降に活動している投稿などあまり見ません)+名言+「その通りですよね」コメント+「今日も元気にいきましょう」的ポジティブメッセージ】
 たいてい、これです。

 ここに、その人の中身ある言葉って、あるのでしょうか??

 まあ啓発セミナーというものがそもそも「人生を充実させよう」的な感じの催しで、しかも大抵金を取るので中身が濃くなければいけません。でも、そんなに濃い人生を送ってる人がどれだけいるのでしょうか。少なくとも、あんなに沢山いる啓発セミナー講師の数ほどはいないはず。

 確かに偉人の名言には示唆に富んだ何かが含まれているわけで、それを生きる上でのエッセンスとして参考にすることは有効でしょうけれど、そればっかりでは自分という存在に意味が付加することはおそらくないだろうと思うのです。啓発系の彼らの投稿には、個人の生活がほとんど見えません。それはもしかすると、日常を普通に公開すると、名言の何かと比べてギャップがありすぎて、仕事に差し支えるからなのかなあと。

 まあ僕は啓発セミナーに行くことは一生ないだろうし、それに、人伝えに聞く名言よりも、友人が「けっ、仕事で失敗しちゃったよ〜」「終電乗り遅れた〜」「酔っぱらって記憶ないんだけど、気づいたら朝。んで、ここどこよ?」といった自分の言葉で書かれた、その人にしか書けないトンマな投稿の方が愛しく思えてしまうのです。

書く時間

 ブログを書く時間がありません。

 先日友人と会った時、待ち合わせの時間に数分遅れたら「今、iPadで大島くんのブログを読んでた」と言われて顔から汗が噴き出した。読んどんのかい!その友人とつながってるfacebookではブログのこと一切触れてない。だから、どこかを経由して、例えばキラキラレコードのHPを経由したり、場合によっては検索をして辿り着いたのだろうか。まあいい。隠そうと思ってないし、今こうして書いていることもその人は読んでるのかもしれないし、読んでないのかもしれない。

 その時僕は「あれは半分くらいは寝ながらiPhoneで書いている」と言った。こんな長文をiPhoneで書くなんてと驚かれたが、意外とその方が良かったりする。それに、パソコンに向かっているときは基本的に仕事だし。

 それにしても、ブログ書く時間がありません。最近はすぐに寝てしまうし。オッサンなのかなあ。オッサンを通り越してジジイなのかなあ。だったら尋常じゃないくらいに早く目が覚めてしまって早朝未明に書けばいいのに。いや、その元気はないのです。

 帰省したら、いとこにまで「この間ブログ読んだ」とか言われた。おいおい、読んどるのかよ、いとこのブログ! まあいい。そのうちに、甥っ子姪っ子も読むのかな。コワいな。いや、コワくはないけど。

 どうせ誰も読んではいないだろうというのは愚かな思い込みに過ぎません。近しい人が意外に声を潜めて読んでいるのです。そうでしょう、今これを読んでいる僕の知人のあなた!!いや、いいんですけれどもね。読むのはどうぞ読んでいただいて構いませんし、楽しんで読んでいただけるためにもっともっと文章を磨きたいと思います。そのための時間も捻出したいと思います。努力します努力します。だからどうか、超久々に会った時に、ニコニコして「読んだよ」っていうカミングアウトするのはやめてください…。

子供を育てるということ

おととい、木馬を引きずりながら遊んでいた息子がそれまでとは違うことを言い始めた。

「すぐ連れて行くからね。心配いらないよ。」

なんだろうと思いながら眺めていると、どうやらタクシーに乗るのだという。木馬の頭を撫でてあげてから、2人でエレベーターに乗る仕草をする。ボタンを押して、しばらく待って、どうやら1階に着いたのだろう。息子は木馬を引き、到着しているタクシーに乗り込む。

タクシーに乗るとすぐに何処かに着く。「すぐ治るからね。ダイジョブダイジョブ」と言う。「良かったね」と言うまでのひと続きの光景は、まるで夢を見ているみたいだった。

僕は途中から慌ててiPhoneのカメラを起動して動画を撮る。多分僕にとっての宝物になる。動画はいつも僕の不完全な観察力を補うし、それ以上に不完全になりつつある記憶力を支えてくれるのだが、後になってその動画を見たとしても、この時の気持ちを再現することは不可能だろう。それはスポーツ中継をいくら録画して再生したとしても、ハラハラしたりすることが不可能であるように。

息子が木馬とやっていたごっこ遊びは、もう半年以上前だっただろうか、夜寝る直前に僕が息子の手を引いて、それで息子の肘の関節が抜けた時のことを再現しているのだった。医者をやっている子育ての先輩友人に、子供の肘は抜けやすいから気をつけろと言われていたのだが、本当にそんなことで抜けるのかと驚くくらいにあっけなく抜けた。オロオロしつつ、明日の朝一番で病院かとも思いつつ、でも痛がるし、半日遅れて取り返しがつかなくなったら申し訳ないので、いろいろ調べて夜間でも見てもらえる病院までタクシーに乗って向かった。処置してくれた医者のおかげで関節は簡単にはまり、はまるともう痛みも全くないらしく、息子はけろっとした顔で、帰りのタクシーに早く乗りたいと主張してくる。

翌日も何事もなかったように保育園に行き、それ以降息子がそのことに触れることはなかった。

ご飯を食べる時は遊ばないとか、何度言っても聞きはしないし、親の言ってることなど右から左で何も聞いてないのではなかろうかと思う日々。だが、彼はひとつひとつの出来事を完璧に記憶している。病院に向かう途中のひとつひとつの僕の言葉などもちゃんと覚えているようだ。確かに僕はダイジョブダイジョブと繰り返した。医療行為を施せない親にできるのは、ダイジョブダイジョブという呪文を繰り返すことくらいだ。呪文とは呪いであり、マイナスの作用を与えることに使われることが多いようだが、ダイジョブダイジョブで一時的に魂が勇希を持つ力になることもあり、そういう時、言葉の力はすごいなあと思う。そのダイジョブダイジョブが、小さな人の心に、半年以上経っても染み付いている。迂闊なことは言えないなあと思う。同時に、無言であることも罪だなあと思う。三つ子の魂百までというが、だとしたら、今この時は正念場なのだろう。僕は息子の人生を大きく左右するような責任を担っているのではなかろうか。

3歳を超えた昨今、息子はなんでなんで期に入ったのか、いろいろと質問してくる。そのほとんどはくだらない質問だったりするが、それは大人が人生の垢のような年輪に押しつぶされて思考をやめただけの話で、実は人間にとって大切な哲学の重要なパーツなのかもしれんと最近思う。「電車がずーっとずーっと行ってしまったら、どうする?」と問われても、そんなん知らんわと、大人の僕はついつい思う。だが、そういう問いに考えを停止する方が子供なのではないだろうか。この場合の大人と子供という単語にもまた二重の意味があってややこしいのだが。

そんな息子が昨日聞いてきたのは、僕がテーブルに無造作に置いていた小銭入れを指差して「お父さん、お父さんの大事な大事なサイフを、誰かが取っていったら、どうする?」というものだった。何も考えない場合の正解は、警察に届けるというものだろうか。だが、僕は一生懸命に考えた。そして言った。

「お父さんのお金が、どうしても欲しかった人が取っていったんだろうから、きっと大事に使ってくれるよ。だからその人にあげることにする。取られたらちょっと悲しいけど、だからといって怒ってもつまらんでしょ」

それが正解なのかはわからない。そもそも正解なんて無いだろう。取っても怒らないのなら、じゃあ取っても良いんだと誤解する恐れもないわけじゃ無いけど、「取られたら警察にいって捕まえてもらって厳しく罰してもらう」では彼の三つ子の魂は猜疑と怨嗟に染まってしまう。どうせ生きにくい世界が待っているのだし、その中で、猜疑と怨嗟に染まった心で生きるのはあまりにロマンが無い。赦しを心のどこかに持って生きれば、人生の見え方も少しは明るくなるのではと、そんな希望と期待を込めてみた。

息子のごっこ遊び動画は、僕の体験を補完するという意味での宝物だと思う。普通の成長記録は、家族だけがアクセスできる場所にアップしていて、それは共有する目的と、時系列に整理する目的とがある。だが、今回のごっこ遊び動画はそこにアップしようとは思わない。HDDに保存をし、特別な名前も付けずに置いておく。だから、もう2度と見ることさえ無いかもしれない。でもそれで良いような気がしている。もし見ることがあるとすれば、かなり珍しい偶然の賜物だろう。だがそんな偶然の賜物は、息子と暮らしていると無数にある。それはスポーツ観戦の中で起きる逆転ホームランのようなものだし、後で考えればそれが試合を決めることになるチャンスでの盗塁のようなものだ。だから彼から目が離せないし、離してはいけないのだと思う。

育児をするというのは、そんな体験を重ねながら、自分を見つめる行為なのだろう。

強行採決

 衆院本会議で安保法案が可決された。ちょっとは牛歩戦術でもやるのかと思ったら、「賛成の諸君の起立を求めます」であっという間に終了。こういう時は青票と白票のどちらを投じるんだというやり方をすべきなのではないだろうか。まあ、政党内での党議拘束に反した行動をとるかもと予測される議員がいないみたいだったので、基本的には次の選挙では自分が安保法制に賛成してれば自民か公明に、反対ならば民主党や共産党などに入れればいいということなので、比較的わかりやすいのではあるが。

 そんな中で、維新の二枚舌というか、まあ最初から似非野党だと思っていたので裏切られたという気持ちもわかないが、それにしても最後の最後まで行動とは裏腹の「俺たちも騙された」的な反対の討論を行っていて、とにかくズルい、卑怯、クズ政党でありクズ議員集団だということが明らかになった。いや、明らかになるので誤摩化そうと必死な姿が見えた。

 こういうの、気分悪いとつくづく思う。

 その前の委員会において、維新は独自の修正案を提出し、提出したからには委員会を欠席するという戦術は使えなくなる。これはどういうことかというと、野党が共闘して欠席戦術を使えば、国民の目にも与党だけで勝手にやっているというイメージが明確になり、強行採決もやりにくくなるのだが、維新が「我々は野党です」というフリをしながら、与党に確実に否決される修正案を出して委員会に出席するので、与党と野党が健全に議論をしたという形になる。欠席した民主と共産などが怠慢なだけという形になってしまう。つまり、維新の修正案というのはそれを議論によって認めてもらおうということではなく、与党と野党が出席の上で議論を重ねたというアリバイ作りに手を貸すことが目的だった。そして与党に否決されることで、委員会の席では柿沢未途が、本会議では松野頼久が顔を赤くしながら「自民の案には大反対である、議論が尽くされていない」とアピール討論を行うことになる。

 まとめてみるならこうだ。議論をすることで受け容れられるはずもない修正案を出すことで自民公明に手をかしておきながら、否決されることで野党色をアピールする。それが、似非野党と僕が言う所以である。

 もしも修正案が受け容れられて可決した場合どうなったのか。その時は安保法案を主体的に推進した党ということになってしまい、野党的な立場を維持することが難しくなる。それは、困るのだ。なぜなら自民と公明を維新で選挙協力を行うことが不可能なので、選挙では対立する構図で闘う必要がある。そして野党であるということで選挙に出ることで、実は自民公明と票を取り合うのではなく、野党である主に民主党と票を取り合うことにならなければ都合が悪い。なぜなら、野党が票を食い合うことで共倒れをし、結果として少ない得票数で自民が圧勝するというのが全体のシナリオだからだ。何のために安倍晋三と橋下徹が何度も密会しているのか。それは、維新が似非野党として頑張ることで、自民をアシストするためにこの政党があるからだ。

 しかし橋下徹と松井知事が代表のポジションを降りたことで、松野頼久が維新の代表に就いた。この時に大阪系議員と関東系議員で野党協力について軋轢があって、分裂気味というニュースが踊った。主導権を握った元民主党の松野が維新を完全野党にするべく動いているのかという期待感も高まった。しかし、ふたを開けてみればこれだ。松野も、柿沢も、完全に似非野党の人。

 もう、維新を野党だと思ってはいけない。それだけがハッキリしたのが、今回の強行採決だったと思う。これから参院があり、そこで決まらない場合には60日ルールとやらで衆院で再可決成立を目指すとか。それを止めるための努力は各国会議員と、各国民が(止めることが必要と思うなら)していかなければならないわけだが、それはかなりハードルが高いだろう。それもあるが、それよりまず、次の選挙で今の与党を政権から引きずりおろさなければならないし、その方が現実的な抵抗への道だと思う。

2年ぶりの東京

 朝、息子を保育園に送っていく。いつもは自転車。雨の時だけ8時24分のバスに乗って行く。でも今日は晴れているのにバス。しかもいつもより早い8時01分のバス。息子何を思ったのだろうか。それとも思わなかっただろうか。先週風邪をひいて1週間まるまる休んだ息子。3日行かないと保育園に行くモードがゼロに戻るのか、普通なら休み明けの月曜は保育園の入り口で無く。おとうさん抱っこーと別れを惜しむ。いやいや数時間後には迎えにくるだろうが息子よ。そんなに泣くなよと思いながらもちょっと嬉しい。でも嬉しいだけではなくて、ちょっと切なくもなる。そんな息子、昨日の朝は泣かなかった。笑顔でおとうさんにバイバイと手を振った。なのに、今日火曜の朝はかなりギャン泣き。保育園の入り口で何度もおとうさん抱っこーとせがむ。でも行かなければならないのだ。そのために晴れの朝に1本早いバスで出かけたのだから。

 保育園を後にして、京都駅行きのバスに乗る。新幹線で、東京に向かった。

 東京という街は26年暮らしたということもあって自分にとって特別な街であることは今も変わらない。一番多く友人が暮らしている街でもある。だが、もはやそこには魅力を感じない。以前ならせっかく東京に来たなら時間を最大限有効に使って人に会い、場所に行く。そうしていた。でも今回はそうしない。

 東京について、いろいろと書いてみようと思ったりもした。でも新幹線の車内ではTwitterなんかにうつつを抜かしてしまう。僕はもう東京という街について語るべき材料を持っていないのかもしれない。京都の朝のこと、息子の表情についてはいくらでも書けるというのに。

 3年半ほど前に東京に行き、帰る新幹線の中では東京への想いをいろいろと書いた。でも、もう書けないのだ。それほどに、僕は東京から距離を置いた。置きすぎた。後悔などは微塵もないけど。

 日暮れ前の新幹線に飛び乗って、もう名古屋を過ぎた。この時間なら、まだ息子が寝てしまう前に帰り着けるかもしれない。そのことの方が東京について考えるより数倍重要だ。

 偶然にも、車内に貼ってあるJR東海の「そうだ京都いこう」のポスターが、今の時期は下鴨神社。そうだ、京都に行こう。多分、京都について書ける言葉はたくさんあるように今は思う。

土曜日のこと。

 2015年7月10日。朝早起きをして洗濯物をたたみ、洗濯をして、食器も洗い、メシを食う。

 約束あり、会社に出向く。奥さんと息子も一緒に出かけた。散髪に行くらしい。これまでお母さんに切られてた息子の、散髪屋デビュー。

 会社にて雑事。約束してた友人もやがて来社して、昼飯前に1時間半、ランチに行ってカフェに行ってずっと喋ってカフェを後にしたのが午後6時。で、会社に戻ってまた話しはじめて終わったの9時半!よくもまあ喋り続けられるものだ僕らと呆れるが、話が尽きないのだから仕方ない。そういう時間も貴重だし、話のネタがある友人というのもまた貴重なのだ。

 というわけで、帰宅しても息子はもう寝てて、スポーツ刈り的な短さになった息子のことをまじまじと360度から見ることができなかった。散髪後に奥さんから送られてきた写真の実物を見たかったのだが、仕方が無い。明朝見られるのだから。

コンコンチキチン

20150710-naginata

 7月は祇園祭。今日から鉾建てが始まった。

 ちょっと見に行こうとしたらもう汗まみれ。そういえば2011年に京都に越してきた最初の祇園祭でも、立ち並んだ山鉾を見に京都中心部を歩いたら滝のような、雪崩のような汗が噴き出したのを思い出した。タオルを持参しておかねば大変なことになる。

 ことしの祇園祭は金曜日に建ちはじめて、明日には建ち終わるのだろうか。そうすると観光客が鉾の上に上がったりできるのは実質日曜日だけということになる。まあ例年でも土日だけだけども。

 ことしも息子を連れて鉾に上がりたいと思っているけれど、去年までとは違い、怖いものには怖いと激しく抵抗する慎重さを持ちはじめてるので、素直に上がってくれるのか。そして、多少の待ち時間にもおとなしく待ってくれるのか。

 その前に、今日まで保育園を休んでいるのだから、暑い街中に連れ出すことが大丈夫なのか。いろいろ考える。

AppleとSONY

 WiMAXのサービスが2になるから乗り換えろというお便りがやって来て、そうかそうか今がお得なら乗り換えようと思ってみたものの、なんかこれまで使っていて今後も使いたいファミ得というやつが乗り換える時にどうなるのかを確認しようとサービス窓口に聞いてみるとそれは使えないと。それは困るなあ、じゃあしばらく乗り換えはできないなあと思って手続きを先延ばしにしていたら、どうもそれが正解だということに気がついた。
 WiMAX2は、ギガ放題ということで使い放題と謳われているのだが、調べているうちに1日で3ギガを超えた場合にはその日だけ制限がかかるという。制限がかかった時には128kbpsという速度になって、それはメガでもなくてキロ。今の感覚からすれば途方もなく静止に近い状態になって、仕事に使うというレベルではなくなるらしい。しかも3ギガを使うのにどのくらいかかるのかと言えば、まあ人によって差異はあるだろうが、ある人は38秒でそうなると。今まで通信速度が最大40MbpsだったのがWiMAX2になれば220Mbpsになるそうだから、38秒で3ギガというのはすごいものだなと思うが、それはかなり特殊な例だとしても、毎日制限されるようになったとしても不思議ではない。そんなサービス(?)に乗り換えるなんてアホだなと思い、とりあえず静観することに。WiMAXの速度は40Mbpsから9月までの間に徐々に13.3Mbpsに落とされるらしく、その条件変更は詐欺じゃないかと思うが、以前Yahoo!のADSLを使っていた時に法人契約をしていたために、個人向けADSLが40Mbpsくらいになっていった時にも法人は12Mbpsしか使えなかった詐欺的な対応のことを考えると、WiMAX13.3Mbpsあるから速いじゃないかとも思えてしまってくるのです。

 WiMAXは無線通信で本当に容量無制限だったのが良いところで、スマホが軒並み月間7Gを超えたら速度制限的なことになってスマホに興味がなくなっていったのだけれども、どんな業種も上場なんてしてしまったら前年比アップの業績を要求されるのは必然であって、通信なんて人口が増えなければ2台持ちが普及するか、さもなくば客単価を上げることでしかそれを達成することは出来ず、必死にナンバーポータビリティ乗り換えキャンペーンを張ったところで各キャリアのサービスが然程変わらず、そもそものパイが増えないのだから契約数が頭打ちなのは当然の話で、だから速度制限をかけて追加料金を払わせるという姑息な手段しかなくなってきたのだろうという同情はあるものの、じゃあそれを嬉々として受け入れるかというとまた別の話。で、WiMAXの会社も携帯キャリアがそんな客単価アップ策をしているのを羨ましいなと思ったのでしょう、速度がアップするという切り替えタイミングに、そういう手段を忍び込ませてきて、ああ、ビジネスの人の考えることはダメだなと思わざるを得なくなるわけです。

 そう考えると、最近のAppleも同じだなあと思えてくる。

 Appleが1984年にスーパーボウルで流した有名なテレビCMはリドリースコットによる伝説的な映像で、ジョージオーウェルの『1984』をモチーフにしている。1984で描かれている世界は、スターリンを模したビッグブラザーが市民を監視し統制する社会。そこに1人の女性が走ってきてハンマーを投げるのだが、当時のAppleがMacintoshを市場に投入することで、革命者たらんことを象徴する。その後クリエイターたちを中心に熱狂的な支持を集め、一時低迷をしたもののジョブズの復帰と共に見事な復活を遂げる。
 だが、最近のAppleはどうだ?
 相変わらず市場に投入される商品は魅力的だ。でもその魅力はスペックによるもので、薄いとか速いということ以上の魅力を見出すことが難しい。そして速さでいえばマシンとしての速さの進化以上に、過去を捨て去る速さに驚く。旧機種を捨て去る速さ。もちろん昔のMacintoshも旧機種をどんどん過去のものにしていった。だがそれは主にCPUの速度向上に伴う「出来ること」の提示であって、例えばQuickTimeで処理出来る映像がモノクロからカラーに、256色がフルカラーに、1秒10コマから29.97コマに。640×480が1920×1080に。今となってはビデオのファイルサイズを気にしてカラーを落とそうなどと考える人などいないだろう。
 音楽の世界もそうで、DTMの革命児ProToolsもG4程度のCPUではレイテンシー問題が深刻だった。しかし今となってはそれも然程深刻なレベルではなく(皆無ではないが)、みんな普通に録音している。超絶マルチトラックを要するような特殊なケースは別としても、普通のバンドが多少ギターの重ね取りをする程度の話の時に、録音しながら同時に再生できるトラック数などを意識することもほとんどなくなってきているのではないだろうか。

 だが、そういう進化もOSX10.6くらいまでの話であって、それ以降はもはやマシンを新しく買い直させるためだけの新機種とOSになってきているような気がする。OSX10.7のLION以降はOSを買うということがなくなった。無料になったからである。金出さなきゃいけないのならアップデートも控えようかと思っていた人も多い中、無料ならばとみんなアップデートするようになる。しかし、OSの進化がマシンパワーを要求することになるので、結局新しいのを買わなければいけなくなる。買うとどうなるか。昔のアプリが使えなくなる。一体どのくらい古いアプリを使ってるんだよといわれそうだが、昔から使っている人はけっこう古いアプリも普通に使っている。最新のに買い替えればいいのかもしれないが、けっこう高いアプリを使っていれば、そうそう全部買い替えるのは大変だ。何より、以前のOSで普通に使えているものを何故買い替える必要があるのだ。そういうこともあって、僕はOSX10.6.8を今も使っている。マシンは2010年に発売されたものだ。

 このマシンを買い直させるというビジネスモデルは、iPhoneの新機種投入と同じもので、客単価を上げるための施策であると思われる。携帯キャリアが7G制限をかけていること、それにWiMAXが追随したことなどと基本的に同じで、ビジネスを前年比アップするためには避けて通れないことではある。だが、そういうことの追求は1984年にテレビCMでAppleが提示した自らの立場とは真逆のもので、現在は既にAppleがビッグブラザーになっているのだと、僕は感じている。Macintoshが提示した新しい世界は熱心な信者を生み、信者たちはそのAppleの教えに熱狂し、追随してきた。そして今、静かに教祖は立場を変えているにも関わらず、熱狂してきた根拠がなんであったかへの思考は停め、アイコンとなった教祖の像に帰依し、Appleへのお布施を、強要されるがままに納めているというのが実際のところではないのだろうか。
 もし、Windows系マシンに乗る、文字表示のスムーズなOSが現れれば、Appleの立場は足元から崩れていくのではないだろうか。

 それはかつてSONYが陥った蟻地獄と同じで、熱狂的なSONY信者をたくさん抱えていた先進企業があっという間に堕落して「あの頃のSONYは」と言われはじめたのはいつの頃からだったのだろうか。言われはじめるのとその原因が始まる時期というのがズレているのは普通のことで、やはりSONY創業者の井深大と盛田昭夫がいなくなったのが凋落の始まりといって間違いないだろう。大賀典雄氏の頃はまだ良かったし、井深&盛田がまだ存命だった。VAIOが登場し、プレステが登場し、AIBOが登場した。VAIOもプレステも基本的には既存の技術と既存の商品を自社ブランドを活かしてマーケティングしたというモノだったが、AIBOはまったく新しい概念のプロダクトで、さすがはSONYだなと世界中を驚かせたものだった。アレは20年ほど先すぎた製品で、その先駆け感がSONYぽくて好きだった。だがBRAVIAではSONYブランドの魔術がかかることはなかった。VAIOにはあった何かとはデザイン性で、薄型テレビでデザインを強調するのは難しかったのだろう。大きさと値段で庶民の心を撃つのがSONYの真骨頂だったのに、綺麗で高級を打ち出しはじめてはヨーロッパの超高給オーディオ専門メーカーに勝てるはずもなく、その点も現在のAppleが陥ろうとしている罠に似た何かを感じられるポイントだ。

 もはやSONYの主力商品は保険と不動産であり、誰もが夢を抱いたブランドSONYはもうそこには無い。そのことに多くの人が気づくまでしばらくの時間がかかっている。Appleもジョブズが去ってもう3年半ほどが経った。ジョブズ亡き後のAppleは、経営的にはうまくいっているかのように見えるが、やはり以前のAppleではない。U2の曲をiCloudのアカウントを持っている人全員にバラまいてしまった件や、iPhoneのサイズを大きくしてしまった件、Appleウォッチ発売の件などは、ジョブスならおそらくやらなかっただろう。音楽ストリーミングサービスの開始にしても、完全に後追いの事業である。それは誰も考えさえしなかった製品を出すことで生活の在り様や文化そのものの可能性を提示してきた昔のAppleではない。儲かりそうなものを形振り構わず出すということでしかなく、今はまだブランド力でトップランナーの地位を占めることができていたとしても、それは未来永劫続く魔力などではない。というか、早晩ブランドの優位性はまったく無くなってしまうはずだろう。

 それはもう25年ほどAppleのコンピュータを愛し、使い続けている個人としてはとても寂しく、哀しいことでもある。しかしそれを寂しく哀しいこととしてノスタルジーにふけっていても、ジョブズは帰ってこない。ジョブズという希有な才能は株価やビジネスコンサルタントによって再現されるようなものではないということを確認するためには、受け入れるしかない寂しい何かなのだと思う。そしてジョブズにすり替わった経営の才の人たちをいつまでも(錯覚によって)崇めていたのでは、かつてジョブズがIBMやマイクロソフトの強大な何かに挫折しかけたようなことを、これからの新しい才人にもまた通過させ、僕ら自身が新しい才能の果実を享受することの妨げになってしまうということなのかもしれません。

ライフサイクル

 たまにはもっとブログを読んでもらえるようにするために、人の気を惹く巧妙なタイトルを数字を入れてつけてみようかなどというスケベ心も無いわけではないのですが、そういうのは慣れていないのと、本当に読んで欲しいとまで思ってないのと、どうにも巧くつけることができません。

 それはさておき。

 このところ、モノが壊れることが立て続けに起こります。僕の自転車、ひげ剃り、会社のプリンタ、奥さんのパソコン、などです。

 自転車は、ある時突然リズミカルな不愉快な音が鳴りだします。なんだろうと停めて見てみると、前輪が歪んでいる。正確には前輪のタイヤが歪んでいる。尋常じゃないくらい。それでも走れるので恐る恐る走って息子を保育園についていき、会社の近くの自転車屋さんへ。「あ〜、タイヤ内部のコードが切れてるんですね〜(細かい用語は覚えていません)」と。というわけで中のチューブと外側のタイヤを全交換することに。「4000円まではしないと思いますけれど〜」と言われて注文して、後日交換作業。工賃を含めて3045円だった。

 安すぎるだろう、タイヤ全部交換して作業もしてもらって3000円なんて有り得ん。消費税抜きの金額は3000円しないってことだろう。なんという安さ。いや、金持ちじゃないから安いに越したことは無いけど、そんなんで自転車屋さんは成り立つのかと心配になってしまう。申し訳ない気持ちになる。だってタイヤ交換できなかったら自転車乗れなくなるんだから。まあ自転車屋さんというのはタイヤの空気入れも普通無料でやってくれるし、こういう安い作業では儲けない的な感じなのだろうという気もしている。その分1台10万円以上するような高級自転車で利益を出しているとか。ええ、ええ、もっとお金持ちになったら高級自転車買いますと心に誓う。

 電気ひげ剃り。ある日ひげを剃っているとなんか痛い。よく見ると刃が欠けている。こりゃ痛いはずだわと思いつつも、ひげ剃り使えなくなったら痛いなあと二重の痛みを感じつつ、amazonでひげ剃りの型番を入れると、すぐに出てくる。11年前に買ったものだからもう交換部品なんかも製造中止とかかもなあとも思っていたのだけれど、2200円で売っていた。速攻でお買上げ。届いて交換すると、切れ味が違う。11年も使ってたから刃がバカになっていたのかなあと思ったけど、どうも違う。刃に無数に開けられている穴の形が違う。以前のやつは丸い穴が整然と並んでいただけなのに、新しい刃の穴はかなり複雑な構造をしている。これが切れ味を進化させていたのだろう。とても心地よい。こんなんだったら毎年刃を交換した方がいいのかなとさえ思った。しないけど。

 と、ここまでは壊れたものが再び生き返って寿命が延びたというお話。

 プリンタは基本的に本体が安くインクが高いということになっていて、そのインクで儲けようとしているのが見え見えだ。純正インクがあまりに高いので、僕は詰め替えインクやリサイクルインクカートリッジを使う。それで故障して保証が受けられなければ新しいのを買う。それでもお釣りが来るくらいに純正インクとの価格差はある。理不尽なくらいのインクの高さだ。で、1年とちょっと前に買ったエプソンのプリンタが故障(マゼンタのみ出なくなった)したので、買い替えることに。最初はブラザーのプリンタを買ったのだけれども、MacOSX10.7以降にしか対応していないとのことで、返品。amazonは簡単に返品に応じてくれる。しかも対応OSが購入ページに明記されていなかったので着払いで受けてくれた。返品はしたものの一度開封しているしインクもセットしたあと(もちろん返品の際は外してだけど)なので、それをまた売るわけにもいかないだろうし、さてそれはどうなるんだろうという疑問はあるものの、とにかく急いでプリントしたいものがあったので次のを探していると、プリンタ本体価格が2800円のキャノンのプリンタを発見。定価が13000円のが激安になっていて、なんだろうとは思うけれどもまあいいや。その中に純正だったら4300円するインクが同梱されていて、何がなんだか。ともあれそれを買って、古いのはモノクロプリンタとして使うことに。

 プリンタは機種が変わると同じメーカーでもインクの種類が違うことが多くて、だからそれまで予備でストックしていた交換インクも無駄になる。こういうのはダメだよなあと本当に思う。そういうことをしているから、ユーザーに愛されないメーカーになっていくんだろう。むしろスマホみたいに月額いくらで契約をして、毎月純正インクが1セット送られてきて、それを超えて使う場合にはインクを別途買ってもらうようなビジネスモデルにした方がいいのではないだろうか。プリンタが故障したらすぐに代替え品を送ってくれる的な感じの。

 奥さんのパソコンは突然文字変換が出来なくなって、どういうことかと思ってOSをちょっとバージョンアップしてみた。そうすることで新しい(といっても最新ではないけど)OSをインストールするわけで、FEPのことえりも一部のファイルがおかしくなっているのだとしたら解決するはず。と思ってHDDを換装することに。で、それでもやはり改善しない。ということはOSの問題ではないということだ。で結局スペースキーが死んでいると判明。外付けのUSBキーボードをつなぐと普通に使える。ということで今はUSBキーボードを使ってもらっている。ノートパソコンのHDDくらいなら開けて自分で交換するけど、キーボードは交換する中でも最も面倒で複雑なパーツである。しかも古い機械なのでパーツを売ってるところを探すのもひと苦労。修理ショップに頼むと5万くらいするらしい。新しいノートパソコンを買っても13万くらいなのを考えると、7年前のパソコンのキーボードを交換する費用対効果はとても低い。じゃあ新しいのを買ってあげるのかというとそれも出来ないんだけれども。

 パソコンは機能がどんどん進化しているので、新しい機械にする意味は十分にあるのだけれども、じゃあ今の新しいCPUやOSが本当に必要なのかというとそれもどうかと思う。7年前はそれが最新型だったわけで、そういうものが7年ほどで陳腐になるのではなく、陳腐にさせられているというのが実際のところだろう。まあそうしないとパソコンもそんなに売れないし。スマホだって本当は5年くらいは十分に使えるはずだと思うけれど、今は2年で買い替える的な人が増えている。買い替えさせられているというのが正しいのだろう。

 
 自転車やひげ剃りみたいに、機能が進化する余地があまりないモノは、買ったら修理をして長く使うという使い方がフィットする。そして実際にプロダクトはそのような形で市場にあって、修理をすることが簡単だ。しかし機能が進化することが常態になっているモノは、壊れたら買い替えるという使い方にさせられてしまっているように感じる。修理代も理不尽なまでに高い。買い替えた方が安いということになるのは、やはり製品としてなにか哲学が間違っているのではないだろうか。

同じこと

 ネットを見ていると、大きく分けて2つのタイプがあることに気付きます。ひとつは、なかなか良い意見を言う人に寄り添うように賛同する人。もうひとつは、気に入らない意見を言う人に理不尽な罵倒や皮肉を浴びせる人。

 真逆のように見えますが、これ、両方とも根本は同じなのです。見知らぬ人の、人としての実態を知らずに言葉だけに反応する。それは、人の温度がなんなのかを理解しないところから起こる態度であり、行動です。自分が好きだと思うものに瞬間的に心を寄せて、その寄せた対象に気に入らないことがあれば急激に冷め、一瞬で憎悪の対象になる。一方嫌いだと思う対象には罵倒を繰り返すも、何かのきっかけで、何で自分はそんなに嫌いになって罵倒などしてたんだろうとわからなくなる。

 いずれの場合も、自分というものを理解していないことによって起きる錯誤なのでしょう。

 気をつけたいと思います。