ずるいけど

 人が破滅に至るということはままあって、その破滅の型が死のような明確に破滅な場合ももちろんあるが、泥沼のような日々という形で襲ってくることもあって、そのことが泥沼であることを自覚している場合も、自覚せずに黙々と、苦しんでいることにさえ気付かずに過ごすという破滅の型もある。
 さらに言えば、自分が破滅の修羅を生きていることにさえ気付かず、周囲をその修羅に引き込もうと、悪意を伴った能動的ではないにせよそういう動きを自然としてしまうような、破滅の再生産に加担することもある。だがそれに気付いていないのだから、そしてその破滅の再生産を「良いことをしている」と思い込んでいるのだから、その修羅ぶりは形容のしようが無い。
 なぜ自分の生が破滅にあるのかに気がつかないのかというと、人は状態を絶対的なものとして見ることに長けておらず、周囲が緑の背景に居れば自分が緑という色なのだということに気づかないのと同じだと思う。

 世界は破滅に満ちあふれている。静かに、静かに。

 だが稀に死という明確な破滅に至ることもあって、その破滅を「バカだなあ」と斬って捨てるのは簡単だけれども、そこには死を賭して日常の破滅から逃れようとする、人の人たる所以があって、そういうのをバカだと定義するのが正しいのなら、人間なんてものは馬鹿であることに在るのだということに僕らはもっと気付いた方がいい。
 そのバカであることを実践した破滅者に接するというのは、人間の幸せとは何かについてちゃんと考える貴重な機会に他ならず、だから、その破滅者の生き様を捉え、咀嚼し、自分の生が破滅につながっているのではないか、いやもう既に破滅ど真ん中なんじゃないだろうかということに思いを至らせるのが正解だし、そうでないと、破滅に至った者が命を懸けて僕たちに与えようとしたサジェスチョンを無駄にしてしまう、要するにもったいないことなのではないかと思う。いやまあそれは生き続ける者が生き続けることをやめた誰かを利用することでしかなく、ある意味ずるいことでしかないのだけれど。

 人生にはそういう「立ち止まって考える」という機会が稀にあり、それを逃して歩き続けていると、やはり愚かな賢者に成り下がるのだろう。だから、破滅者との別れには、日常生活のルーティーンを全てキャンセルして、非日常の1日を過ごすのが人間の知恵というものなのだろう。

 そうしてたった1日の立ち止まりを得て、そしてやはりまた日常に立ち返っていってしまうのだけれども。そんな此岸の煉獄に立ち返る人と、彼岸の煉獄に立ち去った人と、どちらがどうなのかということを考えると、どちらが幸福なのかはよくわからなくなる。もちろん、こちらの世界の人生を煉獄のようにしないためにどうすればいいのかを考えることが上策なのではあるのだけれども、ではその考えの先に対策があるのかというと、結局は両腕の動きだけで空を飛びたいと思うような無い物ねだりでしかないような気もするんですけど。