朝、息子が信号のところで表情を曇らせ、「抱っこ」と言う。その信号のところでは同じバスにいつも乗るおばあちゃんがいて、いつも「おはよう」などと挨拶を交わしている。僕が松葉杖を抱えながら息子を抱き上げている姿を見て、近寄ってきて「ボク、まだ赤ちゃんやね。お父さん足が痛い痛いだから自分で歩いてあげようか。もうできるよね」と声をかける。その言葉を受けて、僕も「信号が青になるまで抱っこしといてあげるから、信号が青になったら降りて、歩いていってね。リュックはお父さんが持ってあげるから」と声をかける。そこから約30秒ほど。信号は青に変わり、息子は一旦降ろされ、僕と手をつないで歩いて信号を歩いていく。
バス停について、僕らが乗るバスが来るまでには7分くらい待つ。その間、僕はしゃがんで、息子を抱きかかえる。足に負担が少ないような姿勢で、抱っこする。やがてバスが来て、みんなで乗り込む。
足がまだ回復途中であること、そんなことは息子もよくわかっている。お父さんの怪我がいつ治る、明日治る、今日治る、今度の日曜日には治る、と毎日のように聞いてくる。治って欲しいみたいだ。治ればまた一緒に自転車に乗れると思っている。それだけか、もっと全般的にお父さんの健康を願っているのか、その辺のことはよくわからないけれども、治って欲しいと思っていることは間違いない。でも、抱っこもして欲しいのだ。その気持ちは、お父さんである僕もよくわかっている。顔見知りのおばあちゃんがいろいろと気遣ってくれることはありがたい。今日はバスの中で席がひとつしか空いていなくて、息子をそこに座らせて僕が立っていた。そこにまた別の顔見知りのおばあちゃんが乗ってきた。すると次のバス停で息子の隣の席の人が降りた。僕は当然その顔見知りのおばあちゃんが座るべきと思ってたし、だからその席の前には立っていなかったのだが、そのおばあちゃんは「お父さん、座ってください、座ってあげてください」と僕の腕を引っ張るようにそこに座らせてくれた。有難い。同時に申し訳ない。みんなが僕の足を気遣ってくれる。松葉杖だから当然なのかもしれないが、それでも有難いし申し訳ない。
でも、そんな状態であっても、僕は息子の抱っこして欲しいという気持ちをできるだけ大切にしたいと思っている。なぜなら息子は息子なりにお父さんをいたわりつつも自分の気持ちのバランスの中で「抱っこ」と口にしているのだから。そういう時に抱っこしないで、お父さんというものの存在意義はどこにあるのか。そう思うのだ。それに、そのうちに抱っこなんてさせてくれなくなる日がやってくる。その時に「あのときもっと抱っこしてあげていれば」なんて後悔したって、絶対に遅いに決まっているのだから。