ハンストをやっているという学生が現れて、そのハンストがヌルいと揶揄する言葉がネット上では乱れ飛んでいる。そのひとつに「ラマダンの断食よりも楽」というものがあって、まあたしかに10時から21時までだと11時間だし、下手すれば晩飯をカッ喰らって早めに寝た人が寝坊をすれば知らないうちに経過してしまう時間でもある。当然その間にものを食うことはないのであって。有り体にいえば、そのハンストがヌルいのは誰の目にも明らかだ。しかし、じゃあどこまでのハンストをやればいいのかなんて誰にも判らないことだし、何かひとつの答えがあったとして、その答え通りにハンストをやるかどうかは本人が決めるべきこと。周囲が「本気なら完全に絶食しろ」などというのは僭越甚だしいのであって、そんな揶揄をする人だって、職場の同僚が午後3時頃に「忙しくてまだ昼メシ食べてないんだ」と言うのを耳にすれば、「そりゃあ大変だね、腹減っただろう」と同情の言葉ひとつもかけるのが普通だろうに。
普通ならば。
何かを行った時にその行いと比較する対象というのは無数にある。極端な例というものも当然ある。高校野球でそれなりのいいプレイが出た時に「やったな」と喜ぶのが普通で、「ふん、イチローに較べたらそんなの凡打に等しい」と揶揄することにどれだけの意味があるだろうか。同じように思いつきでハンストをやった若者に「ラマダンの方が厳しい」と揶揄することにはたいした意味は無い。あるとすれば、憎しみで揶揄したいという発言者の心根の荒みを具現化するというだけのものでしかないでしょう。
矛盾という言葉が完全な矛と完全な盾を求めようとすることの無意味さを表す言葉であるように、人は無意味にエスカレートしていく傾向がある。右の人なら「愛国心を示せ」の極端が「特攻で死ね」になるし、左の人なら理想を追求するあまりに他人のちょっとした差異が許せずに内ゲバに走る。その時に起こるの精神の動きは「自分は絶対に正しい」というものだと思う。自分が絶対に正しいから、他の人が方向は自分と同じであっても、その程度が違うことが許せず、身内と言っていい相手を追いつめることになる。ましてや、自分とは立場が異なる相手に対しては容赦などない。何故人間はそんなことになるんだろうと思うけれども、自己愛がきっとそうさせるのだろうし、自己愛を捨てて生きるなんてことは、愚かな人間にはとても無理なことなのだろうと切ない気持ちになってしまう。
それは右か左かという両端の人にだけ起きる悲劇ではなくて、中道だと自認している人にだってそういう極端は起き得る。なぜなら、中道であっても自己愛はあるのだから。
ともかく、ハンストをやろうという人は、形だけのなんちゃってハンストでいいのです。なぜ抗議のために餓死しなければならんのか。餓死しなければならない理由なんてないし、10時から21時ではヌルくて、8時から26時までなら立派なハンストなのか。4時から27時までなら立派なのか。その時人は多分言うだろう。「それでも1時間は食っていいんだろう?食っていいなら誰だってできるぞ」と。そして完全絶食に追い込んでいく。言う人はネットの向こうの届かないところにいて、ポテチを食いコーラを飲みながらそんなことを言っているだけなのに。
もっとみんな、普通の感情を取り戻せばいいのに。なぜそこまで刺のある荒んだ感情に追い込まれてしまっているのだろうか。