他人を叩くということ。

叩かれる人はそれだけ価値があるのだと自信を持っていい。これは常日頃肝に命じている信念だ。だって考えてもみてくれ。価値の無いものを叩くモチベーションなどないじゃないか。

そう考えると、やはり小沢一郎と鳩山由紀夫のコンビとは価値があったのだなと改めて感じる。彼らなど、政権を追い落とされてもなお叩かれる。今も叩かれている。彼らに復権されたら困る人にとっては今も亡霊のようなものであり、寝しなにうなされそうなトラウマがあるのかもしれない。

安倍晋三政権に対してはかなりの危機感を持つし、なんとか致命傷になる前に打倒できないものかと思うが、それもアレが一面では価値を持った政権ということの証拠かもしれない。小沢鳩山による政治は、ある人にとってはなんとしても推進すべきひとつの理想だったが、それは別の立場の人には実現などしてはならぬ悪夢そのものだったのだろう。それは安倍晋三の政治が、ある人にとってはなんとしても推進すべきひとつの理想だが、それは別の立場の人には実現などしてはならぬ悪夢そのものだということと、形式上は相似の関係であるように。そういう意味では両方の政治にはある種の理念があるということなのだろうと思う。ただ、小沢鳩山の理念は(政治手法という意味ではなく)他者を攻撃しないことにベースがあり、安倍晋三の理念は他者を攻撃することにベースがあるという決定的な違いはあるけれど。その結果、小沢鳩山ともに反勢力から徹底的な攻撃を受けた。一方安倍晋三は攻撃ともいえない状態の反勢力を未然に徹底的な攻撃を加える。これでは闘いにならないとつくづく思う。

さて、叩かれる人は価値のある人だということを考えているが、最近はちょっとそれだけでは説明がつかないことも多いなと感じている。事件が起きると被害者や被害者家族がかなりの勢いで叩かれている。これをどう説明すればいいのか。

ブルーハーツの歌の中に「弱い者がさらに弱い者を叩く」という歌詞がある。うん、これだと思う。叩く必要もない誰かを叩くモチベーションは、それを叩くことで自分のなにかを保全しようということなのかもしれない。保全したいものとは、極言すれば小さなプライドだ。叩くことで、自分はもっとマシなのだと境界線を引く。

古い日本の身分制度に士農工商というものがあり、その下に被差別階級を置いていた。それは公式な身分であったか非公式なものだったのかは知らないが、非公式であれ、抑圧された誰かが自分が最下層ではないと安堵するために他者をさらに下層に位置づけることで心の平安を保とうとするのは、その是非は別としてモチベーションの成立要因になり得る。決して江戸時代の特殊なことではなく、今この瞬間の日本においても普遍的に潜在する人間の負の部分だろう。特別弱い人にだけ起こる特殊なものではなく、自分自身にも容易に沸き起こる可能性のある悪として認識することが必要だ。そしてそういう誰にも起こり得る人間の弱い何かを政治的に利用することで自分の立場を保全しようという向きもある。これは本当に悪い人間の行いと言って間違いないだろう。なぜならそれは理解の上での意図的行為だからだ。

しかし、残念なことに日本の社会全体がそのような落とし穴に堕していっているように感じられて仕方がない。経済など困窮したところで、その精神の部分が自立していれば、まだまだ未来はあると思う。しかしたとえ経済が繁栄しても、精神の部分が堕してしまえば、その社会は餓鬼の住む修羅の世界にしかすぎない。

どちらの世界がいいのか。政治の選択とは畢竟そこに尽きる。無論簡単な選択ではない。単純な選択肢が与えられているわけでもなんでもない。百手先の詰将棋を解けと言われてるようなもので、まともに向き合えば疲弊してしまう。だが、向き合わない限り堕してしまうのは必然であり、望まない世界に息を潜めて暮らすことになってしまうのだろう。

弱い者を叩く行為は、自らが弱いということを宣言しているようなものだ。そんなことをしていないのかと、あらためて自問自答すべきだろう。誰もが。それはつまり、僕自身もそうではないのかという自省の意味も含めて。