こんなタイトルを堂々と掲げて、専門家の人たちにググられて読まれたりしたらどうしようという気持ちは常にあるが、そんなことを素人が心配しても仕方が無いのでとりあえず書く。専門家ではないので、どうぞそのつもりで。
facebookを始めたのは随分昔で、当時は日本人でやってる人はほとんどいなくて、だから海外の人と交流しようと思った。拙い英語で縷々投稿している。今ほどfacebookもうるさくなくて、見知らぬ人にフレンド申請をしたところでアカウント凍結などにはほとんどならなかった。呑気な時代だった。おかげさまで僕のアカウントには2000人を超える非日本人アカウントがフレンドとして並んでいる。もちろん全員と交流するのは難しいが、コメントを寄せたり寄せられたりするうちに仲良くなってきた人も少なからずいる。ポストカードを交換する友人も、日本の名産品を送ってあげた友人もいる。おそらく、行けば歓待してくれる人が世界中に出来たのではないかと勝手に思い込んでいる。
そのうちの1人にイスラエル人の女性がいる。日本のファンらしい。その人が先日来のパレスチナ問題の最中に「ファッキンハマス、ロケット弾警報で眠りを妨げられる」と投稿していた。
イスラエルのニュースについては、ガザ地区のパレスチナ人がいかに過酷な空爆を受けているかということばかりが報道されてくる。その方が映像的にもショッキングでニュースバリューがあるということなのかもしれない。イスラエルの防衛システムでかなりの確率でロケット弾は迎撃されているそうだから、そんな映像はニュースにしにくいし、そもそも空爆とロケット弾では比較にならない。ロケット弾のことを殊更に悪辣と非難すれば、公平さに欠くと言われてしまうだろう。
だが、イスラエルに暮らす人にとっては、ロケット弾が飛んでくるよと警報が鳴ることで、平穏な暮らしが脅かされているというのも事実。なぜ停戦を受入れられないのかと憤る気持ちもまったくの事実なのだろう。そこに「パレスチナの人たちが浴びている空爆に較べたらたいしたことないからそのくらい我慢しな」というのは間違いだと思った。
これは別にイスラエルを正当化しようということではない。公平に見て、圧倒的に不利な状態にあるのはパレスチナの方だし、そこに暮らす市民、子どもたちなどだ。昨日もサッカーを興じている最中に爆撃を受けて少年たちが亡くなったというニュースを見た。それとロケット弾警報がイコールなのか。多分そうではないだろう。だがその渦中にいる人たちに比較論で考えろというのは無責任だ。
平和を誰もが希求してるのは本当だろうと思うし、第三者の目からすればイスラエルもムチャなことするの止めなよと、ハマスにも意地張ってないで停戦に応じなよと、そういうのが発展的なことだと普通に思う。だが、現場にいる人たちには客観的な視点を持つことなど難しい。恐怖が恨みを生み、恨みは狂気を生む。そして狂気が平和を無茶苦茶にしていくのだ。
普通のニュースを見ているだけでは理解しようもなかった感情を、facebookを通じて知ることができたのはとても貴重だったと思う。そして、現実の中で、恐怖と対峙している人を前にしては、知らないうちに言葉が見つからなくなってしまう。311の時に世界が心配と哀悼の言葉を寄せてくれた。そういう言葉は言い易いし、だから多くの言葉が集まるのも不思議ではない。だが、本当の不幸の最中の相手に対してどんな言葉をかければ良いのだろうか。どういう気持ちが狂気をほぐし、対話の素地を生み出すことができるのだろうか。もちろん僕は政治家でもないし、そのイスラエル人フレンドの気持ちが変化したくらいでは紛争は収まりもしないだろう。だが、国際政治家という立場の人であっても、その言葉というものが最大の武器になるのではないかと感じた。だがその言葉を生み出すことは限りなく難しく、ミサイルのボタンを押すことのシンプルさと容易さの前にはその困難な解決の道を探る努力をする者はそうそう現れないのだろう。
言葉の可能性と、その困難さを、パレスチナ問題の中で感じてしまった瞬間だった。