3年経って

 実際はもう3年と2ヶ月近く経ったわけだが、まあとりあえず3年ということで。

 今もTwitterのTLには放射能の危険性を訴えるアカウントはたくさんあるが、3年前の今頃と較べると遥かに少ない。減っている。これについてちょっと考えてみた。

 【可能性1】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによって一切影響が無いと判断したので、もう怖がっていない。

 【可能性2】放射能の危険性について自分で結構調べて、それによってやっぱり影響はあると感じているので、避けるための努力はしているのだが、その努力をしているということを公言するといろいろ社会的に問題が出てくると感じているので、言及は避けている。

 【可能性3】さほど調べたりしていないし、調べるヒマも能力も無いので調べる気がなく、まあ専門家の人が安心だと言っているから、自分も安心して、特に避ける努力もせずに暮らしている。

 【可能性4】3年前の事故当時は危険だと思っていたが、もう3年経ったし、放射能のパワーも無くなってきてるんじゃないの?

 他にも可能性はあろうが、まあこんな感じのことを想定してみた。可能性1の人は、いいと思います。その判断が結果的に正しいか間違っているのかは、それは誰にも判らないんじゃないかと。新興宗教に知人がはまった場合、「お前の信じてるのは間違ってるよ」と周囲は諭すけど、信じている本人はそんな周囲の声がサタンだと思うだろうし、まあそれは仕方ない。あ、ここで言う新興宗教の信者というのは、危険性があると思っている人のことでもあるし、危険性は無いと思っている人のことでもあって、立場が違えば相手をヤバい状況の人と思うという意味で、どちらの立場も信者であり、サタンである可能性があるということ。その判断によって得るものと失うものがあるというのは、放射能の件に限ったことではなく、自分の能力内できっちりと情報収集して判断したのなら、それはそれでいいと思う。

 可能性2の人。僕はこれが一番多いんじゃないかって思っている。このところ会う人とそういう話をすることも多く、誰もが不安を抱えているけれども、じゃあ自分の努力で社会全体を変えられるのかというとそういうわけでもなく、出来ることはせいぜい自分自身の防御をやるということくらい。それは黙ってやっていればいいのであって、その防御にしても100%はムリだろうから、出来る範囲で。他のことや他人への警鐘をするような余裕はありません的な、それが普通だと思う。

 可能性3の人。専門家を信じるのはそれはそれで自由だし、信じればいいと思うし、じゃあ専門家でない人と専門家のどちらを信じるのかといわれれば、まあ専門家の方かなあとは思う。ただ、専門家の中にも様々な意見があって、その中の誰を信じるのかということが結構重要なんだろう。顔つきとか肩書きとか、物腰の柔らかさとか、そういったものを含めて、信じる相手を探すということに尽きる。まあこれも一種の宗教に近いものであり、信じていない人からはなんだかなあと思うけれども、信じている人にとってその専門家は神でもあるし、まあ、信じるものは救われるってこと(?)なのかな??

 可能性4の人。これはもう、間違ってます。放射能の半減期は(全部じゃないけど)3年なんてものではない。だから3年経ったからといって安心出来る理由はまったくない。安心するとすれば、3年前の事故直後も安全だったということでしかなく、果たしてそうだったのか?そして現時点でどうなのか?当時も今も基本は変わらず、ずっと安心か、ずっと心配かのどちらかであるべきだろう。

 まあなんでこんなことを今さら書くのかって話なんだが、この4つの可能性の他にもうひとつ大きな理由(可能性)があるんじゃないかって最近は思っているのだ。それは

 【可能性5】時事的なネタについて流行としてしか認識していない。
 である。この3年間Twitterでもfacebookでも各種ブログでも、いろいろな話題が起こっては消えていく。昨日までTPPって言ってたじゃないかと思ったら、参加が決まったらもう何も言わなくなって次のネタに。要するに、日々の話題として言ってるだけで、中身としてはそんなに考えてもいない。芸能ゴシップ好きが昨日まである芸能人の不倫に躍起になってたのに、今日は別の芸能人のスキャンダルに夢中というような感じで、時事ネタ好きが提供される話題にその都度食いついているだけということ。実はそれが一番多いんじゃないかなあと思う。

 まあ、そんな感じでたいして気にもしない人が数年後数十年後にそのことで健康被害を受けたとしても、それが理由だとは想い至らないだろうし、逆に気にして気にして避けて避けてという人が、その避ける過程で受けるストレスによって健康を害したとしてもけっしてそのストレスを理由だとは想い至らないだろうし。だからまあ、それぞれが信ずるところに従って生きていくしか無いんだろうなあと、そんな風に思う。

 もちろん、気にしない人たちの行動によって社会が回っていくことで、気にしている人たちが避けたいのに避けられない状況が生まれてしまうということはちょっと困ったことではあるが、同時に気にする人たちの行動によって社会が回っていかなくなることを問題にしている人たちもいるわけで、その両者が歩み寄れるフェイズというものはもうなかなか実現しないことだろうと、そんな風にも思う。