片山「容疑者」

 片山容疑者。もう起訴されたから片山被告なのか?数日前まで片山氏だったのだから、呼び方もどんどん変わってて、もうよくわからない。

 しかし今回の1件はびっくりしたなあ。片山氏が河川敷に何かを埋めていたのが目撃されてて、捜査員が掘り返したらスマホで、片山氏のDNAが検出されたと。で、その報の翌日に弁護士と一緒に会見するはずだったのに姿を現さず、弁護士も連絡が取れない状態だと。

 まあこの段階で怪しい。普通はそう思う。だが、僕はこの時点で怪しいなどと言っててはだめだと思ったしツイートもした。基本的に刑が確定するまで推定無罪の立場を取るべきだと。そんなことをツイートしている間に、片山氏が出てきて「全部自分がやりました」と。なんだなんだこの肩すかし感。「犯罪者を擁護しやがって」的なことを言われるかもなあと思った。まあ一個人の僕のところにまで罵倒してくる人はいなかったけど、ジャーナリストの人たちには結構なバッシングがあったそうだ。

 だが、そういう問題ではないのだ。罪を犯した人は裁かれなければならない。だが、罪を犯してない人は謂れのない不当な扱いを受けてはならない。ではこの両者を分けるタイミングは一体どこなのかと、そういう問題なのである。それは、裁判が終結して刑が確定した瞬間にその扱いが決まるべきなのだと思う。それが推定無罪の原則だと認識している。

 だが、日本ではそういう感覚は一般にない。誰かが逮捕されるとその時点で容疑者となり、容疑者イコール犯罪者というレッテルが付く。起訴されてもいないのだから被告でもない。なのにもう世間の扱いは極悪人だ。警察が容疑者の詳細を発表してニュースで報じられ、世間の信用は地に落ちる。仮にその後裁判で無罪を勝ち取ったとしても、「あの時逮捕された○○さんは裁判で無罪を勝ち取りました。まったく犯罪者ではありませんでした。申し訳ありません」などという謝罪報道は一切行なわれない。行なわれないどころか、「限りなく黒に近い灰色」などと平気で言う評論家やコメンテイターが現れてしまう始末。何を言っているのだと思うが、まあ日本の一般的感覚はその程度なのだろう。

 人権を考える時、それをどう守るのかということが大きな課題になる。原則的には、それは法律で縛って守るのか、市民の意識で守るのかのどちらかだ。だが日本はそのどちらも守ることに向いていないように感じる。

 今回の件でも「ほら、片山は真犯人じゃないか、擁護してたヤツは犯罪者の肩を持ってた」的な口調論調がTwitterのTLでもある程度見られた。そこまで発言する人は氷山の一角で、公に発言はしなくとも心で直感的に「ああ、あいつは悪いやつ」と思って疑問のない人は相当な割合いたと思う。フォローしてる人で、片山氏が保釈になってから司法の欠点を追求するような発言をしていた人でさえ「片山には騙された」という始末。いや、もちろん今回の件では片山容疑者は法廷で自ら述べていたことを根拠にすれば「すべての人を騙していた」のである。だから騙されたと思う気持ちもわからないではないし必ずしも間違いではない。しかし、今回の片山氏が片山容疑者に戻り、片山被告として法廷に立ったとしても、それで検察警察の今回の一連の捜査や取り調べの方法が肯定されるのかというと、それはまた別の話であり、そこのところを一緒にしてしまうと見誤ると思う。

 検察や警察も必死に正義を追い求めて努力をしているのだろう。それを疑うつもりは無い。だが、その手法が問題になることが時々起こる。僕などが把握していることなんでほんの一握りに過ぎない。だが今回の片山容疑者の捜査と取り調べは明らかに異常だった。結果として片山氏が片山容疑者として自ら法廷で「すべて自分が行なった」ということになったとしても、それで取り調べ手法が肯定されるものではない。これが肯定されてしまうのだったら、次も同じような手法で取り調べても良いということになってしまう。そうなると、次の容疑者は実は無罪であるかもしれなくて、それでもかなりムチャな取り調べが行なわれてしまう。そしてそれが自分の身に降り掛かるかもしれない。そのことを考えると、やはり片山氏が真犯人だったとしてもだ、それはそれとして別に、検察のやり方は正しかったのかという検証がなされるべきなのだ。勝てば官軍としてすべてが許されるというのでは、誰もが勝ちたいが故に無茶をするようになる。そして無茶をする以上、負ければその手法が暴かれて非難されるので、さらに強引に勝ちにつなげようとする。それは絶対にダメなことなのだ。なぜなら冤罪を生むからだ。しかも、功を挙げようと焦る馬鹿者の保身のために冤罪が生まれるのだ。そういうことは絶対に避けられる社会でなければならない。

 そのためにも、市民はもっと人権意識を高く持ち、正義とは何かを確認する必要がある。この場合の正義とは、個人が犯罪を犯したかどうかという問題ではなく、組織として制度として犯罪的な行為に陥る可能性があるかどうかという問題なのだと思っている。

 そういう観点から今回の顛末を見た時、現状の片山氏のことをどう扱うのかというのは突きつけられた課題だと感じている。現状の片山氏は、先日まで保釈されていた「片山氏」から保釈を取り消され収監された「片山容疑者」となり、収監後の初法廷に出廷した「片山被告」ということになっている。その法廷では自白をしている。全部自分がやりましたと。その片山氏は犯罪者なのか。いや、そう思うのは僕の弱い心なのだと思う。彼が裁判を終了し、仮に有罪判決が下りて「片山受刑者」となった時(執行猶予がついたとすれば判決からその執行猶予が終了するまでの間)、初めて彼を犯罪者と認定出来る。それが推定無罪ということなのではないだろうか。自白をしている現状からはとても容認出来ない考えと映るだろうが、それを押してもその考えを貫けるかどうかが、この社会から冤罪を無くす唯一の方法なのではないかと、今回の顛末を眺めていて自戒したのだ。