ウクライナ侵攻に際し思うこと

ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見て、思うことを自分メモとして書き出しておきたい。

まず、侵攻はいかん。どんな理由があっても正当化できるものではない。それしか手がなかったとプーチンは言うが、それによって死ぬ人間が出ることが最初からわかっていることを正当化できるわけではない。

同時に、侵攻を受けたからといってウクライナ以外の国がロシア国内に参戦してロシア領内(23日までも今も国連が認識している範囲)での戦闘を始めることは正当化できることではない。それをやるなら今回のロシアと同じだ。また、そういったロシア領内での戦闘を誘発するようなすべての行為も慎まなければならない。

それをまず、大前提としておきたい。戦争はいかん。

その上で今回思うのは、キューバ危機のときに日本を含めた西側諸国はどう思ったのか、改めて考える、思い起こす必要がある。

キューバ危機を簡単にいうと、東西対立が今以上に激しかった1962年10月に、ソ連がキューバに核ミサイル発射基地を建設していたことが発覚して、アメリカがキューバを海上封鎖し、一発即発となった事件のこと。この時は結局フルシチョフが建設中止を表明して軍事攻撃の危機は去ったが、核攻撃の緊張が世界中を覆った。

アメリカのすぐそばにアメリカを狙えるミサイル基地ができることがアメリカにとっての脅威であり、その驚異は当時の大統領ケネディに核ミサイルのボタンを押す決断を迫るほどのものだったと言われている。

そのことを「当たり前だ、そんなところに核ミサイル発射基地を作るなんて、とんでもない。アメリカがキューバの基地に向けて攻撃していたとしても当然だろう」と思う人がいたなら、その人は今回のウクライナ危機に対してどう考えるべきなのか。

今回、ウクライナは反ロシアの立場でNATO加盟を目指していたといわれている。そのことにロシアが懸念をしていたといわれている。そのことで、プーチンはウクライナがNATOに入ることをやめろと要求をし、バイデンまでの歴代米大統領は明確な答を避けていた。

これをキューバ危機に照らしてみるなら、キューバに核ミサイル発射基地を建設しないようにケネディが要求し、フルシチョフが明確な答を避けていたという事態に相当するのではないかと考える。

その比較をするなら、今回は何故、当時のフルシチョフのように、バイデンはウクライナのNATO参加を将来的に見送るという回答ができなかったのだろうか、と思うのだ。単純な比較はできないのかもしれない。しかし、それさえ行われていたのなら、今回の侵攻は回避できていたのではと想像する。キューバ危機での核攻撃を回避できたように。

もうひとつ思い起こすのは、多国籍軍によるイラク侵攻のときのことだ。911でアメリカ国内への直接攻撃を受けたことで高まった犯人探しの機運と高ぶる国内外の世論を背景に、それ以前からイラクが大量破壊兵器を密かに保有していると疑いをかけていたアメリカが、国連での合意を経ることなく多国籍軍によりイラク戦争を開始した。

その結果、当時のサダム・フセイン大統領は捕らえられ、イラクの政権は転覆し、イラク国内の治安はさらに悪化したものの、肝心の大量破壊兵器の証拠は見つからなかった。

キューバ危機は僕の生まれる前だから、当時の雰囲気はわからないが、イラク侵攻のときのことははっきりと覚えている。アメリカが攻撃されたのだから、イラクに攻撃するのは当然のことであると自分でも感じたし、世の中の多くもそれを支持していた。

だが、歴史はそれが間違いだったことを明確に示している。当時強硬論を主張したアメリカ政府内の高官にはアメリカ軍需産業に関連していた人が多数いたこともわかっている。そしてイラク戦争で大儲けしたこともわかっている。イラク戦争において捕虜に対する違法な取調べが組織的に行われたこともわかっている。そういうことなどを綜合すると、イラク戦争とはいったい何だったのかわからなくなる。少なくとも、世界中の西側諸国民が感じた、イラクに攻め込むことを是とする感情が、誘導されたものだったということは、事後での確認なので申し訳ないけど、ある程度言えるのではなかろうか。

また、アメリカは南アメリカのいくつかの国で親米政権樹立に向けて様々な工作活動を行ってきたことも知られている。冷戦期には仕方のないことという考えもあるだろうし、個人的にも一定の理解はできる。一方で、この数年にウクライナでもそのような工作活動が行われたのではないかという想像も可能だし、ロシアがそう考えていたとしてもまったく不思議はない。

もちろん、トランプ政権が誕生した際には選挙にロシアの工作活動があったと噂されているわけで、ロシアだって世界中でいろいろなことはやっているだろう。

そういったドロドロの工作活動も、すべては危機を回避するために行われているはずのもので、表向きの外交では不足ななにかを補完するためにあるものだ。本筋は表向きの外交で努力すべきである。だが今回のウクライナ危機ではそれが十分になされたとは思いにくい。

あらためて確認するが、ウクライナに侵攻したロシアの行動は一切正当化などできるものではない。だが、その際に注意すべきは、ロシアが100%の悪だと断定し、それに対するすべての対抗措置や対抗措置をする側が100%の善だと断定することも、また冷静な判断を誤らせる原因となる。

そのことに注意しながら、何故キューバ危機の時にはキューバにミサイル配備を恐れ、核攻撃も辞さないケネディに一定の理解をした(もしくは今歴史を振り返ってケネディに理解を示す)人が、今回は侵攻に踏み切ったロシアのプーチンの判断には一定の理解を示さないのか(一定の理解は、全面的な支持とは完全に別のこと)、そのことをちゃんと考えておきたいのだ。それはイラク侵攻の時にはあった一時の興奮状態による感情と同様なのではないだろうか。SNSにウクライナの国旗を掲げた写真を投稿すればいいというようなことではない。そんなことでは何も解決しない。現在進行形で進んでいる事態に対して冷静に考察していかなければ、日本もまたこういった紛争に引きずり込まれていくことになる。

もちろん、ちゃんと考察すれば止められるということもないのだけれど。

攻撃されて被害にあっているウクライナ国民は本当に大変だろうし何らかの救済を世界は考えるべきだろう。もし仮にウクライナからヨーロッパ諸国に難民が大量に流入したら、各国は受け入れるのだろうか。受け入れるとしたら、それはシリアからの難民の時とは何が違うのだろうか。見た目の人種の違いが対応の違いにつながるのだろうか。それともウクライナからの難民にも各国は厳しい態度に出るのだろうか。厳しい予想をするならば、おそらく、ウクライナからの難民にも同じ対応がなされるだろう。

戦争はいかんよ。ロシアは早く軍事行動を終わらせるべきだし、アメリカを中心に西側諸国は終結のために最大の努力をするべきである。

栟塎

このところFacebookで同世代と思われる人の「ワクチン接種完了」という投稿が目立つようになってきた。

高齢者の接種が進み、65歳未満の人の接種が進んでいるのだから悪いことであるはずがないのだが、そういう投稿を見るにつけ、ああ、Facebookは中高年のメディアなんだなと思わずにいられない。これ、ワクチン接種の仕組みにもよるんだろうと思う。高齢者の次は、大規模接種会場か、職域接種か、かかりつけ医か、になる。このうち、若者が接種できそうなのが職域接種で、大企業勤務か、大学生ということになる。若者でかかりつけ医があるケースは少ない。中高年になればなにかしらの持病を抱えてることも多い。だからかかりつけ医での接種の機会も出てくるが、若者のそういうケースは限られるし、そもそもかかりつけ医では年齢を考慮した接種順番を決めてくる。かかりつけ医で若者から先にということはまず無いだろう。

そう考えると、大企業に務めていないし大学生でもない若者に接種機会はあるのか。大規模接種会場での予約を積極的にチャレンジすればあるのだろうが、当初予約開始から瞬殺というニュースが流れて、予約するのも大変だということが刷り込まれただろう。

職域接種の場合、打ちますかと打診がある。かかりつけ医でも打診がある。大規模接種会場での接種に打診があるわけがない。そうなると若者が接種を受けるには自ら積極的に予約するアクションを起こさないといけないということで、ああ、ここにも格差があるよなあと感じざるを得ない。

SNSでは日常の中の素敵な部分だけを切り取って投稿する傾向があるので、美味しいご飯を食べたと投稿すると、うらやましいなあ、あんなご飯もう長いこと食べたことないや、ということになる。投稿する側も毎日そんなご飯を食べているわけでもなくて、たまに食べるスペシャルご飯だからこそ投稿するわけだが、見る側からするとうらやましいという気持ちが沸き起こる。その気持ちが沸き起こらない人は、そういうスペシャルご飯をたまには食ってる人だ。たまにであっても食べていない人はうらやましいと思う。そこに世代間の収入格差が入ってきて、SNSが格差を顕在化させるメディアということにつながる。

それでも、高齢者であってもスペシャルご飯を食べられない人は多いし、若者でも1食数万円とかのレベルでなければ食べられる人も決して少なくはない。しかしながら、このワクチン接種については年齢による格差がシステムとして存在していて、若い世代で自ら予約しなくても接種できるのは大企業勤務か大学在学中というところに限られる(もちろん大企業や大学でも全部が職域接種をできているとは限らないが)。そんな状態でSNSに「ワクチン接種完了」という投稿が並ぶと、若者が「ああ、社会の医療システムから取り残されているよなあ」と感じたとしてもなんの不思議もない。自分たちは後回しなんだなと。それで仲間と飲みにいくのは自粛しろ、若者が活発に活動するのが感染拡大の原因とか言われても、そうですよねと自粛したい気持ちにはなかなかならないだろう。

ネット攻撃

管理しているサーバーが攻撃を受けた。おかげでとんでもないことに。

昨年も一度そういうことがあった。どこかの誰か、多分ハッカー集団なのだろうが、こっそりサーバーに侵入し、ファイルを設置する。そのファイルがスパムメールを大量にばら撒くらしく、その行動がどこかのセキュリティ会社に監視され、発見され、僕のところに警告メールを送られ、同時にサーバー会社に通報され、サーバー会社がサーバーを凍結する。その結果僕がそのサーバー上で管理してるwebサイトが閲覧不能になる。昨年はそこに小学校PTA関連のサイトを置いていたため、信用問題に発展するかもしれないので大急ぎで対応し、そのPTA関連のサイトは無事に復旧したけれど、他のサイトは被害を受けた。サーバーの凍結を解除するには一度全データを削除する必要があったのだけれど、バックアップをとってからという必要があり、そのバックアップにめっちゃ時間がかかった。

今回は、バックアップを取れたサイト情報はスムーズに復旧できるのだけれど、その中で8年間運用していたmusiplのデータがバックアップ前になぜだか全部消失していた。仕方ないので1年前にバックアップを取ったものを使って復旧させたけれど、その後に更新してきたデータは全てやり直しになる。まあ、復旧には1年以上かかるだろう。やれやれ。

そんなトラブルがあった数日のち、アメリカのバイデン大統領が、マイクロソフトに対する大量の攻撃を中国のハッカー集団が行なっていると声明を発表。ははあ、これか。僕のところに警告を送ってきたメールの中にも、確かにマイクロソフトをターゲットにしたスパムメールが送られていると書いてあった。そういうニュース、普段なら「ふ〜ん」程度にしか考えなかったけれど、今回はめっちゃ親近感を持ってみた。親近感って言葉が適切かどうかは知らないけれど。

言葉の重み

最近、なんかモヤモヤする。知り合いの言葉の重さ(軽さ)についての話。

ある本を読んで、子供の生育環境に親の与えた影響があることの一例が書いてあって、なるほどなあと思ったけれど、はたと気づく。それとほぼ同じシチュエーションの親の立場の知人がいた。その知人からの話を聞いている限りでは、親の立場の様々な選択に理があって、なるほどなあと思う。だがそこには子供の立場もあるはずで、そちらからの視点を親である知人の話として聞けば、そりゃあマイルドになってポエムになるから、その場は納得するけれど。モヤモヤは頭の片隅、心の片隅に残る。

その知人の、友達についての発言を最近耳に、いや、目にした。そこに語られているポエムな友情礼賛の内容。だが、そいつそんなに友情に厚いヤツだったか? いや、そうではないはず。地理的距離で考えても割と近いところにいた時期がどう少なく見積もっても10年以上あって、その期間に会ってメシ食ったのはたったの1回。友に囲まれることを至上の幸せと考える者の行動とは思えない。

それは、あれか? 囲まれたい友達にカウントされてないということか? だとしたらそれはそれで納得もできる。納得できるし、まあそれ以上は今日のところはやめておこう。

この件についてもうしばらく考えてみて、結論を出したい。

カバンを作る

全国通訳案内士試験の合格発表日。いや、僕は関係ないですけどね。それでもTwitterのタイムラインに合格したとかダメだったとかというツイを見て、1年前のことが思い出される。

そういえば、遡ること1週間。京都検定の発表もあった。1級、落ちました。150点満点で19点足りません。準1級にはあと4点。近くはなってきたけど、まだまだだ。通訳案内士の合格率が9%ほどで、京都検定の1級は10%超えてて、何故通訳案内士受かったんだろうかと、今になって不思議です。いや、京都検定の1級は2級に合格した人じゃないとそもそも受けられないので、単純に合格率だけでは比較できないんだろうけど。とにかく、来年は受かりたい。

で、京都検定の発表でひと区切り。次のチャレンジに向かうまでに、なんかしたい。なんか作りたい。編み物でセーター作りたいけど、それは結構お金かかるし、せっかく時間かけて作るのであれば高級な毛糸で作りたい。そんなことを思いつつ、今年もセーターには手が出ない。

もうひとつの作りたいものといえば、リュック。リュック作りたい。マリメッコの派手な柄でリュック作りたい。布はゲットしたけど、どんなデザインのリュックにするかで悩み中。難しいと挫折しそうだし、簡単なのは機能性に劣るだろうし。

まあ、明日以降考えます。バッグ屋さんに行って、いろいろと見てこようかなあ。

新春にて

春、という気がしない。

昨日関東の1都3県に緊急事態宣言が出される。同日新規感染者数が600人を超えた大阪で知事が緊急事態宣言の発出要請をするとかなんとか言い出し、どうせやるなら地域全体でというのか、兵庫と京都の知事にも電話をしたそうです、3府県でのそうなるのかもという雰囲気に。

ここで思うのは、なんのマッチポンプなのだろうということ。関東の緊急事態宣言はどう見ても小池都知事主導でここに至ったわけで、関西では吉村府知事が音頭を取ろうとしている。この両者に共通するのは新自由主義的傾向が強い政治家だということ。新自由主義では独自の基準で効率を追求し、徹底して無駄を省くという大義名分で「改革」の名の元に合理化を進めていくのが基本だし、吉村府知事の維新政権が長期に渡り続いている大阪では公営の病院の統廃合が進められてきた。

そして今、病床が足りない〜医療崩壊の危機、である。イギリスでは毎日5万とかの新規感染者が出ている中でまだ崩壊の危機といわれている。つまり、崩壊には至っていない。それから較べると日本全体で6千人でこの騒ぎ。なんか公平な比較をするだけで、何かおかしくないかという気がしてならない。

病院を減らす旗を振ってきた人が、病床数が足りないから非常事態宣言をと言っているのだ。何かおかしくないか。

保育園が足らずに待機児童がたくさんいると言われて、女性活躍を後押しとか言ってる中で保育園はなかなか増やされない。その結果女性たちが就労の機会を失っているし、そういう状況だから子供を持つのを諦める人も増えていて、それでも増やそうという努力と結果が十分ではない。それと、似てるような気がする。

保育園に入れなくても誰も死なないから、どこか他人事になって後回しになる。コロナの場合は誰か死ぬから社会全体に緊迫感が煽られる。営業時間短縮の要請って、全部が同じ時間に休むことになると、結局空いている時間に集中するだけで、どうなのと思う。密になるのがダメなのであれば、お店を細かく分類して番号を割り振り、奇数の店は奇数日に営業、偶数の店は偶数日に営業するとか。労働者も番号つけて奇数日に出勤する人と偶数日に出勤する人とに分ければ、街に繰り出す人は半減するのではなかろうか。飲食店の時短営業では、結局朝のラッシュは変わらないし、街が早めに閉まるのであれば帰宅ラッシュの時間が早まるだけで、むしろ混雑時が集中するだけなのではないだろうか。

話が逸れたが、医療崩壊は病院を統廃合してきたツケが出てる部分が大きいのだと思う。さらには、医師会が危機だ危機危機だと言ってる割には民営の病院へのコロナ対応の要請には消極的であるらしい。飲食店には要請をして、要請に従わない店には罰則を設けるそうだ。だったらなぜ、医師会は民営の病院にコロナ対応を要請し、拒否する病院に罰則を設ける政令の改正を政府に要望しないのか。春にはライブハウスだったりに休業を要請し、秋にはゴートゥートラベルを目の敵にし、今回は飲食が槍玉に挙げられている。なぜそこなんだ? 医療崩壊が問題なら、医療を充実させる方に力を入れるべきである。コロナ対応をしている現場が疲弊しているのはそのとおりだろう。だったらなぜ、コロナ対応をしていない病院に参加してもらわないのか。仕組みの問題や、経営上の問題があるのはわかる。だが、最初の緊急事態宣言から何ヶ月経っているのだ。その間に会議を繰り返し、危機を煽るキャッチコピーを日々考え出してはいたものの、本丸への対応は怠っていたのではないだろうか。

などなど考えてて、書いていたらとりとめがなくなるので、今日はこの辺で。本当は、帰省しない京都の正月に、白味噌雑煮や黒豆、煮物を作った話を書きたかったのだけれど、それはまた別の機会に。

医療崩壊とは?

クリスマスに京都は121人の新規感染者ということで、夕方から総理会見が延々と。国会で安倍前総理が集中審議で謝罪やら言い逃れやらはぐらかしした直後の会見だったので、それを各種ニュースでやらせないための会見じゃないのかと思うほどに延々と、そして恐怖を煽るような感じの会見。京都では夕方の京都ニュースが今年最後の放送ということで、放送時間拡大のスペシャルを予定していたのに会見で押して、結局15分間だけの放送になる。

その15分間もコロナの話ばかり。京都府知事や京都府立医大のエラい人たちが共同で緊急会見したという話題と、京都府立医大の人が中継でいろいろと喋っていた。医療崩壊を防いでくださいと。

で、この人の話の内容に「ん? 待てよ?」と違和感を覚える。彼が防ぎたいのは医療崩壊ということだ。それがまず最初にあって、その次に、その次に、次は無いのか。彼が声高に訴える医療崩壊とはなんなのか。そして医療崩壊を防ぐために誰にどうしろと言っているのか。

現時点で日本の人口が1億2000万人いると仮定して、感染確認されたのが21万4553人。約1.75%の人が既に感染している計算になる。世界でもっとも感染者が多いといわれているアメリカ合衆国では人口が3億800万人。累計の感染者は1860万人。率にして6%だ。まったく比較にならない。現状で1日3000人程度の新規感染者が出ていて、これだけ医療崩壊の危機と叫ばれているわけで、このペースがあと10日続くなら、医大の人がいうところの医療崩壊は起こるのだろうか。現時点で感染者数が目に見えて下がっていくと考える要素は見当たらない。感染者数が増えるか、現状維持で推移していくというのはそんなにおかしな予測ではないだろう。その場合、約3万人が10日間で新規の感染者になるということ。それは日本の人口の約0.025%が新規感染者になるということであり、1万人に2.5人の割合で感染するということである。

府立医大のエラい人が「医療崩壊をみんなで防いでください」と訴えている。その医療崩壊とは何か。具体的なことはさほど言われず、「このままでは通常ならば助けられるはずの患者さんを助けられなくなります」とおっしゃる。しかし、それはどの程度の話なのか。先日別の番組で報じられていたところによると、数字には正確さを欠くが、現在コロナ用の病床数は日本全国の3%ほどが充てられているという。ということは全体の97%はコロナ以外の従来の患者用に使われているということだ。もし仮にコロナ患者が倍増し、コロナ用に倍の病床を回すことになれば、従来の患者に充てられる病床が97%から94%に減るということ。その3%が大きいのだという意見もあるだろうが、個人的な実感としては「そこまでか?」という印象しかない。というのも、その3%の攻防のために、全国の飲食関連従事者の売上げは半減以下になっていて、観光関連従事者の売上げも半減以下になっていて、半減までじゃないだろうとして控えめに言っても、70%程度にはなっているのであって、その落ち込みによる苦境を考えると、3%の病床数減からの医療崩壊といわれても、それは一体何なんだと疑問ばかりが浮かぶのだ。

府立医大の先生は「病院の清掃に業者を入れることができないので、看護士がやっている。これがとても負担」とおっしゃる。それを強いられている看護士の人は確かに負担だろう。だったら医者も清掃をすればいいんじゃないのか。それはまあ言い過ぎだとしても、なぜ病院の清掃を清掃のプロができないのだろうか。そこがよくわからない。感染の危険性があるからなのか? だとしたら、一時報じられていた「医療用ガウンが無いから雨ガッパをつけて看護」みたいなことは何故許されていたのか。飲食店での感染防止を万全にするための消毒を、素人同然のおばちゃんたちがやっている。それで万全らしい。なぜそれが許されているのか。清掃のプロじゃない看護士が清掃をするよりも清掃のプロの業者がやった方がよほど感染防止につながると思う。だから、ようするに清掃を看護士がという問題については、一般市民があらゆるガマンをすることで達成するのではなく、政治の側がある程度の覚悟を持ってルール改正をすることで解決すべきことなのではないだろうか。

そもそもが、一般市民に我慢を求めることですべてを解決できるような問題ではない。もちろん社会全体でできることに取り組むのは尊い。やればいい。だが、それこそが唯一の解決策だと責任ある人が言うのは違う。もちろん未知の感染症なので、万能の解決策があるわけではない。そこは理解しておかなければならない。為政者や責任者にもできないことがある。それを指摘して糾弾してはならない。だが同時に、自分たちのやるべきことをその他大勢の無名の市民に過大な努力を強いることですり替えている場合には、冷静に指摘していかなければならない。

我慢の年末年始をというスローガンには、戦時中の「欲しがりません勝つまでは」に通じる欺瞞が感じられる。まるで竹槍で敵の戦闘機を打ち落とそうみたいな無力感を感じる。そしてそのスローガンに違反した人のことを社会全体で非難して排除しようとするだろう。

そういうのが、イヤだ。

それをやれば確実に経営危機に陥ることが分かっている時短営業を、0.025%の感染リスクを防止するためにやれと言われたところで、そのメリットデメリットをどう考えれば良いのだろうか。それを97%使用している病床を94%にしないために、という医療崩壊の危機のためにやれというのでは、100%納得できないとしてもまったく不思議ではない。

その辺のバランスを、どう考えれば良いのだろうか。

とはいえ、いろいろな考えの人がいるので、僕もこの年末年始には帰省はしないことにしている。また、マスクだってする。マスクによる感染防止の効果は一定あると思っているし、同時にマスクをしていない人がいるのは怖いと考えている人が多いということを尊重するならば、社会の一員としてマスクをするくらいのことはやればいい。別にそれで自分の売上げが下がるということではないのだから。

ユーミン

songsという番組にユーミンが出てた。20代の頃に全盛だったユーミン。いや、荒井由実の時代を全盛というのならもっと前だ。とにかく、若い頃に大スターだった人のその後の活動についてはどうしても人は引きずられる。だからテレビに出てるとついつい見てしまう。

しかし、彼女の歌唱力はもはやかつてのそれではない。そもそも歌唱力で勝負しているシンガーではなくて、作品制作力の卓抜した才能で評価を得てきたアーチストだから、歌唱力の劣化で否定するのもどうかと思うけれど、それにしても、歌えていない。歌というのは肉体によって生み出されるもので、だから加齢とともに衰えるのは仕方ない。アスリートは体力の限界を迎えると引退を決意する。そして後進の指導などをするようになる。音楽の場合はどうなんだろうか。ユーミンの歌を今も聴くのはいい。そういう楽しみ方もあっていい。ただ、それはかつての名選手が試合をするシニアゲームを見るようなもので、基本はノスタルジーだ。それをプロ野球日本シリーズや大リーグの試合を見るのと同じだなんて言ったら笑われるんじゃないか。見ることが笑われる対象なのではなくて、同等なのだと主張することが笑われる対象で。笑われるとかというのもどうかしてて、まあ要するに、同じじゃない。別のものとして考えたほうがいい。

だがテレビの音楽番組に出てきて、歌っている。なんかね、それどうなのって正直思う。ユーミン自体はどう考えているんだろうか。

昨今はレコーディング技術が20年前とは比べ物にならなくて、切り貼り切り貼りに音程さえ後付けで変化修正することも容易で、だからあのテレビのユーミンの歌唱がアルバムではどうなっているんだろうと怖いもの見たさ的な興味はある。しかし、もし完璧な歌唱に仕上がっていたとしたら、それはそれでどうなんだろうか。歌が下手といわれたりするアイドルの曲が完全に仕上がっているとそれは批判されたりもするけれど、それと同じなんじゃないだろうかと思う。それでも、アイドルの歌にはアイドルとしての価値があり、そこそこ年老いて歌唱力の衰えたユーミンにもやはり価値がある。その点は否定しない。だが、それを現代の第一級の歌唱力シンガーの価値や、全盛期のユーミンの価値と同じ土俵で比較するのはやっぱり違う。違うのだ。

30分ほどの番組を一応最後まで見たけれど、少しばかり哀しく、そして辛くなった。

皇室の名宝展

京都国立博物館で先月より開催中の『皇室の名宝展』に行く。この展覧会は前期と後期に分かれてて展示品入替えあり。入替えありといっても普通はそのうちの3割から5割程度が入替えになって、目玉作品は会期すべてで展示されていることが多い。だが、今回のはほぼすべてが入替えになっていた。ある意味すごい。

というわけで、前期にも行って、今回が後期。今回はテレビで紹介されてたのを見て小2の息子が興味を持ったので、家族で。昔の名書家の書の展示などけっこう地味な展示もあったのに、訳もわからず頑張って見てたよ息子。偉い偉い。

小2が訳もわからずというものの、大人が訳わかってるのかというとそうでもないだろう。僕は現在京都検定の1級目指して勉強してるので、その名書家がどういう位置づけなのかがある程度わかるし、勉強の中で名書家と言われてる人の字がどんなものなのかを見られてとてもためになっている。江戸時代以前の画家についても歴史的流れや立ち位置などわかってるし、その人たちの絵を見られるのはためになる。でも普通はそんなの詳しくは知らないだろうし、それだとどのくらい記憶に残るのだろうかなど心配になる。まったくの余計なお世話だけど。

かく言う僕だって、名書家がなんと書いているのか読めるわけもなく。もしこれ読めたら実に楽しいだろうなあと思うけど、そこまでできないし、それやるんだったら中国語勉強して読み書きや会話できるようになる方が早いし役に立つ。同様に、普通に暮らしてて京都検定受けなければそんなに日本の歴史を知る必要もなく。それでもこういう展覧会を眺めて楽しんでいいのだ。訳わからずとも、眼福になるし、その眼福体験は何れ何処かの思いもよらないところで思い出されて、役に立ったりするものだ。いや、役に立たなくてもいいんだけどね。

息子は途中で疲れたらしく、あと数展示残して退出。妻(お母さん)と一緒にミュージアムショップに行ってた。伊藤若冲の旭日鳳凰図の絵葉書を買っていた。昨今はミュージアムショップで絵葉書を買うなんてしなくなってたけど、息子は記念に何か欲しかったんだな。そういう気持ちを大事にしてほしいと思った。

このところのこと

前回のブログが7月ということで、今が11月下旬。もう4ヶ月ぶりですよもう。

この間にあったことを全部書くなんてもう無理っす。それに全部書くことに意味があるのか。いや無い。そもそもTwitterで投稿しなくなって一体どのくらい経過したのだろうか。1年以上か。それでもまあ人生は続いているので、まあいいでしょう。SNS疲れということではないけれど、それにmusiplや通訳ガイドのアカウントでは日々いろいろ投稿しているので、別に疲れているというわけでもあるまいし。

そんなわけで、7月くらいからやっていたメインのこととしては、小学校PTAのオンラインイベント。全部中止はどうなのかという意見が僕以外から出て、もともとそのイベントの担当だった僕がシャカリキになってオンラインイベントサイトを作ったという。小学校のことなので詳細は伏せるも、PTAの各委員会や関連外部団体の人たちにいろいろと企画をしてもらい、サイトに適した形に持っていくという感じ。ただ、サイトに組み込む写真や動画や文章を面白く作ってと普通の保護者の皆さんにお願いできるわけもなく、基本的に自分で撮影しに行き、編集して、サイトを作成する。全部で24企画のサイトを作った。大変だったけれど、いろいろな人と交流できて、それはそれなりに楽しかったし意義深かった。

コロナの影響で外出もままならず。当然帰省も旅行も無く。それでも日々は過ぎて行くし、基本家派の息子にとっては出かけない夏も何の問題も無かったらしい。一歩も外に出ないで粘土作ってるような夏休み、お父さんの僕は時折PTAのオンラインサイトの件で出かけたり。それでもまあ、なんとか暑い日々は過ぎた。

10月後半にはアメリカ大統領選挙と大阪都構想の住民投票。自分には投票権もないけど、まあ、それなりにウォッチしてた。死んじゃった友人の、亡くなった日がちょうど前回の大統領選挙の直前で、そうかあ、もう4年も経っちゃったのかあと感慨もひとしお。やつはしばらくアメリカに住んでて、一時は永住権とかグリーンカードとか取ってなんて考えてたらしく、もし向こうにずっと住んでたら今も生きてるかもなあとか、ちょっと思う。それは日本の選挙より、アメリカの選挙の方が思いだすきっかけなんじゃないかとか。だって、facebookでつながってるアメリカ在住の共通の友人たちも「選挙行った」とか投稿してたし。そういう共通の友人の投票投稿が、やっぱり思いださせるよ。

せっかく取った全国通訳案内士の国家資格も、インバウンドがこんな状況だから開店休業もいいところ。ヒマになっちゃったこの時間をPTAに充てているというのが正直なところ。オッサンでPTAに時間をこれだけかけられる人はそうそういないんじゃないだろうか。それで来年度には会長をやることにほぼ決定。来年度もインバウンドが同じ状況なら十二分にやれるだろうけれど、インバウンドが回復すれば今年と同じようなわけにもいかないはず。でも、今年やってる副会長の方が実務が多いので、会長ならもう少し関わり度も少なくてもいいのかもしれない。会長職はおそらく2年。まあ頑張るとするかね。

インバウンドは、新型コロナがワクチン開発などで回復したとしても、今の経営が行き詰まる状況の中で既存のホテルや交通機関などの観光インフラがズタズタになって、人が来たくても受け入れられないという状況になってしまうのではないかと危惧している。航空会社も減便したり倒産したり。倒産しなくても減便することで解雇されるパイロットに、コロナが無くなったから戻ってきてねと言ったところで簡単じゃないだろうし。京都にはこのところ海外資本のホテルが多数完成して開業してて、それは東京オリンピックなどで需要が増えるという予測のもとで準備してきたものが完成にこぎつけたということなのだろうけれども、それらがずっと持つのか、よくわからない。GO TOトラベルで多少業績は回復していると言われてて、そりゃあそうだろうよ、インバウンドで海外旅行客が多いとかいっても、そもそも国内が85%、インバウンド客は15%に過ぎなかったのだから、例年の80%に戻ってきたといってもなんの不思議もない。やはりインバウンドを挽回するほどに国内客が戻っているわけではない。しかも、GO TOで下駄履かされてきてる客なので、それが無くなれば旅行するのかどうなのか。したくても経済的に困窮している人が増えているし、マクロでみればそういう全体的な経済の悪化は可処分所得を減らしていくわけで、可処分所得が減れば行楽に使われるお金が減るのも当然で。だから、キャンペーンが無くなれば80%に回復してたのが40%になっても何の不思議も無い。それに、コロナの第3波が来てるとか言われはじめたので、お金ある人も控えるようになってくるのだろう。

コロナについてはいろいろな人にそれぞれの考えがあるのは承知しているけれど、やはりちょっと脅し過ぎ脅され過ぎだと思っている。しかしながらどのくらい怖がるのかについては人それぞれだし、怖がっている人がいる以上、社会の規範は怖がっている人に合わせるというのも当然の話で。だから、しばらくはまたこの状況は続くのだろうと、そしてそれは仕方のないことだと、思う。その前提で、僕らは暮らしを設計していかなければならないし、その設計がそもそも無理になってくれば、その無理も何かの限界を超えたところで、ひとりひとりが政治というものをちょっとずつ考え始めるのだろう。

これからもうちょい書くようにします。そんなこと何回宣言したかわからないんだけどね。何度も反省して、それでも繰り返して、また反省して、の人生です。